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銅大 @bakagane

平山優さん『武田三代』を読んでいて、法城寺の名が湖水伝説に基づいていているとあり(p70)「へ?」と思って追記を読むと、『水(氵)が去って、土に成る』‥‥ああっ! 信濃もそうですが、山国でこそ、よく聞く伝説です。

2021-10-25 16:38:57
銅大 @bakagane

平山優さん『武田三代』で、信虎が諏訪と和平を結ぶさい、諏訪側が諏訪大社より「誓約の宝鈴」という宝具を持ち出して鳴らしながら両者が和議を結んだという記述を読む。(p100)中世ですので、霊的な意味合いもあったでしょうが、政治的な理由も大きかったのでは。身内の裏切りを防ぐ意味で。

2021-10-26 15:50:47
銅大 @bakagane

甲斐武田と信濃諏訪の確執は長く、和平を結んだとしても、それぞれ身内に納得のいかない連中も多かったでしょう。ですが「誓約の宝鈴」で結んだ和議であれば、誰かが和議を破棄すれば、堂々と討伐できます。ヤクザの手打ち盃みたいなものです。おどれ、ここにきて盃返すいうなら、もう容赦せんぞ。

2021-10-26 15:56:29
銅大 @bakagane

「誓約の宝鈴」は、和議を反故にしようとする身内を粛清できる名分に使えるのです。儀礼には、やはり意味があります。

2021-10-26 15:57:58
銅大 @bakagane

平山優さん『武田三代』まずは信虎まで読了。「息子に追放されちゃう父」として有名な信虎さんですが、その治世35年のうち14年に不作凶作の記録が残り、米や麦は高騰し、しかも戦場が甲斐国内で田畑が荒れました。当時の感覚では、天災が続くのは国主の不徳で、追放やむなしになったのではと。

2021-10-26 19:33:08
銅大 @bakagane

これが小野不由美さんの『十二国記』世界ですと天災と国主の不徳の関係は「本当にそう」なのですが、もちろん、現実では天災は信虎のせいではありません。が、ホモ・サピエンスとは本来なら別々のものを理屈をつけてつなげるところからが文明の曙なのです。天災と不徳のつながりは不幸なバグです。

2021-10-26 19:39:34
銅大 @bakagane

信虎が天災に見舞われて国主失格になったとして、甲斐に限らず、あのへんはみんな似た境遇にあったわけです。上から下までみんなつらい。ひもじい。それが戦国時代。ひもじい&惣村化で、百姓も所属意識を高め「奪うなら境界線の外」となります。境目の争い。境界戦機。むしろ巻き込まれる側の国主。

2021-10-26 23:09:42
銅大 @bakagane

もともと、農作業には筋肉を使う集団作業という側面があります。皆で一緒に畦を直し、田植えをし、稲刈りをし、とやっていればマウリッツの改革と同じく、同胞意識が高まります。つらくてもひもじくても、同じ村なら助け合おうという意識がでます。よし、助け合うため、隣の村から略奪だ!ヒャッハー!

2021-10-26 23:21:56
銅大 @bakagane

平山優さん『武田三代』、晴信の代には信濃への侵攻が進むわけですが、同時に甲州法度の制度も進みます。たぶん、これは両輪となっていて、法度によって身内の争いを抑制し、余力を外に向けてぶつけることで領土を拡張する。最後に官位・官職で正当性を確保する。

2021-10-27 10:43:24
銅大 @bakagane

伊藤俊一さん『荘園』を読んでいた時にも思ったことですが、京という権威の重要性は侮れぬものがあります。隣近所との喧嘩や、身内の造反を抑制するという意味で! 実力主義って、結局、実力を発揮するチャンスがなければ、認められぬのですよ。周囲にアピールするなら、官位官職こそ正義です。

2021-10-27 10:52:42
銅大 @bakagane

実力でいえば同時代でもかなり上位に入るはずの信虎が、天災が続くせいで国主としての徳がないと判断され、追放されちゃう流れを読むと、実力主義って儚いものだなぁ、と。実力があるのに結果がついてこないと実力主義では周囲を納得させられませぬ。実力主義が通用するのは追い風の時だけです。

2021-10-27 16:20:30
銅大 @bakagane

平山優さん『武田三代』、信虎・晴信・義信と見ていきますと「子は親を見て育つ」感があります。優秀だが国衆の反感を買った父を見て育った晴信が「国衆の支持」優先で略奪ヒャッハー路線をとったように、優秀だが行きあたりばったりすぎる父を見て育った義信は「筋目を通す」優先になったのでは。

2021-10-28 11:14:11
銅大 @bakagane

平山優さん『武田三代』、信玄までを読了。若い頃はやらかして負けることも多いのですが、晩年の信玄は安定した老練な戦いぶりをみせます。北の上杉、東の北条、南の今川&徳川、西の織田と、常に互角以上の戦いをします。平和な時代になっても、甲陽軍鑑で軍学のお手本となるのもうなずけます。

2021-10-29 12:57:52
銅大 @bakagane

歴史のifになりますが信玄にもう十年ほどの寿命があれば、織田政権は瓦解し、といって武田が代わることもなく、三河あたりまで制圧したところで武田包囲網をくらってタコ殴りにされ、勝頼とほぼ同年代くらいに甲斐武田は滅びたのではありますまいか。信玄は強いけど、勝ちきれる未来が見えないので。

2021-10-29 13:04:08
銅大 @bakagane

このifの場合、後世では武田信玄はハンニバルと同じカテゴリにくくられて論争や創作のネタにされるのではないかしら。戦争にはめちゃくちゃ強いが、終わらせることができない将として。「謙信死後に、景勝を支援するのではなく、北条と一緒に景虎を支援して三国同盟を作っていれば」とか言われる。

2021-10-29 13:11:33
銅大 @bakagane

平山優さん『武田三代』。信玄の代では、父を追放したり、長男を幽閉したり、同盟相手の今川を、背後から背骨をへし折る形で攻め込んだりと、実にドラマティックでした。ウォーゲームでいえば終了条件を見極め、ギリギリまで勝利点を稼ぐプレイ。ですが現実に終了はなく、後始末を勝頼が担当します。

2021-11-02 22:41:42
銅大 @bakagane

ゲーマー視点で後世からみると、信玄は決断力がべらぼうに高かったと思われます。危うい賭けに出ることを恐れない。 後を継いだ勝頼はというと、これもまた非凡で、とにかく諦めない人です。今の自分にできることを選択し、実行する。絶対に投了しない。王手王手で攻められても逃げ続ける。

2021-11-02 22:49:57
銅大 @bakagane

武田勝頼が最後は脆かったとよく言われますが、あれはむしろ逆であろうと思うのですよ。諦めないで必死に粘り続けたから、凡百の指し手ならとっくに投了してる状況でも一手、一手を稼ぎ、ついに力尽きたのでは。

2021-11-02 22:52:40
銅大 @bakagane

平山優さん『武田三代』。長篠の合戦は、戦法ではなく物量の違いとされています。鉄砲の装備比率では武田もそう劣るものではなく、織田側は優越していた鉛と火薬の物量で武田の攻勢を粉砕したのではないかと。海外からの物流を押さえていた地の利が、信長の勝利を支えます。

2021-11-03 12:06:36
銅大 @bakagane

長篠での物量差といいますと、さて、両軍は鉄砲一丁あたり何発くらい撃ったのでしょう。鉄砲足軽の手持ちは何発で、不足した場合は、どこから誰が補充したのか。予備の玉と火薬、火縄などは、普段はどこに置いてあったのか。 また、双方の鉄砲足軽の練度の差はどれほど開いていたのか。

2021-11-03 12:15:19
銅大 @bakagane

『武田三代』では長篠の後の軍役改訂で「鉄砲一丁あたり玉薬を200~300発用意せよ」という指示が紹介されています。 鉄砲足軽の訓練に使う玉薬もこの中に含まれるでしょう。戦役となると必要数を鉄砲足軽の手持ち分と、荷馬分とに分けて出陣し、鉄砲隊が編成された時に荷馬分が集められ、となりそう。

2021-11-03 13:22:52
銅大 @bakagane

装填や射撃は鉄砲足軽ごとに差のあることですので、消費速度も違う。銃身の過熱もありましょう。最初は足軽ごとに個別に射撃して、戦が長く続いて銃身が熱くなると、腕のいい一人が射撃を担当し、他の足軽が装填した鉄砲を撃つだけ、とかもありえるのでは。暴発とかの危険はどのくらいかしら。

2021-11-03 13:34:50
銅大 @bakagane

快川和尚の心頭滅却の言葉は江戸時代に創作されたそうですが、その快川和尚の焼けた法衣の断片が別の寺に寺宝として伝わっている(p417)とのことで、これは聖遺物であります。イエスの十字架といい、人類は聖者が受難するたびに聖遺物を作りたがります。(鳴り響くジョン・ウィリアムズのテーマ音楽)

2021-11-04 04:22:04
銅大 @bakagane

武田菩提寺の恵林寺に伝わる、「心頭滅却すれば火もまた涼し」の俚諺の元となった快川和尚の『滅却心頭火自涼』。元は他の僧が問答の中で口にした言葉が、江戸時代に快川和尚のものに。武田滅亡は歴史イベントとして大きなものだったので、受容される中でいろいろ変質してそうです。

2021-11-04 04:38:39
銅大 @bakagane

戦国時代の臨済宗グループチャットで「恵林寺が焼かれちゃったって」「あそこの快川和尚どないなったん?」「わからんが、連絡がつかん」あたりから、事実をそれっぽく繋げて物語化していったのではと想像してみたり。「立派な方だったからしゅうようと死を受け入れたのでは」「従容な。しょうよう」

2021-11-04 04:47:26
銅大 @bakagane

平山優さん『武田三代』。読了したので感想など。信虎、信玄、勝頼。3人に共通するのは、先が見えない中で必死にもがき続けたことでしょう。現状維持の様子見はなく、とにかく、動こうとします。甲斐が周囲を他国に囲まれた、『ディプロマシー』的にドイツの立ち位置であったせいもありましょう。

2021-11-03 23:20:27
銅大 @bakagane

甲斐の国主が現状維持を選ぶということは、すなわち、周辺国に好きなようにされるということです。実際、信虎の前の代までは周辺国の動向に巻き込まれ、特に関東で内乱があるたび、戦力供給源として、あるいは亡命先として使われてきました。甲斐の国主たるもの、自分から動かなくてはならぬのです。

2021-11-03 23:25:14
銅大 @bakagane

信虎は、周辺国の影響を受けて分裂していた甲斐の国衆を強引にまとめ、恨みを買って追放されました。 信玄は、父がまとめた甲斐の国衆を使って周辺国へ攻めかかり、恨みを買って死亡しました。 勝頼は、本人に罪はないのですが、父と祖父のやらかしの精算を行って死亡しました。

2021-11-03 23:28:07
銅大 @bakagane

内陸国の甲斐は、どこでも攻めることができるが、どこも攻めずに様子見を選択したら、あっという間に周囲から手頃な獲物として侵食される土地と時代であったといえるでしょう。そうした土地に最適化された存在が、甲斐武田家であったわけです。やるか、やられるか、なのです。

2021-11-03 23:35:22
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まとめたひと
銅大 @bakagane

のんびりこんびり、三割なほら吹きおじさんです。