徐々に道幅が狭くなったため、山路に慣れない友人を前にし、そのペースに合わせて私が追従することにしました。おしゃべりに花咲かせ、鳥を指差し野草に足を止める、気ままで楽しい下山です。シティガールながら友人の足取りに危なげはありません。 30分ほど下った頃だったと思います。
2020-02-14 22:12:12正直に言いますと気にも留めませんでした。私にとっては靴底が道端に落ちていることはあまりに日常でした。先行する下山者の誰かの靴底だろうと。ああ、何故私はあの時友人に声を掛けなかったのか。 更に10分ほど下った岩場で、友人が突如立ち止まりました。 「靴底落とした」
2020-02-14 22:17:36友人の足の裏から、まるっとつるっと靴底は消え失せていました。しかも左右。昨日あんなにたっぷり塗ったのに。ドイツの科学力、完全敗北です。
2020-02-14 22:21:09爆笑です。とりあえず爆笑しかありえません。我々はひとしきり腹筋が割れんばかりに笑いました。 「友よ!さっきくっ靴底!落ちてたのお前のか!ブフォ!」「何故その時言わない⁉︎ブフォ!」「だって靴底ってよく落ちてるじゃん!ドゥフ!」「ブグフ!bao、君は落ちている靴底に慣れすぎだブフォ!」
2020-02-14 22:25:50笑い過ぎて息が切れ、我に帰りました。 「下山、どうしよう」 どうしようもありません。今更取りに戻ったところで見つかる筈もなく、よしんば有ったところでこの状況では再接着はかないません。 「おりよう」 おりるしかない。
2020-02-14 22:30:55靴底といっても、失ったのは滑り止めのラバー層だけです。ウレタン層はまだ残っており、友人の足は貧乏っちゃまの例のあの靴みたいになっているわけではありません。オッケー大丈夫、裸足じゃないならなんとかなる、大丈夫大丈夫。
2020-02-14 22:35:00なだらかな岩場のくだりを滑らないよう慎重に進みます。なにせもう滑り止めのラバーはないのです、どこでどう滑るのか全く予想がつきません。
2020-02-15 20:13:39「ねぇ…」友人が不安げな声を上げました。「私の足音、変じゃない?」気がついてました、友人が足を踏みしめるたびに「プギューッポンッ!」という謎の音がするのです。
2020-02-15 20:46:50靴裏を改めると、土踏まずの部分が大きく窪むデザインです。ゴム底を失って剥き出しになったやわらかなウレタン層が濡れた岩と密着、そこに友人が体重をかけるため陥凹部の空気が押し出され吸盤となり、足を上げる時に引き剥がされる吸盤が「ッポンッ!」という音を立てるのだとわかりました。
2020-02-15 20:53:03「なにひとつ対処法が無いとしても、それでも疑問が解けるのは嬉しいものだね」至言です。友人の汗ばんだ笑顔と曇った眼鏡が神々しいと思いました。 (以後、我々の道行にはずっとこの「プギューッポンッ!」が通奏低音として流れてるつもりでお読みください。)
2020-02-15 21:55:54黙々と下る我々の頬にかすかに雨粒が当たりはじめました。 「降ってきたね」「本降りになる前にヤッケを着よう」 …今ヤッケって言った? 「うん、ヤッケ。早く着よう」 そう言って友人が取り出したのは普通のレインウェアでした。良かった、ガチのヤッケ出てきたらどうしようかと思いました。
2020-02-15 22:05:04霧のような雨に濡れる夏山は靴底が剥がれていてもなお美しく、我々はそれなりに景色を楽しみながら2時間かけて無事に下山しました。 「これからどうしよう?」 まだ10時を少し回ったばかりです、予定より4時間も早く下山してしまいました。
2020-02-15 22:13:28予定では、茅野から下諏訪へ出て下諏訪神社群を観光し、夜に甲府の宿へ入る予定でした。しかし雨足はどんどん強まっています。 私は予定を繰り上げて甲府入りし、甲府のスポーツショップで靴を買う提案をしました。 「でも、せっかくだから諏訪に行きたい。靴はなんとかなるよ」 オッケーです。
2020-02-15 22:18:40嘘です、正直心配でした。いつ靴底そのものが崩壊するかわからないからです。 しかし試練を乗り越えて高揚した友人に水を差すのも躊躇われ、私は下諏訪行きに同意しました。 ただの1mも登ることなく、下山だけした我々にも八ヶ岳は美しい懐を見せてくれました、ありがとう八ヶ岳、いつかまた来ます。
2020-02-15 22:26:22諏訪観光は平和なものでした。人気のない蓼科や茅野とは対照的に、ごった返す程ではないものの観光バスも止まり、道ゆく人たちも街の装いです。 残念ながら諏訪湖は雨霧にけぶり全貌を見渡すことは出来ません。「いつか御神渡りを観にこよう」 「電動アシストレンタサイクルにも乗りたい」
2020-02-15 23:34:33雨に振り込められても心は晴れやかです。最初は私も心配していましたが、なにせここは人里、靴底が粉微塵になったとしてもタクシーを拾えばいいじゃない!携帯の電波もバリ3です。(当時はまだ死語ではなかった)
2020-02-15 23:37:07下諏訪神社の龍の口から出る温泉水があんまりあったかくない事にがっかり(失礼)したのが妙に記憶に残っています。 そぞろ歩くうちに雨足はますます強くなり、傘を下ろせばしとどに濡れる程です。明るいうちに宿に入りたい私の希望を受けて、我々は甲府に向かいました。
2020-02-15 23:44:09甲府の宿は源泉掛け流しと文豪の逗留歴が自慢の老舗旅館です。 明るいうちに到着するつもりが、厚く垂れる雲のせいか甲府を取り囲む山々のせいか、夏の夕方とは思えない速さで陽は暮れて、宿に着いた頃にはすっかり暗くなっていました。 古びた飴色の手摺り、緋毛氈を模した絨毯、文豪の等身大パネル。
2020-02-16 00:15:34山間の老舗旅館に女2人、折しも外は豪雨。 私は軽めの被害妄想癖があるので「多分今夜殺人事件があって、目撃者として口封じに殺される役だな自分」と覚悟しました。
2020-02-16 00:20:38雨に濡れた身体を温めるために取るものもとりあえずお風呂をいただけば、大浴場は完全貸し切りでした。 「この宿…やばくない?」 「一応オンシーズンなのに、なんで客が我々以外ひとりも居ないの…?」 友人は私よりもちょっとだけ強めの妄想癖があります。
2020-02-16 00:24:24「あのパネル、裏に隠し通路あるよ多分」「通路に気がついたら始末される」「パネルの目がくり抜かれてて、覗き穴に」 江戸川乱歩と金田一耕助とその孫となんかいろいろ混ざった怖い妄想が止まりません。 あったまったのに薄ら寒くなって我々はそそくさと湯から上がりました。
2020-02-16 00:29:05夕食にと案内された広間にはずらりと座卓が並び、そのど真ん中の卓に我々の膳だけがしつらえてありました。 「笑うとハリセンでしばかれる…」それ以上言うな友よ。 給仕をしてくれる女将に訊ねれば、ゴルフコンペの客でほぼ満室予定だったものの、台風でコンペが中止(延期かも)になりこの有様だと。
2020-02-16 00:51:58一応気の毒そうな顔をしてみますが、そんな取ってつけたような説明で安心する我々ではありません。コンペの詳細を根掘り葉掘りし部屋に戻ってから私のスマホ(旅の前日にiPhone4sに変えていたのです)でゴルフコンペの公式ホームページの中止の情報を含めて照らしあわせてようやく疑心を解きました。
2020-02-16 00:57:18ともあれ、夜中寝入ったところを拉致されて邪神の生贄に捧げられたり、臓器売買のルートに乗せられたりする心配は無さそうです。 我々は安心して床につきました。 靴底のことを失念したまま。 つづく
2020-02-16 01:00:38雨音で目が覚めれば夏の夜は白々と明けていました。部屋の引き戸の前に申し訳程度に積んだ荷物と座椅子と茶卓のバリケードが虚しく照らされています。どうやらHOSTELゲスト出演は妄想で済んだようです。昨夜は暗くて気がつきませんでしたが、窓を見れば木々が迫り、激しく雨に打たれています。
2020-02-17 21:14:24朝に滅法強い私は普段通り4:30からフル稼働です。寝ている友人を起こさぬようバリケード解除、荷物整理と朝風呂と身支度を済ませて朝散歩に出ようとしましたが雨が酷すぎて諦めました。 寝起きの友人がいつもの友人に変貌する様をしげしげと観察できるのは旅行の醍醐味。十分堪能してさて、朝食です。
2020-02-17 21:14:28旅館らしい純和風の朝ごはんはとても美味しかったので、かえすがえすも昨日夕食を楽しめなかった事が悔やまれます。朝の光の中で見れば文豪の等身大パネルも…やっぱりこれはやめたほうが良いと思いました。 干しておいた雨具は借りた扇風機の風に当てていたお陰ですっかり乾いています。
2020-02-17 21:14:28そこでやっと我々は靴底問題を思い出しました。 実はこの度は主目的が2個あるのです。一つ目は友人の希望八ヶ岳の雲海そしてもう一つが私の希望甲府の昇仙峡です。 果たしてこの靴底でこの雨の中昇仙峡にトライする事は可能なのか。地図とガイドブックを出して検討開始です。
2020-02-17 21:14:29予定では最も下の昇仙峡口バス停で下車し影絵の森美術館を目指す予定でしたが、この雨の中では全行程滝行です。 終点の滝の上バス停で下車し、すぐ横の影絵の森美術館を見てから静観橋を渡り、昇仙峡ロープウェイまでのお店を冷やかして、ロープウェイを往復することにしました。ロープウェイ大好き。
2020-02-17 21:26:27たとえ豪雨の中であってもロープウェイはロープウェイです。そこは譲れない。私は宙に浮かびたい、怠惰に上昇したいのです。 友人のチベットスナギツネのような呆れ顔を他所にロープウェイへの愛を力説し、宿の最寄りのバス停への道順と時刻表を再確認していざ出発!
2020-02-17 21:29:43「雨が強いので昇仙峡はどうでしょう…晴れた時にもまた来てくださいね」女将さんの心配顔での敗北予告に見送られて雨の中宿を後にした我々は、時刻表通りにやってきたバスにのりこもうとしました。が、念の為運転手さんに訊ねました「このバスは昇仙峡の滝の上バス停まで行きますか?」
2020-02-17 21:33:44運転手さんは申し訳なさげに首を振りました「今朝がた路線上で崖崩れがあったので、このバスは昇仙峡までは行きませんよ」 「な、なんだってー!」 昇仙峡への道は断たれました、物理的に。 MMRのナワヤとタナカよりもあからさまな衝撃を顔に出す我々を見て、運転手さんは更に続けます。
2020-02-17 21:41:12「他の路線はまだ生きているかもしれません、今確認しますね」 運転手さん、ホスピタリティの塊です。雨で曇った眼鏡には彼の頭上に光の輪が見えました。 運転手さんはしばらく無線で本部と会話し、こちらを向いて頷きました。「動いてます」 イケメエェン‼︎‼︎
2020-02-17 21:48:33更にその路線のバスに乗れる最寄りのバス停へのルートまで教えて貰い、我々は運転手の姿を借りて顕現した天使が操るバスに感謝の手を振り見送りました。しかし、急がなくてはなりません次のバス停までの道のりと、バスが来るまでの時間はギリギリです。逃せば次は1時間以上、流石田舎(失礼)です。
2020-02-17 21:53:05濡れたアスファルトを10分走って、バスとほぼ同時にバス停に滑り込みました。 「この!バスはぁ!昇仙峡に!行きますか⁉︎」 運転手さんは微笑みました「連絡来てますよ。大丈夫、行きます」 私が閻魔様ならこの善行を理由にあの運転手さんを極楽送りにします。
2020-02-17 22:00:51勝った!我々は数奇な運命に弄ばれながらも昇仙峡への切符を手にしたのです。後は滝の上バス停まで座して待つばかり。汗と雨と期待でテカテカした我々だけを載せてバスは道を登って行きます。 本来の下車駅である昇仙峡口を通る道ではないため今どこにいるのかはわかりませんが、とにかく山道です。
2020-02-17 22:06:22大学時代に国土交通省の方に教えてもらった豆知識がよぎります「落石注意の看板は、落石で道が塞がれてるかもしれないから前方に気をつけてくださいって意味ですよ。落ちてくる石は避けられないのでその時は残念ですが…」 私、今、自分の記憶力が憎い。
2020-02-17 22:15:19自分の妄想に独りで怯えるのが苦しくなったので、友人にも脳裏によぎった豆知識の話を伝えると「今その話聞きたくなかった…」と沈鬱な表情で呟かれました。ですよね、私も君だったらそう思います。だが許せ友よ。1人の耐えられる恐怖には限りがあるのだ。
2020-02-17 22:22:48セルフサービスで怯える我々を載せて、バスは無事に滝の上バス停に到着しました。降車しようとする我々を呼び止めて、運転手さんは窓の外に見える静観橋を指します。 「お客さん、あの橋。今、水があと1mないくらいまで来てるでしょ?あれが50㎝になったら通行止めね。そしたらもう帰れないから」
2020-02-17 22:28:08えっ帰れないってどういう事ですか?「水が引いて、その後路線の安全が確認できるまでですね、明日までは動かないでしょう。次のバスが多分今日最後ですよ。それまでに戻ってきてください」 突然のインディ ジョーンズ案件です。あの川の水嵩がデッド リミットをこえたら、ジ エンドです。
2020-02-17 22:44:54運転手さんによると、上からの道もあるもののこの雨だとタクシーも動いてはくれないそうです。 つまり我々はあと1時間と少しで昇仙峡を攻略し、必ずここに戻ってこなくてはならないのです。 さぁどうしましょう、少なくともロープウェイは絶望です。 「ロープウェイは今日は運行してませんよ」
2020-02-17 22:47:57ロープウェイ今日動いてないってさ。 ですよね、当然です、バスが止まろうかって時にあんな空中をふわふわ行くものが動く筈がありません。悔しくない、悔しくなんてないです。また次だ、首を洗って待ってろ昇仙峡ロープウェイ。
2020-02-17 22:50:03まあ、いまだに昇仙峡ロープウェイにはリベンジできていないわけですがいつか必ず奴を仕留めてみせますので、その折にはまた報告します。 話を戻します。
2020-02-17 22:51:47緊急ミーティングを開いた我々は、Cプランを作成しました。 ここまで来たのだから、静観橋は渡ろう。そして1番近くて屋根もちゃんとしてそうなクリスタルバレーでなんか山梨っぽい水晶的なお土産を買い、すぐに取って返して影絵の森美術館で時間ギリギリまで過ごそう。実現可能性が最優先です。
2020-02-17 22:59:02