抜粋 『精神分析にとって女とは何か』西見奈子編著、北村婦美・鈴木菜実子・松本卓也、福村出版,25.10.2020 Sigmund Freud : Deusch 1925👍 Lampl-De Groot 1933👍 Bonaparte 1935👍 👎Horney 1926「フロイトの男性心理学は一者心理学」 👎Jones 1935 pic.twitter.com/ua3tlc08Qo
2021-02-22 21:47:38👎Fridan 1963 👎Millett 1970「フロイト主義が性役割固定化をイデオロ ギー的に支えた」 👎Gillespie 1969 👎Buhle 1998「フロイトの男根一元論は母親の影響」 👎Mitchell 1974『精神分析と女の解放』 👎Chodorow 1978『母親業の再生産』英対象関係論
2021-02-22 21:47:38👎Benjamin 1998 従来の精神分析理論は、「男性にとって見られる、語られる側である受動的なものとしての女性」「対象化された女性」や「(発達論において)子どもの背景、環境として言及されるだけの母親」「その人自身の欲望を持つことを想定されてない母親」について描いてきた。
2021-02-22 21:47:39例えばマーガレット・マーラーの「分離-個体化」理論では、母親は、基本的に幼児によってその「不在に耐え」られる存在であったり「内在化」される存在といった、受動的な役回りしか与えられていなかった。分離し個体化していく子どもに、上手に「置いてゆかれる」ことが、母親の役割だったのである。
2021-02-22 21:47:39そこでは関係性の成熟に焦点が当てられるというよりも、むしろ子どもが自律的個人として、「一者」として分離し個体化していくことに焦点を当てる描写がなされていた。 これまでの精神分析の治療論では、治療者を観察者かつ「知る者」という主体の位置に置き、患者を被観察者かつ「知られる者」と
2021-02-22 21:47:39いう客体の立場に置きがちな面があった。治療者は患者の転移を映し出す真っ白なスクリーンでなければならないと説く「ブランク・スクリーン」概念がある。治療者は個人的属性を患者の前では敢えて示さず匿名性の背後にいて、患者からの転移をいわば一方的に観察する。
2021-02-22 21:47:39このように、〈子ー母〉〈男性ー女性〉〈治療者ー患者〉という対関係を、「主体と客体(あるいは対象)」という図式で描いてゆくのが、一者心理学的なスタンスである。ある時期アメリカで隆盛を誇った自我心理学の「自我」という名称にも表れているように、これは「一人の人間がどのように環境や周囲の
2021-02-22 21:47:40人間を利用し、うまく折り合いをつけながら最終的に自分の欲望を満たすか」という問いの立て方から出発した説明の体系であった。 けれども実際には、人間にとって「自分とは違う意思や感じ方を持った、自分と同等の権利を持つはずの、主体としての他者」をそれとして認めて尊重できることも、発達の
2021-02-22 21:47:40うえで非常に重要な課題であるはずだった。お互いを主体として認識し合うことを、ベンジャミンは「相互承認(mutual recognition)」と呼んでいる。「自律性」と同じくらい大切な「関係性」の発達課題といってよいかもしれない。 フェミニズムの女権拡張的な運動と、その「バックラッシュ」のバトル
2021-02-22 21:47:40について、ベンジャミンは、もしそれが男性か女性のどちらが優位に立つかという戦いに終始するなら、お互いの関係性に根本的変化は生じ得ないとはっきり主張している。 男性性を貶め女性性や母性を持ち上げるような主張(男性と違い、女性は本質的に「自然」「平和」な生き物だといった主張)をしたり
2021-02-22 21:53:05男性中心主義を打破するために女権拡張を訴えても、それがこれまでの上下関係を転覆し逆転しようとする働きかけに過ぎないなら、どちらが上になるかが変わるだけで、上下関係という構図そのものは変わらない。それはまたバックラッシュを呼び込み、そのバックラッシュに対する新たな戦いを呼び込んで
2021-02-22 21:56:39しまう。「どちらが上に立つか」という戦いを続けている限り、ある時は味方が、ある時は敵側が上に立つというシーソー・ゲームは、永久に続いてゆく。 「私たちがなさねばならないのは、どちらかの味方をすることではなく、二元的構造自体にずっと焦点を当て続けることである。」(Benjamin 1988)
2021-02-22 22:00:38なお、治療場面における〈主体ー客体〉〈能動ー受動〉のシーソー関係を描写し、そこから脱して新しい次元の関係性を生じさせるために必要な治療者の態度について伝えようとしたベンジャミンの代表的論文が「〈するーされる〉関係を越えて……間主観的観点からみたサードネス」である。(Benjamin 2004)
2021-02-22 23:02:49'Beyond Doer and Done to: An Intersubjective View of Thirdness' はPEPでも検索できる。唯一の主体として振る舞う行為者を「する」側(doer)、みずから語る言葉をもたず客体とされてしまう者を「される」側(done to)と表現している。 フェミニズムは当初「平等」を押し出す主張を掲げて運動した。
2021-02-22 23:11:33一方で、女性に任されてきた人と人との関係性の領域、ケアの領域といったものを、従来的な男性的領域とは違う独自の価値を持つものとして捉え、男女の差異に積極的な意味を見出そうとする「差異派」が生まれてきた。Miller. J. B. やGilligan. C. である。
2021-02-22 23:20:20ジーン・ベーカー・ミラーは、これまでの発達論が望ましいゴールとして謳ってきた、分離をまっとうした自律的な自己といったものは実際は非現実的で、人間はみな支えられケアされる関係性の中に生きていると主張して、「関係内自己(Self-in-relation)」という概念を提示した。
2021-02-22 23:25:07ちょうど本日の #100分de名著 ファノン4回目で、パトリック・シャモワゾー(Patrick Chamoiseau) がファノン没後50周年に寄せた文章で、「ファノンの〈関係性〉は常に他者と世界に開かれていた」と述べていたのが印象的でした。☺️ twitter.com/chokusenhikaem…
2021-02-22 23:42:42〈女性も男性のようになることが一人前の人間になることだ〉という(いわゆる「男並み平等」の)目標設定自体が間違っており、むしろそういうケアや関係性の必要を排除した人間像そのものを疑わねばならないと論じた。本書は長くアメリカで「女性的価値を擁護しながら男性社会に進出しようとする人々」の
2021-02-22 23:44:05バイブル的存在となった。 キャロル・ギリガンは、『もうひとつの声』(Gilligan 1982) で、コールバーグの唱える道徳の6段階からなる発達説では、法や正義に照らし、普遍的な倫理的的原理に基づいた判断ができることが、高い倫理的発達水準であるとされているが、男の子ばかりの集団を調査対象と
2021-02-22 23:53:47していたことに疑問を持った。そうした尺度で測られた女の子たちの発達段階は、男の子と比較して低く見積もられていたのである。女の子たちは男の子よりも、その状況の中にいる個々の人たちの感情や個別の事情などに注目して、その間のバランスを取りながら判断しようとする傾向があったため、答え方が
2021-02-23 00:01:35歯切れの悪いものになり迷いやすかったため、6段階中3段階目という低い評価を与えられてしまう。道徳の諸問題を巡る語りの声には、二つの種類があると述べた。コールバーグのような従来的な心理学では、その一方だけを唯一の物差しとしてしまい、他方を聞き逃し、低く見積もっていたのではないか。
2021-02-23 00:08:01その二つの声とは「正義の倫理(ethics of justice)」と「ケアの倫理(ethics of care)」である。正義の倫理においては、〈それぞれ他人からは切り離された自律的な個人どうしが競合し合う世界で、お互いの権利の優先順位が、抽象的原理によって定められる〉というモデルが想定されている。
2021-02-23 00:13:38しかしケアの倫理は、〈お互いがお互いに対して応答し合う責任を持ち、誰も取り残されたり傷つけられてはならない〉といった考え方に基づく倫理原則である。したがってケアの倫理では、複数の人たちへの責任がぶつかり合う状況でジレンマが生じるわけだが、そこで取るべき行動が判断される際には、
2021-02-23 00:17:40「正義の倫理」の場合のように普遍的抽象的な原理による裁断というよりも、その都度の文脈や状況に即した、総合的な判断が目指されることになる。自己を他者から切り離された存在というより、むしろ他者とのつながりの中に生きる存在として捉えるのが、ケアの倫理の背後にある人間観、世界観なのである
2021-02-23 00:21:36誤解してならないのは、ギリガンがこれら二つの倫理原則を「男性」「女性」というジェンダーの違いに由来するものだとは言っていないことである。男性であれ女性であれ、二つの倫理の統合にこそ、人間の成熟はあると結論づけている。どちらの倫理原則も一方へと還元してしまえず、どちらがより重要とも
2021-02-23 00:35:40いえない。その間で各自が、どういうバランスで、どういう選択をするのかが日々問われる。 はっきりと差異派的な主張を唱え、平等派フェミニストと論争を闘わせたのは、エリク・H・エリクソンである。 女性をペニスの「ない」存在として捉えるフロイトの女性論に反対し、男性にはペニスがあるが
2021-02-23 00:43:41女性にはまた別の、膣や子宮という内部空間が「ある」とする捉え方で、前者を「ネガティブなものとしての女性性(negative femininity)」、後者によるものを「ポジティブなものとしての女性性(positive femininity)」という。これは「ない」ことから女性を規定するか、「ある」ことから規定するかの違い
2021-02-23 00:48:12であるが、エリクソンもまたフロイトの男根一元論を否定して、女性には女性特有の内部空間という身体的特徴があり、それにリンクした独特の心性があると主張した。 現代では、身体的・解剖学的特徴とリンクした心性がそのまま発現するといった考え方には疑問が呈されている。
2021-02-23 00:52:45十代に至るまでの成長過程で被験者の子どもたちが周囲から受けた「男の子らしさ」「女の子らしさ」という価値観からの影響も、当然無視できないはずだからだ。エリクソンの一世代後のロバート・ストラー(Stoller 1976)は、出生後に周囲の大人が子どもに特定の性別を割り振り、その規範に則った子育てを
2021-02-23 00:56:47行うことが、子どもの性同一性の重要な決定要因となることを報告している。 このエリクソンの主張を「騎士道精神」と皮肉って批判したのが、『性の政治学』のケイト・ミレットであった。「騎士道精神」という言葉でミレットは、男性の強さや優位を前提として、女性ならではの特質を保護しようとする
2021-02-23 01:00:51態度のことを指している。それは穏やかな物腰であり、あからさまな男尊女卑ではないが、やはり女性の活動しうる範囲をこれまで通り家庭内に限定づけようとする態度に他ならないのではないか、と彼女は批判した。 このように、差異派は「女性は欠けているのではなく、別のよいものを持っているのだ」
2021-02-23 01:05:10「その特性を大事にしよう」と訴えることによって、女性にとってのポジティブな可能性を開こうとする。しかし、その価値があまりにも強調されすぎると、それがまた逆に女性自身のありようを狭め、そのようではないあり方を否定し、女性に許容される生き方を限定してしまう危険を持っていた。
2021-02-23 01:09:46男性にはない母性というよいものを押し出す主張は、「それではその母性を生かすために出産と育児に専念し、他のことにかまけない良妻賢母的な生き方をするべきである」と、女性である個人の可能性を外から縛ろうとする動きを煽ることになりかねない。また母親になる以外の生き方をしている女性の存在を
2021-02-23 01:13:37社会において希薄化し、見えにくくしてしまうことにも繋がりかねない。 エリクソン、ギリガンの時代からさらに下って、「能動的に選び取られるケアワーク」のテーマは、ジェシカ・ベンジャミンの「能動的なものとして母性を捉え直す」テーマに繋がり、展開しつつある。
2021-02-23 01:17:55それは、背景や環境として見られていた受動的な母親像から、ケアワークを「する」存在としての能動的な母親像への捉え直しである。ケアワークの経験には、「する」か「させらる」かの大きな違いがある。同じ事柄でも、受動的にさせられる「搾取」か、能動的にする「贈り物」かで、その人にとっての
2021-02-23 01:21:13その経験の質は、正反対といってよいほど異なってくる。 受動的に「させられる」ケアワークを注意深く拒むのが、ケイト・ミレットである。一方で、能動的に「する」ケアワーク、能動的に選び取る役割(たとえそれがケア・テイカーとしての役割だとしても)が当人にもたらす尊厳や、その積極的な意義を
2021-02-23 01:25:09重視するのがエリクソンである。 フェミニズム運動と精神分析の関係を、イギリスでの動きに着目して語る際に欠かせないのは、メラニー・クラインとその後の対象関係論の発展である。以後、ウィニコットが女性的要素(female element)と男性的要素(male element)という概念を提唱して、それぞれを
2021-02-23 01:32:04「いること(being)」と「すること(doing)」として論じたり(Winnicott 1971)、ビオンが♀/♂という記号を用いて「コンテイナー/コンテインド」という概念を表現したりなど(Bion 1959)、より抽象的、内的な水準で男性像、女性像は引き続き考察され、論じられた。
2021-02-23 01:42:29これはアメリカでの議論が男性性、女性性というよりも、具体的で生物学的な男性、女性、といった外的な事象に焦点を当てたものだったのとは対照的である。 フランスでのジャック・ラカンの理論は、ジェンダー論に関しては、いわゆる男根一元論的な構成を取っていた。
2021-02-23 01:48:42精神分析的ジェンダー論には一般に、男根一元論的な説明と、両性性に依拠した説明の仕方とがある。ラカンは男根一元論の代表的論客であったが、その一方、基本的に両性性に依拠した見解を取り、ラカンと論争的立場にいたのが、シャスゲ-スミゲルであった(1960年代)。
2021-02-23 02:01:161970年代になると、ラカンの男根一元論的な主張に対して、リュス・イリガライ、ジュリア・クリステヴァ、エレーヌ・シクスーらが、男性とは異なる女性独自の特性を打ち出した、いわゆる差異派的立場から発言した。
2021-02-23 02:06:29第3節、男根一元論と両性性 p.37 フロイトやユングの生きた19世紀において、一般に民族やジェンダーの語りが、正統的存在であり主体であるものと、逸脱や例外的存在であり他者であるものとを区別し優劣をつける構造を持っていた。(Gilman 1993) フロイト自身が抱く去勢コンプレックスが、さらに
2021-02-24 01:08:18女性をそのヒエラルキーの最下位に置く理論を生み出させたのではないか。 p.42 男女は「持つ」「持たない」でなく、互いに違うものを「持つ」のだという発想、「ポジティブなものとしての女性性」の発想は、フェミニズムの差異派的発想に親和性を持っている。
2021-02-24 01:08:18けれども、「ポジティブなものとしての女性性」として主張されてきたものはその多くが母性に発しており、これを単純に受け取ると「母親としての女性」ばかりに光が当たってしまい、そうでない女性のあり方が見えなくなってしまう。一方で男根一元論は、「持たない」側に「持つ」側と同等の権利を求める
2021-02-24 01:08:18平等派的発想に繋がっていく。けれどもそこでいう「平等」とはどういう平等かを考える時、もともと男根一元論的世界観の中で男性が持っていたものを女性にも持たせよという主張が、従来的な男性性一色に塗り固められた、均質な一元論的世界を生み出さないかという心配がある。平等派の目指すゴールが、
2021-02-24 01:08:19どうしても「男並み平等」になってしまうというジレンマの難しさである。 p.43 シャスゲ-スミルゲル(Chassaguet-Smirgel 1976)は、「人間は本来一種類であって、完全な存在と欠けた存在がいる」という男根一元論的な発想は、実は「人間にはもともと違う種類の存在がある」という両性性的思考に
2021-02-24 01:08:19耐えられないがゆえの防衛ではないか、という。「男根一元論的な理解は、膣についての無知からくるというよりも、自我の分裂か、あるいはそれ以前に有していた知識の抑圧に対応したものだというのが、私の仮説である。」 人間には、男根一元論的認識と両性性的認識がともに存在しているのではないか
2021-02-24 01:08:19認識の際のこうした二種類のモードは、「ファリック・ロジック(男根期的論理)」と「ジェニタル・ロジック(性器期的論理)」とも呼ばれている(Gibeault 1988)。人間には本来一種類しかなく、一つの種類の性あるいは性器(ペニスあるいはファルス)しか存在しない、それが「ある」側と「ない」側が存在する
2021-02-24 01:08:20だけだというのがファリック・ロジックであり、それに対して(単純な「ある」「ない」ではなく)異なる種類の性あるいは性器があると発想するのがジェニタル・ロジックである。前者の「ファリック・ロジック」的思考から出発すると、自他を含めた人間は「ファルスを持つ」かあるいは「去勢されている」
2021-02-24 01:08:20か、「多い」か「少ない」か、「能動」か「受動」かといった軸で選別され分化されていき、すべてがそれに従ってオーガナイズされることになる。単純化であり、事態の歪曲は避けられない。対してジェニタル・ロジックは、男性性と女性性を(能動と受動といった認識ではなく)「違い」として認識していく
2021-02-24 01:08:20