"Dialogical Meetings in Social Networks" Jaakko Seikkula / Tom Erik Arnkil 2006
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花びんに水をدعونا نملأ المزهرية بالماء☘️ @chokusenhikaeme

クライエントとの関係について議論しようとすれば、彼らは自分たちが行っているその同一化を(ときには故意ではなく)取り込んでしまう。それゆえ、専門家がかかわっている相互作用のパターンが、ネットワーク・ミーティングにひょっこりと姿をあらわすこともあるのだ。

2017-01-05 19:59:53
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クライエントに同一化して相互作用に巻き込まれてしまうということは、理解するためには欠かせないことである。しかし、相互作用のパターンはきわめて似たものになってしまうので、あまり似すぎたために援助できる立場に立てなくなってしまうこともある。

2017-01-05 20:03:56
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同一化や相互作用のパターンを繰り返してしまうことそのものが問題なのではない。こうした振る舞いは、専門家が自分たちもまた人間的なプロセスに巻き込まれているということを示すものである。

2017-01-05 20:07:16
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このことは、時としてネットワーク・ミーティングを情熱的なものにする。しかし、自分たちがそのことに気づかなければ問題が生じる。視点を豊かにし、振る舞いのパターンを変化させる機会を広げるのではなくて、かえって狭めてしまうからだ。

2017-01-05 20:10:28
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相手を説き伏せて自分の立場に引き入れようとすることは、不安な状況ではよく見られることである。なぜなら、自分自身の主観的な不安も高まっているからである。強い不安を扱うネットワーク・ミーテイングは、とりわけ同型プロセスになる傾向がある。

2017-01-05 20:16:17
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ミーティングを常に掛け持ちで行うこともストレスとなる。感情的刺激や不安が強くて、専門家でも難しい問題に徒手空拳で挑むようなミーテイングに参加することは、途方に暮れてしまうものなのである。

2017-01-05 20:23:12
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心理社会的な支援では、こんな状況に事欠かない。こうした状況下では、相手がどう考え何をなすべきかということを決めつけるという、モノローグ的な誘惑にかられやすい。 Id. at 51

2017-01-05 20:26:44
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著者たちはネットワークがうまくいかなくなる要因について4つの仮説を考えた。それらはすべて、モノローグへの誘惑である。 📌①参加者は自分たちの関係について話し合い、ジェンダー関係について駆け引きをする。人はコミュニケーションしながら、相手との関係において自らを位置づけようとする。

2017-01-05 20:41:42
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問題の見方を決めようとすれば、それをしようとする者は、自分自身にはそれができる能力があると見なす。そして、相手を自分の主張の聴き手にすぎないと決めつける。こうして、互いに自分の有能さを競ってしまうことになる。

2017-01-05 20:49:40
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📌②多様な関係者が集まって協働作業のための手段を模索するとき、しばしば協働作業の基礎となるものとして問題の見方を皆に共通のものにしようと試みる。

2017-01-05 20:53:18
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しかし、全員が一致するような見方は存在しない。共通の見方を探し求めようとすれば、それぞれの参加者がその問題にかかわり合う独自の状況について考えることがなくなってしまう。

2017-01-05 20:55:26
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📌③参加者は「個人」として活動にコミットメントしようとするが、それは協働作業に必要であると同時に、境界を守るためにも必要となる。参加者は自分たちのかかわり方を考えながら、自分たちのストレス負荷を調整するのである。

2017-01-05 20:59:28
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📌④クライエントとのかかわりを通じて専門家が出会う相互作用のパターンは、たとえそこにクライエントがいない時であっても、同じ相互作用のパターンが専門家たちのあいだに生じる傾向がある。 Id. at 52

2017-01-05 21:26:50
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専門家も、状況をコントロールしたいという誘惑をしりぞけ、不確実性に耐えていけるという経験を経なければならない。モノローグ的な語りは相手の思考や行動を支配することになる。  バフチンは、権威主義的な発話は閉ざされたものだと指摘した。 それに対して〈対話〉は開かれている。 pic.twitter.com/mUBj2wZKLx x.com/korenkan/statu…

2024-02-20 05:42:36
ジョー猫 @korenkan

本当に「コミュニケーション能力が低い」というのは、単に口下手とかではなく、「進行している会話の話題に対して、強引に自分の手持ちカードで何かを言おうとして、会話の流れを妨げたり、ピントが外れたことを言ってしまう」ことなのではないかと思ったりする。

2024-02-18 20:35:37
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〈意味〉は互いに応じ合いながら生成し変化する。  より多くの〈声〉が参加したポリフォニックな〈他声的な〉対話になるにつれ、新たな理解が生じる可能性が広がる。 〈対話〉は共に考える手段であり、そこでの理解は、ひとりの人間の可能性を越え出るものとして、参加者のあいだで形づくられる。

2024-02-20 05:42:38
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クライエントの独立性と自律性をより高めるために、専門家やファシリテーターは権力関係の中に自分たちが持ち込む力にしっかりと気づいていなけれぱならない。  対話性が生まれるとしたら、それは参加者たちが「相互性と応答性を守る」という規則に自発的に「従う」ためである。

2024-02-20 05:42:40
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対話性を達成しようとするならば専門家たちが〈対話〉を行おうという断固たる意志をもつ以外に方法はない。専門家たちが〈対話〉のうちに自身の主観的なパースペクティヴを見出した時にのみ、彼らは応答性を獲得できるだろう。その実践によって権力関係が変容するのだ。 (エピローグ・P.205)

2024-02-20 05:42:41
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以前のミントまとめを見返してみたら、第1部(第1章・第2章)までしか抜粋していなかった__|\○_ ①min.togetter.com/A7qCY1nmin.togetter.com/UVSMySdmin.togetter.com/oqanZdb ので、降順になりますが、以下に、第2部第6章と第3部第7章をつなげ、余力があったら残りの章を加えます。

2024-02-20 05:42:43
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『オープンダイアローグ』Seikkula, J. & Arnkil, T.M. 高木俊介・岡田愛訳, 2016.3.25. 日本評論社 第6章 〈対話〉はどのようにして苦悩を癒やすのか p.115 クライエントの行動や症状に対する私たちの見方が、 それを説明しようとするのではなく、それのもつ意味を彼らの周りの人たちと共有しよう

2024-02-20 05:42:45
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とする姿勢に変わると、治療的かかわりが新たに深く人間的なものになる。単に症状をなくすのではなく、それをもって実際に生きている人に直面しなければ、本当に援助することはできない。ある特別の治療法を探すのではなく、互いがかかわりあうシステムの全体を見なければならない。

2024-02-20 05:42:46
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そうすればミーティングを重ねるうちにクライエントの病状はやわらぎ、行動が変化しはじめる。ミーティングで非対称的な専門家自身もまた強い感情によってこころを揺さぶられる。ここが対話の要である。私たちは、全人的に生きている一人の人として、そこにいるのである。

2024-02-20 05:42:48
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Bakhtin, 1981 がいう意識間のコミュニケーションが生まれるかどうかは、話し手が聽いてもらえて、受け入れられていると感じられるかどうかにかかっている。話し手が「聴かれている」と感じるには、応答されていなければならない。人間にとって応答がないままおかれることほど恐ろしいことはない。

2024-02-20 05:42:50
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互いに聴き合う対話によって事態を分かち合おうとすることは、治療とコンサルテーションの基本となる。 〈対話を〉生み出していこうとすることによって、治療者は、今は症状という形で表現されている経験を患者自身が新しい言葉に置き換えていけるように支援するのである。

2024-02-20 05:42:51
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共ー言語(joint language)をつくりだすには相互性が必要であり、それは単に参加者それぞれが順序よく答えていくだけでは生じない。対話そのものも実際に何かをつくりだしている。ポリフォニー的〈対話〉では、ひとつの〈声〉だけが優勢になることはない。

2024-02-20 05:42:53
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Bakhtinによれば、完全なモノローグというものも存在しない。それは必ずまた応答されるのである。Bakhtinは〈対話〉はアイデアを生む培地であると考えた。意味が作られていくのは、その場の人たちの間のやりとりの個別性の中においてである。参加者個々の「頭の中」にあるのではなく、

2024-02-20 05:42:54
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彼らの人と人との「あいだ」にある。最初は言葉を「借りてきて」使っているが、やがてその言葉の意味を今現在の独自の状況にあったものにつくりあげていく。発話はその意味を、聴き手からも話し手からも引き出す。言葉が意味を持つためには、応答を必要とするのである。

2024-02-20 05:42:56
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意味が応答に依存していることを、Bakhtinは対話の「完結不可能性(unfinalizability)」と呼んだ。意味というものは、応答・応答に対する応答・さらなる応答が続く、という本来的に予測不可能なプロセスのうちに生み出され変わっていく。それは中断されることはあっても、決して終結することのない

2024-02-20 05:42:58
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プロセスである。より多くの〈声〉が重なってポリフォニー的な対話になれば、理解はますます豊かになるだろう。  対話は相互的行為である。そこでの治療者の立場はもはや介入を行う者ではなく、自らも発話と応答の相互プロセスに入り込んでいるのである。当事者たちを対象としてみるのではなく、

2024-02-20 05:42:59
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自らが彼らと主体どうしの関係となるのだ。  話すということは、自分が話したことが自分にとってどのような意味をもつのかを自分自身が理解できるようにする行為である。 Vygotsky, 1934 によれば、「内」的発話は、両親と子どもの間の社会的相互作用という、身体の「外」に生じたものである。

2024-02-20 05:43:01
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幼児にとって、言葉は親が作る意味環境(meaning ecology)の中にあらわれる。3~7歳の自己中心的発話の時期に、子どもはこの意味生成システムを内なる心理機能に取り入れ始める。声に出して話すことで、子どもは自分の行動を導き出す。もともとは社会に出現した発話という行為が、今度は内的なものに

2024-02-20 05:43:03
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なっていく。思考という内的発話が可能となる。しかし、発話の社会的起源はその後の人生の間ずっと、言葉の一側面、社会的であるとともに内的であるという特性として残り続ける。外の社会に対して発話するときにもまた、話し手は自分自身に話しかけて内的対話を続けているのである。

2024-02-20 05:43:04
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これまで語られることのなかった感情をかき乱すような困難なことを初めて言葉にしていく時に、話し手は自分が言葉にしたことが自分にとってどういう意味をもっているのかということを自分自身で聴く。 Andersen, T. 1995 は、話すことは伝達的(informative)であると同時に形成的(formative)だという。

2024-02-20 05:43:06
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話し手は自分の経験を対話者に伝達するが、同時に話しながら経験を形成し、さらに意識的になる。こうして治療的体験が生じる。話し手は外部に向かって言語的に行動しながら、内的には主体性を取り戻していく。対話者が話し手の語ったことに余計な解釈を与えると、話し手は自分自身の考えを守ろうとして

2024-02-20 05:43:08
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身構えてしまい新たなプロセスが妨げられてしまう。  チームメンバーだけがくぐり抜けてきた経験は、静かな自信や共感的なたたずまいとして周囲に放射され、彼らがいるだけでその場に生かされる。そうした経験をたずさえてミーティングに臨むことで、ここでは大変困難な経験を話し尽くすことができる

2024-02-20 05:43:09
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という雰囲気がもたらされる。その雰囲気に抱えられながら、ネットワークの参加者たちは安心してそのモノローグ的袋小路から抜け出すことができるのだ。理解を共有していくにつれ、当事者たちは自分たちに一体何が起こったのかということを、一貫した物語にまとめることができるようになっていく。

2024-02-20 05:43:11
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こうしてトラウマ的な出来事を自分たちの生活史に組み入れて、自分たちの反応や感情を吟味し学ぶことができるようになる。  ミーティングをしない支援者は、クライエントに独自の文脈から彼を理解するのではなく、一般的な診断知識をふりかざす。〈対話〉では、違う。新しい理解は、実際に会話に参加

2024-02-20 05:43:13
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している者たちの間に生まれる。話し合う者たちが現にそこに、お互いの〈声〉が届くところにいなければならない。そこにいるということは、聽いているということであり、聞こえているだけではだめなのだ。支援者たちが自分をその場にさらけだすのでなければ、話し合われていることの機微はわからない。

2024-02-20 05:43:14