1979(昭和54) 丹羽兵助~1981 (昭和56) 浜田幸一~1984(昭和59) 農林8人衆~1987 (昭和62) 派閥と農林族~1988 (昭和63) 農産物貿易戦争~1989 (平成元)悩む人事~ 1990 (平成2) ガット・ウルグアイ(UR) 農業交渉~1991(平成3) UR農業交渉
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遠田大亮 @DaisukeEnta

丹羽兵助は愛知県の知多半島に近い春日井市が選挙地盤。名古屋市の隣で農村地帯とは言うものの大きな住宅団地が並び立つ人口急増地帯の都市だった。それを可能にしたのは言うまでもなく水であり愛知用水の賜物だった。丹羽は“丹羽兵”(にわひょう)の愛称で親しまれていた。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/eTnu82dAZM

2022-07-20 07:20:32
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遠田大亮 @DaisukeEnta

丹羽兵助の初当選は自民党が結党された55年。しかし当選したものの選挙違反で失格した。ところが裁判の結果、無罪になり、本来なら誣告罪や名誉毀損で訴えても良いのだが「選挙違反に当たらない様な選挙は誰も出来ない。私が無罪になったのは運が良かったのだ」と訴えなかった。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/2rZn6iuvxU

2022-07-21 12:09:36
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遠田大亮 @DaisukeEnta

丹羽はクリスチャンでもあった。警察に抑留されたときは留置場にネズミが数匹出入りし、1匹ずつに名前をつけて友達になっていたという。さらに留置場の畳の糸くずに結び目をつけて“今日は何日目になったのか”数えていた。大の蟹好きで蟹がきれいに食べられていた。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/MBkzidfZX9

2022-07-22 07:17:17
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遠田大亮 @DaisukeEnta

丹羽は“仏の丹羽さん”と呼ばれた。農林派を形成し総合農政調査会長として73年から87年まで“君臨”した。米価では党内で激しい議論を戦わせて時間がすぎ議員が1人減り2人減りほとんどいなくなった頃を見計らい“それでは私に一任願います”と深々と頭を下げ了承を取るのが上手だった。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/gMwojNB4fZ

2022-07-23 07:26:07
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遠田大亮 @DaisukeEnta

丹羽兵助続き〜そして次の会議では“先に満場一致でご了承をいただきました”とやってのけるのだった。3ちゃん艦隊等は“仏の丹羽さんだからこそ出来るのだ”と皆しきりに関心していた。その丹羽はまた「知多半島には、もともと水がなく昔から干魃におそわれ農民は難儀していた。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/jNQBEsj9dy

2022-07-24 08:04:33
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遠田大亮 @DaisukeEnta

丹羽兵助続き〜そのための木曽川から水を引く愛知用水運動を起こして実現させた。一方で川の上流にある森林が整備されなければ川下の生活は成り立たない。水があるからこそ農業が営まれる。稲作があるからこそ食糧が確保できる。」と語り農林一体の大切さを説くのだった。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/xx3hkrJgdO

2022-07-25 06:57:44
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遠田大亮 @DaisukeEnta

丹羽兵助続き〜丹羽は背が低く猫背で弟のやはり代議士だった丹羽久章と身体つきがよく似ていた。だが久章は性格が荒いためか選挙に弱く丹羽がよく久章の応援に出向き自分の選挙の手を割いたために弟分が当選して自分が落選してしまった時もあった。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/0mR25Vh6cg

2022-07-26 07:53:12
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遠田大亮 @DaisukeEnta

丹羽のお辞儀は格別丁寧で、お客が丹羽との別れ際にお辞儀をして頭を上げても丹羽はまだ頭を下げており客が慌ててお辞儀をし直す程だった。その丹羽が“農政のドン”になれたのは中川、渡辺、湊の3ちゃん艦隊を引き連れていたからだった。その後羽田や加藤も門下生となった。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/OzpRluyJV3

2022-07-27 07:13:02
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遠田大亮 @DaisukeEnta

丹羽は国土庁長官や総務庁長官、労相も努めた。総合農政調査会長を3期努め桧垣や江藤、羽田に後を譲り最高顧問におさまった。だが90年秋、名古屋の守山駐屯地で自衛隊の記念式典に出席していた最中に近くの病院に通っていた患者から首をナイフで刺され亡くなった。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/uQ5ALEpObH

2022-07-28 07:20:32
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遠田大亮 @DaisukeEnta

“浜幸”こと浜田幸一は知る人ぞ知る自民党農林族の幹部だった。木更津市を選挙地盤としているので農業より水産族というイメージもあるが常に“3ちゃん艦隊”と寄り添い湊が亡くなった後は中川、渡辺の仲を取り持って総合農政派の立役者出であった。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/ZETvJDFZJZ

2022-07-29 07:50:01
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遠田大亮 @DaisukeEnta

浜幸が根っからの反骨精神だったせいか農林部会での議論が生産者一辺倒の議論で押し切られるのを極端に嫌った。だが一方では上座に座っている幹部達を守る“砦”にもなっていた。浜幸は身体を張って高齢の丹羽兵助らを支えていた。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/G4J9RCDiQF

2022-07-30 07:33:21
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遠田大亮 @DaisukeEnta

浜幸は部会では常に最後部に席を取り、雛壇にいる幹部が窮地に陥る様な事があると必ず助け舟を出して収めるのだった。その喧嘩上等はまさに天下一品で浜幸に向かう敵なしの感があった。その浜幸の活躍はとりわけ生産者米価の際に遺憾なく発揮されていた。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/O8gZb3HpnH

2022-07-31 08:52:46
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遠田大亮 @DaisukeEnta

浜幸続き〜生産者米価の議論の場は党本部7階の704会議室が普通だった。704会議室はコの字型にして国会議員約5~60人座れるが座りきれないためコの字型の間に折りたたみ椅子をびっしり並べて座るそれでも遅れてきた議員は資料を持って立つしかなかった。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/K13oBBXMSE

2022-08-01 07:15:47
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遠田大亮 @DaisukeEnta

浜幸は会議室に少し遅れて入って来て必ずと言って良いほど後方の席に座っている。浜幸の席を事務局の私が上着を椅子にかけて確保しているのだ。会議では米価を上げろの大合唱になるが浜幸が後ろにいるため大半の議員が気づいていない。もちろん雛壇の農林幹部は浜幸がよく見える。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/PEXuKEBjqK

2022-08-02 07:23:00
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遠田大亮 @DaisukeEnta

浜幸続き〜多くの議員が拳を振り上げながら米価引上げを延々と力説する。浜幸はそれをジッと腕を組んで聴いている。議論が約1時間も過ぎて、皆がこれからどうするのだろうと雛壇の幹部の表情をうかがっていると、挙手をした浜幸がスックと立上り皆の度肝を抜く演説を始める。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/MQ0zZux4B1

2022-08-03 07:28:16
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遠田大亮 @DaisukeEnta

浜幸は「農協はいつも米価を上げろと言う。しかし生産者米価を上げれば消費者米価の引上げに必ずつながる。消費者米価が上れば米の消費が減るぞ。米の消費が減ったらその分減反が上積みされて農家が苦しむだけだ。農協の言いなりになって政治家と言えるのか」と畳み掛けるのだ。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/D7udwjVEsQ

2022-08-04 07:04:45
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遠田大亮 @DaisukeEnta

浜幸はさらに続ける。「この会議室に消費者代表はいないのか。消費者の事を考えない議論なんてチャンチャラおかしい。総合農政と言うなら消費者を方も見ないのがおかしい。俺の意見が間違っていると言うなら言ってみろ。」と凄んで着席する。この浜幸の発言で会場が騒然となる。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/tRFGlnatMo

2022-08-05 07:23:53
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遠田大亮 @DaisukeEnta

浜幸続き〜「発言を取り消せ」「米価は引き上げるべきだ」とヤジが飛び交う中、浜幸が再び挙手し発言する。「農協の悪口を言うと怒るやつもいるが農協ではパンを売って米を食わない。自分達で作った物を国に買わせ自分達はパンを食っている。こんな農協でどうするのだ〜」自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/XfrRWIhm4S

2022-08-06 07:29:49
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遠田大亮 @DaisukeEnta

浜幸続き〜「農協の自販機ではコカ・コーラを売っている。それが本当の農協の姿と言えるのか。消費者あっての農政なのに党が生産者米価を上げろとしか言わない。米価を上げろと言うなら誰でも言える。だが米価は凧揚げ大会ではない。高ければ良いというものではないぞ」〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/fhuW6ttLyu

2022-08-07 08:14:35
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遠田大亮 @DaisukeEnta

浜幸続き〜ワイシャツを腕まくりして一気に喋りまくるのだ。これにはさすがの米議員も返す言葉がなく熱気でムンムンしていた会議室がたちまちにしてシュンと静まりかえるのだった。居並ぶ議員は皆、浜幸の迫力に圧倒されて、この日の議論を終えるしかなかった。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/N70tPZmTc9

2022-08-08 08:54:13
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遠田大亮 @DaisukeEnta

その浜幸がラスベガス賭博事件で議員辞職した。浜幸不在の米価議論は値上げ一色に染まる。浜幸がいたらこの年の生産者米価の議論はきっと変わっていた。3年半の自粛生活を終えて再び政界に復帰し農政な顔を出す様になるが、浜幸の威力はもはや無くなるのだった。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/5dZFcxg5BT

2022-08-09 07:14:30
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遠田大亮 @DaisukeEnta

この頃(1984年、昭和59年)が族議員の全盛時代。とりわけ農林族を仕切る幹部8人は「農林8人衆」の異名を取りマスコミや族議員からひときわ注目を集めていた。その8人衆とは、丹羽兵助を筆頭に桧垣徳太郎、中尾栄一、江藤隆美、佐藤隆、羽田孜、加藤紘一、大河原太一朗の8人。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/mBPYOBiXVn

2022-08-11 07:42:06
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遠田大亮 @DaisukeEnta

8人衆は皆、農林部会長や総合農政調査会長、米価委員長、衆院農水委員長や大臣を経験していて何事にも対応しうる知恵と勇気と能力があった。その8人衆の中で唯一、当選一回生が大河原だった。大河原は当選したての頃、農林省OBで先輩の桧垣から特別にメンバーに加えられた。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/3pJfh1BcVl

2022-08-12 06:58:54
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遠田大亮 @DaisukeEnta

農林幹部会のメンバーにはこの他にも渡辺美智雄、浜田幸一といった議員もいたが渡辺は“もう農林のことは皆に任せるよ”とほとんど顔を出さなくなった。浜幸はラスベガス賭博事件で議員辞職したため離脱した。その代わり玉沢徳一郎とか保利耕輔、近藤元次ら若手議員が育ってくる。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/PCFBzjUMWR

2022-08-13 07:32:23
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遠田大亮 @DaisukeEnta

この年、待望の農林幹部入りを果たした玉沢を加え農林幹部は9人になった。ところが8人から9人になって困ることがあった。それは大事な謀がどこかから漏れてしまうのだ。その犯人が丹羽さんではないかという事になり丹羽座長を外し極秘で6人で集った。それが6人衆の始まりとなった。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/2o5dUvTQzQ

2022-08-14 08:37:53
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遠田大亮 @DaisukeEnta

6人とは檜垣、江藤をメインにして佐藤、羽田、加藤、大河原。一方では丹羽座長が高齢な事への配慮でもあった。また中尾は全国組織委員長となり忙しく欠席しがちだった事から“もっと絞ったメンバー”となった。6人衆の会議は党本部以外で行う等かなり神経をさいた。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/y2fU50m91m

2022-08-15 09:54:36
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遠田大亮 @DaisukeEnta

マスコミにも6人衆の存在は一切内密にしたが6人衆で決めた方針を8人衆や幹部会で正式に諮る必要があり6人衆は“屋上屋だな”とため息をつくのだった。また生産者米価等の価格決定が深夜に及ぶ場合は会議開催時間を新聞社の編集締切時間を過ぎてからにする等細かい点にまで気を使った。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/6e1eOZpEeO

2022-08-16 07:16:14
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遠田大亮 @DaisukeEnta

なぜと言うと翌朝午前8時からの会議前に価格決定等の内容が報道されたら出席議員から“なぜ我々に報告する前に新聞・テレビで報道されているのか”と攻められひっくり返される可能性だって十分にあったからだ。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/PdyrTF6Vih

2022-08-17 07:01:33
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遠田大亮 @DaisukeEnta

この8人衆や6人衆の会合には農水省の官房長らトップが皆顔を出し必要に応じ大臣、事務次官も出席して対応策をねった。だから農政の最高意思決定機関とも言えた。内容も生産者米価の日程や決定事項、日米農産物交渉の進め方等テーマの全てを俎上に載せ議論し段取りを煮詰めていった。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/4jMYBqq7tF

2022-08-18 07:20:54
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遠田大亮 @DaisukeEnta

反面、農水省の役人には厳しかった。役人は事前に檜垣や大河原に相談して備えるが農林幹部からは“平場の会場で問われて答弁に窮する様な事はするな、ここでは本音で語れ”としごかれた。また時には全中会長等を呼んで調整する事もあり、ここから農政は集団指導体制と呼ばれた。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/zlN0fCRV7t

2022-08-19 07:18:35
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遠田大亮 @DaisukeEnta

派閥と農林族〜1987年、保利耕輔が農林部会長に昇進した。保利は羽田と同じ竹下派で羽田は年齢の若い保利を自分の後継者の様に可愛がった。保利は父の茂が農林政務次官の頃、千代田区3番町にある農林省の分庁舎に官舎があってそこで生を受けたため“耕輔”と命名されたそうだ。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/a0kczI5I2S

2022-08-20 12:20:18
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遠田大亮 @DaisukeEnta

だから保利は“私には農政に尽くす宿命がある”と語った。羽田は経世会から畑英次郎を農林族の中核にしようとしたが畑は離党した。宏池会は水産業を仕切っていた。水産業界は鈴木善幸が元祖で水産部会長を他派閥に譲った時代もあったが阿部文雄や菊池福治郎ら自派で占める様になった。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/829ftwKERF

2022-08-21 10:34:37
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遠田大亮 @DaisukeEnta

阿部文男は水産なら宏池会に任せろと豪語していた。同派では巻網業界の金子岩三、選挙区に海を持たない伊東正義が漁協共済会長を握っていた程である。だがそういう中、農林族に農水省OBの今井勇と米どころの加藤紘一が入って来た。さらに加藤は近藤元次と柳沢伯夫を後継者に育てた。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/pte3FCjoPj

2022-08-22 07:57:41
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遠田大亮 @DaisukeEnta

清和会では福田赳夫元首相を“親分”と呼んで慕った佐藤隆が農林族の筆頭になった。佐藤の先輩には中川一郎がいたが、中川は志し半ばでこの世を去る。佐藤自身も派閥を離脱した時期もあったが後に続いたのは玉沢徳一郎である。玉沢は佐藤の死後に清和会を代表する農林族の筆頭に立つ。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/ieFrPuQs2s

2022-08-24 07:04:15
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遠田大亮 @DaisukeEnta

清和会には岸信介元首相の後を継いだ吹田こうがいたのだが吹田も党分裂の時に離党した。また鹿野道彦や山本富雄も清和会だったが2人は農相経験後から農林幹部入りし活躍を見せる。またアパッチでならした桜井新も佐藤と同じ清和会だった。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/GkCqh4ZDls

2022-08-25 11:37:42
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遠田大亮 @DaisukeEnta

桜井は佐藤を慕った。佐藤の死後、桜井は保利から正規軍の農産物自由化問題委員会に指名されて農林族の本流に鞍替えした。桜井の次には中川一郎の長男昭一が農林族入りする。桜井は松岡利勝を可愛がったため、松岡が鈴木宗男と組んだ事からどうしても中川とソリが合わなかった。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/miD6q4oxLO

2022-08-26 08:28:50
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遠田大亮 @DaisukeEnta

しかしながら中川は山本富雄に引き立てられのし上がる。三木派は丹羽兵助が終始リーダーだった。同派は議員が少なかったので丹羽は近藤鉄雄を鍛えた。ところが近藤は羽田・加藤コンビの日陰になり目立たなくなったため労働族へ転向してしまう。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/zUtwfPeTr1

2022-08-27 07:22:06
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遠田大亮 @DaisukeEnta

また三木派には北修二もいたが北は農協出身だったため、もっぱら北海道農業のまとめ役の徹した。北に対して南は井上吉夫が活躍した。井上は竹下派だったが甘味資源作物の価格決定の際には“北は北海道、南は井上”と呼ばれ農業団体とのパイプ役となった。さらに大島理森が育ってくる。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/heTM0Q1mhq

2022-08-28 07:08:41
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遠田大亮 @DaisukeEnta

農林族の中枢は中曽根派。同派には渡辺美智雄、湊徹郎、江藤隆美、中尾栄一、檜垣徳太郎、大河原太一朗と“きら星”の如く幹部を揃えていた。渡辺は湊と同期で、江藤・中尾よりも先輩だった。衆院よりも地味な参院で大活躍したのが檜垣と大河原。2人は農林族の知恵袋として活躍した。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/ts63Wo2rfn

2022-08-29 09:49:11
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遠田大亮 @DaisukeEnta

檜垣と大河原は、北と井上さらに降矢敬義=福田派を引き込んだ。特に大河原が参院議員になって参院の農林族が勢いを増した。大河原は自治事務次官OBの降矢と意気投合し、北、井上、山本富雄を取り込み檜垣と共に参院農林族の力を大いに高め参院農林族を代表する議員となった。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/xyr5vvuc19

2022-08-30 08:40:25
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遠田大亮 @DaisukeEnta

無派閥では、浜田幸一が存在感を発揮した。1匹オオカミ的な浜幸は金丸信を親分と呼び農林族の生産者に偏った姿勢を叱り、終始、消費者の立場で正論を吐いた。浜幸は“俺がいないと渡辺と中川は喧嘩別れするぞ”と二人の調整役を努めたが無派閥のせいか脇役で終わってしまった。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/FD2fBnX0LJ

2022-08-31 07:12:17
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遠田大亮 @DaisukeEnta

農産物貿易戦争は70年代から80年代にかけて両国間の貿易摩擦を象徴する外交問題に発展した。したがって交渉ではアメリカが対日貿易赤字の解消を大義名分に我国へ農産物輸入の自由化を強く迫ってきた。アメリカのそうした主張へ政府がなびこうとするたび農林族が待ったをかけた。自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/q8jV5GWlHV

2022-09-01 06:37:43
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遠田大亮 @DaisukeEnta

ところが歴代首相は、日米同盟関係の強化と世界経済への貢献する姿勢を基本に、農林族の主張にも配慮しながら輸入制限品目の数を減らし輸入枠を拡大することにより農産物の自由化を進めるように舵を切ってきた。一方ではマスコミや経済界がそうした政府の旗振り役を務めてきた。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/MI14MFJvAw

2022-09-01 08:51:52
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遠田大亮 @DaisukeEnta

しかしながら実際には有力政治家も裏で自分の選挙区内に重要な品目を抱えていた。首相経験者の福田や中曽根は群馬県だがマイナー作物といえコンニャクがあった。2人は最後までコンニャクの自由化には手を下せなかった。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/Z2Q5tHSvSh

2022-09-01 11:41:43
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遠田大亮 @DaisukeEnta

また、北海道の中川一郎は酪農製品と雑豆、九州の山内貞則(鹿児島)、江藤隆美(宮崎)は牛肉、愛媛の檜垣徳太郎は温州みかんと競合するオレンジを擁した。その上、農業の根幹である米ともなれば全国議員がこぞって自由化に反対することは明々白々だった。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/9Vqqw66hTt

2022-09-01 11:48:04
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遠田大亮 @DaisukeEnta

それ故、衆参両院本会議は全会一致で牛肉・オレンジ・米の自由化反対を決議したのだった。農林族は82年に農林水産物自由化等問題小委を設置し、その委員長に中尾栄一、羽田孜、玉沢徳一郎、加藤紘一と党の農政を背負うホープを配置して臨んだ。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/rwZ6fgg4pM

2022-09-01 11:53:54
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遠田大亮 @DaisukeEnta

特に中尾の行動は奇抜だった。アメリカ通で英語に堪能な中尾は“一度彼らに日本の農業を見せたほうが良い”と提案し国会内の委員会室に同時通訳を配置し「日米国会議員会議」としてシンポジウムを開催した。これは自民党の歴史の中でも本邦初だった。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/yA9nLQ7bXb

2022-09-02 07:21:07
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遠田大亮 @DaisukeEnta

アメリカから上院・下院議員と秘書ら約20人が来日した。中尾は議員団を鹿児島と愛媛の2班に分けて農村を視察させた。鹿児島の責任者になった山内貞則は生まれ故郷の曽於郡の小学校に地元民5、6百人を動員して“牛肉の自由化を許さんぞ”と居並ぶアメリカ議員を前に大演説をぶった。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/68PJzQlzNg

2022-09-02 07:45:34
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遠田大亮 @DaisukeEnta

体育館の入口では昼間からバンバンと“花火”を鳴らして歓迎した。アメリカ議員は歓迎の花火に皆、驚いていた。愛媛班の責任者は檜垣だったが同じ様な“歓迎”ぶりをした。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/lDB0S7c4nq

2022-09-02 07:50:19
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遠田大亮 @DaisukeEnta

一方で、議員外交も活発になりアメリカに年に何度も出張した。83年江藤隆美が団長の時には下院の実力者デラガルザー農業委員長と会談した。デラガルザーは“もっと日本は我々の農産物を買うべきだ。消費者もそれを望んでいる。”と切り込んできた。〜自民党農政史吉田修 pic.twitter.com/K4iANBWCKV

2022-09-02 18:26:07
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まとめたひと
遠田大亮 @DaisukeEnta

農業、農政、農協等“農”に関してのツィートが多いです。 (個人的には)GHQの占領政策や押し付けられた憲法を金科玉条としたままでは、日本農業はもっと衰退すると考えています。 山形県農協中央会勤務。農協監査士。明治大学法学部卒。山形県酒田市出身。 過去のツィートは、以下↓のまとめサイト(min.t)からどうぞ。