✄---------- コミットメントとフュージョン、(結婚を例に)『ACT第2版』pp.543-5 ---------✄
2015-06-13 14:07:02フュージョンは、コミットされた行為に対する主な障害物のひとつである。フュージョンには、「コミットされた行為の基礎としての『理由』」とのフュージョンも含まれる。ある行為が「理由」に基づいており、かつ、その「理由」が変わるとしたら、「判断」そのものも論理的には変わらなければならない。
2015-06-13 14:13:34つまり、コミットメントは、論理的な「判断」に基づいておこなうよりも、「選択」としておこなうほうがよいということである。「理由」は、人が直接コントロールできないことを指し示すことが多い。「理由」の数や妥当性が変わると、コミットメントの程度も、大きくなったり小さくなったりする。
2015-06-13 14:20:03コミットメントを、世界のものではなく私たちのものにするつもりなら、コミットメントの拠り所は、私たちのコントロールがおよぶ領域に設定しなければならない。
2015-06-13 14:24:34結婚は、選択することと判断することとの違いを、とてもわかりやすく示す。結婚はコミットメントである。それにもかかわらず、結婚したカップル全体の半分が離婚に至る。なぜこんなことになるのだろうか? ひとつには、人々がコミットメントの仕方を知らないからである。
2015-06-13 14:30:46人々は、コミットメントを、(ACTの意味での)心からの「選択」としてではなく、「判断」や「理由」に基づいておこなおうとする。そうするとき、人々は、自らのコミットメントを大きな危険にさらしている。
2015-06-13 14:35:14たとえば、ある男性がある女性と結婚するのが「彼女が美しいから」だとしよう。もしも、その後、女性が容姿を大きく損なう事故に遭ったとしたら、彼女を愛して一緒にいたいと願う「理由」はもはや通用しない。
2015-06-13 14:40:19たとえそのように反応したくないとしても、男性は、理由が自分に告げてくることへの対処に苦しむかもしれない。なぜなら、結婚するというもともとの行為は、その「理由」に基づき、つながり、その「理由」によって説明され、正当化されていたからである。そして、その「理由」は今や変わってしまった。
2015-06-13 14:44:01この種のことは、人々が結婚して、その後、配偶者に対して以前と同じ愛の感情をもはや抱いていないと気づいた時はいつでも起きている。私たちの文化では、愛とは選択の一種ではなく感情だと主に考えられているため、愛の感情のために結婚するのはとても理にかなうこととみなされる。
2015-06-13 14:48:32しかし、愛の感情は極めて予測不可能である。だからこそ、私たちは、愛のことを、偶然に出会う出来事かのように語り、恋に落ちる、愛が冷める、などと言う。そうならば、まったく同じように、私たちが結婚に落ちたり、結婚が冷めたりしても、驚きではないはずだ。
2015-06-13 14:54:06価値づけられた領域で選択することを学ぶと、ものごとは違うように機能する。ここで、結婚が、結婚するという選択に基づくものであり、愛が、相手を価値づけて特別な存在として抱く選択だとみなされるとしたら、結婚の誓いを守る可能性がどれほど高くなるかを考えてみよう。
2015-06-13 14:58:58そのような行為は、理に合わない(unreasonable)のではなく、理由がない(areasonable)のである。選択に基づいたコミットメントは、その人を、ルール支配行動の弱点から防護する。選択として抱く限り、コミットメントを放棄することを説明し正当化することは起こり得ない。
2015-06-13 15:04:41なぜなら、選択そのものは、説明され正当化される必要がないからである。どんな理由が「一緒に付いてきて」、それが後になって変わるとしても、その選択は理由に衝き動かされていたわけではないため、選択そのものは変わる必要がない。
2015-06-13 15:10:30このように言語的な「覆い」が存在しないことは、それ自体が、コミットメントの維持を支持する強力な随伴性である。
2015-06-13 15:12:20(離婚する選択のときのように)コミットメントが変わりつつあっても、言語的な覆いが存在しないことによって、より大きな価値を、正面に、真ん中に、抱き続けることができる。(例 : 相手に敬意を払い、子どもたちを守るように離婚する。)
2015-06-13 15:15:22フュージョンの最も一般的な形態は、理由(または理由を失うこと)がコミットされた行為に対する障害物となるときにみられる。 【以下、フュージョンがヘキサフレックスの他の側面とどう関連しているのか、について述べられていくのですが。 う~ん。抜粋は手短にしておきますw 】
2015-06-13 15:23:04(コミットメントと「今、この瞬間」) 困難が生じるのはクライエントが、「今、ここ」ではなく未来のこととしてコミットメントを行う場合である。未来とは、構成されたもので、現実には存在しない。私たちは「未来はこうでなければならない」という思考とフュージョンする時、過度に用心深くなる。
2015-06-13 15:53:06未来の想像に時間をかけすぎると、「今、この瞬間」に行動する機会を失いかねない。また同じく、過去とのフュージョンも、コミットメントを弱める可能性がある。過去の失敗を思い出すことに時間のすべてを使っている場合、クライエントは、この瞬間の中で行動するにはより不利なところにいる。
2015-06-13 15:58:21心配と反すうは、嫌悪制御の支配下にあるルール支配行動の例である。これによって、クライエントは、重要な入力に鈍感になり、状況が変わっていく中でコミットし続けるために必要な柔軟性を失う。
2015-06-13 16:04:03(コミットメントとアクセプタンス) 恐れている一連の体験、思考、感情、行動傾向、身体状態をアクセプトできないものだと判断する限り、私たちは、コミットメントをおこなって継続していく自らの能力に限界を設定してしまう。
2015-06-13 16:08:32親になることは心を身体の外に置くようなもの、という言葉には真実がある。コミットメントをおこなうことは、心を身体の外に置いたままの状態で、進んで生きることである。価値のためなら心理的に苦しむことにウィリングネスでいる能力が育まれて初めて、コミットメントが可能になるのである。
2015-06-13 16:13:37(コミットメントと自己) 「私は負け組であり、何かをやり遂げられるわけがない」という概念化された自己の思考とフュージョンしているクライエントは、何の計画もはじめないだろう。児童虐待の経験に基づいた自己の物語は、決して誰も信用しないという結果を招くかもしれない。
2015-06-13 16:20:26多くの場合、コミットメントに伴って自分自身が傷つきやすくなるため、その人は、本当に手放し傷つきやすくなることにウィリングネスではないかもしれない。
2015-06-13 16:27:05それに対して、自己の物語をただの物語として眺めることができるクライエントは、コミットメントする時に表れる思考や感情を観察し、継続するのが苦痛な時でも継続するときに、はるかに有利なところにいるのである。 (前掲書、- p.547)
2015-06-13 16:51:18しばらく右側の新刊(第2版)から抜粋して来ましたが、真ん中の本(10年前)から、1~4章の要約が述べられている第5章の頭を少し抜粋して、最後に、右側の本の第4章から、ケース・フォーミュレーションを、以前に描いた絵を例示して呟きます。 pic.twitter.com/nAFzB1jqCQ
2015-06-13 17:30:08↓ ちなみに、左の本『あなたの人生をはじめるためのワークブック』(ブレーン出版 2008)は、セルフヘルプ本で、これまでご紹介してきたようなエクササイズが、たくさん、大きな文字で、わかりやすく書かれています。あ。左上の星和書店の『こころのりんしょう』は絶版です。すみません。
2015-06-13 17:35:18ACTの哲学的背景は、機能的文脈主義(functional contextualism)ですが、この垢にはそぐわない話題と思ってました。文脈さんからフォローいただいて、ちょっと考えを改めましたw ついったらんどの出会いの魅力ですかね。 pic.twitter.com/8PvVSBNGVQ
2015-06-19 21:11:47@bunnmyaku 『アクセプタンス&コミットメント・セラピーの文脈』(編著 武藤崇、ブレーン出版2006)写真の真ん中の本です。第1章p.25から引用しました。図の左側が哲学、真ん中がルート・メタファー、右側が行動主義での分類で、 pic.twitter.com/si5GE4nfzb
2015-06-20 14:24:12@bunnmyaku (続き)本章を担当した武藤崇氏のおおもとの論文はネットで読めます。→『行動分析学と「質的分析」(現状の課題)』立命館人間科学研究 第2号 2001.12 ritsumeihuman.com/uploads/public…
2015-06-20 14:29:17