第1話~18話
0
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

【連載①】(夢をつくる・山田洋次)  僕が松竹に入社したのは1954(昭和29)年。黒澤明監督の『羅生門』からまだ数年、その年には黒澤明『七人の侍』、木下恵介『二十四の瞳』がつくられ、日本映画は黄金時代を迎えていました。 asahi.com/articles/DA3S1…

2023-06-11 22:37:17
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

当時、鎌倉の松竹大船撮影所は「夢の工場」と言われていたのです。1千人以上が社員として働き、スターも専属。監督は小津安二郎、木下恵介、渋谷実の「御三家」を筆頭に十数人いて、その下に僕ら助監督が50人。大勢の腕利きの職人たちによって、年間50本以上の映画が続々とつくられていました。

2023-06-11 22:37:18
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

そのほとんどが、松竹が得意とした美男美女のメロドラマでした。入社の前年には『君の名は』が公開され、大ヒットした。  戦後の生活難の時代にあって、撮影所は「夢」をつくる工場だったわけです。でも、若かった僕は「なんだ、こんな甘ったるいベタベタした映画」と強く反発していた。

2023-06-11 22:37:18
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

ネオ・リアリスモと言われた当時のイタリア映画にたっぷり影響されて、映画は、社会の現実、人間の真実をえぐるように描くべきだと僕は信じていた。大学卒業の前年に見たのが、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の『自転車泥棒』。貧困のなか、盗まれた自転車を取り戻そうと歩き回る父と子の情愛が切なくて

2023-06-11 22:37:19
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

こんな映画をつくれたら、どんなにいいだろうと思ったものです。(構成・林るみ)〈了〉🧵

2023-06-11 22:37:19
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

【連載②】(夢をつくる・山田洋次)  映画には人を感動させる力があることを初めて知ったのは、小学校2年のときです。  僕が生まれたのは1931年。満州事変が始まった年。中国からいえば、日本が中国侵略を開始した年。asahi.com/articles/DA3S1…

2023-06-11 22:48:03
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

父が満鉄(南満州鉄道)に勤めていたので、2歳のときから敗戦まで満州(中国東北部)で育ちました。最初は奉天(現・瀋陽)、次にハルビン、新京(現・長春)、また奉天、東京に戻って大連。平均2年で転校、転々としていました。

2023-06-11 22:48:04
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

満州の日本人は「植民者」であり、「内地」と言われた日本と比べると、いい生活をしていた。ハルビンは亡命ロシア人がつくった街で、ロシア正教の教会があり、街を歩く人も半分ぐらいは白系ロシア人。食材はもっぱら肉。牛乳はロシア人少女が大きな瓶を配達した。日曜日にはロシア人の店で、

2023-06-11 22:48:05
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

エダムチーズを切り分けで、大きなパンはポンド単位で、買っていました。おふくろの得意料理もギョーザやピロシキ。僕の食卓の原風景は、「寅さん」に出てくるようなちゃぶ台でご飯にみそ汁というのとはまるで違っていました。

2023-06-11 22:48:06
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

満州の僕の家に、ふみさんという女中さんがいました。長崎・五島列島の出身で漁師の娘さん。あるとき、ふみさんと一緒に映画に行くことになった。彼女が長谷川一夫・李香蘭主演のメロドラマ『白蘭(びゃくらん)の歌』を見たいというので、おふくろが「洋次、一緒に行きなさい」と。

2023-06-11 22:48:06
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

併映が田坂具隆監督の『路傍の石』。リアリズムの名作で、チャンバラやエノケンの喜劇が好きな子どもに面白いわけがない。  貧しい農村の少年が身売りをされて、東京の商家で叱られながら働く悲しい物語を、満州育ちの僕は日本の風景が珍しいな、というくらいの気持ちでぼんやりと見ていて、

2023-06-11 22:48:07
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

ふと気がつくと隣のふみさんが泣いているんです。ぽろぽろと涙をこぼして。まだはたち前の色白のかわいい彼女のほっぺたが涙にぬれ、スクリーンの反射できらきらと光っていた。僕はびっくりした。「映画を見て泣くことがあるんだ」

2023-06-11 22:48:08
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

僕は映画を見て興奮したり笑ったりしてたけど、映画は人を泣くほど感動させることもあるんだと初めて知った。🖍️同時にこの映画は「ふみさんの映画なんだ」と気づいた。僕の映画ではない。ふみさんにとって『路傍の石』の貧しい少年は兄弟だった。🖍️彼女には僕とは違う世界があるのだとわかった。

2023-06-11 22:48:09
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

満州にはさらに別の世界があった。在満の日本人は中国語を覚えず、中国と関係ない暮らしをしていた。小学校の授業も日本語、生徒も中国人は大金持ちの子どもが一人か二人いるだけ。中国人は馬車夫や人力車夫など、日本人の嫌がる仕事につき、服装も一目でわかるほど貧しかった。

2023-06-11 22:48:09
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

当時の日本人の多くが中国人をまともな人間扱いしていなかった。僕らが何度も謝らなくてはならない歴史だと思います。  ふみさんはのちに結婚して内地に帰ったけれど、僕が中学1年のとき大連に会いに来てくれました。学校から帰ってきた僕を見て「ああ、洋次さん」と言って泣き出した。

2023-06-11 22:48:10
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

ふみさんとはそれきりで、戦後、消息を探したが、わからなかった。  映画監督になったとき、僕はふみさんのために映画をつくろうと思いました。ふみさんがほめてくれるような、ふみさんを感動させるような映画をつくるのだと。いまもずっとそう思っています。〈了〉🧵

2023-06-11 22:48:11
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

【連載③】(夢をつくる・山田洋次)  苦しい、つらい時にこそ「笑い」が必要だと僕が知ったのは敗戦後の中学3年、日本中が飢餓状態で食べることに必死だったころでした。  戦前は満鉄(南満州鉄道)の技師だった父は敗戦で失職、僕の一家は中国の大連から引き揚げ、asahi.com/articles/DA3S1…

2023-06-11 23:03:01
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

山口県・宇部の親戚の納屋みたいな部屋を借りて暮らし始めました。父は再就職口がなく、収入がない。母は借金して近所に小さな店を借り、雑貨を並べて売り始めましたが、収入は微々たるもの。栄養失調気味の僕は食べるためにいろいろアルバイトをしました。

2023-06-11 23:03:35
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

宇部は工業都市だったので空襲で工場一帯が破壊された。そのがれきを一日中ふらふらになるまで片付ける仕事もありました。  工場から出る石炭殻を、トロッコに積んで海岸の埋め立て現場まで運んで捨てるハードな仕事も大人に交じってしました。

2023-06-11 23:03:54
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

まだ熱い石炭殻を真っ黒になって運ぶ。在日朝鮮人の「金さん」が親方でした。優しい人でまだ子どもの僕を見ると「ヤマタ、こっちこい」と言って楽な仕事を回してくれた。「ヤマタ、これ、食え」と饅頭をくれた。僕たち日本人が朝鮮の人たちにしてきた差別を思うと、その優しさが心にしみました。

2023-06-11 23:04:31
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

仕事が終わると、飯場で金さんはどんぶりにドブロクを注いで「ヤマタ、ご苦労さん。これ、飲め」。断れなくて顔をしかめて強い酒を飲む僕を見て、金さんや仲間がどっと笑う。酒は嫌だったけど、笑われながら不思議な温かい気持ちになったものです。

2023-06-11 23:04:32
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

兄と一緒に闇物資を買いに行きました。詩人の金子みすゞの故郷で知られる山陰の仙崎まで3時間、汽車で行って干魚(ひざかな)をリュックサックいっぱいに詰めて帰る。  よく一緒になる「ハルさん」という闇屋の面白いおじさんがいて、しょっちゅう冗談を言ってみんなを笑わせていた。

2023-06-11 23:05:15
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

子どもで貧弱な僕が連結器に乗って痩せ細った腕で取っ手に必死にしがみついている姿を見て「なんじゃ山田の格好は。サルが木の上でうんこしてるようじゃのう」。  みんながわーっと笑った。笑われている僕も笑った。すると不思議なことに力が出てくるんです。精神的にだけでなく肉体的にも回復する。

2023-06-11 23:05:15
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

笑うって必要なことだと子ども心にも感じました。つらいときに笑わせてくれる人がいると、こんなにも救いになるのかと。列車に乗って、ハルさんの姿を見るとホッとした。彼のあとをくっついて歩き、彼が冗談を言うたびにケタケタ笑っていました。

2023-06-11 23:06:03
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

ルポルタージュ作家の上野英信さんが筑豊の炭鉱について書いた『地の底の笑い話』(1967年)によると、かつて炭鉱には「スカブラ」というあまり仕事をせずにウロウロして、働く人を笑わせる人種がいたという。スカッとしてブラブラしているから「スカブラ」。

2023-06-11 23:06:04
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

仕事をさぼっているのにみんなから愛されている。生きるか死ぬかの危険な現場には笑いが絶対に必要だった、と。スカブラがいると仕事がはかどったそうです。ふだんは働かないスカブラが、落盤事故が起こったら、こうしろ、ああしろと大声でみんなを指図して大活躍したらしい。

2023-06-11 23:06:04
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

ぶらぶらしているから全体が見えていた。現場が合理化されると、スカブラのような存在は許されなくなっていきます。  僕は渥美清という人を見ると、いつもスカブラを思っていました。自分はぶらぶらしながら、みんなに「労働者諸君! 今日も一日ご苦労さまでした」なんて言っている。

2023-06-11 23:06:49
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

日本の映画に、そんな寅さんの居場所がなくなったあたりから日本はどんどん息苦しくなってきたと思います。暗いニュースが世の中を覆う今こそ、寅さんのような困った奴(やつ)の存在が、笑いが、必要なのに。〈了〉🧵

2023-06-11 23:06:50
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

【連載④】(夢をつくる・山田洋次)  1945年、13歳で敗戦を満州(中国東北部)の大連で迎えました。満州、中国大陸から百五十万人ともいわれる日本人が命がけで引き揚げた。僕もその一人でしたが、引き揚げ船はすぐ来たわけではありません。asahi.com/articles/DA3S1…

2023-06-11 23:14:01
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

敗戦後、八路軍の将校がわが家にやって来ました。占領軍の命令によって家を接収するから、いついつまでにどこそこに用意した建物に移ってほしいと流暢な日本語で言う。  家を追われた僕たち一家は明治時代にロシア人が建てた古い病院の建物に収容された。

2023-06-11 23:14:02
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

一家一部屋が割り当てられ、ぎゅうぎゅう詰めで1年ほど暮らしました。  敗戦で預金も株券もゼロに。土地も家もすべて失った。満鉄(南満州鉄道)に勤めていた父は失職。衣服や家具、時計、父のカメラなどを売って食糧に換え、空腹をしのぎました。

2023-06-11 23:14:03
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

ストーブにくべる石炭を買う金がなく、家具を壊し、知り合いが残していった本を燃やしました。チェーホフ全集とか革表紙の本は壊すのが大変なうえ、上質な書籍ほど紙も燃えにくかった。  いま、ミャンマー、シリア、ウクライナなどの国外へ逃げる人たちの集団を見ると、

2023-06-11 23:14:03
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

長年住み慣れた家を離れる前の晩、家族が集まり、何を持っていくか、議論したのだろうと想像します。愛読書を持って行きたいと言った息子が父親に叱られたりしたのだろうか。妹の大切な人形をおばあちゃんがこっそりリュックに入れたりしたのだろうか、と。〈了〉🧵

2023-06-11 23:14:04
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

【連載⑤】(夢をつくる・山田洋次)  8月15日、中学2年だった僕は満州(中国東北部)の大連で炎天下、学徒勤労動員で戦車壕をツルハシやスコップで掘る作業に就いていた。ソ連軍の戦車が攻めて来たら落ちる仕掛け。実際の戦車は、その上を軽々と越えて行きましたが。asahi.com/articles/DA3S1…

2023-06-11 23:18:44
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

4月から内地と同じく満州でも学校の授業が中止され、つらい労働が続いていた。昼前、作業が突然中止になり、近くの小学校の校庭に集められ、正午、玉音放送が始まったけれど、ラジオの音が悪く言葉も難しく、何を言っているのか、わからない。

2023-06-11 23:18:44
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

たぶん、もっと頑張って戦え、と天皇はおっしゃってるんだろうと想像しながら直立不動で整列していた僕らは全員、上半身裸。中学校に戻って着替えていると、先生が「明日から当分登校しなくていい」と言って質問に答えてくれない。  敗戦が現実だと知ったのは、学校から帰る途中でした。

2023-06-11 23:18:45
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

高台にあった中学校への坂道の下に広がっている貧しい中国人街の平屋建ての家々の屋根という屋根に、何百本もの国民党の「青天白日旗」、つまり日の丸に対する敵の旗が一斉に掲げられていたのです。

2023-06-11 23:23:12
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

戦勝国と敗戦国、立場が逆転して初めて、それまで当たり前だった中国人への侮蔑的な行為を顧みるようになったのです。他民族を差別し、民族的な憎悪をあおることが戦争へつながっていく、そう思い至るにはさらに時間がかかりましたが。

2023-06-11 23:23:12
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

8月下旬、ソ連軍が大連にやって来た。恐る恐る僕も大通りまで見に行った。ソ連兵はみんなボロボロの軍服で顔は蚊に刺されたように赤く荒れていたけど、手にはピカピカの自動小銃を持っていた。驚いたのはその彼らが行進しながら二部合唱で朗々と「カチューシャの唄」を歌い出したことです。

2023-06-11 23:23:13
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

僕の家は八路軍(中国共産党軍)に接収され、その後、ソ連軍将校たちが住むようになった。毎晩のようにパーティー。ウォッカをガブガブ飲んでロシア民謡の大合唱。  ソ連軍専用の映画館に、友人と潜り込み、生まれて初めてカラー映画を見たのもこの頃です。

2023-06-11 23:23:13
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

『石の花』というミュージカルの名作で、あの野蛮な国がなぜこんな美しく幻想的な映画を作れるのかと不思議に思ったものです。  47年3月、命からがら引き揚げた僕らを博多港で待っていたのは米軍兵士たちでした。ソ連軍から逃げられたと思ったら今度は米軍。

2023-06-11 23:23:14
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

戦時中は鬼畜と呼んでいた米兵の軍服にアイロンがビシッとかけられていて、そのスマートさに驚いていると、頭の上からシラミ駆除のDDTの粉がポンプでシューシューと勢いよくかけられて真っ白けになってしまった。僕の日本での戦後の始まりです。〈了〉🧵

2023-06-11 23:23:14
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

【連載⑥】(夢をつくる・山田洋次)  1969年8月27日の封切り日、僕は映画館に行かず、団地のわが家で寝っ転がってテレビを見ていました。その日、プロデューサーから「何してる、すぐ劇場に来い」と電話がかかってきました。asahi.com/articles/DA3S1…

2023-06-11 23:32:48
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

急いで新宿の映画館に行きました。その日、観客の笑い声の中でわかったことは、映画のどこが面白いかは観客が決めることだ、僕は一生懸命まじめに寅さんをつくればいいのだ、ということでした。  不思議な魅力は渥美清という俳優が発した力です。渥美さん自身が自由だったからこそ出せたもの。

2023-06-11 23:32:49
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

寅さんは渥美清から誕生し彼とともに生きたのです。  僕が渥美さんと最初に出会ったのは、ハナ肇さん主演の「馬鹿まるだし」(64年)、「運が良けりゃ」(66年)に脇役として特別出演してもらった時。1日だけの撮影でしたが、片時もじっとしていない、そのすごいエネルギーと存在感は圧巻だった。

2023-06-11 23:32:50
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

撮影後、「山田さん、今度は『長いの』やりましょうね」と。渥美さん独特の表現で、「長いの」が「主演」を意味すると知ったのは後のことです。  しばらくして、渥美さんを主人公にしたドラマの脚本を書いてほしいとフジテレビから依頼がきた。渥美さんが僕を選んだのだと思います。〈了〉🧵

2023-06-11 23:32:50
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

【連載⑦】(夢をつくる・山田洋次)  渥美さんは体が弱くて小学校はたびたび長期欠席、そのせいもあって授業には興味がわかず、良い成績をとろうという欲なぞさらになく、年中ビリでクラスのお荷物だったそうですが、雨が降ると体操の授業は教室でお話の時間になる、asahi.com/articles/DA3S1…

2023-06-11 23:42:04
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

すると先生は「おい田所(渥美さんの本名)何か話しろ」と命ずる、渥美少年は待ってましたとばかり教壇に上る。クラスは笑いの渦になる。  コメディアンは必ず頭が良い。かの森繁久彌さんは天才といえるほど鋭い頭脳の持ち主でした。渥美さんの浅草時代からの憧れの人だったそうです。

2023-06-11 23:42:05
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

寅さんシリーズは28年かけて48作もつくったが、渥美さんはその間、ストーリーについてのアイデアやマドンナの人選について口出ししたことは一度もない。  大事な問題を直接相手に問いかけず、間接的に語って相手に考えさせる一見回りくどい会話を渥美さんはよくしたものです。

2023-06-11 23:42:05
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

「5作目を封切った頃、渥美さんが東京駅のホームで遅い時間に電車を待っていたら、酔っ払ったサラリーマンが通りかかり、ニコニコ笑いながら『いつも寅さん、見てるよ』と言った。『ありがとうございます』と答えると、その彼が去り際に『渥美清は元気かい』と言う。

2023-06-11 23:42:06