第1章、精神分析とフェミニズム~その対立と融合の歴史、
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花びんに水をدعونا نملأ المزهرية بالماء☘️ @chokusenhikaeme

思考である。アラン・ジボーは、両者は我々の中に、無意識のロジックとして併存し続けているという。  この違いは、関係精神分析でしばしば言及される、「一者心理学」と「二者心理学」の違いと捉えるとわかりやすい。男根一元論(ファリック・ロジック)は、ファルス(あるいはペニス)を持つ男性側を

2021-02-24 01:08:20
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主体とし、女性の側を持たない存在として客体視した一者心理学的認識といえる。それに対して両性性に基づく見方(ジェニタル・ロジック)は、異なる二つの主体がいると捉える、二者心理学的認識といえる。  人間に無意識的に存在するこの性についての認識の二つのモードが、フェミニズムの平等派と

2021-02-24 01:08:21
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差異派の発想の違いにそのまま直結している。 第4節、心的な両性性の持つ意義 フロイト以降、近年にかけての精神分析では、両性性概念はより心理的なものとして捉えられるようになっている。また出発点としての素質というより、男女を問わず人間に望まれる到達点としての心的バランスとして語られる

2021-02-24 01:14:32
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ことが多くなっている。またそれは、具体的な「男性、女性」についてというより、人が心に持つ「男性性、女性性」のあり方について語られることが多くなったということでもある。 p.46 クライン派に、「結合両親像」というものがある。ドナルド・メルツァー(Meltzer 1973)やアーロン(Aron 1995)

2021-02-24 01:21:23
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らはその肯定的な側面を描いている。もともと病理的な文脈でのみ語られていた結合両親像は、その段階によっては創造性の基礎ともなりうる肯定的なものとして描かれるようになってきている。ここにもまた、心的両性性が肯定的意義付けのもとで理解されるようになった、新しい流れが関わっている。

2021-02-24 01:25:33
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ウィニコット(Winnicott 1971)は、女性的要素をbeing「存在すること」「いること」として、男性的要素をdoing『行なうこと」「すること」としてイメージしていた。そして。人は男性であれ、女性であれそれら両方の要素を必要とすると考えた。 オグデン(Ogden 1987)とマクドゥーガル(McDougall 1989)ら

2021-02-24 01:31:30
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は、男の子においても女の子においても、男女両方の親との同一化が、性同一性の発達のためには重要であろうという。 第5節、両性性から多重性(マルチプリシティ)へ ジェシカ・ベンジャミン(Benjamin 1995; 1998)は、「男女が完全に分化したところで発達は終わり」という考え方に対し、エディパルな

2021-02-24 01:38:05
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心性が最終ゴールではなく、その先の段階すなわちポスト・エディパルな段階があるという。その段階になると人間は、性差について、より柔軟性のある考え方ができるようになる。適応上もこうしたことは病的なものではない。むしろ自分の中にある異性的なものを恐れ、完全に排除しようとする場合の方が

2021-02-24 01:42:38
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病的な事態を引き起こすこともある。ベンジャミンによるとジェンダーの発達には、同性にも異性にも同一化していた幼い頃の状態が、性差の区別に過剰に厳密になる時期を経て、もう一度より高い水準で同性にも異性にも同一化できる段階に戻るという流れがあるという。

2021-02-24 01:46:23
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こうした同性と異性どちらもへの同一化は、クロス・アイダンティフィケーションと呼ばれている。エディプス期を越えた段階でのクロス・アイダンティフィケーションにおいては、人は自分の性自認を踏まえたうえで、男性的な心性や女性的な心性の両方を理解したり楽しんだりできるようになるという。

2021-02-24 01:50:35
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そこでは過剰なマチズモによる女性性の否認や、男性的とみられることを過剰に恐れて女性的な振る舞いに終始しようとする不自由さはなくなる。ベンジャミンのジェンダー発達論も、心的な両性性というものを健康な到達点として捉える近年のジェンダー論の流れの一つといえる。

2021-02-24 01:56:04
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p.53  近年は、「男性と女性という二つの性別に全ての人間が割り振られるはずであり、そうでないのは病理だ」という前提の方が実は問い直されるべきではないのかという疑問が、精神分析家の中からも提起されてきている。  社会的変化の中で、精神分析はジェンダーを巡る問題について、どのような

2021-02-24 01:59:36
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態度を取ればよいのだろうか。  ヴァージニア・ゴルドナー(Goldner 1991)は、これまで「恒常的な性同一性」をもつことは可能であり、望ましくもあるという前提を精神分析は有してきたが、それは文化的に要求された規範的な理想であり、精神分析はそれを無批判的に受け入れて来たのではないか。

2021-02-24 02:04:14
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さまざまなバラエティのある現実の身体の方が、概念的な二元的論的性別に、無理に合わせられていたという。  ゴルドナーは、精神分析も、単一的で性適合的な自己感の「達成」を目指すのではなく、ジェンダーにまつわるカテゴリー分けの曖昧さ、不安定さを許容すべきではないかと論じる。

2021-02-24 02:09:47
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むしろ恒常的で揺るぎのない性同一性は、その人の性別に合わないと思われるもの、不統一なもの(具体的には考え、行動、衝動、気分といったもの)を切り離し、分裂排除して防衛的に表面化に送り込み、やっと達成されるのではないか。社会的に許容されるような男性か女性かのカテゴリー分けに完全に従って

2021-02-24 02:13:57
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いる状態の方が、より多くの病理的手続きによって作られた産物ではないかというのだ。ゴルドナーは、こうした二元論的なジェンダー・カテゴリーを、エイドリアン・ハリス(Harris 1991)と同様、「ネセサリー・フィクション(necessary fiction)」と表現する。この必要とされる、避けがたいフィクション

2021-02-24 02:18:12
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は、二つの性というシステムが個人の心にも、象徴体系にも、社会にも、社会習慣の中にも、動かし難くユニバーサルに根づいている。けれども人間が典型的な男性か女性かのどちらかに必ず振り分けられるというのは、やはり事実そのものというより明らかにフィクションだろうと言う。

2021-02-24 02:23:10
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精神分析は個々の患者をその二元的ジェンダー・カテゴリーに矛盾なく適合させていくことを目指すより、むしろその構造を解き明かすことに取り組むべきではないかと主張している。 p.55 ミュリエル・ディーメン(Dimen 1995)は、「第三のステップ…フロイト、フェミニズム、そしてポストモダニズム」

2021-02-24 02:29:24
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で、精神分析的フェミニズム(特に差異派)はフロイトの女性論を解決したかに見えたが、逆に差異派フェミニズムが「女性は関係性を大切にするものだ」というステレオタイプを作り出してしまった面があることを指摘している。  第三の道は、「ジェンダーというものをさまざまな例をもつものと捉え、

2021-02-24 02:33:42
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曖昧で、多重決定されていて、葛藤的なものとみるやり方」であるという。言葉自体の働きによって、我々はどうしても典型例のようなイメージやステレオタイプを作り上げてしまう。それは言葉の働きなので、その事自体はどうしようもない。ステレオタイプが厄介なのは、それが間違っているからではなく、

2021-02-24 02:36:41
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「男ならこう振る舞うべきだ」「女ならこうだ」と、曖昧さがなさすぎるからである。ある人の性別という、ある種の確かな実体と思われているものは、実は互いに調和しないはずのものが寄せ集まって全体をなしているようなものだ、という。

2021-02-24 02:40:48
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ディーメンの見るジェンダーのありようは、本来多重的で葛藤(コンフリクト)を含んだものである。アイデンティティを静的に固定された、単一であるはずのものとして捉えず、多重的で動的でその内にさまざまな差異をはらむものとして捉えることは、心理療法でも重要である。

2021-02-24 02:43:57
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解離性パーソナリティをもつ人との治療では、やっかいな交代人格だけを消してしまおうと働きかけることは、しばしば否定的な結果をもたらしてしまう。むしろ、「いくつもいる〈私〉がすべて私自身なのだ」と患者自身が思えるように援助することの方が、正解である場合が多い。

2021-02-24 02:47:26
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多重性をよくないものと問題視してそれを単一にしようとするのではなく、むしろ多重的なそれぞれの「私」を互いに受け入れずに分け隔てている解離の壁の方が、治療において取り組まれるべきものなのだ。 p.59 精神分析とフェミニズムは、ジュリエット・ミッチェルやナンシー・チョドロウによって

2021-02-24 02:52:02
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融合の道をたどり始め、精神分析理論を用いたフェミニズム理論である「精神分析的フェミニズム」が生まれた。そしてそれはジェシカ・ベンジャミンらによってさらに精緻化され、今度は精神分析の内部に、新しいジェンダー論をもたらしつつある。  第一に、フロイト理論が吟味される中で、男根一元論的

2021-02-24 02:55:53
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要素のみでなく両性性の要素が着目されてきたことである。さらにその観点は、さまざまな内的対象を擁する「私」という対象関係論的な〈こころ〉概念と結びついて、多様で矛盾することもあるような、さまざまなジェンダー的色合いを担った自己部分の集まりとして「私」を捉える観点へと発展しつつある。

2021-02-24 02:59:44
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第二には、臨床においてそれぞれの人のジェンダーのありようを把握する時、それを個々人によって独自の成り立ちを持つ複雑な総体として想定する姿勢である。  第三に、「女性性」のみを考察の対象とするのではなく、〈男性-女性〉というジェンダーの対関係を、まるごと考察の対象としていることである

2021-02-24 03:04:24