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序章・第1章、「被抑圧者の教育学」を書いた理由
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(抜粋①)『被抑圧者の教育学』パウロ・フレイレ著、三砂ちづる訳、亜紀書房、2018.5.12 序章 (p.36) 自由への恐怖がはっきり表されることはとてもまれなことだ。巧妙なやり方で、無意識のうちに、この自由の恐怖をカモフラージュしてしまう傾向のほうがむしろ強くなっている。 pic.twitter.com/0b9L33rTCF

2022-11-23 20:31:09
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自由を擁護するふりをして、自由を怖れないかのようにとりつくろい、作為的な言葉をひろげていく。  自由というものが現状維持ということに見えてしまう。意識化というプロセスを通じて、現状維持に問題があるということが議論されるようになると、本来の自由はつぶされはじめる。

2022-11-23 20:33:47
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ラディカルであることはセクト主義とは違う。ラディカルであることは、常に批判されることを怖れず、批判によってより成長していくものだから、創造的なプロセスである。セクト主義は神話的とも言える内向きの理論で構成されるため、人間を疎外していく。

2022-11-23 20:37:22
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自由とは人間が自ら選んでそこに根を持ち、はっきりとした客観的な現実を変革するための努力をし、その状況により深くコミットしていくことではないだろうか。  セクト主義は内向きで、合理的ではないため、問題ある現状をさらに偽りの現状に変えてしまうため、結局現状変革をもたらすことはない。

2022-11-23 20:41:12
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どの立場のセクト主義であれ、セクト主義は人間の解放を妨げるものだ。革命家が右翼のセクト主義と応答しているプロセスで、自分たち自身がセクト主義に陥り、反動的になっていくこともまれではなく、本当に残念なことだ。 (p.66) 右翼のセクト主義は、進んでいこうとするプロセスにブレーキをかけ、

2022-11-23 20:44:26
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時間を人間そのものを〈飼いならして〉、狭い自分のコントロール下に置こうとする。逆に、セクト主義化した左翼は、目の前にある現実や歴史を「弁証法的に」解釈し、根本的な宿命論に陥り、こちらもまた現実を見ることができない。  前者が未来のために、今ここにある現在を「飼いならして」、

2022-11-23 20:48:41
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それを繰り返そうとするのに対して、後者は未来を定まったものであるかのようにそちらに向かって変革を目指し、かならずそうなるものだ、という運命にしてしまう。前者にとっては今、というものが過去に縛りつけられているものだし、後者にとっては、あるべき明日はすでに決まっているものであり、

2022-11-23 20:51:27
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それもまた変わることがない。どちらも歴史のビジョン、人間の今に関するビジョンが間違っているわけで、その意味で反動的である。やり方は違うにせよ、結局は自由と解放を否定する行動を起こしてしまう。 (p.67) 傍観者の姿勢では未来は立ち上がらない。両者ともに「安全なサークル」に閉じこもり、

2022-11-23 20:56:09
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そこから外に踏み出すこともなく、自分なりの真理に安住してしまう。未来をつくり上げるために闘い、未来の構築のリスクを負う、といった真理とは違う。運命のように与えられた未来に安住せず、人間の創造する未来をよりよいものにするために闘い、お互いに学ぶ、という真理とも違う。

2022-11-23 20:59:27
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どちらにせよセクト主義というもの自体が反動的である。どちらもが、各々のやり方で時間をまるで自らの所有物のように見なして、人々を置き去りにしたままにし、人々と対立するものであるかのようにしてしまうからである。  右翼のセクト主義が「内向き」の真理に安住してしまうのは、もともと

2022-11-23 21:03:24
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そうである以上でも以下でもないわけだが、左翼の人間がセクト主義化してしまっては終わりであり、自分を否定することにもなることがわかっているのだろうか。  誰もが議論を持ち出すと、自らの拠って立つところが揺らぐように思ってしまう。よって、自らの内向きの真理に反するものは何でもすべて

2022-11-23 21:07:08
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間違っており、嘘であるとみなす必要がある。「セクト主義である限り、問いかけをすること、疑問を持つことを欠落させていく。」 (p.68) 世界と対峙することを怖れないこと、世界で起こっていることに耳を澄ますのを怖れないこと、世界で表面的に生起していることの化けの皮を剥ぐのを怖れないこと。

2022-11-23 21:11:58
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人々と出会うことを怖れないこと。対話することを怖れないこと。対話によって双方がより成長することができること。自分が歴史を動かしていると考えたり、人間を支配できると考えたり、自分こそが抑圧されている人たちの解放者になれる、と考えたりしないこと。

2022-11-23 21:15:06
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歴史のうちにあることを感じ、コミットメントをもち、人々と共に闘う。そういうことだけだと思う。 第1章、「被抑圧者の教育学」を書いた理由 (P.73) 人間化(humanization)も非人間化も、自らの未完性を意識する、未完の存在としての人間の前に可能性としてひらかれている。

2022-11-23 21:20:25
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" 人間の使命 " につながるのは、人間化だけである。この使命はたえず否定され、しかし否定によってまた、重要なことであると認識されてきたのである。不正や搾取、抑圧、抑圧者の暴力などによって、この使命は否定されてきたが、奪われてしまった人間性を回復するための、抑圧された者の自由と

2022-11-23 21:26:41
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公正への希求とその闘いによって、肯定されていくのである。 (P.74) 非人間化は、人間性を奪っている側にも見られる。「より全き人間」であろうとする使命からの歪みとして起こってくる。非人間化が人間の使命だと認めてしまうと、もうそこには絶望か冷笑しかない。

2022-11-23 21:30:32
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そうなると、人間化、自由な労働、疎外からの解放、一人の人格ある人間としての認識、これらを目指す闘いのすべては意味をなくしてしまう。  非人間化は変えることのできない宿命ではない。非人間化とは、抑圧者の暴力を生み出すことになる不正な「秩序」、人間をより価値の低い存在にみなすような

2022-11-23 21:34:52
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「秩序」だということがわかっているから、これらの闘いには意味があるのである。  抑圧者の暴力は、抑圧者自身をも非人間化していく。抑圧された人々は、遅かれ早かれ、自分たちを貶めている人たちに対して闘うことになる。被抑圧者が自らの人間性を取り戻すための闘いは、

2022-11-23 21:38:46
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新しいものを創造することでもあるのだが、このプロセスにおいて被抑圧者が観念の上でも現実の場でも、自らが抑圧する側のまねをするのではなく、抑圧者、被抑圧者、双方の人間性を回復しようとするとき、その闘いは意味を持つ。これこそが被抑圧者の大きな役割であり、抑圧者の歴史の課題である。

2022-11-23 21:42:38
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自らの解放のみでなく、抑圧する者も共に解放する、ということだ。  被抑圧者の無力さから生まれる力が、抑圧する者とされる者の両方を共に解放する力をもちえるのであり、暴力に頼る抑圧者は、こういう力をもつことはできない。

2022-11-23 21:46:49
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被抑圧者の無力さの前で、抑圧する側が寛容と見える態度を示すこともあるが、それは偽りの寛容であり、その枠を超えない。この偽りの「寛容」を示し続けるためには、不公平のほうも、維持し続けなければならない。

2022-11-23 21:49:49
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不正な社会「秩序」は、泉のようなものであり、偽りの「寛容」が流れ出ているが、その根源には死、絶望、貧困がある。泉が少しでも脅威にさらされると、そうした偽りの「寛容」はたちまち怒りに変わる。  本当の寛容は、こうした偽りの愛の根拠を消滅させる闘いの中にあるが、この偽りの「寛容」に

2022-11-23 21:53:38
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しがみついていると、それが理解できない。偽りの慈悲があるところには、不安で怖れていて、打ちのめされていて、心許なげな「生に見放された」者の手がある。この世のぼろきれともいえるような「地に呪われたる者」の手である。

2022-11-23 21:57:59
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本当の意味での寛容とは、この手が、人間の手、人々の手となるよう闘うことのうちにある。施しを求めて力ある者に差し出す哀願の手ではなく、人間的な手、労働し世界を変える人間の手になるように。

2022-11-23 22:01:50
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教育と学習は、「地に呪われたる者」、すなわち被抑圧者、この世の打ちひしがれた人たち、そして連帯しようとする者たちのところから始まるのである。人間として、自らの人間性を取り戻すための闘いのうちにこそ、本当の意味での寛容が立ち上がる。

2022-11-23 22:04:35
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偽りの寛容を装う抑圧者の態度には愛の不在が隠れている。  自らの中に抑圧者を「宿して」いることに慣れている被抑圧者が、その二重性と、生来のものではないものを体現しているという苦しみの中で、いかにして解放のための教育学に寄与できるのか、ということは大きな問題ではある。

2022-11-23 22:09:56
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しかし、抑圧者は「自らのうちにある」ということを発見したときに、被抑圧者は、解放の教育学の誕生に貢献することができる。  なんとか抑圧者のようになろう、そうなりたい、そうなるんだ、という二重性のうちに生きている間は、自らを解放することはできない。

2022-11-23 22:13:18
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被抑圧者の教育学は、抑圧している側からつくり上げられていくものではない。被抑圧者の側が、自らも抑圧者も、共に非人間的な状況にあることを批判的に発見していくことからつくり上げられる。  被抑圧者が、最初の段階として、解放のために闘おうとするのではなく、自分もまた抑圧する側そのものに

2022-11-23 22:18:06
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なろうとしたり、抑圧する側に与したりしようとすることが起こる。被抑圧者の思考構造は、現在の状況のうちにある矛盾を生きることを条件づけられている。被抑圧者が理想として追い求めているのは、まさに〈人間となる〉ことである。

2022-11-23 22:22:51
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しかし、ずっと非人間的な状況に置かれ、どう抜け出せばよいのかわからない矛盾のうちにあっては、人間になることが抑圧者になることだと思ってしまう。だからこそ、人間とはなにかということが示されているべきだ、と思う。

2022-11-23 22:26:03