時空間切り替えスイッチとしての食物とフロー状態 & 家族モデルは民俗モデル
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花びんに水をدعونا نملأ المزهرية بالماء☘️ @chokusenhikaeme

「最後に過食嘔吐をしたのはいつだったかな?」拒食症の患者という、自分、親、医師の中で10年近く展開された物語の主役を、武藤は自ら降りたのである。 『なぜふつうに食べられないのか』(磯野真穂、春秋社2015.1) p.205

2015-08-13 22:25:38
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私たちは自分はどこからきて、今どこにおり、これからどこに行くのかについての海図をもち日々を過ごす。しかし慢性あるいは原因不明の病気にかかると、その海図の信憑性は揺らいでしまう。

2015-08-13 22:30:01
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このような状況に陥ると私たちは、過去と現在と未来を結び直すための新たな海図を模索する。このあがきから抜け出る契機を与えるのが病気に意味を与え、未来に希望を見出す力を持った物語である。

2015-08-13 22:33:13
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物語の議論において科学的妥当性を持ち出すことは滑稽である。よい物語とは、人の琴線に働きかけ、そこから自分の人生を問い直せるようなストーリーのことを指し、そこに科学的な正しさは必要ない。 Ibid.,206

2015-08-13 22:38:59
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家族モデルに関する議論は、このモデルが科学的に妥当ではないという議論を中心に展開されてきた。しかし問われるべきは家族モデルの科学的妥当性ではなく、それが当事者にどう物語として読み取られ、それが人生の物語の再構築にいかに寄与したかである。Ibid.,206

2015-08-13 22:45:21
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なぜ自分だけが発症したのか、考え方に問題があったのなら、なぜ自分はこのような考え方をするようになったのか。このような形で当事者が自らの固有性に立ち返りながら問いかけをした際、親子関係はその問いかけの端緒となる。

2015-08-13 22:53:07
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なぜなら親子関係に二つと同じものはなく、過去を振り返れば、「そういえばあの出来事が」といった形で物語の導入部分を作成しやすい。物語への転換のしやすさが家族モデルの利点といえる。

2015-08-13 22:57:39
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けれども家族モデルは「悪いのは親」といった形で本人を救済するため、拒食に追いやった現実の問題に具体的に対峙し、自らを救済するという道をふさぎ、さらに救済されるためには症状がなくてはならないという状況を作り出す。

2015-08-13 23:02:03
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家族モデルは親子関係の内部に限定され、かつ症状ありきの「閉じられた救済」にしかなりえない可能性をはらむ。家族モデルは、本人が家族モデルの主役であり続ける限り、いつまでたってもエンディングを迎えないというジレンマを抱える。 Ibid.,210-211

2015-08-13 23:05:50
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↓ 次に著者は、家族モデルの受容は日本という独自の社会・文化的背景の中で起こった可能性があると述べている。そして家族モデルが展開しないシンガポールとの対比を考察している。

2015-08-13 23:11:17
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シンガポールにおいても摂食障害に関する論文がいくつも発表されているが、日本のように特異な親子関係が摂食障害を発症させるという議論が広く共有されることは一度もなかった。 Ibid.,212

2015-08-13 23:15:07
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シンガポールで議論されているのは、シンガポール政府が、1990年より実施している肥満予防政策(TAF)の影響である。このプログラムは6歳から18歳までの生徒を対象に学校で行われ、太り過ぎとされた生徒は強制的に参加を義務づけられる。

2015-08-13 23:21:10
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TAFから抜けようとする過程で摂食障害と診断される生徒が次々と現れた。このことはメディアでも大きく報道され、政府がTAFと摂食障害発症との因果関係を公式に否定するまでに発展した。

2015-08-13 23:25:32
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日本とシンガポールには明らかに論点の差異がある。日本の場合、母親に摂食障害の原因をほぼ全面的に還元していくという見方が受け入れられた時期と、主婦にとらわれない生き方をする女性が批判され始めた時期が並行していることに注目する必要がある。 Ibid.,213-4

2015-08-13 23:31:21
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1979年の『母原病』では、子どものありとあらゆる問題の原因が母に求められている。子どもは3歳までは常時家庭において母の手で育てよという3歳児神話も同様だ。後者は1998年に厚生労働省がその合理性を正式に否定するに至る。

2015-08-13 23:40:12
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20世紀後半の日本では、子どもの問題を母に落とし込む見方が厳然と存在しており、家族モデルも間違いなく、その影響下にあった。それに対して20世紀後半のシンガポールでは、国内の労働力不足を補うため女性の労働が日本とは逆に奨励された。

2015-08-13 23:44:40
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中国系シンガポール人の間では、母が子育てに一切の責任を持つという思想が日本ほど色濃くなく、子育てを祖父母やメイドが担当することも珍しくない。 両国の摂食障害の議論を比較すると、そこには医療現場をとりまく社会文化的背景の影響が色濃く映し出されていることがわかる。

2015-08-13 23:50:06
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日本で80年代から90年代に広く受け入れられた家族モデルは科学の落とし子ではなく、戦後日本のジェンダー観の影響を受けた時代の申し子なのである。ある一定層の人々に受け入れられる土壌が日本にあったからこそ家族モデルは当事者を救済するモデルとして機能し続けた。

2015-08-13 23:54:30
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家族モデルから私たちが学ぶべきことは、家族モデルの科学的妥当性の希薄さではなく、家族モデルが社会や文化とは一見無関係の科学の衣をまといながら、社会・文化的背景の影響を強く受けた民俗モデルであったという歴史ではないだろうか。 Ibid.,215

2015-08-13 23:58:52
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心理学者のミハイ・チクセントミハイは、チェスやロッククライミングなど、多くの技能や努力を必要としながらも金銭や名誉といった外的報酬がほとんど得られず、時には命さえも危険にさらすような行為に、なぜ人は夢中になり、それに楽しさを感じるのかという問いを立て、フローという概念で説明した。

2015-08-14 09:19:32
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全人的に行為に没入しているときに人が感ずる包括的感覚を、フロー(flow)と呼ぶ。行為の外側から入り込む刺激を遮断できればできるほど、限定された領域へ意識を集中すればするほど、人はフローに入りやすい。(『なぜふつうに食べられないのか』磯野真穂、春秋社2015.1 p.233- )

2015-08-14 09:27:43
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フローを起こす行為には、はっきりとしたルールやゴールが存在する。ルールやゴールといった内部秩序がないと、人はその行為の無秩序さに圧倒されてその行為を外から眺めることになってしまい、外部刺激の介入を容易に許してしまうからである。

2015-08-14 09:32:38
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明確なルールとゴールがあり、さらにそれが挑戦者にほどよい難しさを課すとき、外部刺激が遮断され、行為と意識の融合が起こり、人はフローに入りやすくなる。これがチクセントミハイが楽しさの起源とする、フロー状態の概要である。 Ibid.,236

2015-08-14 09:36:41
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過食はフローを起こしやすい構造を備えている。過食はほどよく難しい。大量のものを食べ、それが吸収される前に排出せねばならない。上手な過食には技術が必要であり、一朝一夕には成しえない。さらに過食には矛盾のないルールと明快なゴールがある。 #摂食障害 #過食 #拒食

2015-08-14 09:41:47
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できる限り大量に食べて、できる限りそれを排出すること。それが過食のルールであり、行為者の役割はそれを忠実に守ることである。周りに合わせて食べないとか無理やり食べさせられるといった日常生活ではありがちな、食に関する本人の願望と環境からの要請とが矛盾することは、過食中にはありえない。

2015-08-14 09:47:25
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内部秩序と与えられた役割、そして目的の明快さ。過食はフローを引き起こす条件をすべて満たしている。 過食という行為に自らを一体化させることにより、彼女たちは日常生活で頻繁に起こる悩みや迷いの一切を遮断することに成功している。さらに外部刺激を遮断するための方法を各自が編み出している。

2015-08-14 09:53:12
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過食を手放したくとも手放せない理由は、過食がフローを誘発するからである。過食中は、自らを批判的に見続ける日常からほんのひととき解き放たれる。だからこそ過食は嬉しいことがあったときや退屈な時にも起こる。過食が継続する理由の一つは、過食という体験の内側の、ある種の楽しさにも依拠する。

2015-08-14 09:59:23
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しかし、キャベツの過食ではフローは起こせない。フローを起こせる食べ物は限定されている。それは何を意味するのか? Ibid.,238-

2015-08-14 10:01:19
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(長田)一般にダイエットしてる人が食べてはいけないと言われているもの。 (荻原)ナチュラルローソンで売っていそうなものを過食する気にはなれない。玄米一杯食べたいとか、ないもんw (田辺)金銭的な問題です。吐くっていう行為は体に消化吸収されないから、体にいいものを食べても意味ない。

2015-08-14 10:16:22
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(武藤)誰かが作ってくれたものであっても、それが自分の納得できる量を超えると、嘔吐のきっかけになります。よい食べ物と悪い食べ物の区分けって、絶対的じゃなくて、その食べ物の置かれた社会的文脈によって相対的に決定されるんです。

2015-08-14 10:21:51
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日常と非日常の区分けは、時空間の意味づけの方法として基礎的なもののひとつである。日常と非日常の時空間で私たちはふるまいを反転させる。食の形を反転させることで人は自らを非日常、あるいは日常の時空間に引き入れ、ふるまいそのものを変えるといえる。

2015-08-14 10:26:53
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時空間の意味はそこに参与する人々によって初めて作り出されるため、非日常性が高ければ高いほど飲酒は強要される。これは酒に限らず、食べ物も同様で、江戸時代には、催事にカワリモノと呼ばれる特別な食事がふるまわれた。

2015-08-14 10:33:35
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正月に餅、誕生日にケーキを食べないと祝った気にならないことがあるのは、特定の食べ物が祝祭の時空間に人間を導き入れる役割を果たしているからである。 食べ物の種類だけでなく、食べる量も日常と非日常の切り分けに貢献している。 食べ物は、時空間切り替えスイッチなのである。

2015-08-14 10:48:31
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日常の食を反転させる形で行われる過食は、フローを引き起こし、それは彼女たちが不安と心配事がうずまく日常を乗り切るための術として定着した。しかし、そのフローは誰とも共有することができない。過食は続ければ続けるほど孤立を生む、悲しい祝祭なのである。 Ibid.,256

2015-08-14 10:54:19