母親は酒田町の生まれで、私の家とは遠縁に当たっていたらしい。 私は生まれつきか、又祖母育ちのためか、非常に我儘だったらしい。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 06:38:30近くの部落から子守をたのんで来て貰ったところ、何がその子守が気に入らなかったものか、「ケツダバッチエゲエゲ」 エゲ」註(こんな小娘帰れ) と追い出すので、 仕方なしに祖母が送って行ったそうです。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 06:38:55祖母は他人に頭を下げた事などないのでしたが、私のために頭を下げて送って行ったというものでした。 そして代わりに年寄りの子守を頼んだところ、その人は士族にでも奉公したのか、下にも置かないで機嫌を取り、私をもてなしたものですから、大変気に入ったようでした。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 06:41:10わたしを「メッチャさん メッチャさん」と呼び、メッチャさんの「お鼻低い」(私を尊敬する様な言葉)などと云い、私が負ぶさって眠ると、母が重いから「下に寝せぬがせ」と云うと「マヌケな子でないから、寝せぬがれましね」と云うもだったそうです。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 06:41:58兎に角私の気に入ったらしく、これらは皆、私が物心ついてから母や祖母から聞いた話です。 私が少し大きくなってからですが、ある日お客さんがきて、嬰詰(エズメ)に入ってお辞儀したのはこの娘だがや」と云われたものでした。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 06:43:26他人が「こうするものだ」と云えば「したくない」、自分が気に入らなければ「だだ」をこね、「 するな」と云えば「する」と云い、何でも他人の反対の事を言ったりするものですから、〜 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 06:47:03祖母は私を「他人が西と云えば東、榎 ても槻木(ツキノキ)」だと、私を「槻ノ木」 と呼ぶものでした。私は「槻ノ木」と呼ばれると「うん」と返事をしたものでした。然し祖母しかそんな呼び名で呼ぶ人はおりませんでした。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 06:47:51種には立派な実がなっているのに、つまり証拠がちゃんとあっても「私は槻ノ木だ」と反対の事を言い張るので「槻ノ木」と名付けたとの事でした。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 06:48:11その年、日露戦争は大勝利で終わって、父が凱旋して来る事になりました。村では村はずれに松の枝で凱旋門を造り、高等科の学童で楽隊を組織しておったので、楽隊付きで迎えに行きました。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基 pic.twitter.com/atLWznHiIz
2024-03-20 06:50:46天に代わりて不義を打つ 忠男無双の我が兵は 歓呼の声に送られて 今ぞ出立つ父母の国 勝たずば生きて帰らずと 誓う心の勇ましさ 私は村はずれまで迎えに行きました。父は人力車に乗って四歳なったばかりの弟を抱いて帰ってきました。村を挙げての大賑わいでありました。「ばんざい ばんざい」 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 06:52:18そして翌年の春だと思いますが、長坂〔光が丘〕で大勝利の祝賀会がありました。祖母は私を連れて行きました。そこでも何か気にくわなかったものか「だだ」をこねて泣きわめいたので、「今度はお前をどこにも連れて行かぬ」と云われました。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 06:52:51祖母は衆人の中で「だだ」を起こしたのにはこまったのでしょう。 又、髪も今の様にただとかして置けばよいのでなく、毎日とかしてゆわなければならないのです。それも私の文句の種でした。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 06:54:29母が結ってくれるのに「痛い痛い」と云って頭に手をやってとかせない様にし、母が「桃割」と云う髪型に結ってくれると云えば、学校に行っ ているから「ガッコウ髪」) (イチョウ返し)がよいと云って小言を云い、毎日この様にして母を困らせておりました。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 06:55:55六年生で又卒業証書を貰いました。そして高等科一年生に上がり、「白旗尚信」先生が担任でした。修学旅行は「鶴岡」で、行程三十二㌔で皆歩かなければなりません。わらじがけでした。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基 pic.twitter.com/kPba68UVFT
2024-03-20 06:57:49先生の云うには「わらじがけの足袋の中にもわらじの上にも塩をのせなさい。そうすると足の熱がとれてくたびれない。夜休む時は頭は枕で、足は何かで高くしてねるとくたびれがとれる」と教えられました。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 06:58:36次ぎに修身の時間でした。先生は黒板に「従順」「信用」「出世」の三つを並べて書き、 このうち自分が一番なっていない足りないものを書きなさいと云われました。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 07:00:48私は初めどれを書けばよいのか分からなかったが、そのうち先生はあなた方は子供だからまだ出世なんてないなと云われたので、はっとわかりました。それで「従順」と書きました。それから私は以前のように我儘しないようになりました。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 07:01:01その年の七月(明治四十五年)明治天皇の御不例が発表になり、私達も二班に別れて、上下の日枝神社に御平癒祈願にお参りしました。全国民皆御平癒をお祈りしたのでしょうが、その甲斐もなく国民悲しみのうちに、遂に七月三十日崩御になりました。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基 pic.twitter.com/LzEE8241cD
2024-03-20 07:02:47そして九月十三日御大葬の日に、乃木大将は夫人と共に、赤坂の自宅で殉死されました。 国民はまたびっくりしました。私も忠義とはこれが本当であろうかと思いました。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 07:03:24その後間もなく「乃木大将の歌」を学校で習いました。誰の作詞かしりませんが、一、二、三ばんは忘れましたが、四番目の歌詞にこういうのがありました。 ほむる人にはほめられん そする人にはそしられん 行くべき道と信じたる 心は他人の毀誉により 動かざるべきものならず この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 07:04:11私の正義感にぴったり、未だこの歌詞は忘れません。学問の方はさっぱりでしたが、三年間一日も休まず遅刻もなく卒業となりました。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 07:04:35次に大川周明さんですが、周明さんは農学博士と法学博士の二つの博士号を持っていて、軍部と提携し満州国独立に力のあった人で、戦後アメリカ軍から戦犯として軍事裁判にかけられた有名人でした。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基 pic.twitter.com/Vb5goSaLXA
2024-03-20 07:06:25その周明さんのお祖母さんと私の祖母は父方の従姉妹でした。よく私も祖母に連れられて、藤塚の大川さんの家に行ったものです。下に弟二人がおりました。周明さんのお父さんはお医者さんでしたのでよく往診にでかけておりました。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 07:07:25自分の子供は男ばかりでしたので、私や妹を非常に可愛がってくれました。 私がレース糸で銀貨入れや、造花を編んで上げると駄賃と云って拾銭貰って大変嬉しかったものです。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 07:07:55又周明さんのお祖母さんは私の祖母と違って手先が器用だったらしく、 当時お医者さんか官吏でなければ巻煙草を吸わなかったものでしたが、その巻煙草(朝日)の袋で「紙ヒナ」を作っていて私が行くと戴いたものでした。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 07:09:05袋の裏の白い所は顔で頭に黒い布を貼って髪にし、袋の模様の所は着物にして作るものでした。 祖母は私達が足をパタパタさせると「足は歩く事しか芸がないものだ」と教えられました。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 07:10:08私は「米を掲くんでねが」、「水車だって足で踏むんでねが」と反発したものでしたが、 何もいいませんでした。然し何と小憎たらしい小娘と思ったでしょう。 この亀ヶ崎に生まれて下巻水越主基
2024-03-20 07:11:19