斎藤小百合「パンデミックと憲法』『福音と世界』pp.6-11, 12.2020 コロナウイルスに感染して重症化した人が急増したから「医療崩壊」するのではない。それはすでに新自由主義によって、医療体制が破壊されてきたからと言うべきだろう。たとえば、保健所は1947年の保健所法で公衆衛生の中心機関に
2021-02-17 19:51:02位置づけられていたが、新自由主義改革のもと、1994年の地域保健法により、保健所の広域化、集中統合が進められ、1997年からその数が減少した。1994年には全国に847ヶ所あった保健所が、2020年には469ヶ所になってしまっていたのである。感染症指定病院367病院のうち、346病院は公立・公的病院であり、
2021-02-17 19:56:46厚生省は医療費抑制のため、2019年9月に公立病院・公的病院の「再編・縮小」に向けた検討が必要として全国424病院のリストを公表していた。新型コロナウイルスの感染拡大の直前であった1月には、その際のリストに入力ミスがあったとして7病院を外し、新たに約20の病院を加えたリストを都道府県に提供
2021-02-17 20:03:07していた。「改革」の名のもとにこうした切り詰めが行われてきたことを忘れてはならない。 憲法に照らして「改革」しなければならないのは、新自由主義政策を支える土壌となっている成長至上主義・成果主義や軍事主義、そして、それらときわめて相性のよい男性中心主義、特に " toxic masculinity "
2021-02-17 20:07:49(毒々しい男性中心主義)である。 日本国憲法が国家緊急権について「沈黙」していることは、立憲主義の観点から重要な意味がある。日本国憲法は、戦前の大日本帝国憲法下で戒厳や天皇非常大権、緊急勅令などが「濫用」されたことを反省し教訓として、緊急権の制度をあえて憲法上採用しなかった。
2021-02-17 20:14:16軍事部門に特別な権限を付与する緊急権については特に慎重でなければならない。まず、日本国憲法に緊急事態に備えた規定がまったくないという主張は誤りである。「法律による政令への罰則の委任」(73条6号但書)と「参議院の緊急集会制度」(54条2項、3項)が存在する。また、災害対策基本法などの法制度
2021-02-17 20:20:24によって、財産権への特別な制限を課すこともできる。それなのに、本当にさらなる緊急事態条項が必要と言えるだろうか。 そもそも「緊急事態条項」の前提となっている「国家緊急権」とは何か。教科書的には、「戦乱・内乱・恐慌ないし大規模な自然災害など、平時の統治機構をもってしては対処
2021-02-17 20:25:09できない非常事態において、国家権力が、国家の存立を維持するために、立憲的な憲法秩序(人権保障と権力分立)を一時停止して、非常措置をとる権限のこと」とある。ここでは「国家権力が、国家の存立を維持するため」という点が注目される。つまり「国家緊急権」とは、国家が国家の存立それ自体を維持
2021-02-17 20:30:33するために構想されたものであって、そこには国民の生命や財産を守るという発想はないのだ。 「緊急事態条項」では強大な例外的権限が執行権に与えられているため、それが誤用・濫用・悪用されてきた歴史は枚挙に暇がない。そのため「緊急事態条項」を憲法上採用している国でも必ず慎重な「安全装置
2021-02-17 20:35:38が伴っている。戦後のドイツ連邦共和国基本法の制定段階で、草案には存在していた緊急命令権(草案111条)が削除され、包括的な緊急事態条項が導入されたのは、遅れて1968年のことだった。 「平時」においても憲法を踏みにじってはばからない勢力が、「非常事態」についての「緊急事態条項」を提案する
2021-02-17 20:40:34ことほど恐ろしいことはない。人権尊重・人権意識が醸成された社会では、平時から憲法的な価値に背反する政府の企てに警戒的であることが期待できるはずだ。
2021-02-17 20:45:02「緊急事態条項」について議論するのは、そのような立憲主義的な憲法秩序を作り上げ、私たちが政府を(利益誘導型政治によって「同意」を簒奪されるのではなく)真に「信頼」できるようになってからでも遅くはないだろう。
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