抜粋) 『ヘイト・スピーチという危害』ジェレミー・ウォルドロン著 谷澤正嗣・川岸令和訳 みすず書房 2015.3.30

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このことはまた、イエスの評価が保護されるべきであることを少しも意味しない。同じように、何百万というムスリムたちが、名誉棄損に対して保護される権利をもつ。その際、ムスリムとしての名誉を棄損されることからの保護も含まれる。

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しかしそのことは、預言者ムハンマドや、その集団の教義上の信念が名誉棄損から保護されるべきだということを意味しない。ある集団の成員の市民としての尊厳は、彼らの信仰のもつ地位とは切り離されて成り立つ。

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預言者に対する攻撃、あるいはコーランにさえ対する攻撃が、どれほど不快感をもたらすと思われたとしても、そうなのである。

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私たちとしては、「宗教に対する名誉棄損」のような言葉に関しては慎重であるべきである。ヘイト・スピーチを規制する法律の範囲を拡大しようと望む人々によって、その言葉が用いられることに関して慎重であるべきである。

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さて、「デンマークの漫画」事件への反応についてである。デンマークのある新聞に、２００５年に掲載された、預言者ムハンマドを爆弾を投げつけるテロリストとして描いたいくつかの漫画のことである。

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ある研究者は次のように述べた。「預言者ムハンマドをテロと関連づける漫画は・・・テロがイスラム教と切っても切れない関係にあるという否定的なスティグマを強化することによって、ムスリムのアイデンティティがもつ社会的地位をおとしめる傾向にある。」

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けれども、デンマークの公訴局長官が問題の新聞に対して法的措置を起こさなかったのは、おそらく適切なことだった。微妙な境界線が引かれるべきところでは、法律は一般的にその境界線のリベラルな側にとどまるべきである。

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多くの場合、この問題に対して西側のリベラルな人々に言えた最善のことは、彼らは自分たちがそれらの漫画を出版する権利をもつのを確認するということだった。けれども、権利があるということは、その権利を保持する人に、それをなんとしても行使しなければいけない理由を与えるわけではないし、

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その人を道徳的批判から保護すべきでもない。私(著者)の見解では、この場合の権利の行使は不必要であり、不快を与えるものだった。けれども、不快を与えるということは、それ自体では法律による規制の十分な理由にはならないのである。

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宗教はいつでも不快感が飛び交っている領域のひとつである。とりわけ、多様な信仰の存在する社会ではそうである。各々の集団の信仰箇条は、他のどの集団に対しても侮辱的なものに見える。キリスト教の三位一体主義は、ユダヤ教やイスラム教の一神教主義にとっては侮蔑に見える。

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個人としても、集団としても、ひとは宗教によって提起される深遠な問題の数々を自らが最善と思うやり方で取り扱う自由をもつべきである。

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病気があり、凶悪な犯罪があり、子どもたちが殺され、天国は沈黙しており、世界には意味がないように見える。善良にして聖なる男ヨブをして、悲惨な運命のおかげで面と向かって神に対して呪いの言葉を吐くように仕向けることは可能か、悪魔は神に賭けをもちかける・・・・

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この物語は、すでに聖書に書かれていなかったとしたら、それを出版した会社にそのせいで爆弾の一発や二発仕掛けられてもおかしくないような代物であるwwww　(Ibid., 153)

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宗教というものは、その公共的な表現においても、不快感を人に与える可能性をもつのであり、この点に関して宗教が毒を抜かれることはありえない。最も深遠な、そして最も厄介な感情がそこには含まれているのであって、お互いを怒らせることは、ほとんど事の本質に属すると言ってもよいのである。

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多くの集団の中には、必要もないのにわざわざ他人の集団を不快にさせ、その他人がそれに応答すると今度はその応答を自分たちの不快感の根拠にするような集団もあるだろう。不快の種は豊富に出回っている。

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この問題に対処するための鍵は、不快感を根絶しようと試みることではなく、こうした状況の中で脆弱な人が危害を被るとはどういうことであるかについての単純ではない賢明な見方を維持しながら、それと同時に不快感と危害の間にくさびを打ち込むことである。

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まさに宗教的な差異が不快感を与えるものでありうるがゆえに、人々の信仰の様式のために、あるいは彼らが信じる物事のために、彼らが攻撃される、危害を及ぼされ立場を傷つけられる、という不断の危険が存在する。このような危害に対抗する防御とは、第一にそして何よりも、相互の寛容の問題である。

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宗教的な自由というものは、もしそれが人を不快にする自由でないとすれば、何ものでもない。このことははっきりしている。しかし、これと等しく、宗教的な自由というものは、もしそれが次のことを意味しないとすれば、やはり何ものでもない。

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すなわち、他者に不快な思いをさせる人も、それにもかかわらず仲間の市民として承認されるべきなのであり、しかもそうした人々は、必要な場合は、彼らを排除するために社会的な力が動員されるのを禁止する法律によって、市民としての地位を確保されるべきだということである。

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人々はときに、自分たちは自らの宗教的信仰と同一化しているのだと言うことがある。このように言うとき、彼らは信仰に対する攻撃と人格に対する攻撃とを区別するのを困難にする。

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私(ウォルドロン)の考えでは、私たちがアイデンティティの政治と呼ぶものは、大部分が、個人、集団、共同体による、自分たちの利益と意見のための影響力と保護に関して、彼らが資格をもつ以上のものを要求しようとする無責任な企てである。

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集合的決定形成においてより大きな善であるとみなされるもののために、私の利益が犠牲にされることは時にはあるとしても、私自身が犠牲にされることがあってはならない。

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何らかの社会的な善さを確保するために個人に彼らの存在そのものを放棄することを要求するような法律を制定したり政策を実行したりすべきではない。

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各人は基本的な利益、【権利】を有するのであって、それらの権利が、共同体において下される政治的決定に対して制約を課し、誰もが被ることを予期しうる敗北や挫折に対して限界を定めるのである。そうした利益が、個人の不可侵性の表徴をなす。

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各個人は、自分が権利の問題として行うある要求が、政治が要求する決定形成と決着とを促進するだろうか、それとも排除するだろうかと、自問しなければならない。

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ある争点が私のアイデンティティにとって決定的に重要だと言うことによって、私はその争点についての私の見解を政治的に交渉不可能なものとして提示する。私が含意しているのは、この問題に関する私の利益、ニーズ、選好を容認することは、私を尊重することにとって決定的に重要だということである。

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私(ウォルドロン)としては、社会において検討され議論されるべき何らかの選択肢と彼ら自身とを同一化させることが、人格の保護が要求する事柄の観点からして本当に必要であるかを考え直す必要があると考える。

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私(ウォルドロン)は、「尊厳」が地位を表す言葉だと考えている。その言葉による使用が示しているのは、しっかりした立場をもった社会の成員としてのある人の地位が肯定され支持される仕方に注意を払うことの重要性である。

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地位とは、シティズンシップのように、パスポートを見せる場所や投票ブースでだけ意味を持つようなものではない。地位は、人が社会全般において受け入れられる仕方に関係する。

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第二に、ある個人の普通の尊厳に対する関心が焦点を合わせるのは、何百万人という他の人々の中にいる一人としての彼または彼女の地位が肯定され堅持される仕方、そしてそれが危険にさらされるかもしれない仕方、である。

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私たちは、公共財としての人々の地位を肯定し堅持することに関心をもつ。この公共財は個人の権利として生じるものである。しかしそれは、何百万の人々に対して同時に、斉一的にかつ混雑性に悩まされることなく供給される。

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以上が、第５章、「尊厳の保護か、不快感からの保護か」からの抜粋ですが、当然、連想されるべきは、記憶に生々しいシャルリー・エブド襲撃事件です。「宗教に対する批判や風刺はヘイト・スピーチとして規制されうるか」が争点のひとつでもありました。以下、訳者解説から　(Ibid.,290-2)

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ウォルドロンの立場からするならば、基本的には宗教の教義、教祖、聖人といったものの戯画化は規制の対象ではない。預言者を笑い者にすることは信者にとって不快感の種となるだろうが、それを規制することは、多元的社会における宗教問題の本質からいってすべきことではないし、不可能である。

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ただし、問題の漫画がフランスにおけるマイノリティであるムスリム市民の尊厳や地位を傷つけるように意図されていたならば、それはヘイト・スピーチに当たる可能性も皆無ではない。

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その漫画が、ムスリムは市民としての平等な尊重に値しない異分子や敵であるというメッセージを含むものだったとしたら、それは危害をもたらすと考えられるかもしれない。

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しかしこれは微妙な区分である。不快感と地位の毀損を截然と分かつことは可能だろうか。やっかいなのは、客観的な地位の毀損ないし安心の破壊が、主観的な「不安」ないし「安心感の欠如」と結びついており、こうした多少なりとも情緒的な反応は不快感と区別することが難しいのではないかということだ。

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預言者が笑い者にされることは、信者にとって、聖なるものが汚されたという不快の念と同時に、自分自身もいずれ笑い者にされ市民扱いされなくなるという不安を引き起こすかもしれない。こうした不安は、おそらく地位の毀損と関係があるが、不快感とも関係がある。

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人は不快感を通じて不安を認識するかもしれない。そして不安は安心の欠如の認識である。マイノリティの成員は不快感から守られるべきではないが、安心の欠如からは守られる必要があるということは、現実的に可能だろうか。

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ヘイト・スピーチすれすれの表現が目に見えることは、リベラルで寛容な社会の特徴ではなく、むしろ非寛容な社会の特徴である。シャルリー・エブドにはムハンマドを風刺する漫画を掲載する権利があった。しかしその権利を実際に行使することは、リベラルで寛容な態度とは言い切れなかった。