出逢ひ
美しい刀でした。とても優しい目をした刀でした。 見目麗しさに反し老成した刀には数多く出会ってきましたが、その中でもいっとうたおやかで、そのやはらかな心の琴線に手を伸ばして触れたくなるような刀でした。 「こんな思いははじめて」 すっかり彼から目を離せなくなり、そう思い違う程度には。
2021-03-24 03:25:00本丸にやってきたのは私情だとうそぶく彼を迎えるわたしの目は、どれだけか熱に浮かされていたのでしょう。 彼は、その艶やかな扇を口元に当てて、金糸の間からのぞく色素の薄い瞳を細め、やや屈んでひとしきりわたしを眺めると言いました。 「物言わぬ、刀の愛しか信じられぬ、あわれな主よ」
2021-03-24 03:29:41わたしはぽかんとその言葉を反芻していましたが、先に動いたのはわたしの近似でした。 間に割って入った彼の表情は常ならぬ焦りと苛立ちが噴出しており、厳しい声で彼に何かしら反論をしていたように思えます。何も知らなくせに、主を侮辱するな、等。 でも、わたしの気持ちはただひとつだけ。
2021-03-24 03:34:20「どうして知っているの」 そう彼に問い返したかったけれど、煙に巻くのが得意そうなあの笑みと達者な口が、その場をどうにか丸く収めてしまったので、結局聞けずじまいでした。
2021-03-24 03:34:21烏が鳴くから帰りましょ
彼が本丸にやってきてから幾ばくか経った頃、夢を見ました。 はじめはそこがどこだか分かりませんでした。けれど隣に彼が立っていて、わたしの手をしかと握っています。 その見上げるような身長差に、わたしは自分が幼児の姿になっていることがわかりました。 すると次第に視界が開けて、景色が鮮明に
2021-03-24 03:45:38なっていきます。わたしは5つより前の記憶はほとんど朧気ですけれど、それはたしかにかつてわたしの住んでいた家の付近にあった山の中でした。 時刻は夕暮れ時で、暗い影が木々にもかかってきます。 目の前は一本道で、その先にあるのは真っ暗なトンネルでした。 わたしはそれを覚えていました。
2021-03-24 03:45:38危ないから入ってはいけないよ、と親に言い含められていたその向こうには何があるのか、幼心に気になっていたのかもしれません。 風もない静かな山の中、じっと暗澹を見つめる幼いわたしと、それに連れそう彼。 「あすこに行ってみたいのかい」 ふっと、幼子には相応しい柔らかい声がかかりました。
2021-03-24 03:45:39わたしは何も言わずに首を横に振りました。 怖かったわけではありません。 むしろ、彼と一緒なら、何も不安はないというような奇妙な予感すらありました。けれど、何かに後ろ髪を引かれたのです。 「そうか。ならば帰ろうか」 手を引かれ、茜色に染まる道を彼と共に下る、ひどく穏やかな夢でした。
2021-03-24 03:50:04目が覚めていの一番に、わたしは彼に問い詰めました。 夢を尋ねるのはともかく、なぜわたしのかつての故郷を知っているの。あの特有の、わたししか覚えていないあの場所に、なぜさも当時からいましたと言わんばかりに居座っていたの。これではまるで歴史の改ざんではないかとまくし立てました。
2021-03-24 03:57:30ゆるりとした部屋着に身を包んだ彼は、はて、と顎に手を当てて考えるような素振りをした後、やんわりと微笑みます。 「懐かしかっただろう?」 またもやぽかんと虚をつかれたわたしは、あの独特な高ら笑いが遠くに去っていくのを、ただ聞いていることしかできませんでした。 続……?
2021-03-24 03:57:30抜錨
目を開けると、仄暗い岩壁に囲まれていました。 湿った空気に混じる鉄錆のにおい。 その元を辿れば、斬り傷を負った彼が脇腹を押さえて岩肌に身を預け、足を放り出しています。 「ごいんきょさま、」 「あぁ。目が覚めたか」 すっかりと馴染んだはずの呼び名が、舌先を結ばれたように何故か上手く音に
2021-03-25 05:32:20できず、背筋が震えるのは肌寒さだけではないことが分かりました。 どうしてこうなったのかはわからないのに、状況だけはありありと把握できること。 それに違和感を抱く暇もなく、わたしは迫る命の危機と、目の前で苦しそうに微笑っている彼の姿に胸を締めつけられるようでした。
2021-03-25 05:32:21入り口はすでに敵に包囲されている。 本丸との連絡は途絶えたまま、援軍を待つ余裕もない。 刻一刻と選択を迫られる状況に喉の筋肉が引き攣るのを感じながらも、わたしは急場の霊力を練り上げて、応急的な手入れの儀を始めます。 「おねがい……」 絶望的な顛末を覆す算段があるわけではありません。
2021-03-25 05:32:21「……死なないで」 ただ、死にたくないと、ひとりになりたくないという恐ろしさに苛まれながら縋ったのは、刀である彼にかけるのには少し不似合いな言葉で。 「…………なぁ。もし、」 「え……?」 乾ききった喉から漏れる掠れた声に耳を寄せると、やんわりと片手で制されます。
2021-03-25 05:32:22「なに。手持ち無沙汰なじじぃの戯言さ。そのまま聞き流して、続けてくれ」 こくりと慎重に頷けば、苦しげに上下していた肩の力がふっと緩むのが目に見えました。 少しでも彼の苦痛を和らげたいと、指先で霊力を練り上げるほどに汗が額から米神を伝い落ちます。 どれほど時間が経ったのか、けれど
2021-03-25 05:32:22あと幾許の猶予もないことは肌で感じ取りながらも、祈りを込めて印を結びました。 死にたくない、どうか置いていかないでと。 「お前さん、山姥切の坊主とは死ぬまで添い遂げる約束だと言っていたな?」 「……はい」 突然ここにはいないわたしの刀、愛しい近侍の名を出されてわずかに語尾が持ち上がり
2021-03-25 05:32:23ます。 その声に反応してか、彼の淡い瞳に金紗の影がふっとかかりました。 「なら、死んだその後は僕と同じ墓に入らないか」 「えっ」 「人というものは、死ねば親と同じ墓に眠ることもめずらしくはないだろう?」 「えっと、それはどういう……」 「嫌かい?」 こてりと首を傾げる仕草をあざといと
2021-03-25 05:32:23感じてしまうのは致し方なかったように思います。 「いや、という……わけでは」 居た堪れないというより、なぜ急にそんな話をされたのかの戸惑いが勝って言葉を探そうと目を離した隙に、彼は端正な顔を綻ばせました。 「うははは! そう弱りきった顔をするな。何も浮気を唆したわけでもあるまいに」
2021-03-25 05:32:23「か、からかったんですか!?」 「いやさ。お前さんがあんまり弱気な顔をするものだからな。少しはマシな顔つきになったじゃないか」 呆気に取られているわたしを放って、彼はおもむろに立ち上がりました。 「御隠居様……?」 「なぁに、さっきのはまだ先の話さ。じっくり考えといておくればいい」
2021-03-25 05:32:24すらりと太刀を抜き払う姿は流麗で、傷と泥でさえその美しさを損なうことなど少しもできないようでした。 「さぁ! 諦めるにはまだ早い。行こう、僕の主よ」 振り向きざまに、花が咲き誇るようなハッとする青に見つめられれば、頷くこと以外できません。 彼が切り拓く先へ、光へと導いてくれる。
2021-03-25 05:32:24そう信じるに余りあるほどの深い信頼が、知らず知らず胸の裡に芽生えていくのを感じながら、わたしは少し場違いな溜め息を漏らしました。 一騎当千の気迫で闘う彼の姿もまた息をのむほどに美しくはあったのですが、それ以上に「もう逃げられはしない」という予感が確かにあったのですから。
2021-03-25 05:32:25「一」とはよくいったもので
「ご隠居様の、うそつき」 「なんだい。藪から棒に」 困ったように笑ってみせる顔の穏やかさに、わたしはいつも甘やかされていることを知っている。 こんな生意気な口を利けるのだって、ひとえに彼がそれをゆるしているからだ。 けれど同時に、その真綿のような柔さの向こうに、わたしには言わない
2021-03-28 03:35:11色々なことを、いつも取捨選択されていると思う。 「御前って呼ぶの、わたしには『主だからだめ』だって言ったのに」 ひやり、と空気の温度が下がるのを感じた。ヒリつくような重みを持った視線を向けられることは、滅多にない。 「……やれやれ。”他所の”僕に会ってきたんだな?」 察しのいい彼は、
2021-03-28 03:35:11すぐにまるで何事もなかったかのように薄い笑みの帳をかけてしまうけれど。 「普通に御前って呼ばれてましたし。仲も良さそうでしたし」 わたしには頑なにそれを許してくれなくて。何なら敬語も外すように言われたのに、という意味を込めた視線をやると、扇が揺れる。 話を逸らすときの、彼の癖。
2021-03-28 03:35:11「ご機嫌ななめだねぇ。なにも嘘をついたわけじゃぁないんだが。僕はただ、隠居の身だからそう堅苦しい呼び方をするのはよしてくれと頼んだだけじゃないか」 わたしがそう呼ぶと嫌そうにする理由は教えてくれないのに? 「べつに怒ってるわけじゃありませんけど」 うはは、といつものように笑う彼。
2021-03-28 03:35:11「そうやってむくれてみせるところも可愛げだと思うがね。別に意地悪を言っているわけじゃないんだから、拗ねないでおくれ」 指先がそっと髪に通されて、やさしく撫で梳かれる。わたしがそれに弱いことを知っている手付きだ。 気まぐれで、人を子ども扱いして甘やかすのに、押しを曲げることはなくて。
2021-03-28 03:35:12花冷えの頃
「失礼。髪に触ってもいいかな?」 隣にいた近侍を見れば、彼は手袋をした片手を掲げていて。 「えっ。うん」 反射的に答えれば、ゆったりとした動作で指先が髪、というよりも頭部の表面をかすめるような感触がします。 何なのだろうとすぐに離れていくその手を目で追うと、薄紅色の花弁がひとひら。
2021-04-10 05:00:17「あっ……花びら、取ってくれてありがとう」 「……そうじゃないだろう」 ごく自然に口から出てきた言葉に返されたのは短い溜息と咎めるような視線でした。 端正な顔立ちは少し険を増すだけで随分と迫力があります。 自分は何か間違ったことをしただろうかと咄嗟に身を固めるのもつかの間。
2021-04-10 05:00:18こちらが言葉の意図を理解していないのを悟ったのか、鋭い紺青の瞳が目蓋で覆われます。 睫毛の一本一本までもが長く気高いので、そんな些細な所作までもため息が出るほど美しい刀なのです。 「俺の顔に見惚れる前に、何か言うべきことがあるんじゃないかな」 「ええっと……何でしょうか」
2021-04-10 05:00:18話に身が入っていないのはお見通しだと指摘されて、喉に小石が詰まったような居た堪れなさを感じました。 反省の意を込めて尋ねれば、彼は指先に付いたままだった花弁をふっと吹きやり目を合わせてきます。 「いきなり触らせろと言われて二つ返事で頷く前に、まずは意図を確認すべきだ」 「ええ?」
2021-04-10 05:00:19思いもよらぬ方向からの叱責に素っ頓狂な声を上げてしまうと、細い片眉が器用に吊り上がります。 「何か言い返したいことでも? まさか他の刀にも気安く触れさせているから構わないとは言わないだろうな」 「そういうわけでは……ないけど」 付喪神である前に人を斬る刀である彼らは、許可なく
2021-04-10 05:00:19主の体に触れることはできません。そういった呪が働いていることは、双方合意の上です。無論、毎度毎度言葉で許しを得ているわけではありませんが、それはつまり、何も言わずとも触れられるということはそれだけ心を委ねていることの証でもあります。 いつも確認を入れてくるのは、ひとえに彼の律儀さ
2021-04-10 05:00:19ゆえと思っていただけに当惑が隠せないのです。 「長義だからいいんだよ?」 他ならぬ彼だからこそ、そんなのは当然のことだという思いを声に乗せれば、ジトリと半分目蓋のかかった眼に見つめられます。 「別に疑っているわけではない。もう少し危機感を持つようにと言っているだけだ」 「危機感」
2021-04-10 05:00:20彼らしくもない、奥歯に何かが挟まったような物言いだと思いました。 続きを促すような相槌を打てば、眉間に明らかな皺が寄せられます。 「そういう気の抜けたところが、あの自称隠居じじぃに付け込む隙を与えているんだろう」 わあ、お口が悪い。 咄嗟に出かけた言葉を飲み込めたのは賢明でした。
2021-04-10 05:00:20そんなとぼけた反応は余計に機嫌を損ねるだけだと目に見えていますから。 「……何がおかしいのかな」 けれど、こみ上げてくる笑いを堪えるのばかりは無理な話です。 「おかしいわけじゃないけど。長義が心配してくれるのが、嬉しくて」 わたしの近侍への愛おしさが溢れるほどに、彼の頬が地面に散った
2021-04-10 05:00:20花弁の色に近づいていきます。 「笑いごとではない。真面目に聞くつもりがないなら、こちらにも考えがある」 「考え?」 「こういうことだ」 細身に見える体からは想像しづらい力で引き寄せられ、足元をすくわれる感覚のあと、気づけば片腕に乗り上げるようにして担がれてしまいます。
2021-04-10 05:00:20「待って待って!」 慣れない視線の高さにけらけらと笑いが止まらず、腕をさまよわせてなんとかストール越しにそのしっかりとした肩に身を預ければ、鼻をならす息とともに挑戦的な上目遣いが寄越されました。 「俺だから構わないと言ったのはどの口だ?」 「わかったから。ちゃんと気をつけます!」
2021-04-10 05:00:21そのままスタスタと淀みなく執務室へ歩き出してしまう彼に焦ったところで、今更聞き耳を持ってくれるはずもありません。 「少なくとも、そうして笑っている内は反省とは認めない、かな」 意地悪く目を細めてみせるその顔でさえ、様になることと言ったら!
2021-04-10 05:00:21三日月と月虹
月明かりが残りわずかな花弁を降らすばかりの葉桜を照らしている。 ずいぶん微温く感じるようになった夜風に吹かれながら、縁側に腰掛けた三日月宗近は隣から聞こえる静かな寝息に耳を立てていた。 「散るほどに、美しいものだな」 三日月の肩に身を預けて夢路に旅立った主人の顔は穏やかなまま。
2021-04-23 05:48:20しかし、その独り言かのような声に立ち止まる気配がひとつ。 「やあ。夜桜で一杯とは風流だねぇ」 「ふむ。主にはちと早かったようだがな」 「おやおや。寝室にいないと思ったら、こんなところで逢引きの末に眠りこけるなんて。まったく困ったお姫(ひい)さんだ」 言いながら、ぴたりと主の真隣に座した
2021-04-23 05:48:20一文字則宗はごく自然な動作で自らの羽織を肩にかけてやっている。 「するとあの噂は本当だったようだな」 「噂ぁ?」 「おぬしが夜毎主の寝所に通うているという話が本丸で出回っている」 ぱちくり、とけぶるような淡い瞳が瞬く。 次の瞬間、ぶはっと吹き出す様は非常に人間臭くて、それが何とも歪で
2021-04-23 05:48:21不釣り合いに思えた。 「うははは!まさかそんなことになっていようとはな!なぁに、アンタが心配なんざしなくても、やましいことは何もないさ。孫に寝物語をせがまれて寝かしつけてやっているようなものだからな」 孫、と言いながら向ける瞳はたおやかでありながら、しっとりと湿り気を帯びていた。
2021-04-23 05:48:21