戦後における戦争に敗れたことが日本の「敗戦」の本当の意味である。戦闘に勝った他の国々は戦後もずっと自分の戦争を戦いつづけていたのに、日本はそれを忘れ、戦争といえば自分の戦争のことを思い出すこともなく、戦争一般の概念に所を譲った。
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遠田大亮 @DaisukeEnta

日本には大和言葉がある。つまり話し言葉がある。口でしゃべって耳で聞いて意味がわかる言葉がありますが、中国には言葉はありません。ごく最近まで、二十世紀の初めまでありません。 国民の歴史西尾幹二 pic.twitter.com/fgmMp3IGVV

2023-07-08 11:03:44
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遠田大亮 @DaisukeEnta

中国語という観念はなかった。あったのは漢字漢文にすぎない。漢字は、あれは表意文字であって、表音文字じゃない。言葉は音です。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-08 11:04:25
遠田大亮 @DaisukeEnta

ところが表意文字であるということは、これは言葉を書いてるんじゃない。つまり表意文字であるということは意味だけしか表現していない。しかも変化がまったくない。格変化もないし時称もないし、性も数もないし、要するに文法がまったくない。漢字と漢字の間の関係を示す方法がまったくない。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-09 10:37:34
遠田大亮 @DaisukeEnta

そうすると文法のない文章をどうやって解読するか、という難問題がある。それでこれは簡単にいうと、古典の字の並べ方をそのまま踏襲するしかない。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-09 11:38:18
遠田大亮 @DaisukeEnta

ですから独創的な意見や独自の感じ方を、漢文で表現しようとするとまったく不可能。ありきたりのことしか言えないというのが漢文の宿命なんです。しかもこのことは、論理の表現の方法がない、それから感情の表現の方法がないという恐るべきことです。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-09 11:42:37
遠田大亮 @DaisukeEnta

ですから漢字漢文というのは非常に情報量が少ないんです。しかも古典の文章をそのまま踏襲して、述べてつくらずというのが中国の文章の書き方の基本である。そのために、あれだけたくさんの文献があるけれども、いくら読んでも新しい用法にぶつかるということはほとんどない。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-09 11:43:30
遠田大亮 @DaisukeEnta

同じ用法の繰り返しだけなんです。だから中国史というのはじつは非常に不利な立場にある。必要な情報がほとんど手に入らないんです。非常に貧弱なんです。そういうことがある。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-09 11:44:15
遠田大亮 @DaisukeEnta

しかしそれは逆にだからこそ漢字漢文は中国で非常に便利なんです。なぜかというと、中国全体に通じる共通の中国語というのが存在しなかったからです。いつの時代にもなかった。地方ごとにまったく違う話し言葉があった。それを書き表す方法がない。そのために漢字が非常に便利だった。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-10 06:46:22
遠田大亮 @DaisukeEnta

それで大雑把なコミュニケーションだけれども、ともあれ漢字で書けばなんとか意味が通じさせられる。ただしありきたりの情報を繰り返せばという条件付きだけど。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-10 06:46:46
遠田大亮 @DaisukeEnta

【文字は言語に及ばない、言語は行為に及ばない】 現代人は文化といえば本の世界なのだ。本はそれを書いた人の心の運動の脱け殻であり、仮面であるとは夢思わない。 国民の歴史西尾幹二 pic.twitter.com/5pcuLLoyiK

2023-07-11 06:51:26
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遠田大亮 @DaisukeEnta

文字は紙の上にこびりついたインクであり、物質にすぎない。文字が伝達するのではない。書き手とみ手との間で背後にある共通の体験が、文字という象徴媒体を介して共有された瞬間、なんらかの伝達が運せられるのである。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-11 06:51:45
遠田大亮 @DaisukeEnta

それゆえ完全な理解はあり得ない。たとえば、聖書を百遍読んでも、伝わらない者には何も伝わらない。 一般に不信心の現代人は、文字の奥にあり文字が伝えていないイエスの行為をどうしておのれの行為として受け止め、共有することができるであろう。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-11 06:53:57
遠田大亮 @DaisukeEnta

冒頭にも言ったとおり、文字は言語に及ばないが、その言語は行為に及ばないのだ。イエスも仏陀もソクラテスも行為者にほかならない。一冊の本を書いたわけでもない。遺された言語文字は弟子たちの聞き伝えにすぎない。伝説にすぎない。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-11 06:54:56
遠田大亮 @DaisukeEnta

文字はいずれにせよ古人の行為を正確に写してはいない。それは記号であり、どこまでも符牒にとどまる。 記録利用に先立つ見えない体験があるはずなのだ。後に神話とか伝承とか呼ばれ、まとめられたものがそれであるが、そこをやり過ごしてしまっては一民族の歴史は見えてこない。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-11 06:57:41
遠田大亮 @DaisukeEnta

しかしここにも一つの矛盾がある。宣長は儒仏到来以前の日本人の心に立ち返ろうとし、漢意を論難したのはよく知られる。が、神話や伝承は彼が論難した漢意を伴った大陸の文字が日本に入ってきた事実に支えられて、宣長にまで伝えられた。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-11 06:59:23
遠田大亮 @DaisukeEnta

彼は私が今まで述べたと同じような意味で文字と言語とを区別し、言語こそが彼の主要関心であり、語られていた言語世界に純粋にさかのぼることを希求したが、それはそうであるとしても、文字がなければ、語られていた言語世界に彼が近づくよすがもなかったのである。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-11 07:00:45
遠田大亮 @DaisukeEnta

そのかぎりで宣長の方法は彼が論難した当の相手世界が提供し、彼の手許にまで伝えてくれたものにどこまでも依存しているという矛盾を最初にかかえている。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-11 07:01:35
遠田大亮 @DaisukeEnta

【魏志倭人伝】 『魏志倭人伝』 の叙述が事実に即したものでないとの前提に立てば、神話との関係は逆になるであろう。 片々たる伝聞情報はしょせん「史料」とさえいえないのだ。 国民の歴史西尾幹二 pic.twitter.com/g6gBl7JOJE

2023-07-12 07:02:44
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遠田大亮 @DaisukeEnta

魏の使者に出会った日本の官吏は、現在のこの国の君主の権威を説明するために、「日の神の神話」を物語ったのかもしれないのである。もちろん今に伝えられている神話と同じ形ではなかったろうし、それを現代人が考えるような「神話」として意識して話したわけではないだろう。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-12 07:03:54
遠田大亮 @DaisukeEnta

日の神の物語は、当時の人にはきわめて確実で、しかも身近な話であったに違いない。したがって魏の使者はそれをこの国の歴史的事実として受け取ったのであろう。 このように思い切った解釈をくだしているのは私ではなく、じつは和辻哲郎である。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-12 07:04:15
遠田大亮 @DaisukeEnta

私にはたいへんに面白いし、神話と歴史の接点を示すきわめて暗示に富んだ解釈であるように思える。 和辻によると、当時実際にヤマトの国に君臨していたのはヒミコ (日御子)であった。そして君主はつねに「日の神の神話」を権威として背負っている。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-12 07:05:44
遠田大亮 @DaisukeEnta

魏の使者に「神話」を語って聞かせた日本の官僚は、神話と現実とを必ずしも明確に区別はしなかったし、混同はむしろ当時としては当たり前のことであった。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-12 07:06:35
遠田大亮 @DaisukeEnta

こうして天照大神にまつわる物語の粗筋が現実の出来事と奇妙に混じり合って、使者に伝えられた。高天原における日の女神とその弟神の物語が異国の人にはたいへんに面白い話として印象に残ったであろう。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-12 07:06:48
遠田大亮 @DaisukeEnta

前ページの図を見ていただきたい。西暦1260年代のモンゴル帝国の版図である。 ご覧のとおり中国だけでなく、イラン、イラクなどのアーリアン系の定住民の諸民族もその支配下に入り史上初めてユーラシアの東部と西部との間に自由な交通路が開かれるようになった。 国民の歴史西尾幹二 pic.twitter.com/E9ZNK8Z0ei

2023-07-13 09:18:52
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遠田大亮 @DaisukeEnta

東西貿易の中継役を果たす一方で、その大きな障壁ともなってきた西アジアのイスラム世界もまたモンゴル帝国の一部となった。 一人の少女が頭上に黄金の盆を載せて、この大帝国の端から端まで旅しても安全であるとまでペルシャの史家がたたえたほどに、よく治安が保たれた時期もあったのである。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-13 09:19:44
遠田大亮 @DaisukeEnta

ローマ教皇インノケンチウス四世の使者カルピニは1246年、外モンゴルにおける大ハーンの宮廷に到着し、少し遅れてルブルックはローマ教皇とフランス王ルイ九世の親書を持って、1254年4月から8月までカラコルムの都に滞在した。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-13 09:21:17
遠田大亮 @DaisukeEnta

フビライ・ハーンの時代にマルコ・ポーロ一家がその宮廷を訪れたとの伝説が残っている。帰国後、 ジェノヴァで口述した記録が後に「東方見聞録』と呼ばれたものである。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-13 09:22:52
遠田大亮 @DaisukeEnta

そのほかにも宗教家として東方に旅し、多少の記録を残したイタリア人がいる。1316年から3年間大都に滞在したオデリコ などが知られているが、商人としての目で現実的な観察を行い、委曲をつくして東方を伝えたのはマルコ・ポーロをもって嚆矢とする。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-13 09:23:58
遠田大亮 @DaisukeEnta

さらに注目してよいのは、モンゴル帝国の版図内での東西の人的、文化的交流の活況である。フビラ イは色目人と称された異人種を各方面の要職に採用したが、そのなかには中央アジアや西アジアから来た者も少なくなかった。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-14 08:03:51
遠田大亮 @DaisukeEnta

イスラム諸科学、ことに医学や天文学は中国にも取り入れられ、一方、中国の絵画 や医学その他がイスラム世界に入り、これが西洋にも伝わった。 以上から次の三点が要約できる。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-14 08:04:13
遠田大亮 @DaisukeEnta

(一)いわゆる「モンゴルの平和」はたとえ短い期間であったとはいえ、東西交渉のネットワークを可能にした。帝国の軍事力が治安の良さを維持したからである。同時に被征服地域は社会的、人種的、言語的変質をとげた。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-14 08:05:11
遠田大亮 @DaisukeEnta

(二) 紀元前からスキタイや匈奴に代表される北方騎馬民族の南下拡大するエネルギーの頂点のひとつがチンギス・ハーン治下のモンゴル帝国であった。帝国は、ロシア、 ウクライナなど西方を征服し、ポーランドや東ドイツをまで侵した。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-14 08:06:02
遠田大亮 @DaisukeEnta

モンゴル帝国が衰退した後に、同じ流れをくむチムール帝国、ムガール帝国、オスマン・トルコ帝国といったイスラム勢力があいついで台頭し、地中海や中東などを押さえ、西ヨーロッパの東方への出口を塞いだ。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-14 08:06:41
遠田大亮 @DaisukeEnta

(三) ユーラシアの東端と西端、日本と西ヨーロッパはモンゴル人の支配や統治を免れた数少ない例外であった。ここには東西交渉の情報のみが流れ、強権による社会的、人種的、言語的な変質を回避することができた。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-14 08:07:52
遠田大亮 @DaisukeEnta

14-15世紀にモンゴルが衰退したのち、東と西が動き出した。 東南アジアの豊かな物をめざして、江南、シャム、琉球、台湾、日本そしてポルトガル、スペインが活躍する「海洋の時代」が始まることになる。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-14 08:08:44
遠田大亮 @DaisukeEnta

「世界史」を初めて体現したのは中国人ではなくモンゴル人だということは以上でおわかりいただけたと思うが、明治以来、日本人は「世界史」を体現したのはヨーロッパ人だとずっと思いこみつづけ、今なおそう思っている人が少なくない。 国民の歴史西尾幹二 pic.twitter.com/Jrhy1XqMDp

2023-07-15 08:02:01
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遠田大亮 @DaisukeEnta

学校で習う 「世界史』はヨーロッパ中心史観を下敷きにしているからである。 この誤解をどうやったら解消することができるのだろうか。ヨーロッパが「世界史」を体現したのは大英帝国の出現によってであるから、1750年より以後であり、それより早くは決してない。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-15 08:03:04
遠田大亮 @DaisukeEnta

しかしヨーロッパ人には中国人に負けず劣らずの、自分を中心とした主我的な歴史像があり、ヨーロッパ“中華思想”があり、明治以来の日本人はその特有の世界観の袋の中に入って自己発展してきただけに、ヨーロッパを距離をもって眺めることができない。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-16 08:53:20
遠田大亮 @DaisukeEnta

日本人が今いちばん誤解している歴史観は、次のごときものである。ヨーロッパ文明の祖先に古代ギリ シャ文明があり、キリスト教文明と重層をなし、三千年に及ぶ自発的で独創的な一大普遍文化を形成してきた、というものである。これがしかし誤謬なのである。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-16 13:31:37
遠田大亮 @DaisukeEnta

キリスト教文明が根幹にあることは否定しないが、そのキリスト教も、彼らの使用文字も、西アジアからの伝来にすぎない。古代ギリシアに関していえば、現在のヨーロッパ各国人は直系の子孫でもなんでもない。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-16 13:32:08
遠田大亮 @DaisukeEnta

途中で民族大移動があったし、千年にわたる中世の暗闇があり、地中海はほぼ全域にわたってこれ ほどの長い期間、イスラム世界の支配下に入った。ギリシアやローマの古代の歴史伝統は一度は断ち切られているのである。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-16 13:32:26
遠田大亮 @DaisukeEnta

ここでもモンゴル人のユーラシア制圧が関係してくる。 北方から波状的に南下してくるトルコ=モンゴル系の遊牧民に対し、文化的に一貫して優位を保ってい たのは、ヨーロッパ人でもなければ、中国人でもなく、イランにおけるアーリア系のベルシャ人であった。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-17 12:43:02
遠田大亮 @DaisukeEnta

そして七世紀以降はベルシャをも併存したセム系のアラブ人の築いたイスラム文化が、つねに西方の強力な対抗勢力でありつづけた。遊牧民は、ペルシャとイスラムの古い二つの文化に吸収されるほかなかった。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-17 12:45:22
遠田大亮 @DaisukeEnta

チンギス・ハーンの登場以来、遊牧民の勢力は、なるほど軍事的にはイスラム世界を席巻し、1258年にモンゴル軍はバグダ ッドをも占領している。モンゴル帝国が政治的にイスラム各国を統治下においたことは先にみたとおりだ が、イスラム文化そのものは決して毀れなかった。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-17 12:47:03
遠田大亮 @DaisukeEnta

むしろ侵入してきた遊牧民たちがイスラム化して、その制度や習慣を取り入れるようになったのである。 チムール帝国やオスマン・トルコ帝国は、トルコ系遊牧民がイスラム化した歴史の、なによりも明白な痕跡であるといえる。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-17 12:47:45
遠田大亮 @DaisukeEnta

秀吉の朝鮮出兵が、期せずしてヌルハチを助ける結果になったというのは、案外知られていない事実である。 国民の歴史西尾幹二 pic.twitter.com/gx0H6ijeF0

2023-07-18 14:16:39
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遠田大亮 @DaisukeEnta

ヌルハチは1619年にサルフの戦いで明軍を破り、8年後に彼の軍隊が朝鮮に侵入する。ヌルハチ(正しくはその子ホンタイジ、引用者註)が国号を清と定めて、朝鮮をその属国とするのはさらにその9年後の崇徳一年(1636年)のことである。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-18 14:16:56
遠田大亮 @DaisukeEnta

これがなぜ重要かというと、20世紀になって1911年の辛亥革命によって、清朝が滅亡する明らかな原因の一つは、日清戦争での敗北にあったし、また清に代わった孫文と蒋介石の中華民国が、1949年に大陸から追いやられるのは、やはり日本との戦争での疲弊が大きな理由だったことを想起せざるを得ないからである。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-18 14:43:39
遠田大亮 @DaisukeEnta

つまり何らかの意味での日本の介入が、 三つの中国の政権を連続して崩壊させていることになり、未来のことは分からないとしても、こういう現象は少なくとも秀吉以前にはなかったことである。 国民の歴史西尾幹二

2023-07-18 14:46:05
遠田大亮 @DaisukeEnta

(中略) いずれにせよこうした問題は、歴史上日本は中国の影響を長く受けてきたが、その逆はなかったと思っている人がいるので、指摘しておく価値があると思う。 【入江隆則「秀吉はなぜ朝鮮に出兵したか」「地球日本史』】 国民の歴史西尾幹二 pic.twitter.com/KLKZWwYSoN

2023-07-18 14:47:36
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まとめたひと
遠田大亮 @DaisukeEnta

農業、農政、農協等“農”に関してのツィートが多いです。 (個人的には)GHQの占領政策や押し付けられた憲法を金科玉条としたままでは、日本農業はもっと衰退すると考えています。 山形県農協中央会勤務。農協監査士。明治大学法学部卒。山形県酒田市出身。 過去のツィートは、以下↓のまとめサイト(min.t)からどうぞ。