父の恩人、水越主基さんの本の続編(下巻)。主基さんの学生時代〜兄の戦死〜農協理事〜組合長〜父への想い〜母の想いを抜粋しました。
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遠田大亮 @DaisukeEnta

【学生時代の回顧録】 明和十七年期商中学校に入学した。その前年の十二月の真珠湾攻撃で始まった日米戦後は「勝利勝利」の大本営発表で心躍らせたが、物資は不足粗末な食事 「欲しがりません勝までは」の合言葉で学用品も不足、あっても代用品であった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基 pic.twitter.com/tXjLcxAYEf

2024-03-10 07:43:36
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遠田大亮 @DaisukeEnta

当時は制服が手に入らなかったので何色でもよかったが、帽子は戦闘帽で、胸には学年 クラス 氏名 血液型を表示する布を縫い付け、又ズボンのポケットも縫い閉じらされ、 いくら寒くとも手を入れることも出来ず、家から登校し帰るまで「ゲートル」といって脚絆を巻いてねばならず、その巻き方も外側の真ん中でおわらなければならず、毎日検査があり、巻き始めをどこにするか大変だった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-10 07:44:55
遠田大亮 @DaisukeEnta

学校では勉学もほどほどに毎日朝礼があり、訓示、服装検査、二時間目の間には業間体操などがあり、雨の日以外はグランドに全校生徒がでた。上級生になれば銃のとりあつか いから銃剣術まで、戦争の即戦力の養成の教育であったのである。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-10 07:46:20
遠田大亮 @DaisukeEnta

秋先に一年一回「査閲」(さえつ)といって、特別な査閲官が軍隊の機関から派遣され、 訓練の状況視察にくるのであった。査閲官に対する閲兵行進の成果は、当時学校に派遣された配属将校の腕の見せどころで、グランドで何日も徹底的にしごかれた。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-10 07:46:56
遠田大亮 @DaisukeEnta

上級生は三八式歩兵銃や模擬銃をにない、七百名の生徒のもっとも緊張する季節でもあったが、戦争が激しくなって勤労動員が始まるとそれどころではなくなってしまった。 逆に学校にあった三八式歩兵銃が、前線の実戦部隊に足りなくなったのか、何時の間にか消えてしまった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-10 07:47:59
遠田大亮 @DaisukeEnta

三八式歩兵銃は明治三十八年日露戦争のときに開発され、重くて機能は悪いが、命中率はすぐれていたといわれていた。敗戦ですべての銃器類や刀剣類の所持が禁止され、やむなく海に沈めたといわれている。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-10 07:48:36
遠田大亮 @DaisukeEnta

中学校は亀ヶ崎城の跡地で、周りが土堤で、その外は堀であったのだろうか、私達が通っていたころは、道路に面したところしか堀がなかった。その堀にはハスが植えられて、夏になれば花が咲いていたし、鯉などもいたし、カエルも鳴いていた。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-10 07:49:12
遠田大亮 @DaisukeEnta

土堤には欅の古木、 校舎の前は桜が咲き乱れ、学び舎の環境としては最高であった。その堀も前田製管のコンクリートの残りカスで埋め立て、現在は校地としてうまく利用 して雰囲気も悪くないが、堀として残していれば、別の意味で酒田の名所になったのでは ないだろうか。昔の光いまいずこである。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-10 07:49:46
遠田大亮 @DaisukeEnta

時をさかのぼれば天正十九年(一五九一)上杉景勝の臣、亀ヶ崎城城代甘糟備後守影継が、平田の山谷堤より大町まで溝渠を堀り、城の堀に流したり、家庭の用水、田畑の灌漑用水としたのであり、現在も大町部落の中を通り、東高の北側を流れ新井田川にそそいでいる。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-10 07:50:44
遠田大亮 @DaisukeEnta

【動労動員】 中学一年。二年は自作業の季節限定的奉仕作業で、授業の合間であったが、昭和十九年にはいると、勝ち気味と思っていた戦争があやしくなってきた。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基 pic.twitter.com/6jUnDIK8Dq

2024-03-11 08:27:40
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遠田大亮 @DaisukeEnta

現代では、太平洋戦争の歴史の殆どは明らかになっているが、当時の大本営発表は都合の悪い珊瑚海、ミッドウエー、ソロモンの大敗北を隠し、ガダルカナルまで伸びた無理な侵攻も危うくなり、〜 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-11 09:34:36
遠田大亮 @DaisukeEnta

〜アッッ島の玉砕から始まり、サイパン、テニアン、グアム、硫黄島の玉砕は渋々認め、玉砕を賛美する物までうたわせ、一層の戦争を遂行するには、我々学徒を大動員せねばならなかったのであった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-11 09:34:55
遠田大亮 @DaisukeEnta

【神町飛行場建設へ(現山形空港)】 昭和十九年、中学三年生になった六月、私達に百五十名に動員が命じられたのである。 それは東根神町に海軍飛行場建設であり、その作業には鶴岡中学も動員されていた。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基 pic.twitter.com/KEMLhxHjKh

2024-03-12 09:00:07
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遠田大亮 @DaisukeEnta

当時の飛行場予定地は養蚕の為の桑畑であり、ゆるやかな起伏のある平地であった。その起伏を平らにならすために、トロッコ押しやノーパンクのリヤカーでの土の運搬で、毎日土量計算でのナワが張られ、一日の作業はそこまでという作業ノルマであった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 09:08:02
遠田大亮 @DaisukeEnta

私達は早く作業を終えようと張り切り、早い時は午後の三時頃まで終了したが、常に現場監督とナワの位置とその距離の解釈をめぐっていさかいが絶えなかった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 09:08:42
遠田大亮 @DaisukeEnta

若者の一番の苦しみは空腹であった。ご飯は七分搗きで玄米同然真っ黒で、そのくらいは我慢が出来たが、量が少なく、育ち盛りの胃袋の片隅に入る程度で、多くの人は粗末な木製の弁当の昼食を、朝食と一緒に腹に流し込むのが流行った。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 09:09:36
遠田大亮 @DaisukeEnta

おかずはキュウリの漬物、大きな漬物桶(酒樽)には長靴で入っていたし、日の丸弁当といっても梅干ではなく、サクランボの梅酢漬けであった。その他の副食は粗末な塩蔵物か干物であったと思う。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 09:10:31
遠田大亮 @DaisukeEnta

朝食べてしまった昼食弁当はカラッポ、幸い附近は桑畑であったので桑の実でいやしたが、時々間違えて毛虫を口に入れそうになったこともあった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 09:11:12
遠田大亮 @DaisukeEnta

ところどころに植えてあるサクランボの実も垂涎の的で、夜コッソリ出て直接手を出すことが出来ないので、喧嘩をしている風に演技をしている最中に、他の人が木に登ったという手の込んだ知能犯もいたという話しもある。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 09:11:59
遠田大亮 @DaisukeEnta

今の飽食時代では想像もつかない、やるせない空腹の時代でもあった。 風呂は一週間に一回、トラックに大勢乗せられて、旅館名は忘れたが将棋型の大浴場のある天童温泉に連れて行かれ、いもの子のように入れられた。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 09:15:33
遠田大亮 @DaisukeEnta

今のようなきれいでなく、 掃除の行き届かない、緑がかった温水のような感じがした。連日の炎天下の汗や、衣服の洗濯はどうしたのだろうか、あまり記憶がない。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 09:35:59
遠田大亮 @DaisukeEnta

宿泊は新しく建てた海軍のバラック兵舎であり、柱も割り箸のように細く、二階建てであったが壁もなく板張りで粗末なもの、初夏であったので風通しもよく、まあまあであった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 09:46:05
遠田大亮 @DaisukeEnta

ある日一緒に行った藤井君の家から、お子が送られてきたとの情報が、またたくまに全員に広がり駆け巡った。その藤井君とは、家は駅近くの堀切の大地主「藤井家」で、その御曹司であった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 20:04:47
遠田大亮 @DaisukeEnta

当時一般我々の家では、お菓子どころか料理用の砂糖さえ手に入らなかった時代、どんなお菓子であったのか、そしてその量は見ないでしまったが、恐らく大金を積んで手に人れたものに違いない。その噂にクラスメートが蟻のように集まったのだろう。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 20:06:06
遠田大亮 @DaisukeEnta

虫の蟻であれば何万匹集まっても知れたものだが、人間蟻だったので大変であったのである。 ただでさえ割り箸のような柱と桁のバラック兵舎の二階、我も我もと群がったのである。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 20:07:37
遠田大亮 @DaisukeEnta

最初から想像だけで、諦めていた私は下から見上げているだけ、すると二階の桁や板走りがたわんで見えるではないか、「危ねぞ」と下から大声で叫び逃げたが、どのように配分したのか事なきを得て解散したらしい。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 20:10:54
遠田大亮 @DaisukeEnta

そのような最低の環境の中での二十日間であったが、帰る時にも「員数」といって、今まで使用したスコップ、ツルハシ、リヤカーなど大道具、小道具の数が合わないと許してもらえない、帰してもらえない、軍隊ルールである言葉を知った。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 20:12:25
遠田大亮 @DaisukeEnta

軍隊経験者からはよそ から盗んできても数を合わせなければならないと聞いていた。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 20:12:46
遠田大亮 @DaisukeEnta

現在の山形空港は国道十三号線ぞいにきれいに整備され、各地にフライトされているが、 私達が汗を流した飛行場は役に立ったのだろうか、完成しても飛ばす飛行機もなく、練習用の「赤トンボ」位は飛んだとされている。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 20:13:48
遠田大亮 @DaisukeEnta

滑走路はコンクリートも無くなったのだろうか、 割り竹で編んだ「竹あみ」を敷いたらしい。そのことは私の家のまえの桶屋さんである工藤さんから聞いている。工藤さんも徴用され、県内の桶屋さん達が集められたのだろう。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-12 20:15:07
遠田大亮 @DaisukeEnta

【帝国マグネシュウム工場へ】 二十日間の神町の飛行場建設作業を終えたのが昭和十九年七月十日、学校に復帰する問もなく、今度は大浜にある帝国マグネシュウム工場と、再度神町飛行場の建設作業と、別々に分かれて動員令が下った。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基 pic.twitter.com/WrfVkw9fG7

2024-03-13 08:22:00
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遠田大亮 @DaisukeEnta

その割合は帝マグ五十名、飛行場には百名であった。私は帝マグにきまったが、大浜の帝マグ工場は家から四キロ以上の徒歩、炎熱化の重労働、家に帰ってからは夜の七時から九時まで、学校での夜学が義務づけられた。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-13 08:27:35
遠田大亮 @DaisukeEnta

どちらがよかったか、今更比較しても無意味だが、当初の帝マグでの作業は、新しく高い溶鉱炉を作るための耐火レンガの運搬で、普通のレンガより重く、背中に背負いながら登った。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-13 08:28:07
遠田大亮 @DaisukeEnta

一日の運搬枚数は作業所単位で決められており、体の小さいクラスメートの班員のためにも倍の力を出した。力を合わせて割り当ての作業を早く終え、日本海より吹いてくる潮風に体を冷やす時間が一つの癒しであった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-13 08:28:33
遠田大亮 @DaisukeEnta

秋になると神町飛行場建設に頑張った級友も元気で夏で帰ってきて合流した。その機会に今度はマグネシュウムを製造する現場に配属され一般工員に混じって同じように交代制で夜勤もやり、なれない仕事であったが国家の運命懸けての使命に燃えながら頑張りきった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-13 20:06:06
遠田大亮 @DaisukeEnta

私の配属なったのは第三マグネシウム工場で、第三マグネとんでいた。第一から第五であったような実がする。工場の中には多くの平べったい弁当型の電解層がいくつも並んでいて、その一つを五人位の班で交代しながら見ていたのであった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-13 20:11:19
遠田大亮 @DaisukeEnta

電解層の中には、原則である塩化マグネシュウムが真っ赤にドロドロに溶け、それが電気分解されると、マグネシュウムが大きな水銀の塊のように浮かんできて、それを鉄の長い柄杓で外の液が入らないように慎重に汲み、山型の鋳型へ流してマグネシュウムの粗鋼になり、飛行機の軽い材料になってゆくのである。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-13 20:15:17
遠田大亮 @DaisukeEnta

私達が働いたのは秋先から冬、そして終戦の年昭和二十年五月頃までであったので、気候的にはむしろ電解層の高温で守られ快適であったが、電気分解で発生するもう一方の塩素ガスには参った。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-13 20:16:40
遠田大亮 @DaisukeEnta

塩素の生のガスが黄色の色をして湧いているのが目に見える時もあ り、如何にガスマスクやメガネがあっても、時々ガスを吸って気分が悪くなる人もいた。 今のように、労災とか公害とか、そんな常識の無い時代であった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-13 20:17:44
遠田大亮 @DaisukeEnta

昭和二十年に入ると戦局も思わしくなく、我々の同級生は「日本は負ける」と公言する人までいた。「まさか」とその時は思ったが、我々はどうなるだろうかと心中複雑であった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-13 20:18:43
遠田大亮 @DaisukeEnta

原料の塩化マグネシュウムの輸送もままならなくなったのか、工場での作業も少なく仕事の無い時は電気課に行き、当時同じく動員されていた米沢工専の先輩学生と遊んだりしていた。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-13 20:19:35
遠田大亮 @DaisukeEnta

一方我々の造ったマグネシュウム粗鋼が精錬され、果たして飛行機の材料になっただろうか疑問である。 工場の仕事もなくなったので、六月頃から今度は港湾の荷役であった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-13 20:20:18
遠田大亮 @DaisukeEnta

千トン内外の船から石炭や大豆を下ろす作業で、木で作った荷箱を背負い、紐を握り、目的の場所で紐を緩めると、箱の底が開き自然に落ちる仕組みであった。中国人の労務者もいたり、時々、 オーストラリヤ軍の俘虜の行列にもあったりした。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-13 20:21:57
遠田大亮 @DaisukeEnta

八月に入ると、米軍の機動部隊からの空襲、グアムなどからの「B-29」による爆撃など、日本各地で一層激しくなり、「警戒警報・空襲警報」の発令が日増しに多くなり、 港にいる我々の上はるか、爆音も聞こえない超高空を機体を光らせ、偵察だったのだろうか、我が物顔で飛んで行く機影も見られるようになった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-13 20:24:24
遠田大亮 @DaisukeEnta

そのようなことで日本各地の重要施設や港湾、そして船舶が攻撃されたのだろう、船も入らなくなり物資の輸送はままならず、港湾荷役の作業もなくなり、再度帝マグに戻ったが、そこでも仕事が無かったのである。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-13 20:25:16
遠田大亮 @DaisukeEnta

【酒田と空襲】 昭和二十年六月三十日の夜中、轟々と爆音が聞こえるではないか、すわ空襲だと飛び起きたが、照明弾で真昼のように明るくなっていた。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基 pic.twitter.com/EXIpABhWuI

2024-03-14 06:15:15
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遠田大亮 @DaisukeEnta

その明かりの下で、南防波堤と北防波 堤との間の港湾に船が通れないように機雷を落としたつもりであったろうが、陽が上がっ て見ると、岸壁の陸地にも投下失敗したのか、パラシュートと共に不気味に落ちていた。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-14 06:16:26
遠田大亮 @DaisukeEnta

後の調査によると、侵入敵機は一〇機くらい、陸上に落ちたのは一四個で、海中に落ちたのは四〇個くらいとされている。八月六日北防波堤の外で、港湾の土砂を掘る阿賀丸という船が土砂を捨てに行き機雷に触れて沈没している。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-14 06:17:36
遠田大亮 @DaisukeEnta

八月十日、前日まで港湾で荷役作業をしていたが、船も入らず仕事も無く、その日から帝マグに復帰して来たのであった。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-14 06:19:08
遠田大亮 @DaisukeEnta

午前九時頃に空襲警報のサイレンが鳴り出した。間もなく爆音が聞こえてきたではないか、これは大事件ということで、幸い工場の脇は光が丘 の松林であったので、一斉に逃げ込み、防空頭巾を被った。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基

2024-03-14 06:19:32
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まとめたひと
遠田大亮 @DaisukeEnta

農業、農政、農協等“農”に関してのツィートが多いです。 (個人的には)GHQの占領政策や押し付けられた憲法を金科玉条としたままでは、日本農業はもっと衰退すると考えています。 山形県農協中央会勤務。農協監査士。明治大学法学部卒。山形県酒田市出身。 過去のツィートは、以下↓のまとめサイト(min.t)からどうぞ。