女子中学生は、広辞苑全部ページごとにそらんじたり、円周率をラストまで覚えてたりしねえんだよ」 ■そんなことがあったろうか。意識がない時に、あったのかもしれない。善逸は、知らぬ無意識領域の己にたまに、背筋が凍る思いがする。 ■「そんで、それを相手の堪忍袋すれすれに
2021-10-17 17:49:51手渡せるだけの言語センスと、これだけは譲れねえラインの線引きした道徳がある。これは基本が「持つもの」である竈門にはわからんラインだ。作家が、己の狂気を世に出すときに、門番として立てるだけの精神的な太さもある。これは作家に信頼されるに足るお前の資質だ。何より、経験がモノ言う世界だ。
2021-10-17 17:49:51お前は作家にもなれるだろうが、表舞台に立たずに生涯をかけられる職業ってなら、こっちも選択肢としては悪くないって話だよ。お前、のめりこんだ分野だと専門家顔負けってくらいド派手に詳しいしな」
2021-10-17 17:49:52■――おおむね、ひと月に一度のペース。午前四時、明け方近く。 ■たんじろうは、己の部屋から迷い出るように、善逸の部屋に忍び込む。 ■ひそやかな呼吸音だけで、憔悴して真っ青になった顔色の様子がわかるようだ。頽れるようにして目を閉じた善逸の頬を狂おしく撫で、布団から手を引きずり出して、
2021-10-17 18:25:30神様に祈るようにひざまずいて瞑目する。 ■「――かみさま、ありがとうございます」 ■善逸の耳だからこそ拾えるかすかな声は、何時だって戦慄き震えている。 ■――そうして、善逸の眠るベッドにもぐりこんで、抱き枕のようにそっと善逸を抱きしめて、ようやっと安堵したように眠るのだ。
2021-10-17 18:25:30■善逸は、そういう時決まって、幼いころを思い出す。 ■午前四時、明け方近く。 ■――ガンガンガン、と玄関の引き戸のガラスが割れるんじゃないかというけたたましい殴打音で、家人が目覚めたあの夜を。 ■すわ強盗か、それとも危急の要件か。そう、慌てて玄関先に集まった家人が開いた玄関の先には、
2021-10-17 18:25:31お隣に住む幼く快活な長男坊が真っ青になって立っていた。 ■「――ぜんいつ、」 ■そう、幽霊にでも出会ったような顔で引き取られたばかりの少女を見ると、がばりと抱き着いて聞いたこともないほど大きな声でわあわあと泣いた。 ■「よかった、よかった、かみさま、かみさま、ありがとうございます、
2021-10-17 18:25:31ありがとうございます――」 ■それは、ただ怖い夢を見たなどという理由だけではないと察せられるほどに必死で、異様で。先日の善逸を見たときと同じような顔で、桑島とかいがくがその長男坊を見ていたのを、その目を、善逸は今もとっくり思い出すことができる。
2021-10-17 18:25:32■それが大体ひと月のペースで繰り返されるようになったものだから、お隣の家のパン屋の長男には早々に合鍵が渡された。気配を隠す余裕もなくだかだかと縁側を離れに向かって走る足音で家人の目は醒めるが、起き上がって玄関まで迎えに出なくていいだけ楽である。
2021-10-17 18:25:32■それから、それが、律儀に、ここまで。 ■なぜこんなことをするのか、どんな怖い夢を見たのか、幾度か尋ねたことはある。長男坊の説明は擬音だらけでわかりにくいことこの上なかったが、「長い金色の髪した誰かが、赤に染まって倒れていた」ということだけは幾度か聞いてなるほどわかった。
2021-10-17 18:25:32■ずっと、変わらずその夢を見ては善逸の部屋まで走ってきて、善逸の顔を見、ようやくへなへなと腰を抜かすのが常で。その金色の誰かがすなわち「善逸」であるのかはわからないが、その「誰か」はずいぶんと、夢の中のたんじろうに好かれていたらしいことはよくわかった。
2021-10-17 18:25:33■思春期に入る辺りで、その夢についてはあまり言わなくなり、結婚を機に貝のように黙すようになったが、まあ、何となくわかる。 ■雀が、案内(あない)してくれたんだ。 ■「あまりにきれいで、残酷なほどにきれいで、俺は、ずいぶん髪が伸びたんだなとか、それが畳の上に散らばっているのが
2021-10-17 18:25:33朝日に照らされた海みたいにきれいだなとか、せめて声が聴きたかった、言葉を交わしたかった、きっときれいな声だったろうとそればかり考えて。赤いナニカが畳を染めているのに、それがもう、すべて無理なんだとわかって、ああ、あのときほど、俺は絶望という言葉の意味を知ったことはない――」
2021-10-17 18:25:34■だから、善逸も何かを訊くのはやめた。 ■「誰か」と重ねられてでも、こんなにも求められる俺は、ずいぶんと幸せ者なのだろうなあと思っていた。 ■そうやって、結局、ここまで来た。 ■普段は熱いほどなのに、芯から冷え切ったような温度のたんじろうに抱きしめられて、たぶん、安堵して、ふと、
2021-10-17 18:25:34考えることがあった。 ■――俺は、俺がまだこの世に存在できるだけ、鬼を斬ることができていたのだろうか。 ■利子をつけたって、もう、足りないのではないか。 ■誰かが、負債を代わりに負ってくれているだけではないのか。 ■恐ろしくて、いとおしくて、訊くことはまだちょっとできないけれど。
2021-10-17 18:25:35■ふあ、と目が覚めて身支度をして、ノートパソコンのインカメラに向かって「おはようございます、始業します」とあいさつをするのが日課である。 ■それは会社のクラウドに保存されて、のちに上司が確認する。善逸の朝はたんじろうに引きずられて相当に早いのだ。お互いの手間を減らしましょう、
2021-10-17 18:53:12ついでにわかる範囲で始業と終業の時間を報告して実績を記録しましょうね、と、まあそういうことだ。一応他社で言うフレックスタイムを定めて、その時間に会議などを入れてもらったりする。意識がなくなっていれば腕時計型の端末が震えて起こしてくれることになっている。あと何故か近所の雀が鳴く。
2021-10-17 18:53:13■たんじろうは、眠気でふにゃふにゃになっている善逸をそこまで世話して、あわただしく己の職場に出勤するので、手間をかけるなあと毎朝ぼんやりと思う。 ■善逸の部屋は防音に防音を重ねたような厳重な装備で、ここでならいくらかしゃっきり善逸の頭も働いてくれる。
2021-10-17 18:53:13■そうなれば、あとは没頭するだけだ。善逸は座卓と座椅子が好きなので、そのわきにあらゆる辞書と専門書を積み上げている。ここだけは善逸の城だ。たんじろうも、埃が目立った時に軽く払う程度で手を掛けない。 ■一つ一つの言葉に、あらゆる辞書で当たって、時にはインターネットも使う。
2021-10-17 18:53:14辞書に書かれていないが流行語ではある、みたいなことがあるためだ。そのうち現代語辞典に載るだろう、みたいなものは、ネットで検索して自分の頭で裁量し、まあ、でも結局は赤ペンで印はつけておくのだけれど。 ■若い善逸の仕事は実のところ校正が主となるので、仕事には印刷された紙が使われる。
2021-10-17 18:53:14校閲の経験を積ませてもらうために内容も詳しく見るが、同時並行でベテランが同じものを見てくれている。安心感がすごい。ありがたいことだ。 ■へらへらと生きてきた自覚のある善逸が、これだけはと磨いている技術職の極みである。就職までにいわゆる
2021-10-17 18:53:14「文学少女」と呼ばれるほどに文字を追った経験はなかった、と豪語する善逸であるが、割とかわいがってはもらっていると思う。これも、ありがたい。 ■ハンデがあっても、と思っていただけることは、ありがたいのだ。
2021-10-17 18:53:15■特にさんざんに手ひどく抱かれた後――たんじろうがいない夜、目覚めた善逸はそうっと、ベッドの中で指輪を左手の薬指から右手の薬指に付け替える。 ■特別、その位置にそんな意味はない――知っている。だけど、縛らないよ、でも俺がお前を特別と誓うことだけは許してくれよ、そんな曖昧でずるい心が、
2021-10-17 19:18:17善逸にそういった線引きと振舞いをさせるのだろう。 ■何をしててもいい。自室に居たって、リビングに居たって、職場である実家に居たって、誰かの家に居たって、なんでもいい。自己嫌悪していたって、忘れていたって。奴が、誰かを真剣に愛することができていたなら、それでもいい。それがいいのだ。
2021-10-17 19:18:18■ウトウトとまどろんで、いつもの始業時間に己は起きていないだろうな、とあきらめをつける。そうして、意識がもう一度飛ぶ。 ■――夢を、見るのだ。 ■誰か、あたたかいナニカに抱きしめられている夢。 ■右手を取られて、薬指から何かが取られて、いやだ取らないでと夢で己が泣いている。
2021-10-17 19:18:18■取らないで。取らないで。これだけでいい。あの時の真心がいい。宝物なんだ。取らないで。 ■あたたかいナニカはふっと笑って、「取らないよ、」と柔い声で言った。 ■取らないけど、場所が違う。ちゃんと俺はお前のものだと、言えるための場所がいい。
2021-10-17 19:18:18■――柔い、柔い声で、そう宥めすかされて通される指輪が、なんとも。 ■ああ、幸せな夢だ。 ■「善逸、時間だ。起きて」 ■「うん…」 ■「朝ご飯持ってくるから。今日はおにぎりにしたんだ、食べよう」 ■「うん」 ■夢の続きは、やっぱり柔い。
2021-10-17 19:18:19■善逸は絶望感にも似た失望を味わっていた。何のために、一番苦手な真昼間の喧騒にその身を浸してやってきたと思っている。 ■目の前にいる作家は、最近ちょっと業界で名を見るようになった奴だ。と言っても、それ以上名を上げるかというとちょっと微妙なラインの文を書く。
2021-10-17 19:42:06■ただ、速筆なタイプで、雑誌の連載なども休載せずにしていたはずだ。その分誤字脱字などもひどくて、善逸たちの仕事も増えたが、もともと己らはそれをしてありがたく飯を食っているので不満が言いたいわけではない。その点、宇随とは正反対なタイプである。宇随はほとんど単行本書下ろしだ。
2021-10-17 19:42:07■定期的に仕事が入り、そして善逸の赤をそれなりに評価してくれていると聞いている。会社が仕事を受けていると言えど、心情的には定期収入に直結している、という感覚があって、そういう意味でもありがたい作家であることは確かだった。
2021-10-17 19:42:07■善逸から見ても若い作家は、にやにやと笑って「俺、たまには官能小説的なものも書いてみたいんですよね」と宣った。 ■善逸は横目で、作家の隣に座っている編集の青年を見た。心の中でさんざんに罵倒してやる。海千山千な編集部の中では誠実な方だと思って信頼していたのに、
2021-10-17 19:42:07こういうだまし討ちをするようになったのか、お前。 ■「でね、取材とか、どうです?させてもらえません?」 ■「取材?」 ■「それ、指輪、彼氏持ちってことですか?」 ■「いえ、私は既婚で」 ■「なおさらいい!人妻モノ書いてみたかったんですよ俺。ねえ奥さん、若い男との火遊びとか興味ない?」
2021-10-17 19:42:08■「ねえよ」 ■「ないですね」 ■善逸はびくっと跳ねて後ろを見た。コックコート姿のたんじろうが、善逸のもたれかかっていたファミレスの背もたれに手を掛けてニコニコと笑っている。 ■圧、圧がすごい。 ■作家の若者は氷をのんだような顔で真っ青になって固まっている。そりゃあそうだ。
2021-10-17 19:42:08対峙しているだけでも男としての格が違う。 ■たんじろうが携帯端末を持った編集の青年と感謝の目配せをしていたのを見た。なるほど最低限の誠意は示してもらったらしい。先に断れと思いつつ、付き合いは継続してやるし恨み言をぶつけるのは今度にしてやる。
2021-10-17 19:42:09■「――で、それ以外のお話はあるんですか?」 ■編集の青年がか細く「ないです」と言ったので、遠慮なくたんじろうは善逸の手を引いた。よかった、帰ることはできそうだ。 ■「だ、旦那さんイケメンっすね…」語彙力の欠片もないような消え入るセリフが、たんじろうの真っ白な背中にぶつかって消えた。
2021-10-17 19:42:09■――ああ、俺の定期収入。 ■「ぜんいつ?」 ■「アッはい」 ■しかしそれよりあからさまになった般若がすごい。 ■「ねずこに店番を任せてしまったままなんだ、帰ろう。メロンパンでも食べないか」 ■「食べます…」 ■俺はまた竈門家に「無防備すぎる」と叱られるのか。
2021-10-17 19:42:10■そして夜には遠慮なく抱き潰されるコースだ。味方ばかりだがやさしさが痛い。俺のせいではないことを差し引いたとしても、嬉しくしょっぱい日だなと思った。
2021-10-17 19:42:10■――沈毒。転じて「毒」そのものを指すと言われるほどに有名な猛毒だ。一般には亜ヒ酸のことであると言われる。どうやって手に入れたかと思うが、一応は無味無臭であるだけ情がある。だが、沈毒は即効性があると聞くので、少しばかり手を抜かれたか、違う毒である可能性もあった。
2021-10-17 19:58:40■「んにゃあああぁぁん!あう、あ、ァ、はん、」 ■「かわいい、かわいい、ぜんいつ、かわいい」 ■「ふぁう…っ、ぁンッ、あ、あ――…」 ■まだいけるな?と問いかけるたんじろうは、しかし答えを聞く気はなさそうに腰を容赦なく押し付けた。 ■たんじろうとの夜は激しくなるのが常だ。
2021-10-17 20:03:20下手にやさしくすると善逸が意識を失うことがあるからだとはわかっている。 ■でも、でもさ、こんな仕置きみたいな抱かれ方は相当ばてるぞ、それでも意識飛ばすぞ、俺は。 ■毎回、そう思ったり、毎回こんなんで悪いなあと思ったりする。
2021-10-17 20:03:20■死も、眠りも、善逸には似たようなもので。 ■とぷんと泥沼に沈み込むような感覚だ。引きずり降ろされるような浮遊感と、底なし沼の、どろりとろりとした果てのなさ。
2021-10-17 20:28:03■そいつと、お互いに目が合ったとき、ざあっという葉擦れの音とともに世界が止まる。文字通り、周りの時間が止まってしまう。文字通り、「文字通り」、だ。 ■そいつと俺以外の時間がピタッと止まった空間の中で、そいつと俺はたいそうメタ的な密談をする。例えば、
2021-10-17 23:45:21■俺が読み込み細部まで暗記した攻略本の内容からタレこむメタ的知識だとか。今現在「主人公」を取り巻くキャラクター達からの好感度だとか。ステータスだとか。ていうか模造紙四枚分みたいな広大なスペースからはみ出さんばかりのお前の人間関係の広がりと濃密さは何なんだ。
2021-10-17 23:45:22しかもほとんど好感度五十パーセント越えで来世での縁が確約済みだと来た。ハァーさすが神様から来世のための準備世界を用意されたウルトラスーパー菩薩主人公は格が違う。キャラの顔写真に添えられた好感度の数値を取り巻く丸の色、親愛の青と情愛の赤がそこら中に点々と舞ってやがる。
2021-10-17 23:45:22いいよいいよ遠慮なくあらゆる人間を落としまくってくれ。何ならそこの猫でもいい。 ■ろくに記憶もないはずのそいつは、それでも俺と目が合うたびにニコ、と笑った。
2021-10-17 23:45:23