文庫版『うつろ屋軍師』特別付録、「丹羽家家臣団 主要人名集」に入りきらなかった家臣たちをまとめてみました。
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簑輪諒 @genkyo_kyogen

そこで、感謝の気持ちを込めまして、いまから、文庫版付録「丹羽家家臣団人名集」に入りきらなかった丹羽家臣を、#丹羽家人名集補遺 として今からツイートさせて頂こうと思います。全国の丹羽ファンに届け! pic.twitter.com/IAI2VAqAgt

2018-02-09 23:43:29
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<丹羽一族>

簑輪諒 @genkyo_kyogen

丹羽長政 修理亮。尾張春日井郡児玉村領主。丹羽家はもとは尾張守護・斯波氏の傘下であったが、斯波氏の衰退に伴い、弾正忠織田家に属した(正確な時期は不明)。長政は能呂氏(尾張丹羽郡の野呂一族か)の娘を娶り、長秀をもうけた。天文十八年死去。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:31
簑輪諒 @genkyo_kyogen

丹羽長忠 将監。丹羽長政の長子。彼が早世したため、次男の長秀が後継になったとされる。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:31
簑輪諒 @genkyo_kyogen

丹羽長清 五郎兵衛。長秀五男・長俊の子、母は大谷元秀の娘。父が没すると長重に仕え、大坂の陣にも従軍したが、寛永12年に36歳の若さで死去。子孫は代々丹羽一学を称し(丹羽秀重家の名跡を継いだとされる)、幕末の家老・丹羽一学富穀が有名。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:32
簑輪諒 @genkyo_kyogen

丹羽重次 八右衛門。父は長秀次男・長正。始め越前家、次いで長重に仕え、光重の代には執政となるが、家柄に驕って問題が絶えなかった為、寛文3年に追放された(弟たちは残留)。父と共に追われた嫡男・長知は越前家に仕え、子孫の正辰は後年、二本松の江口家を継いだ。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:32
簑輪諒 @genkyo_kyogen

丹羽利忠 勘左衛門。丹羽家臣・丹羽与十郎の子。母は丹羽長政の娘であり、長重とは従兄弟にあたる。本領は尾張瀬尾庄で、児玉丹羽氏と同族と思われるが、詳細は不明。関ヶ原後は福島正則に仕え、大坂の陣後は丹羽家に帰参。後継の利澄は主家に遠慮してか、丹羽氏から瀬尾氏に改めた。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:32
簑輪諒 @genkyo_kyogen

深光院(桂峯院) 織田信長の養女(実父は異母兄・信広、つまり信長にとっては姪)。永禄5年、信長の意によって長秀の正室となり、後年、岐阜で長重を生んだ。 高光院 丹羽長重の娘。赤穂藩主・浅野長直の正室。赤穂浪士事件で有名な浅野内匠頭長矩は孫にあたる。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:33

<あ行>

簑輪諒 @genkyo_kyogen

赤田正綱 与五郎、弥三右衛門。近江丸茂城主・赤田隼人正の子。父は本能寺後、秀吉に仕え、長秀の娘を娶り、正綱をもうけた。赤田家が関ヶ原で西軍に与して改易されると、正綱は岡権太夫と名を変え、小浜の京極氏に仕えたが、同氏が龍野へ減転封になると、縁を頼って丹羽家に仕えた。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:33
簑輪諒 @genkyo_kyogen

※備考 赤田正綱の父・隼人正は、八町城主・赤田堅(隼人正)のことと思われます。ただ、『豊郷村史』にまとめられた赤田氏の伝承と、丹羽家に伝わるものは結構違うので、あるいは別人かもしれません。 #丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:33
簑輪諒 @genkyo_kyogen

安彦左馬助 丹羽家臣。浅井畷では成田三政と共に奮戦する。関ヶ原後、三政と同じく堀尾忠晴に仕えるが、間もなく二人とも前田家に転仕し、大坂の陣にも共に従軍した。左馬助の没後、その息子は父の戦友だった三政に浅井畷の戦いの覚書(『成田家記』)を依頼した。 #丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:34
簑輪諒 @genkyo_kyogen

石崎高俊 源之丞。近江坂田郡の豪族・石崎俊直の子。織田家の北近江平定後、丹羽長秀に仕える。丹羽家減封後の消息は不明だが、甥の俊綱(源五、若狭)は田中吉政の家臣となり、田中家が改易されると、一族は井伊家、紀州徳川家などに仕えた。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:34
簑輪諒 @genkyo_kyogen

岩本正明 名左衛門。本国は尾張。丹羽家の古参家臣。関ヶ原後、一時、丹羽家を離れるが、古渡時代に帰参。大坂の陣にも従軍し、天王寺の戦いで奮戦した。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:34
簑輪諒 @genkyo_kyogen

上田重光 弥右衛門。上田重安の兄。父・重氏が没すると家督を継ぐが、丹羽家減封後は羽柴秀次に仕える。秀次切腹後は入道して道栄と号し、京で隠棲した。子の重道(伊織)は父の死後、叔父の重安のもとに身を寄せていたが、慶長19年、丹羽長重に仕官した。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:35
簑輪諒 @genkyo_kyogen

上野時勝 左兵衛。小松時代から長重に仕え、改易後も付き従い、大坂の陣にも参陣した功臣であったが、棚倉時代に起こった領民間の裁判の過程で、当事者の一方から賄賂を受け取って不正を働いたため、所領を没収された。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:35
簑輪諒 @genkyo_kyogen

遠藤縁信 太左衛門。宇喜多家臣・遠藤通俊(三村家親の暗殺で有名な「遠藤兄弟」の弟)の孫。関ヶ原で宇喜多家が改易となると、遠藤一族は散り散りとなり、やがて縁信は二本松藩主・加藤明利に仕え、加藤氏が改易されると、新藩主である丹羽光重に仕えた。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:35

※訂正
×遠藤通俊
○遠藤俊通

簑輪諒 @genkyo_kyogen

大津正員 伝十郎、壱岐守。父は信長の側近・大津長昌、母は長秀の妹。父の死後に丹羽家、減封後は藤堂家に仕えて大坂の陣にも従軍。後年、なぜか藤堂家を追われ丹羽に帰参したが、問題を起こして誅された。大津伝十郎の名は丹羽(山田)正次の孫・正明が継ぎ、のち丹羽伝十郎と改めた。#丹羽家人名集補

2018-02-09 23:43:36
簑輪諒 @genkyo_kyogen

大橋高就 長蔵。蒲生家臣。日置流雪荷派(道雪派)の伴道雪から弓術を学ぶ。寛永九年、京都三十三間堂の通し矢で2835本の新記録を打ち立て、名を知らしめた。蒲生家が改易されると丹羽光重に仕えて重んじられたが、高就には子がなかったため、没後、家は途絶えた。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:36

※三盛洲浜(@6UkJhwckWp82146)氏よりご指摘頂きました。
正しくは寛永九年ではなく寛永八年(『年代矢数帳』では、大橋高就の射越(新記録達成)は寛永八年の並びに記されている)とのことです。参照↓
https://twitter.com/6UkJhwckWp82146/status/1755554801868472629

簑輪諒 @genkyo_kyogen

於東の局 丹羽長重の正室・報恩院の侍女。早川吉左衛門の妻。光重が隠し子として匿われていた時期、長重の命によって乳母を務め、作法や文武の教育にも力を注いだ。光重は後年、この恩に報いたのか、百石取りだった早川家を二百石に加増している。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:36

<か行>

簑輪諒 @genkyo_kyogen

河原林真松 友竹院、法印。半井友竹とも。父である泉州越水城主・河原林対馬守は、三好氏に敗れて没落。その子・真松は半井瑞策に師事して医術を修め、天正十年、丹羽長秀に六百石で招かれる。主の長秀だけでなく、後陽成天皇の治療にも携わった。子孫は徳川家や丹羽家に仕えた。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:37
簑輪諒 @genkyo_kyogen

駒塚茂右衛門 出自不明。大坂の陣では丹羽秀重の与力として奮戦し、秀重が討ち死にした際は、敵中から屍を取り返す活躍を見せた。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:37

<さ行>

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下河辺行武 庄右衛門。常陸行方郡の豪族・下河辺行基の子(孫とも)。同氏は鎌倉以来の名門だが、小田原征伐後、常陸統一を目論む佐竹氏に攻め滅ぼされ、一族は離散。やがて丹羽長重が常陸古渡に入国すると、行武が出仕し、家名を再興した。幕臣や他家にも末裔がいるという。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:37
簑輪諒 @genkyo_kyogen

白織信澄 主計。美濃出身。大谷氏と同族という(二階堂一族という意味なら、「白織」は「白尾」か?)。はじめ柴田勝家、のちに丹羽家に仕える。天正14年、若狭で没した。「武功の英士」だと『家臣伝』は伝えるが、活動の実態は詳らかではない。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:38
簑輪諒 @genkyo_kyogen

須賀忠政 太左衛門。足利尊氏の側近・須賀清秀の末裔と称する。丹羽氏勝、柴田勝政、岡田重孝、蒲生氏郷、秀行を経て丹羽長重に仕え、前田軍との戦いでは物見などを務めた。丹羽家改易後は加藤嘉明に二千石で仕え、加藤家改易後、子孫は水野家と丹羽家に仕えた。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:38
簑輪諒 @genkyo_kyogen

鈴木重吉 七郎兵衛、暁山。実父は松平忠輝家臣・西尾牛右衛門、養父は強弓を謳われた北条家臣・鈴木大学助の子、重庸。重吉は養父と共に元和8年に丹羽長重に仕え、棚倉城、白河城の作事奉行を務めるなど、築城・行政面で能力を発揮し、二本松では郡山代官、町奉行を歴任した。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:38
簑輪諒 @genkyo_kyogen

関重英(芳忠) 八右衛門。小松時代は無足人(知行地を持たない下級家臣)に過ぎなかったが、改易後も主君に付き従った忠義や、大坂の陣での力戦に感じ入った長重から、二百石を与えられた。「誠に忠貞の人なり」と『世臣伝』は評する。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:43:39

<た行>

簑輪諒 @genkyo_kyogen

高木政清 左吉。実父は河合某、養父は高木義清。信長の馬廻として活躍し、奉行の武田左吉と共に「両左吉」と称された。本能寺後は丹羽長秀に仕え、減封後は蒲生家で武者奉行を務める。子の堯定(源五郎、源左衛門)は池田家臣・河合堯清(中務丞)の養子となり、千二百石を食んだ。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:48:04
簑輪諒 @genkyo_kyogen

月岡朝広 玄蕃。常陸板橋城主。小田・北条傘下の国衆・岡見氏に属する。朝広は佐竹義重、多賀谷重経らの侵攻に抵抗し続けたが、天正年間に居城を落とされ所領を失った。小田原征伐後は結城秀康に仕えるが、次代・松平忠直が流罪に処されると、丹羽長重に仕えた。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:48:05
簑輪諒 @genkyo_kyogen

筑紫義門 弥右衛門。関ヶ原で改易された筑後山下城主・筑紫広門の孫(四男・辰門の子)。丹羽光重に二百石で仕える。あるとき、朋輩の矢島源太左衛門らと領内の高湯温泉で入浴中、突如、乱心した矢島に襲われ斬殺された(直後、矢島も自害)。事件後、筑紫家は弟の直門が継いだ。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:48:05
簑輪諒 @genkyo_kyogen

土屋有清 甚右衛門。父・有武はもともと織田家臣で、信長の養女・深光院(桂峯院)が長秀に嫁いだ際、随伴して丹羽家に仕えた。その子・有清は長重が幼少のころより側仕え、慶長3年に家督を継ぐ。改易後は一時、丹羽家を離れて加藤嘉明に仕えたが、元和6年に帰参した。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:48:05

<な行>

簑輪諒 @genkyo_kyogen

内藤正行 新五左衛門。徳川十六神将・内藤正成の孫。上州大胡城主牧野氏の重臣・贄掃部の養子となり、家督を継ぐ(第二次上田合戦の掃部の出奔後か)も、故あって牢人し、従兄弟の安藤重長の勧めで丹羽光重(重長の舅)に仕えた。子孫に内藤四郎兵衛正直がいる。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:48:06
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長江縫殿助 美濃出身。はじめ、丹羽家に仕え、のちに蜂須賀家へ転じたという。蜂須賀家臣・長江景貞(半之丞、刑部)か、もしくは景貞の父親のことだろうか。この長江氏は景貞の子の貞之の代より縫殿助を称し、蜂須賀家で組頭を務めて二千五百石を食んだ。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:48:06
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成田三政 助九郎、半右衛門。成田重政(道徳)の孫(早世した長男・三章の子)。浅井畷では江口隊で活躍し、関ヶ原後は堀尾忠晴、次いで前田利長に二千石で招かれ、利常の代に三千石に加増。大坂の陣にも従軍した。『可観小説』によれば晩年、朋輩と口論で揉めた末に自害したという。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:48:06

<は行>

簑輪諒 @genkyo_kyogen

早川吉左衛門 蒲生家臣・佃八郎兵衛の子。赤穂浪士の小野寺十内の従兄弟にあたるという。元和年間に丹羽長重に百石で仕える。妻の「於東の局」は、丹羽光重の乳母として有名。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:48:07
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不破杢兵衛 前田家臣・不破直光の家老の子だが、なぜか丹羽家に仕えた。年齢は三十歳ほどで、浅井畷の戦いに臨む際は討死の覚悟を決めていたといい(『成田家記』)、前田軍との激戦の末に戦死した。子孫は不明だが、大坂の陣のころの前田家侍帳に不破杢兵衛の名がある。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:48:07

<ま行>

簑輪諒 @genkyo_kyogen

宮田清右衛門 丹羽家臣。矢島源太左衛門が乱心して刃傷に及んだ際、筑紫義門と一緒に入浴していたため巻き込まれる。幸い、彼は筑紫と違って軽傷であり、命に別状はなかったが、入浴中とはいえ不覚を取ったことを咎められたのか、事件後、宮田家は取り潰された。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:48:07
簑輪諒 @genkyo_kyogen

本山安英 惣兵衛、内記。父・河内守安行は、祖父・豊前守安政ともども加藤清正の重臣として武名が高かったが、慶長9年、故あって蒲生氏に転仕し、同氏が改易されると隠棲。その武勇を聞き及んでいた丹羽光重が仕官を誘うと、安行自身は老齢のため固辞し、息子の安英が出仕した。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:48:08
簑輪諒 @genkyo_kyogen

森可明 治左衛門。父・森弥五八郎は美濃出身の織田家臣で、「六条合戦」に坂井直政らと共に参陣したことで知られるが、天正10年5月、なぜか主君・信長の命で切腹に処された。遺児である治左衛門は丹羽家に仕え、浅井畷にも参戦した。関ヶ原後の消息は不明。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:48:08

<わ行>

簑輪諒 @genkyo_kyogen

和田安清 弥一右衛門。父・清元は加藤明利(前・二本松藩主)の家臣で、主家改易後、新藩主・丹羽光重に仕える。安清は小姓として出仕すると、才智を見出した光重から側近として重用されるようになり、中小姓、右筆、用人などを経て執政に抜擢され、光重の治世に大きく貢献した。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:48:08
簑輪諒 @genkyo_kyogen

渡辺半左衛門 渡辺勘兵衛(了、水庵)の甥とされる。丹羽家臣として浅井畷に参陣し、関ヶ原後に一時離れるが、棚倉時代に帰参する。『世臣伝』は元藤堂家臣で丹羽家に仕えた渡辺氏の家系が、半左衛門の子孫ではないかと推察している。#丹羽家人名集補遺

2018-02-09 23:48:09
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まとめたひと
簑輪諒@『化かしもの』発売中 @genkyo_kyogen

ミノワリョウと読みます。歴史小説書きます/近著『化かしもの 戦国謀将奇譚』/既刊『うつろ屋軍師』『殿さま狸』『くせものの譜』『でれすけ』『最低の軍師』『千里の向こう』他/「歴史群像」でコラム連載中/ミノワのミノは「竹かんむりに衰弱の衰」/お問い合わせはウェブサイトのメールフォームからお願いします

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