寺院社会の若年構成員である兒(稚児、侍童)について、主に中世寺院における位置付けなどのまとめです。Twitterモーメントより移行(2023/9/9)
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※院家…延暦寺、興福寺、東大寺等々の大寺院には、その寺院本体に付属する形で、院家(塔頭とも)と呼ばれる、寺院内で高い役職に就く高僧が住持となって営む小寺院も存在していました。
 また、こうした院家の中でも、法親王など皇族や高位の公家出身者を代々の住職に迎える門跡寺院は、とくに格式が高いとされ、暮らし向きも上流のものでした。

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(再掲) 参考:院家内組織構成(中世醍醐寺座主坊の例) ◆院主(座主)君達(公達とも)座主の直弟子、入室時の父(五位以上)の官位官名によって「三位君」「宮内卿」などと呼ばれ阿闍梨にものぼる ◆兒共(上童子)所謂稚児、長じて落飾すれば君達。兒は出自によって上童子・中童子がいた

2018-01-27 20:05:37
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承前 修学者 座主の直弟子、入室時の父の位が五位以下。国名や「国名+公」で呼ばれる ◆中童子 上童子より出自の低い稚児。出家して修学者となる。 これらの人物は院主の直弟として近侍しつつ教えを学ぶ。彼らより下の者は寺院運営の実務に就く

2018-01-27 20:06:34
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承前 (侍法師などとも。のち寺侍とも呼ばれる)院家内の家政を司る。「国名+公」で呼ばれ、身分は修学者とほぼ共通。 ◆以下、御厨子所、政所 などの部署に奉仕する侍、大童子、舎人、牛飼、人従など 参考資料:「中世寺院の社会と芸能」(土谷恵・吉川弘文館2001)

2018-01-27 20:07:08

※大童子は主に雑役を担い、成人しても髻を結うことも加冠もせず、童形でいた人達です。

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兒を抱えられるのは主にこうした、大寺院内で子院を持つことの出来る位の高い僧侶である。高僧を核とした集団内において、時代を担う若年層を構成する者として兒がいた。直弟子としてその序列は低くなかった。

2018-01-27 20:09:47
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※上記に挙げた例は前述のとおり、中世醍醐寺座主坊に於ける構成であり、自社によって構成や上下関係、名称は差異があります。

2018-01-27 20:12:21

唐輪と稚児髷 ──稚児と武士に共通した髪型に見られる、身分階層の重なり

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■唐輪(からわ)と兒髷(ちごわげ) もとは若党(元服後~若年の武士)の髪型で、平安末期ごろから。平治絵巻などに見られます。 髻(もとどり)の末を片輪あるいは諸輪(もろわ)にまとめた髷。後に、寺院の兒(ちご=稚児)の髪型にもなり、公家の若君の元服前の髪型(みづらよりは格が劣る)と→ pic.twitter.com/UJ2L9im9RS

2018-01-27 20:20:35
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なり、元結を高くして諸輪を美しく見せるようになっていきます。 さらに後の世では、女児の髪型のひとつに取り入れられ、娘髷(この形は関西で好まれた)にもなり、「兒髷(稚児髷)」などと呼ばれるようになりました。

2018-01-27 20:21:51
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ただ、平安末期に兒が既にこの髪型にしていたのかどうかはちょっとあやしい。 『稚児観音縁起絵巻』(鎌倉後期)ではひとつ結びの垂髪、『道成寺縁起絵巻』(室町初期)ではまだぺったりした唐輪です。江戸時代頃に描かれる牛若は確実に高元結の兒髷ですが、浮世絵等の、幼少の菅公や愛護若等、→

2018-01-27 20:23:08
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『上・中古の貴種の若君』というざっくりしたカテゴリがだいたいこの髪型で描かれていた、という印象です。(これは平安風俗を考証したものではなく、江戸時代の公家の風俗を描き込んでいるからではないかと思います) 続きます→

2018-01-27 20:26:03
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▲若党と兒が同じ髪型にしていたのはなぜか。 児には、寺の外から入ってくる者と、坊官(房官)の子息からなるものとがいます。そもそも侍童を擁するというのはそれなりに位も上の僧侶じゃないと出来ない(扶持的に)ので、寺院の別当や三綱、大寺院を構成する子院の主等、という事になります。

2018-01-27 20:27:26
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→特に別当坊などについて、家政を担当する人達を坊官といいます。摂関家などの政所みたいなものです。妻帯、帯刀、在家の僧で、次第に寺院に定着して、世襲になっていきます。 侍僧は時代が下ると寺侍(てらざむらい)などとも呼ばれます。→

2018-01-27 20:28:40
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この子息は幼少時は侍童として父兄と共に院主に仕え、元服すれば坊官になり、家職を継ぐことになります。 義経の同母兄円済(乙若、源義円)も、園城寺の円惠法親王(八条宮)に仕える坊官になっています。 おそらく元服前は侍童をしていたのではないでしょうか。→

2018-01-27 20:30:56
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なお、堂衆(諸堂に仕える平の僧侶達。大衆/だいしゅ)だけでなく、坊官も裹頭(覆面)武装すれば僧兵になります。 参考文献: ▲「日本結髪全史」(江馬務/東京創元社)1960再版改訂 ▲「中世寺院の社会と芸能」(土谷恵/吉川弘文館)2001 ▲「続日本の絵巻20 当麻曼荼羅縁起・稚児観音縁起」→

2018-01-27 20:33:30
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参考文献続き ▲「続日本の絵巻24 桑実寺縁起・道成寺縁起」  (共に、編集・解説:小松茂美/出版:中央公論社) ▲「新日本古典文学大系43 保元物語・平治物語・承久記」(岩波書店) ▲平治物語絵巻 三条殿夜討巻「ボストン美術館 日本美術の至宝」特別展図録(2012)  再掲は以上です。

2018-01-27 20:33:56
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少しく牽強付会のケもあるかなと思いますが、何が言いたかったかと言えば、兒(稚児)は別に変態坊主に身売りされてた哀れな孤児というだけの日陰の存在ではなく、寺院社会の若年構成員として存在し、長ずれば得度し、ある者は父となりその子がまた侍童となるという環の中にいた、ということです

2018-01-27 20:40:58
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男性ばかりの集団で小さく弱くより華やぎのある存在が愛慕の対象となったり、主従関係の中で肉体関係を強要された子もいた、という事を否定したいのではありません。ただそういった逸話は人の興味を引き心を動かす特別な話だから残ってきたもので、語られないもっと多くの日常もあったと思うので…

2018-01-27 20:48:19
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ちなみに最初のあたり語気が強かったのは、「前世で稚児だった」 ていう人の手記を読んで「そりゃないよ」という向きだったからです

2019-12-02 01:56:45
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誘拐か人身売買でしか稚児にならないみたいな思い込みが、寺に仕える家の子だとか、公家や武家などの子息の外界からの入寺という重要な人材の供給元があったことすら認識されにくくしているし、まるで世界との繋がりもなく坊主の性の相手するためだけに存在して薹が立ったら消えていくかのような扱い

2019-02-23 10:09:09
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もしかしてだけど『(現代以前の)寺院社会は俗世と隔絶してて外界の社会的権威は通用しない』というような誤解があるのかもしれない…稚児も上童子・中童子と居て父兄の官職の高低等で待遇が違い、喩え師弟関係の縛りがあっても上童子は俗世での良家の若君扱いそのままなので『奴隷』扱いはあり得ない

2019-02-23 11:44:19
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逆に言えば本当に誘拐や人身売買された子は寺院社会での立場も弱く、性被害にも遭い易かっただろう。だからそもそも『稚児』というだけで一括りには出来ないのです

2019-02-23 11:47:50

『稚児』とは、元は小さい子、幼い子というだけの意味だった

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「稚児(古くは兒)」とは、小さい子幼い子というだけの意味で、子供をさす一般名詞です。寺院の稚児も、単に集団社会を継続していくために随時補充される若年構成員であり、法統を継ぐために教えを受ける生徒であり、年功序列で雑務をこなす侍童です。本来は別に性愛の対象にされる為に居た訳じゃない。

2023-09-09 22:52:04
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それを愛でる者とすることが横行してしまって、後世からはそこだけが切り取られてしまうけど、稚児行列などの「稚児」は、本来の意味で使われ続けてるだけなんだよね。

2023-09-09 23:00:15
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一貫性の寄宿学校に喩えるとわかりやすいかもしれないけど、小さい頃から所属してた方が生え抜きエリートとして途中入学(寺)より将来の寺院内での権力に近付き易かった。出自のいい子は高僧の直弟子になったから、余計、将来を嘱望される。

2023-09-09 23:18:32
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寺院は当時巨大勢力だったし、政治的、勿論信仰的な繋がりを求めて、公家からも武家からも、子供を寺に入れることはあった。そして父兄の身分官職による選別は寺院社会でも有効で、稚児にも上童子中童子の区別があった。お話としては身寄りのない子や人さらいに攫われた子が稚児になったりするけど、

2023-09-09 23:20:54
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高僧の傍らで鄭重に扱われる上童子に比べたら、寺でも後ろ盾がない身寄りのない子は、心許ない寂しい思いをすることが多かったかもしれない。

2023-09-09 23:23:53
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とくに上童子は、師僧や、兄弟子に当たる自分と同じような身分出身の僧(エリート組)には従わなければいけないから、もし性愛の相手を強要されても逆らえなかっただろうけど、格下の衆僧からしたら眺めるだけで手出しは許されない高嶺の花。大勢の憧れの的として振る舞わなければならなかった……

2023-09-09 23:31:28
逆名🌈🕊️🏳️‍🌈🏳️‍⚧️ @sakana6634

行儀見習いの意味合いもあったし、大寺院の子院だったりすると公家の殿上人並みの格式が求められてたので、身だしなみや起居振舞にはもともと厳しかったんだろうけど、平安末期の史料で稚児が「幽艶の振舞」を求められたりしてたのは、もう大分雰囲気が出来上がってしまってたんだろうな…。

2023-09-09 23:35:24
逆名🌈🕊️🏳️‍🌈🏳️‍⚧️ @sakana6634

直接の手出しが出来たのは格上の高僧だけだった筈だが、稚児も複数居た中で、特定の子がマスコットやアイドルとして可愛がられ、そういう中からエスカレートしていく例もあったろう。あと、フィクションの稚児物語だと、師のある稚児が横恋慕されて悲劇に繋がる展開が多い。

2023-09-09 23:41:54
逆名🌈🕊️🏳️‍🌈🏳️‍⚧️ @sakana6634

最初から性愛を提供するの構造が出来上がってたわけじゃなくて、言い方は悪いがそういう公私も何もないぐだぐだな感じから段々慣例化していってしまったんじゃないのかな…。空海が男色を輸入した云々は眉唾だと思う。

2023-09-09 23:44:53
逆名🌈🕊️🏳️‍🌈🏳️‍⚧️ @sakana6634

あと、師弟関係の延長線上にあったことなので、手を出すも出さないも師僧の方の胸先三寸なんだよな。下に拒否権はないけど上には選ぶ権利があった。そういう意味でも稚児が直接的な性加害を受けていたかどうかははっきりしない。なかったとは言えないんだけど。

2023-09-09 23:57:28
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さらに稚児もいずれ落飾するか行儀見習いを終えて俗世へ戻って元服したり、大人になっていく。寺に留まったエリート組はやがて稚児に手を出すことが許される側になり、師僧にもなっただろう。性愛の対象にされてた美少年が大人になったら消えて無くなるわけじゃない。そうして構造も継承されていった。

2023-09-10 00:04:30
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日本史上に記録が残されている男色の構造化は、多くが権力の場で起きている。高僧は寺院内だけではなく俗世にも政治的影響を持つ場合が多々あり、良家の子息たる稚児(上童子)の教育もそのコネクション維持に資するものだった。

2023-09-10 00:11:40
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例として仁和寺の覚性入道親王(紫金臺寺御室)は、鳥羽院と待賢門院藤原璋子の子で、つまり崇徳・後白河の同母という出自からして強烈だが、後白河院が仏教勢力を抑える為に仁和寺に総法務を置き諸寺を統括するという政策をとった事もあって権勢を誇り、派手な逸話が多い人物。「青山の沙汰」の御室だよ

2023-09-10 00:23:49
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紫金臺寺御室の侍童として寵愛を受け、秘蔵の琵琶まで賜った平経正が仁和寺に入ってたのは平家一門と仁和寺、後白河院や待賢門院との関係を深めるためもあっただろうし、当時は平家の公達が仁和寺に集ってサロン化していたという。

2023-09-10 00:33:35
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古今著聞集に紫金臺寺御室と千手・參河という稚児の逸話が収録されているが、ザ・移り気な権力者の横暴と翻弄される哀れで美しい者達という、祇王・仏御前の逸話とも似た構図の、色好みの権力者のエピソード。その信憑性はともかく、権力と性愛が絡むことが必然とされてしまっていたのがよく解る。

2023-09-10 00:46:37
逆名🌈🕊️🏳️‍🌈🏳️‍⚧️ @sakana6634

権力なんだよな。ただひとり性犯罪加害者が居るだけではそうならない。権力が絡まないと構造化はしない。 『稚児は変態坊主の性奴隷』という切り取りと矮小化が、どれだけの複雑な背景を無視してしまっているか、このツリーだけでもちょっとお解り頂けたらと思う。

2023-09-10 00:57:39
逆名🌈🕊️🏳️‍🌈🏳️‍⚧️ @sakana6634

かし、逆を返すと、私的な筈の性愛が史料に残るのは権力に近い場で発生してたからで、だから構造化した男色ばかり記録に残っているのかもしれない。 元稚児の成人した僧侶同士の自由恋愛だってあっただろうに、記録に残らないんだよなあ。厚い交情を窺わせる師弟関係はあっても。 twitter.com/sakana6634/sta…

2023-09-10 01:09:42
逆名🌈🕊️🏳️‍🌈🏳️‍⚧️ @sakana6634

この点だけを見ても、同性愛差別がなかったとはとても言えないと思う。

2023-09-10 01:10:21
逆名🌈🕊️🏳️‍🌈🏳️‍⚧️ @sakana6634

権力者と美童の組み合わせなら、変態扱いされようと「仕方がない」と納得され、そこだけをクローズアップされさえするが、逆に成人の坊さん同士の対等な自由恋愛は不可視化されてしまうんだからな。

2023-09-10 01:29:50
逆名🌈🕊️🏳️‍🌈🏳️‍⚧️ @sakana6634

成人(年上)男性と美童の男色なら許されてきたっていうのは、ギリ「女性の代替」という言い訳が立つからじゃないかという。成人男性同士の同性愛は忌避され不可視化されてしまうけど、(美)少年ならセーフになったのではないか。 twitter.com/sakana6634/sta…

2023-09-10 01:36:09
逆名🌈🕊️🏳️‍🌈🏳️‍⚧️ @sakana6634

少年が「女のように」飾り立てられ「女のように美しい」という賛美を贈られ、女性の代替品だったと説明されることがずーーっとなんかイラッときてたんだけど、そこに同性愛嫌悪の匂いを嗅いでいたからなのかなあと思う…女のようにじゃなきゃダメだったんだな。男性美を愛でたら同性愛になっちゃうから

2023-01-03 02:48:28

参考:古今著聞集より、紫金臺寺御室と千手・參川の話

[巻第八好色・三二三] 仁和寺の童千手參川が事

【あらすじ】
 紫金臺寺(覚性)御室の元に、笛と今様を得意にする千手という寵童がいた。
 そこへ、參川(三河)という、箏と和歌が得意な新参の童がやってきて、參川への寵愛がやや勝るようになり、千手は恥ずかしく思い自室に籠もるようになった。
 ある日、酒宴が催され、千手も仕方なく呼び出しに応じ、遣る瀬ない思いを託した今様を披露した。
 心を動かされた御室は千手を抱いて寝所へ入ってしまった。
 皆が驚き騒いでいるうちに夜が明け、御室が起きると枕屏風に歌が貼り付けてあった。參川の筆跡によるもので、寵愛の移ろいやすさを目の当たりにして読んだものであろうと思われた。
 御室は參川の行方を尋ねたが解らず仕舞いになった。高野山で僧になったという話であった。

【原文】
 紫金臺寺(しこんだいじ)の御室(おむろ)に、千手(せんじゅ)といふ御寵童ありけり。みめよく心ざま優(いう)なりけり。笛をふき、今樣などうたひければ、御いとほしみ甚だしかりけるほどに、又參川(みかは)といふ童、初參(うひざん)したりけり。箏(さう)彈き歌よみ侍りけり。これも又寵ありて千手が綺羅すこしおとりにければ、面目なしとや思ひけん、退出して久しくまゐらざりけり。
或日酒宴の事ありて、さまざまの御あそびありけるに、御弟子の守覺(しゅくわく)法親王なども、その座におはしましけり。
「千手はなど候はぬやらん。めして笛ふかせ、今樣などうたはせ候はゞや」
 と申させ給ひければ、則(すなは)ち御使をつかはしてめされけるに、
「この程所勞の事候」
 とて、まゐらざりけり。
 御使再三に及びければ、さのみは子細申しがたくて、まゐりにけり。
 顯紋紗(けんもさ)の兩面の水干に、袖にむばらこきに雀のゐたるをぞ縫ひたりける。紫の裾濃(すそご)の袴をきたり。ことにあざやかに装束(さうぞ)きたれども、物を思ひいれたるけしきあらはにて、しめりかへりてぞみえける。
 御室の御前(おんまへ)に、御さかづきをさへられたる折にてありければ、人々千手に今樣をすゝめければ、

 過去無數の諸佛(しょぶつ)にも  すてられたるをばいかゞせん
 現在十方(じっぱう)の淨土にも   往生すべき心なし
 たとひ罪業(ざいごふ)おもくとも  引攝(いんぜう)し給へ彌陀佛(みだほとけ)

 とぞうたひける。諸佛に捨てらるゝ所をば、すこしかすかなるやうにぞいひける。思ひあまれる心の色あらはれて、あはれなりければ、きく人みな涙をながしけり。
 興宴の座も事さめて、しめりかへりければ、御室はたへかねさせ給ひて、千手をいだかせ給ひて御寢所に入御(じゅぎょ)ありけり。
 滿座いみじがりのゝしりけるほどに、其夜もあけぬ。
 御室御寢所を御覽じければ、紅の薄樣(うすやう)のかさなりたるをひきやりて、歌を御枕屏風におしつけたりける、

 尋(たづ)ぬべき君ならませば告げてまし入りぬる山の名をばそれとも

 あやしくて、よくよく御らんじければ、參川が手なりけり。今樣にめでさせ給ひて、又ふるきにうつる御心の花をみて、かくよみ侍りけるにこそ。さて御たづねありければ、行くかたをしらず成りにけり。高野にのぼりて、法師に成りにけるとかやきこえけり。

【原文底本:新潮日本古典集成59「古今著聞集(上)」】


参考:古今著聞集より、醍醐桜会の和歌相聞(1)すがたの池

[巻第五和歌・一九八]
宗順阿闍梨、醍醐の桜会にて童舞の美童に歌を贈る事

【訳】
 醍醐寺の桜会に奉納される童舞の出来が殊の外素晴らしかった年があった。その舞手の童、のちに源運と呼ばれた僧(※醍醐寺金剛王院の祖で重源などの師か。後白河院の寵を受け権大僧都に上る)は、当時少将の公(きみ)と呼ばれた美童であった。宇治の宗順阿闍梨(※「撰集抄」巻7の叡山宗順と同一人物か)という人が、思いを募らせて少将の公へ歌を送った。

「昨日みしすがたの池に袖ぬれてしぼりかねぬといかでしらせん」
 (昨日見たあなたの姿恋しさに、菅田の池に入ったように泣きぬれ袖を絞り切ることもできません、それをどうお知らせしたものか)※菅田の池は現在の大和郡山市菅田神社近くにある池。

少将の公は返して、

「あまた見しすがたの池の影なればたれゆゑしぼる袂なるらん」
(池に映る姿は数多ございましょう、どなたの影をご覧になって袖を絞っておいでなのでしょうか)

 と歌った。機転が利いて優雅であった。
 この一件を目撃した中院の僧正(※東寺長者定遍)は多いに感心して、入道の右府(※源雅定)に逢ったついでに「風流なことでしたよ」とこの話をしたが、入道に「さすがに歌は覚えていないでしょう」と言われてしまい、「それ位覚えていますとも」と、思い出して語ったことがまったくトンチンカンであったので、入道はおかしくてたまらなかったが、生き仏のような僧正が好意で聞かせてくれたことなので、どうにか笑わずに耐えた。
 高徳の僧といえど和歌の道は険しく、今昔の著名な僧形歌人たちのようにはいかないものだ。

【原文】
 醍醐(だいご)の桜会(さくらゑ)に、童舞(わらべまひ)おもしろき年ありけり。源運といふ僧、その時少将の公(きみ)とて見目もすぐれて、舞もかたへにまさりて見えけるを、宇治の宗順阿闍梨みて、思ひあまりけるにや、あくる日、少将の公のもとへいひやりける、
昨日みしすがたの池に袖ぬれてしぼりかねぬといかでしらせん
 少将の公、返事、
あまた見しすがたの池の影なればたれゆゑしぼる袂なるらん
 といへりける、時にとりてやさしかりけり。中院の僧正見物し給ひけるが、これを聞きていみじと思ひしめて、同じ入道の右府に対面し給ひけるついでに、この事をかたりいで給ひて、「やさしくこそおぼえ侍りしか」とありけれど、入道殿、「歌はおぼえさせ給はじ」とのたまひけるを、「そればかりは、などか」とて、「少将の公がもとへ宗順阿闍梨つかはし侍りし、『きのふ見しにこそ袖はぬれしか』とよめるに、少将の公、『荒涼(くわうりやう)にこそぬれけれ』とぞ返して侍りし」と語り給ひけるに、堪へがたくをかしくおぼしけれど、さばかりの生仏のねんごろにいひいで給ひけることなれば、しのび給ひけるなん、ずちなくおはしけり。和歌の道は顕密知法にもよらざりけりと、なかなかいとたふとし。昔の遍昭(へんぜう)、いまの覚忠・慈円(じゑん)などには似給はざりけるにや。

【原文底本:新潮日本古典集成59「古今著聞集(上)」】


参考:古今著聞集より、醍醐桜会の和歌相聞(2)山吹の衣

[巻第五和歌・二一一]
仁和寺の佐法印、山吹着たる童と和歌の唱和の事

【訳】
 仁和寺の佐の法印[成海法印の師である]
(※成海は藤原頼長の近習皇后宮権亮成隆の子。佐の法印は、叔父の権大僧都隆海か)が若い頃、醍醐寺の桜会見物のついでに境内を拝観していると、同じような山吹色の衣を着た童子が二人、花見をしていた。どちらも大変美しく、佐の法印は堪えかねて歌を読みかけた。

 山吹の花色衣見てしより井手のかはづのねをのみぞなく
 (山吹色の衣のうるわしいあなたを目にしてから、恋しさにただ井出の蛙のように鳴くのみです)※井手は『山吹』『かはづ』にかかる歌枕。山吹の花は水辺に咲くイメージから、よく川水や蛙と共に詠まれていた。
 自分からそのように歌いかけておいて逃げる法印の袖を、童子のひとりが捕まえて、僅かな思案ののちすぐに歌を返した。

 山吹の花色衣あまたあれば井手のかはづはたれと鳴くらむ
 (山吹の衣を着た者は沢山居りますが、井出の蛙は誰を思い鳴いているのでしょうか)

【原文】
仁和寺の佐(すけ)の法印[成海法印の師なり]、わかくて醍醐の桜会(さくらえ)見物のついでに、寺中巡礼しけるにや、山吹の衣(きぬ)きたる童二人、おなじすがたにて花見て侍りける、いづれもいみじく艶(えん)に覚えければ、堪へかねて歌読みかけける、
山吹の花色衣見てしより井手(ゐで)のかはづのねをのみぞなく
 みづからかくいひかけて逃げける袖をとらへて、ちと案じて、則ち返し侍りける、
山吹の花色衣あまたあれば井手のかはづはたれと鳴くらむ

【原文底本:新潮日本古典集成59「古今著聞集(上)」】


逆名🌈🕊️🏳️‍🌈🏳️‍⚧️ @sakana6634

法会における童舞についてはこちらが詳しいです 中世寺院の社会と芸能-株式会社吉川弘文館安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社 yoshikawa-k.co.jp/book/b325286.h…

2020-04-29 03:11:58
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まとめたひと
逆名🌈🕊️🏳️‍🌈🏳️‍⚧️ @sakana6634

無駄とムラの腐渣。調べ物と落描きが趣味の考証厨歴ヲタ。人物志より文化史寄り。時代装束、童子みづら、法衣袈裟が好物。アジアや他地域の文化も好き◆右寄りに非ず◆無断での転載・まとめお断り◆長めの自己紹介を御一読頂けましたら幸いです→ http://twpf.jp/sakana6634 絵置き場(※腐/二次創作):@funa6634