なるほど、自分から「仕掛ける」キスでは、条件を満たさないらしい。念のためにとサンクレッドからも試してもらったが、やはり結果は出なかった。「となると、鍵になりそうなのは、お互いに『伝えないと』って部分か」思えば、この文言だけ、ひどく不明瞭である。「お互いに理解、痛感させろと…?」
2023-11-13 20:03:35だとしたら「扉を開けるため」に足掻いたところで、無駄ということだ。目指すべきは相手の心、それも恥だとか意地だとかを、超えたところにあるのかもしれない。「サンクレッド」名を呼ぶと、警戒を帯びた目がこちらを見る。傷付くなあ、と嘯きながら、腕の中へと手招いた。「…」抱きしめる。
2023-11-13 20:03:36肩に顔を埋め、薄い体臭を嗅ぎながら、ただひたすらに、強く抱く。「…これだけか?」「ああ」自分にできることは、結局、これしかない。放したくない。渡したくない。愛してるとか好きだとか、耳障りの好い言葉では誤魔化せない独占欲。それを腕に込め、泣きたくなるような衝動を堪えて、抱き続ける。
2023-11-13 20:03:37サンクレッドの側からは、抱き返す腕は廻らなかった。立ち尽くしたまま、考えを巡らせている気配がする。それでも、やがて、覚悟を決めたか、耳に、名前が囁かれた。そして、普段の柔らかな甘さが、嘘のように強張った声が。「…俺を、」合間に、小さく、息を呑んで。「置いていかないでくれ」
2023-11-13 20:03:37扉が開いた。それをずいぶん、遠いことのように知覚した。腕の中には、顔を俯け、言うべきではなかった言葉を、口にしたことを悔いる恋人。それを慰め、後悔を否定し、全身で歓んでやることのみが、今の自分がすべきことだと、魂が理解し、叫んでいた。
2023-11-13 20:03:38他所では英雄だの解放者だの色々と呼び名があるようだが、錬金術師ギルドに来れば、この男は助手である。なので、取り敢えず、傍らに溜まった雑務を押し付けた。助手もすっかり助手であるから、気安く「へーい」などと言い、手早く錬金窯を組み上げ、大量のガラスを作り始める。ガラス。ガラスである。
2023-11-14 15:56:08何の変哲も面白味もないガラスである。しかし、これが、需要がある。錬金術が混ざりもののない蒸留水から始まるように、こと建築には飾り気のないガラスが欠かせない。理解はしている。ただただ「作るのがつまらん」というだけである。ゆえに、助手の仕事とした。彼も励んでいることだろう。
2023-11-14 15:56:09しかし、視線を投げた彼は、珍しく動きを止めていた。細長いガラスを一つ手に取り、じっとそれを見つめている。「どうした、助手よ」出来は一見しただけでわかる、完璧である。欠けも歪みも曇りも皆無の、これぞガラスというガラスだ。「いや、そのな…セヴェリアン先生、これ、一本、貰っていいか」
2023-11-14 15:56:09「納品物からくすねると?」「いやいや、まさか。ざっと材料を見た感じ、数本分、余りそうでさ。もちろん残りは予備に付けるけど、一本だけ貰いたい」「ふむ。それならば問題はなかろう」もとより渡した材料は必要量ぴったりだった。それを余らせるというのは、助手の技量にほかならない。
2023-11-14 15:56:10「しかし、そのようなガラス片、一体どうするつもりだ、助手よ」食器ではない。水槽でもない。掌で握ってしまえるような、単なるガラスの欠片である。工芸品の材料にすらならないと思われるが。「…やすり」「む?」「磨りガラスにして、爪やすりに…しようかと…」回答自体に問題はない。
2023-11-14 15:56:10問うたから答えた。それだけである。しかしそこには、ずいぶんと、混ざりものが入っている。照れだの後ろめたさだの、脳裏を過っているだろう、彼の恋人の痴態だの。まったく、錬金術には不要なものだ。「よかろう!せいぜい好いものを拵えて、念入りに爪を削るがいい!」「ちょっ先生、声がデカい」
2023-11-14 15:56:10「特に中指と薬指をだ!深爪寸前までな!」「先生」「とはいえ実際に深爪を作るのではないぞ!傷があっては楽しめるものも楽しめなかろうからな!特に貴様が突っ込む穴は」「わざとですよねえ!?」涙目でこちらを黙らせようと白衣の裾に縋る様子は、とても大の男がするものとは思えず、実に愉快だ。
2023-11-14 15:56:11他所では英雄だの解放者だの色々と呼び名があるようだが、錬金術師ギルドに来れば、この男は助手である。自分を超える錬金術師で、心を救われた恩人で、誰より頼れる存在であるが、やはり、自分の助手なのだ。
2023-11-14 15:56:11潜入調査任務において、現地の環境を荒らすことは、最悪の禁忌と言える。たとえば土を踏み荒らす。草を引き抜く。物を拾う。一見、それらは自然のままに在るもののように思えても、誰かしらの意図が入っていない保証は、何処にもない、のだけれど。冒険者というやつは、そこまで考えないらしい。
2023-11-16 12:21:26「おらよ」差し出されたものは、色とりどりの、というよりは、無節操な花の束。赤、青、紫、黄、橙。およそバランスというものを考えられていない組み合わせだ。「どうしたんだ、これ」「そこらで摘んだ」「なんで」「ついカッとなって」ついカッとなって花を摘むことが人生にあるだろうか。
2023-11-16 12:21:27混沌とした芳香を放つ花束を受け取りながら、取り敢えずバスタブだな、と思う。サンクレッドの住まいはいずれも仮の拠点に過ぎないから、花瓶なんて気の利いたものは一つも置いていないし、あったとしてもこの量の花は瓶には収まらない。まとめてバスタブに浸けるしかない。
2023-11-16 12:21:27来客を差し置いて風呂を使うとは、まったく、贅沢な花たちだ。とはいえ、来客自身にも、すぐ風呂を要する様子はない。部屋の中へと招き入れたサンクレッドを抱きしめて、キスもねだらず、俯いている。耳の近くでは深い呼吸が繰り返されて、くすぐったい。「何かあったか?」「別に、何も」
2023-11-16 12:21:28答える声に異常はない。目に見える傷の類いもなかった。確かに「何も」ないのだろう。彼は、いつもと同じように、冒険者として依頼を引き受け、小銭を稼いできただけで。「ただ、ちょっとな」苦く笑って、男は、持参した花の束を見る。赤、青、紫、黄、橙。一輪として白のない、それを。
2023-11-16 12:21:28「ときに貴方は、私に嫉妬などなさらないのですか」「しっと」はじめて聞いた言葉だという顔をして、救世の英雄は、復唱した。「俺が?」「はい」「お前に」「ええ」「なんで?」「状況といたしましては、概ね揃ったものと思いまして」彼とサンクレッドがいわゆる恋人関係にあることは、周知の事実だ。
2023-11-17 21:19:25いや、サンクレッド自身はずいぶん長くそのことを認めようとはしなかったのだが、順調に外堀から埋められた結果、今やすっかり、そうなったのだ。「率直に申し上げれば、私は、恋愛というものに理解が及んでいるとは、とても言いがたい」「ああ…まあ、それは、そうだろうな」
2023-11-17 21:19:26「しかし、蓄積した知識をもとに、想像を馳せることならば、及ばずながら、可能です」「うん」「そして、多くの書によれば、恋愛関係にある者は、相手に対して独占欲を持つ事例が、非常に多い」「ようやく読めてきた」後ろ頭を掻きながら、英雄はうっすら、苦笑した。「つまり、お前は」
2023-11-17 21:19:26「はい。俗に言う『お邪魔虫』になってはいないかと、己が身を省みている次第です」救世の英雄である以前に、一人の冒険者である男は、暁の血盟が解散するより前から、単独で行動することが、非常に多かった。機会を見つけて逢瀬を重ねていることは疑いようもないが、最大の問題は、そこではない。
2023-11-17 21:19:27サンクレッドはその体質上、魔力の扱いに長けた者の随伴を、どうしても必要とする。その適任は誰か、となれば、どう考えたって、自分である。結果として、今のウリエンジェは、ほとんど常にサンクレッドと行動することになっている。それを果たして、サンクレッドの恋人は、快く思っているのか。
2023-11-17 21:19:27「別に」返答は、この上なく、単純明快なものだった。「お気になさらないと?」「ああ。全然」「私ではなく、ご自身がサンクレッドと行動なさりたいとは、思われませんか」「思わないな。俺とあいつじゃ、基本的な道筋が違う。ウリエンジェよりこまめにソイルに魔力を込めてやる自信もないし」
2023-11-17 21:19:28向けられた笑みはさっぱりしていて、虚勢の欠片も見られない。「あいつの旅路に『相棒』が要るなら、そりゃ、間違いなくお前だよ。あとはナッツイーターな」「…理解に苦しみます」「学んできた情報と矛盾するからか?」「ええ」「んな難しいことでもないさ。俺は知ってるってだけだ」
2023-11-17 21:19:28「何を、でしょうか」心構えか、策か、あるいは技術の類いか。恋人を自分以外の男と長く行動を共にさせて、それでも、欠片の妬心もいだかず、平静でいられる理由とは。思わず期待に見開いた目にからりとした笑いを寄越して、英雄は、あっさりと言った。「あいつは俺に惚れてるってことさ」
2023-11-17 21:19:29「…と、仰っていました」「それをわざわざ俺に報告しようと思った理由は何だ」「いたく感銘を受けましたので…」「俺は受けない。受けないから聞かさなくていい」「左様でしょうか」感銘こそ受けないとサンクレッドは言うけれど。「喜ばしくはあったのでは?」その朱い耳を見る限り。
2023-11-17 21:19:29クガネの舞台役者には「女形」というものがある。演じる者は男だが、衣装、化粧、徹底的に研究し尽くされた仕種によって、女よりも女らしい女に「成る」というものだ。ベッドから零れ落ちた腕を見ながら、不意に、それを思い出した。「んぁ…?」サンクレッドの来訪に気が付いたのか、声がする。
2023-11-18 13:58:45聞き慣れた、低い、男の声だ。寝起きで粘つき、濁ってさえいる。「…んだ、お前、来てたのか」のそりと起こされた上体は、堅固に鍛えられている。サンクレッドが抱きしめて、爪で掻き、犬歯を突き立てても、びくともしない男の体だ。
2023-11-18 13:58:45ただ、普段は分厚い鎧やコートに包まれている肌は、ほとんどが無防備に晒されている。纏わりついているものは、繊細な金具や、薄い布。金糸銀糸を織り込まれ、眩い宝石を組み込んだ、鮮やかな衣装が、強靭な男の体を飾っていた。「ん、ああ、これか?ちょいとナシュメラ先生から依頼があってな」
2023-11-18 13:58:46立ち上がると、しゃらりと鳴る。「巡業に顔を出してきた。とはいえ久々だったもんでな。踊り疲れて、寝ちまってた訳だが」ふわりと、歩み寄ってくる。「そんなことより」甘い笑み。普段は付けることのない香水。目尻に、頬に、唇に、施された薄い化粧。「ものすごい顔してんぞ、お前」
2023-11-18 13:58:46指先で顎を持ち上げてくる、そのたおやかさにくらくらする。どこまでも知った男であるのに、まるで別人、それどころか、別種の何かであるようで。警戒を凌駕する陶酔に、思わず唾を呑み込んだ。「抱きたいか?」優しく流れた声は、確かにサンクレッドの有する、雄を強烈に刺激した、が。
2023-11-18 13:58:47「抱かれたい」即答する。普段とは違う、女のようで、それでもやはり、いつもの彼で。柔らかな所作、高貴な香り、いずれもまるで似つかわしくなく、なのに、完璧に馴染んでいる。「お前も大概、物好きだよな」太い腕が、ありえないような軽さで、項に廻された。「なら、もう一幕、披露するか」
2023-11-18 13:58:47猫のよう、とあらわすには、彼はいくぶん獰猛すぎる。豹とか、虎とか、そのへんだろう。ただしそれらが人のベッドに来るのかどうかは知らないが。「よう」足下の毛布をめくり、そこから潜り込んできて、やがてこちらの顔の近くに顔を出したサンクレッドは、軽い調子で、そう言った。
2023-11-20 10:54:02体に廻した手に感じるのは、触れ慣れた薄いシャツと下着。いくら火が焚かれているとはいえ、このガレマルドでは寒いだろうに。「夜這いか?」「温めてやりに来た」「お前が温まりに来たんだろ」寒風が窓を震わす中で、最初から深く、唇を重ねる。この極寒の地においては、誰しもが熱を求めている。
2023-11-20 10:54:02臣の褒章で傷付いた双子、報告を受けたマキシマ、ルキア。未だ見つかってもいない難民。みんな、みんな、凍えている。「いいのか」零れ出た問いは、単なる確認に聞こえたかもしれない。抱いていいのか。声は吹雪で掻き消されるとしても、多くの人が詰めている、このキャンプ・ブロークングラスで。
2023-11-20 10:54:03「いいさ」しかし、サンクレッドは、言葉の肝を確かに掴んだ。「どうせ明日からは、また分け与える側に廻るんだろう、お前は」臣の褒章で傷付いた双子、報告を受けたマキシマ、ルキア。未だ見つかってもいない難民。みんな、みんな、凍えている。彼らに、熱を。一刻も早く。配らなくてはならないと。
2023-11-20 10:54:05「今夜くらいは、頭の芯が沸くまで、温まっていけ」毛布の中は、既に互いの体温で、蒸し始めている。手を這わせ、舌を這わせるたびに、温度が、湿度が、上がっていく。そういえば、この男とは、暑いウルダハで、出会ったのだ。あの国には、これほどの湿度は存在しなかったけれど。
2023-11-20 10:54:06冷えた国の、冷えた部屋で、小さな熱帯を作り、抱き合う。享楽を堪え、訴える、声を、顔を、堪能する。手を握り、胸を密着させて、腹の中、奥深くを味わう。「あつい」とろとろにほどけた声が、耳の近くで、そう言った。「俺もだ」吹雪も、終末も、今だけはひどく遠かった。
2023-11-20 10:54:08「サンクレッドの奴は元気か」その名を出すと、へ、と間抜けな声を漏らして、英雄はカレーライスを掬っていたスプーンを止めた。折よく休憩のときに顔を出したものだから、賄いでよければ喰うか、と誘ったところ、一も二もなく飛びついてきたのだ。カレーなんぞいくらでも自分で上手く作れるだろうに、
2023-11-25 11:55:30料理長のメシはILが違う、というのが本人の弁である。何だILって。「リングサスの旦那、サンクレッドのこと…いや、知ってて当然なのか」「まあ、ここらじゃ有名な悪ガキだったからな、あいつは」サンクレッドという名前そのものが知られていた訳ではない。白髪の、やたらと勘がよく、足の速いガキ。
2023-11-25 11:55:31そんな呼ばれ方をしていた。「俺の仕事が皿洗いだった頃から、ビスマルクにもよく来ていた。もちろん客としてじゃない。捨てられたメシを拾ったり、食材をくすねたりしてな」お前の管理が甘いからだ、ガキの一人も追い払えないのか、と、よく理不尽に怒られたものだ。「それは…すんません」
2023-11-25 11:55:32「なんでお前が謝るんだ」「なんとなく…」もごもご言いつつも、再び口に運ばれ始めたスプーンを見る。下働きだった頃にも、カレーライスは、賄いとしてよく出た。余りの食材を炒めて煮れば、何だって美味くなるのだから、片付けにはもってこいだったのだ。量もあるから、見習いの若い奴らも喜んだ。
2023-11-25 11:55:33