@nowhereao 屋敷に吐息紛れの冬の歌が染みていく。 #青の楽園 これは遠い遥か昔、なつかしいあの頃、友人たちと教会で習った子どものための異国の聖歌だ。喉から出るのは焼けて掠れた歌声で、慰められるわけもないがコートの腰を抱いて一人、灰間は記憶の底を浚っては呟くように口ずさんでいる。
2021-02-14 01:10:14@nowhereao ……なんだか先程から肌寒いと思えば何のことはない、天窓を閉め忘れていたようだ。 #青の楽園 視界の隅に映った窓と夜空を確認してため息をつく。なぜ今の今まで忘れていられたのか、熱中するといつもこれだ、と自嘲してベッドから這い下りた灰間は、
2021-02-14 01:12:52@nowhereao 天窓の下でいっとき惚けたように立ち尽くした。 #青の楽園 天窓から粉雪が落ちてくる。ここだけが別世界のようだ。
2021-02-14 01:16:33@nowhereao 窓を閉めるための棒に伸ばしていたその手をひっこめて、代わりに壁に立て掛けておいた梯子を持ってくる。上部をがつんと窓枠にひっかけ、何回か揺らすように確かめ、音を立ててのぼって、窓を全開にして体を出した。 #青の楽園
2021-02-14 01:18:32@nowhereao 降ってくるのは雪ではなく空全体である。 #青の楽園 白くけぶる息を吐く。こうして雪の舞う夜空を見上げていると、今にも地上ごと天へ吸い上げられてしまいそうだ。
2021-02-14 01:20:51@nowhereao 見えないところで降るものを捉えたくて、ぐるりとあたりを見渡して、南を向いて止まる。こうして上から見るとしっかり短いこの屋敷の後ろには通りと家と水路があり、そこを越えて南区が広がっている。 #青の楽園 数多の家屋が立ち並ぶ奥にさっと線路が走っていて駅が見える、
2021-02-14 01:28:22@nowhereao そこから坂をぐんぐん上がっていけば、その向こうには今日も通ったあの食堂があるはずだ。 じんと胃が熱くなるようで無意識にさすりながら目を閉じる。 #青の楽園
2021-02-14 01:29:22@nowhereao ここからはさすがに駅ぐらいしかわからないが灰間の脳裏のスクリーンにはまるで目前にあるかのように景色が広がっていく。ぼう、と落ちたインクが思考の画用紙へにじむのだ。店の前にかかった暖簾、その奥の戸から漏れてくるのは笑い声に食器の触れあうかすかな響き、 #青の楽園
2021-02-14 01:35:29@nowhereao それから火そのもののようなやわらかな灯り。今にも誰かが店から出て来そうだ。 #青の楽園 大皿がことりと卓に置かれる音がする。箸と足がざわざわ行き来する、その手前で手際よく卓を拭いて、出ていく誰かを見送って、次に入る者を迎える、あれは――
2021-02-14 01:36:30@nowhereao ――そういえば寒いのだった。そろそろ休もう。 窓を閉める際にちらりと横目で時計塔に挨拶しながら、灰間はするすると屋敷に戻っていった。 #青の楽園 残された時計塔の針は更けゆく夜を刻んでいる。細雪は時を示すように、閑な街へじんわり降り積もってゆく。
2021-02-14 01:43:409.光星 だからまだそこにいてほしい
(約十年前)
自分自身を含めてこの世の中に「嫌な人間」などいない、少年はそう思っている。 #青の楽園 たった十年ほどの人生のなか、今まで出会ってきた人間たちはそれぞれ少年とは異なる趣味嗜好や主義主張を持っていたが、それは少年にとってはただの事実でしかなかった。
2021-02-27 22:09:39@nowhereao そのことによって、これまで少年が不当に苦しむことはなかったし、周囲と軋轢が生じることもなかった。誰とでも打ち解けられる自分自身のことが少年はいつだって誇らしく、その自信は彼の紅顔をいつでも晴れ晴れと輝かせていた。 #青の楽園
2021-02-27 22:13:26@nowhereao たとえ衝突したとしても話せばわかる。辛抱強く、礼儀正しく、真面目に接すればいいのだ。そうすることは正しいし、正しいことは何よりよい。少年はそう信じ込んでいた。 #青の楽園 だから、公園で出会った見知らぬ子どもから前ぶれなくぶつけられた言葉に、彼はたいそう傷ついた。
2021-02-27 22:17:18@nowhereao 「変な子」 相手は確かにこう言ったのだ。 #青の楽園 その日は友人たちが早めに帰ってしまったので一人で時間を持て余していた。ボールをすぽんと蹴り飛ばす。満月のようにおいしそうな、愛用のボール。そこに現れた初対面の子どもに、突然そんなことを言われた。
2021-02-27 22:22:51@nowhereao 何気ないおしゃべりを少ししただけなのに、その結果が「変」呼ばわりとはなんとも理不尽だと少年は思った。 どうしてそんな生き方なのか、と相手が尋ねてきたが、少年はというとどう答えたものかわからずに黙りこんでしまう。こんな事態に陥るのは生まれて初めてだった。 #青の楽園
2021-02-27 22:27:33@nowhereao どうしても何もない、これが当然だからだ。そうしなくては皆傷つけあってしまう。それはだめだ。だから全員で気をつけてしっかりやらなければならない。そういうものだ。 何が相手にとって不快なのかが少年にはわからない。 #青の楽園
2021-02-27 22:34:02@nowhereao しかし少年が和解しようと歩み寄っても、その相手は少年をにらむだけで、挙げ句の果てには「かわいそう」とだけ言い捨てていなくなった。二度とこの公園に来ないでほしいと少年はひっそり思って、そのあと、誰とでも仲良くできたはずのこれまでの彼自身を思い出してうなだれる。 #青の楽園
2021-02-27 22:41:46@nowhereao その日の帰り道はなんとも足取りが重いものだった。自分が間違っているのかもしれない、と思うと足がすくんで親の顔を見ることさえ怖く感じられる。 #青の楽園 これまでは一度だって、誰一人として、少年のことをあんなふうに形容してきた人間はいなかった。
2021-02-27 22:54:41@nowhereao 少年の周りにいる子どもたちも大人たちも皆、少年のことを感心した眼差しで見つめ、いつも愛してくれていた。少年が彼らに応える限り、その平和はどこまでも広がり、そして保たれるはずだった。 #青の楽園
2021-02-27 23:05:11@nowhereao 少年が頑張れば頑張るほど周囲は平和になる。褒められこそすれ罵倒されるなど思い出すだに腹に据えかねる。 #青の楽園
2021-02-27 23:06:23@nowhereao 誰も傷つけないために、そうあれと生きている、自分らしく生きている、それだけなのに、どうしてこんなに悲しいことが起こるのだろう? #青の楽園
2021-02-27 23:07:46@nowhereao 心細さのままに上を向くとコロニーの天井越しに瞬きが揺れる。少年の前に長く影ができている。ふわふわと散る髪の毛のためにシルエットが落書きの五芒星のようで、それで、少年は自分自身のことを急にいじらしく思う。周りの人間が言うように、少年はきっと星の子どもなのだ。 #青の楽園
2021-02-27 23:15:47@nowhereao こんなにはっきり照らされるのだから背後にはさぞやと思って頭を巡らせれば、思った通りの位置に月がある。月は穴のようでもあり、巨大な瞳のようでもあった。 まなじりに滲むものを何度か拭っては湿ったため息をついて首を振る。 #青の楽園
2021-02-27 23:24:09@nowhereao 「僕はまちがってない、僕はおかしくなんかない、僕はかわいそうじゃない」 #青の楽園 落ち込んでいてはいけない。少年は「いい子」なのだから、誰のことも嫌わない。嫌いになるような相手ができたとしたらきっと、おかしいのは相手だ。相手が嫌われて当然の「悪い子」なのだ。
2021-02-27 23:29:10@nowhereao そう、月も星もいつだって見ていてくれる、きっと大丈夫だ。誰かに願いをかけられる存在なのだから、いつだって明るく正しく優しく強く賢くいなくては。 #青の楽園 誰も裏切りたくない。もちろん、自分自身のことも含めて。
2021-02-27 23:43:1710.■■と■■ 冗談みたいに鳴りやまない
(■■■年前)
@nowhereao 「わたしが」 #青の楽園 刷毛で掃いたような青空に歴史ある尖塔がよく映えている。ここビッグ・ベンは観光名所として人気が高い。そろそろ改修工事が必要との声も聞かれるが、どんなに古くなっても厄介者扱いなどされることなく民衆に愛され続けている。
2021-03-06 23:08:36@nowhereao 「あなたのことを初めて知ったのはここに留学していたときだった」 一時間ごと、十五分おきに律儀に時間を告げる働き者に大勢の人々が群がっている。寒空をものともしないのは鳥も雲も同じだ。 #青の楽園
2021-03-06 23:12:56@nowhereao しかし最近はロンドンといえばロンドンアイに軍配が上がり気味でもある。 #青の楽園 なんといってもここは名所だらけだ――博物館や歴史の記念館など挙げていけばきりがない、重要な施設でひしめきあっている。それも地下鉄やバスですぐに行ける場所ばかり――
2021-03-06 23:20:34@nowhereao おのぼりさんよろしくロンドンアイを向いていた、左右で癖の違う頭が振り向いた。 #青の楽園 「何ですか? 鐘の音で聞こえないんです。バス停あった?」
2021-03-06 23:21:17@nowhereao 「ここじゃないわ。看板探して」 #青の楽園 水が澄むと青く見えることをテムズ川はたぶん、忘れてしまっている。そうさせたのは人間たちだと、ロンドン橋の上を渡る若い二人は知っている。
2021-03-06 23:26:05...
ロンドン橋が落ちる、落ちる、落ちる、 #青の楽園 鐘の音が終わり、いっときだけ静けさを得た冬の空気と共に頬に刺さるのは陽気な音楽で、しかしここで聴くにはとても縁起がいいとは言えない。それでも立ち止まって文句を言う者などおらず、対象への愛の具象として人波は行き交う。
2021-03-06 23:32:09@nowhereao 「天下。先日、あちらを発つ前に貴女のお宅に伺ったとき、貴女のご両親を初めて間近で見ましたが、物静かな方たちですね。とても上品で」 #青の楽園
2021-03-06 23:40:42@nowhereao 川で見られる景色はそれぞれの岸で当然異なる。しかし、治安に限っていえば最近はどこも差がなくなってきた。川岸で作品を広げる芸術家の卵たち、そこにペンス硬貨を飛ばすギャラリー、楽器をかかえるミュージシャン、シャボン玉を飛ばしてかけてゆく子どもたち。 #青の楽園
2021-03-06 23:43:57@nowhereao 「わたしに似てると思った?」 「顔つきは、それはもちろん。特にお母様とは雰囲気が近いと思いましたよ。目元とか口とか」 「それはよく言われる」 #青の楽園
2021-03-06 23:48:53@nowhereao 真っ赤な電話ボックスへ駆け込む婦人にぶつからぬよう慎重に二人は避け、そしてどちらからともなく立ち止まる。 #青の楽園
2021-03-06 23:52:56...
@tos 冬枯れの街路樹の枝にこすりそうになりながら今二人の目の前を通ったのは貸しきりのダブルデッカーだろう。二階建ての赤いバス、ことに旧式のルートマスターは旅行者に大人気で、ロンドン名物といえばこれ、という者も少なくないのだ。
2021-11-09 23:53:52@nowhereao 「おうちではふだんどういう会話してるんですか」 「我が家は会話がないの。お互い興味がないから。ただ得た情報のやりとりはしているわ」 「会議みたいですねえ」 #青の楽園
2021-03-07 00:14:30@nowhereao 赤丸に横線の引かれた標識の下で待つ二人の前を、国民的人気を誇るチョコレートのブランドマークがでかでかとペイントされた車がいくつも過ぎ去る。 #青の楽園
2021-03-07 00:15:28@nowhereao 見ていると食べたくなるのが人間心理というものだ。駅の売店にあふれかえるチョコバー、この国ではフィッシュアンドチップスと同じくらい、ふとしたときに誰でもチョコバーを食べられる。 #青の楽園 「勉強や衣食住のことは問題なく世話されたわ。わたしはそれでいいの。――変かしら」
2021-03-07 00:22:37@nowhereao 「変ではないですよ。本人たちがいいならいいんじゃないかな」 #青の楽園 図書館か博物館からの帰りなのか、資料を握りしめて熱心に議論している青年二人が反対側の歩道のベンチに腰かけている。うち一人の手からペンが落ち、待ち構えていたように枯れ葉がその黒を覆い隠した。
2021-03-07 00:27:29...
手をあげてものを止めるというのは古今東西共通なのだろうか。目当てのナンバーの車体がようやく二人の立つバスストップへ近づいてきた。オイスターカードを機械にタッチすれば、乗車完了だ。 #青の楽園 「貴女はここに留学していたんでしょう。家族みんなで、とかそういうものではなかったんですか」
2021-03-07 00:34:16@nowhereao 「わたし一人だった」 「ホームステイは?」 通路を奥へ進み、二人で席に詰まる。外観と似た色合いの座席は湿っているようななめらかさで二人を受け入れる。この車両は地元民が多いようだった。誰もカメラを掲げるそぶりを見せない。 #青の楽園
2021-03-07 00:38:44@nowhereao 午睡をむさぼる老人と、その隣に孫らしき少年がいる。運転席のすぐ近くをキープしている少女の鞄からキーホルダーが揺れ、虚空に向かって手を振っている。 「ほぼ一人暮らし。父の知人がアパートコンドミニアムを持っていて、その伝で部屋を借りられたの。今から行けばわかるわ」 #青の楽園
2021-03-07 00:41:43