なぜ日本人は貧困についてかくも冷淡で自己責任をよしとするのか
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花びんに水をدعونا نملأ المزهرية بالماء☘️ @chokusenhikaeme

『貧困と自己責任の近世日本史』木下光生, 2017.10.10, 人文書院 pp.302-313 15~18世紀という長い年月をかけて立ち上がってくる家の世界は、強烈な自己責任感を付随する宿命にあったのであり、家の浮沈を勤勉、倹約、孝行という自己責任(通俗道徳)の度合いと連動させて警鐘を鳴らすような家訓 pic.twitter.com/14SgUCy3Ke

2024-03-16 23:40:59
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『河内屋可正旧記』が、早くも17世紀末~18世紀初頭の河内国に登場してくるのであろう。村で備蓄穀の貸付、安売り、施行を通して公的救済が実施される際、どの救済方法をどの程度利用するのかは、基本的に各世帯の個別判断に任されていたのも、当時の人々にとっては自己責任の一つの表現方法であった。

2024-03-16 23:41:00
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たとえ帳外扱いにされようとも、夜逃げ人が新天地で再定住、再就職をはかる余地、あるいは自村に再び立ち帰ってやり直す道は、近世の村社会には残されており、村側にも、あかの他人すら受け入れる包容力があった。ただ、そのようなやり直しの機会を与える度量の広さは、彼らを見放す冷徹さとも紙一重の

2024-03-16 23:41:01
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関係にあった。あまりにも身勝手な理由で家出したと判断されると、たとえ子どもであろうとも、村への受け入れや扶養は拒否されかねなかったのであり、そうした村側の判断には、公権力さえも口出しはできなかった。ここでも自己責任観が村社会の中で幅を利かしている様子がうかがえよう。

2024-03-16 23:41:02
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深刻なことに、夜逃げ人を見放す自己責任観は、当の本人たちもまた深く内面化しており、村の扶養を受け続けることに、あまりにもいたたまれなさを感じ始めると、村人たちは夜逃げしたほうがましだと考え、現に実行に映したのであった。  このことは物乞いにおいても同樣であった。近世日本の村社会に

2024-03-16 23:41:02
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おいても、物乞いは、生活が苦しくなった時の重要な生存選択肢の一つとして、村民の世帯経営の中に位置づいていた。だが村人たちにとって、物乞いを選択するということはそう易々とできることではなく、生活が難渋しても最後まで他人の施しにあずかろうとはしない力学が、世帯経営の中で強く働いた。

2024-03-16 23:41:03
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施すー施されるという関係が個別的、私的な社会関係の中ではなく、村という公的な組織を介した場合、より強くその力は作用した。なぜなら、村から公的に施しを受けると、村社会に迷惑をかけたと認知され、強烈な社会的制裁を引き起こしかねなかったからである。

2024-03-16 23:41:04
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近世村民の世帯経営、および村社会の規範において、「買う/借りる」という市場的な救われ方と、「もらう/施される」という非市場的な救われ方との間には、そう簡単には乗り越えられない大きな壁が立ちはだかっていたのである。

2024-03-16 23:41:04
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では、村社会の中では、個別世帯が背負う自己責任と、村民救済において村が公的に負った社会責任との間には、どのように折り合いがつけられたのであろうか。  村内の公的扶助は無前提に発動されたのではなく、個別世帯の自己責任と村の社会責任との間で、救済責任の押し付け合いがなされたり、両者の

2024-03-17 00:01:49
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棲み分けがはかられたりし、場合によっては村からの追放など強烈な見放しが困窮者に突きつけられる時もあった。村社会の中で、「小さな政府」路線と「大きな政府」路線が絶えずせめぎ合っていたと言え、そうした緊張関係は、17世紀段階から確認されるものであった。

2024-03-17 00:05:34
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相互扶助から自己責任へ、という単線的、二項対立的な歴史ではなく、両者の併存とせめぎ合いの持続こそ、近世日本の村社会が貧困救済に対してみせた歴史的特質であった。村人たちは17世紀以来、自己責任感を強烈に内面化した家の世界を基盤としつつ、なおかつそこで、助け合いの精神に支えられた強靭な

2024-03-17 00:10:18
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村社会を形成しようとしていた。  自己責任が前提とされ、社会救済との線引きも一定しないために、村の公的救済の対象者もまた、たえず変動することとなった。生活困窮者一般が、社会救済の対象となることはまずなく、その時々の状況に応じて、ある特定の属性を持つ村人のみが「難渋人」と認定され、

2024-03-17 00:15:11
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救済されるにすぎなかった。前近代欧州の貧困史とは異なり、史料から統計的な実数処理ができないところにこそ近世日本の特徴がある。  近世日本の村社会は、村としての扶養限界を感じると、領主に御救を願い出ることがあり、領主もそれに応じることがあった。

2024-03-17 00:23:41
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しかし実際には、幕府も個別領主も初めから、村人の生活保障の根本的な責任は村社会にあるとしており、御救を実施するにしても、臨時的にしか発動しないという姿勢を、最後まで崩そうとはしなかった。臨時性を基本としていた以上、公権力の姿勢に対して「御救の後退」を云々しても不毛である。

2024-03-17 00:29:13
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村社会をはじめとする被治者側もまた、個別領主に対しても、幕府に対しても、恒常的な生活保障制度を求めようとはしなかった。  村内の公的扶助においても然りで、自村の生活困窮者を恒常的に救済する制度を近世の村社会は、最後までつくろうとはしなかった。

2024-03-17 00:34:47
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各家の自己責任が前提とされていた以上、村の公的救済も臨時的なもので良しとされ、ゆえにそれが「タダで救う」ような施行という形式をとった場合、受給者は村に迷惑をかけた者としてあつかわれ、屈辱的な日常生活を強いるような厳しい制裁がくだされていったのである。

2024-03-17 00:38:43
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近世日本社会は、自己責任感を強烈に内面化していたがために、公権力も含めて社会全体として、生活困窮者の公的扶助は臨時的、限定的なもので構わないとする歴史的特徴を帯びていたといえよう。

2024-03-17 00:41:48