抜萃①『まとまらない言葉を生きる』荒井裕樹著、柏書房、2021.5.25. p.8 日本語には「言質を取る」という慣用表現がある。人と人が議論できたり、交渉できたりするのは、言葉そのものに「質」としての重みがあるからだ。 pic.twitter.com/aobSL86kyH
2021-11-02 19:40:57(あの政権の)軍票的な言葉は、自分の価値が下がらないように、本当は自分に価値なんてないことがバレないように、常に敵を作り、対立をあおり、気勢を上げる無限ループを走り続ける。そうした言葉が、言葉を壊していく。
2021-11-02 19:40:58p.12 もどかしいことに、いまの社会では、「短くわかりやすいフレーズ」に収まらないものは、そもそも「存在しない」と見做されてしまう(逆に言えば、実体なんかなくてもキャッチャーなフレーズさえ出せれば存在しているように見えてしまう)。
2021-11-02 19:40:58わかりやすくはっきりとした看板を立てようとすると、逆に「伝えられることの総和」が目減りする。
2021-11-02 19:40:59p.24 ハラスメントの被害者に対して「やめてって言えばよかったのに」とか、「被害を訴えればよかったのに」とかいった言葉が投げかけられたりする。でも、それはかたちを変えた自己責任論。こういった言葉に、どれだけの人が黙らされてきたのだろう。
2021-11-03 17:38:43ハラスメントというのは「個人的な問題」だと思われがちだけど、本当は会社とか組織の在り方が問われる「社会的な問題だ」。その「社会的な問題」に個人が直面しているのであって、ハラスメントで傷つけられることは「個人的な問題」なんかじゃない。
2021-11-03 17:41:11だからこそ、相談できる機関を整備して、被害を私事化させないことが大事なんだけど、ハラスメントの怖いところは、個人から「相談しよう」という発想そのものを奪ってしまうところにある。
2021-11-03 17:43:17本来なら社会の問題として考えなければならないことを、特定の個人に押しつけようとする言葉をよく見聞きする。「言うのは簡単」だけど、「言えば言うほど息苦しくなる言葉」が社会に溢れて、こうした「生きづらさを抱えた人」を黙らせようとする圧力が急速に高まってきているように思うのだ。
2021-11-03 17:44:03「誰かを黙らせるための言葉」が降り積もっていけば、「生きづらさを抱えた人」に「助けて」と言わせない「黙らせる圧力」も確実に高まっていくだろう。
2021-11-03 17:47:25「生きづらさ」の重さ比べをしても決して楽にはならない。むしろ、結果的に「黙らせる圧力」を高めてしまうだけだ。 「可哀想」というのは、「自分はこうした問題とは無関係」と思っている人の発想だ。こうした圧力は、「自分が死なないため」に高めてはいけないのだ。
2021-11-03 17:48:43「黙らせる圧力」は黙っていても弱くはならない。これに抵抗するためには、ぼくたちは何か言葉を積み重ねていかなければならない。
2021-11-03 17:49:49p.32 (東日本大震災のような)非常時には、どんな言葉が飛び交うのか。非常時という極限状況は、ぼくらの言葉にどんな影響を及ぼすのか。 「ひとりじゃない」というフレーズは、使い方次第では「苦しいのはあなただけじゃない(だからガマンしましょう)」という意味になりえてしまう。
2021-11-03 17:50:51多くの人に向けられた言葉は、どうしても編み目が粗くなる。どんな場面でも人を励ませる便利な言葉なんてない。
2021-11-03 17:51:50p.56 「希待」とは、「人間の善性や自己治癒力」を信じ、その「可能性」を「無条件」に信頼しようという姿勢のこと。見返りを求めず相手のことを信じてみようという態度のこと。 心の問題に関わる人には、心という不可視なものへの敬意を含んだ想像力がなければならない。
2021-11-04 10:17:47臨床の現場では、「その人が『生きて在ること』への畏敬の念」みたいなものが必要なときがあって、それがないと回復への歯車自体が動き出さないことがある。
2021-11-04 10:24:53「希待」とは、いま悩んでいる人のことを尊重して、「いまは悩んでいていいよ」と寄り添うような言葉だ。 悩みって、強引に解決を目指しても解決しない。むしろ、悩んでいること自体を認めてもらえるだけで、楽になれることも多い。
2021-11-04 10:30:33asahi.com/articles/DA3S1… p.66 宛先を特定できない負の感情は、結局、個々人の中で処理せざるをえなくなる。その処理費用として、多額の自尊心が支払われていく。「社会と闘う」「社会に抗う」ことのむずかしさは、こういったところにある。 pic.twitter.com/yaVRrBUrSC
2021-11-08 04:46:10そして「社会の問題」であるべきはずのものを、自尊心を対価にして「個人の問題」に変換させられるのは、たいてい立場の弱い人たちだ。
2021-11-08 04:46:39p.67 「いくらこの世が惨めであっても、だからといってこのあたしが惨めであっていいハズないと思うの。」 ~田中美津 田中さんの言葉は「いま痛い人」へと沁みていく不思議な浸透力がある。 pic.twitter.com/ygMEJmbXpm
2021-11-08 04:47:15もし、この社会で女性が惨めさを噛みしめているとしたら、それは社会そのものが惨めなのだ。そんな惨めさに苦しんだ人は、自分を惨めにさせる社会とは何かを問い返していい。
2021-11-08 04:47:44痛い思いをしている人を、切り分け、追い込み、黙らせる社会は、誰にとっても「生きにくい」に決まっている。そんな社会が「生きやすい」人がいたとしたら、そんな「生きやすさ」を感じられることの方が惨めだろう。
2021-11-08 04:48:01リブという運動は、喩えるなら、「すり減った自尊心を抱きしめて、もうこれ以上『わたし』を失いたくないと叫ぶこと」かもしれない。「叫び」というのは不思議だ。実際に声を出すのは一人ひとり。でも、人は独りじゃ叫べない。
2021-11-08 04:48:19一人がやるけど、独りじゃできない。そうした「叫び」が、世の中を変えていくのだろう。 田中美津さんの言葉と、「なんでもかんでも責任転嫁」という言葉と、ふたつを並べてみた時、自分が生きていくためにはどちらの言葉が必要だろう。
2021-11-08 04:48:38もしも自分が苦しい思いを強いられた時、「自分で自分を殺さないための言葉」はどちらだろう。
2021-11-08 04:49:00p.74 お役所の書類に好んで使われるということは、裏を返すと「都合の良い言葉」でもあるわけで、そういったものには何かしらのカラクリガあることが多い。
2021-11-08 04:57:05「地域」という言葉は、「実際には住み分けているけど、あたかも共生しているかのような印象を与えるマジックワード」になりかねない。
2021-11-08 04:57:06人を遠ざけるのは「悪意」ばかりじゃない。「何かあったら大変です」「困るのはあなたじゃないですか」といった「善意」が人を遠ざけることもある。横田弘さんたちは、そうした「善意の顔をした差別」を鋭く告発してきた。
2021-11-08 04:57:06共生社会の壁って、どこか遠くにあるわけじゃない。それこそ、ぼくたちの「隣近所」にあるのだと思う。
2021-11-08 04:58:24p.91 「障害者は生きる意味がない」という言葉を批判しようとすると、ともすると、反論する側に「障害者が生きる意味」の立証責任があるように錯覚してしまうことがあります。
2021-11-08 04:58:24私たちが議論しなければならないのは、「障害の有無で人を隔てることなく、共に生きるために何が必要か?」という点です。しかし、「障害者は生きる意味がない」という言葉に反論しようとすると、論点が「障害者が生きる意味とは何か?」に変わりかねない怖さがあるのです。
2021-11-08 04:59:41障害があろうとなかろうと、人は誰しも「自分が生きている意味」を簡潔に説明することなどできないと思います。「自分が生きる意味」も、「自分が生きてきたことの意味」も、簡潔な言葉でまとめられるような浅薄なものではないからです。
2021-11-08 04:59:42私が「生きる意味」について、第三者から説明を求められる筋合いはありませんし、社会に対してそれを論証しなければならない義務も負っていません。
2021-11-08 05:02:10そもそも、議論の行く末に責任のない人たちが、ある特定の人たちの「生きる意味」について議論すること自体、その「特定の人たち」にとっては恐怖だろうと思います。
2021-11-08 05:03:16私が思わず「私たちは~」「この社会は~」といった「大きな主語」で話をすると、横田さんからは次のような言葉が返ってきました。「それで、君はどうするの?」「君は、どうしたいの?」 大切なのは、「私」という「小さな主語」で考えることです。
2021-11-08 05:03:17p.104 迫害されている人は、これ以上迫害されないように、世間の空気を必死に感じ取ろうとする。どういった言動をとればいじめられずに済むか、自分をムチ打つ手をゆるめてもらえるかを必死になって考える。
2021-11-11 09:52:22戦時中の障害者の文学作品には、実は熱烈に戦争を賛美するものが多い。「戦争の役に立たない」からこそ、逆に「私はこんなにも戦争のことを考えています」といった表現をしなければ、ますますいじめられてしまうからだ。
2021-11-11 10:04:26障害者たちは「強制的に戦争を賛美させられた」わけじゃない、むしろ「自発的に」そう考えていた。「自発的にそう考えるように仕向けられた」というか、「そうした考えを持っていると表明すれば、その瞬間だけは世間からいじめられず、少しだけ楽になれる」ような状況を生きさせられていた。
2021-11-11 10:10:57強権的で抑圧的な社会というのは、いくつかの段階がある。まずは、誰かに対して「役に立たないという烙印」を押すことをためらわなくなる。次に、そうした人たちを迫害して、排除して、黙らせる。黙らせたところで、今度は逆に語らせる。
2021-11-11 10:16:02「こうしたことを言えば、仲間として認めてやらなくもないんだけど」という具合に、「強制」することなく、あくまで「自発的に」語らせる。こうして「強制的に語らせた人」の責任は問われることなく、「自発的に語ってしまった人」だけが傷ついていく。
2021-11-11 10:20:00誰かに対して「役に立たない」という烙印を押したがる人は、誰かに対して「役に立たないという烙印」を押すことによって、「自分は何かの役に立っている」という勘違いをしていることがある。 特に、その「何か」が、漠然とした大きなものの場合には注意が必要だ。
2021-11-11 10:24:04P.124 ムードというのは、マジョリティにとっては空気みたいなものだけれど、マイノリティにとっては檻みたいなもの。 この社会は、「権利」という概念に鈍いけど、それと対になって「差別」への感性も鈍い。「差別」への感性を鈍らせないためにも、ぼくらは「権利」に敏感でなければならない。
2021-11-11 10:33:01p.172 「遠慮」はたいてい、積極的に「する」わけではなく、ある種の圧力によって「させられる」ものだ。 人に遠慮をさせる有形無形の力のことを、ぼくは「遠慮圧力」と呼んでいる。
2021-11-14 09:50:09〈 初鴉(はつがらす)「生きるに遠慮が要るものか」〉花田春兆句集『喜憂刻々』文學の森社、2007年 「初鴉」とは「元旦」を表す季語。カラスは一年中いるので、季語には入っていないが、一年の第一声だけは元旦の季語として扱ってもらえる。
2021-11-14 09:59:58この表現は、生きることに遠慮を強いられた経験がなければ思いつかない。
2021-11-14 10:06:48敵を罵る社会は、身内に対しても残酷になる。「役に立たない」人を吊し上げることが゜「愛国表現」だと勘違いするような人たちが出てくる。 最も安易でたちの悪い「愛国表現」は、その場の空気に乗じて反撃できない弱者を罵ることだ。
2021-11-14 10:08:14障害や病気がある人の「遠慮」は、場合によっては命に関わる。日常生活の多くで人手に頼るわけだから、介護者との関係次第では「ご飯を食べたい」とか「トイレに行きたい」といったことさえ「遠慮」してしまうことがある。
2021-11-14 10:12:32でも、そうした「遠慮」は巡り巡って、積もり積もって、障害者本人を追い詰める。
2021-11-14 10:21:04日本の障害者運動には、「最も身近な敵は親である」という主張があった。親が障害者の子どもを自分一人で抱え込んでしまうと、「この子を残して死ねない」という義務感にまで高まって、親子心中や障害児殺しという最悪の結末に至ることもあった。
2021-11-14 10:21:06この閉塞感から抜け出さないと、親も障害者も生きていけない。 〈 泣きながらでも親不孝を詫びながらでも、親の偏愛をけっ飛ばさねばならないのが我々の宿命である。〉横塚晃一『母よ!殺すな』すずさわ書店、1975年
2021-11-14 10:31:35ALS患者の人工呼吸器の装着率には男女差が見られるという報告がある。 この世の「遠慮圧力」は、みんなに等しく均一にかかっているわけではない。やはり、どこかで、誰かに、重くのしかかっている。
2021-11-14 10:36:16