父の恩人である酒田市農協組合長水越主基さんの本。非売品。 私も水越さんの想いを引継ぎたいと願っています。
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遠田大亮 @DaisukeEnta

【土地は誰の物】 土地程不思議な物はない、何時の時代から土地には価値が付いたのか、大昔からの権力争い、縄張り争い、それはより良く生きる為の争いで、土地を奪いあったからであろうか。 亀ヶ崎今昔物語水越主基 pic.twitter.com/0G9w51ZB9n

2024-02-05 08:02:32
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遠田大亮 @DaisukeEnta

人間生きるためには、先ず衣・食・住それぞれ土地を抜きにして語ることは出来ない。 然し現代においてそれら物量的な物よりも、お金が同等以上に重んじられている。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-05 08:04:43
遠田大亮 @DaisukeEnta

お金があれば何でも求められる。 土地があれば食べ物が得られる、収穫があれば御高と言って販売して所得が得られる、 農作業を手伝いすれば賃金をもらうことができる。このように多面的な関わりの中で土地の有利性が現れてきたのである。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-05 08:05:41
遠田大亮 @DaisukeEnta

それを一挙に土地=お金に結び着けたのが土地区画整理事業だったのではないか、これほど美味しい話はない。農業の重労働もなくなり、重い米俵を持ち上げたり、かついだりしないで大金が入る、単純に考えればそうだが。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-05 08:09:56
遠田大亮 @DaisukeEnta

始めて田んぼの区画整理をやろうとした大先輩達は、もっと純真に我が家の農業経営と家計向上を考えていたと思う。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-05 08:10:49
遠田大亮 @DaisukeEnta

先ず太平洋戦争に敗れ、超食糧難時代を経過して米の値段は年々上昇して来た。それが経営面積の拡大を考えたし、生活の向上による文化生活へのあこがれ、戦前の生めよ増やせよの人口計画により、次・三男を分家させなければならない事情など、多くの問題点を解決しなければならなかった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-05 08:11:51
遠田大亮 @DaisukeEnta

一反歩(十アール)を宅地として売り、三反歩を求められれば良いとしていた。それで経営面積が二反歩増となり、それで尚土地を高く売って残りは昔に建てた茅葺きの家を新築して文化的生活を目指し、更に次・三男に宅地を分けたり家を立てるのに協力したりした。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-05 12:52:30
遠田大亮 @DaisukeEnta

それと同じく土地を求める人々も同じ条件であり、所得倍増論に刺激され、インフレが早いか、所得の伸びが早いか、奇蹟といわれた程の物凄い高度経済成長の波に乗り、次・三男の分家、狭い住宅事情の解消など、核家族化に入った社会構造の変化にうながされ、 住宅地の取引が旺盛であった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-05 12:54:22
遠田大亮 @DaisukeEnta

そのような中で宅地を供給する側は、昭和二十七年現在の若竹町である竹藪地区から始まった。元々竹藪地区は最上川地内で、年々の大洪水で土砂が盛り上がり、後で開墾した土地といわれている。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-05 12:55:34
遠田大亮 @DaisukeEnta

土地の所得者もまちまちで、酒田市でも宅地需要をそのままにしておけず、酒田市が事業主となったのである。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-05 12:56:24
遠田大亮 @DaisukeEnta

当時は今日のような車社会や、生活の変化、経済の成長を予想することが出来なかったので、一戸当たりの坪数は五十から七十坪位で、 今になれば駐車場にも事欠く面積であったが、土地区画整理の先鞭をつけたのであった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-05 12:56:53
遠田大亮 @DaisukeEnta

昭和三十九年に入って、竹藪地区と旧国道七号線をはさんで、西川原地区の整理事業が始まり、その地区の土地所有者は土地販売代金でうるおったのである。代換地として販売代金で田んぼを求めれば譲渡税は免税になる制度を利用して、土地を求める人が多かった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-05 12:59:07
遠田大亮 @DaisukeEnta

その頃は、亀ヶ崎地区内の田んぼもある程度たやすく求められたので、後にその田んぼも土地区画整理になり、二回転三回転させた幸運の人もいた。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-06 07:06:40
遠田大亮 @DaisukeEnta

それ以上に目や耳を驚かせそして羨ましく思ったのは、我々が望むことも考えることも出来なかった料亭通いであった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-06 07:07:08
遠田大亮 @DaisukeEnta

ことに日和山公園の入り口にある料亭小幡は有名であり、後に我々もだんだん慣れて小幡のみならず、六助、相馬屋、治郎兵工、香梅咲、その他日吉町界隈のスナック、バー、 キャバレー白ばら等を傍若無人に札ビラを切って走り廻ったそもそもの元祖は、西川原区画であった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-06 07:07:32
遠田大亮 @DaisukeEnta

この魔術のような錬金術は、当初は知らなかったが、それは減歩率という手法であることが判ってきた。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-06 07:08:52
遠田大亮 @DaisukeEnta

減歩とは、元々の個人の所有地から一定の率の面積を出して、公園や道路面積に当てたり、そのための側溝、舗装などの工事費や、測量費・事務費に当てるもので、役員手当てといえば正当だが、率を決めるのに余裕を持たせれば、サジ加減でいくらでも出来たのである。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-06 07:09:13
遠田大亮 @DaisukeEnta

いくらサジ加減でも、もともとは自分の所有地から出した減歩からであり、タコのように自分の足を食って騒いでいたのである。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-06 07:10:04
遠田大亮 @DaisukeEnta

それを自覚しようがしまいが、一時の金の魔力は調薬のように人々を狂わせ、そのころから総会は料亭と地権者一同一緒になって踊ったのである。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-06 07:14:51
遠田大亮 @DaisukeEnta

昭和四十年に入ると的場地区、外川原地区、広野第一、第二、草刈谷地とすすめて来た中で、その土地の分布状況によって、亀ヶ崎地区の農家の羽振りの良さの格差が広がってきていたのである。 亀ヶ崎今昔物語水越主基 pic.twitter.com/BrlV27f26a

2024-02-07 08:06:58
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遠田大亮 @DaisukeEnta

特に戦後行われた田んぼの交換分合によって、一方的に田んぼの所有のかたちが固まっていたので尚更であった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-07 08:08:32
遠田大亮 @DaisukeEnta

当時の我々三十才代の青壮年も農業情勢の変化に頭を痛め、ようやく大型機械化の導入、共同作業などで経費削減と労働力不足を何とかしのごうと模索している時、〜 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-07 08:10:14
遠田大亮 @DaisukeEnta

片や薪ストー ブの上の油揚げをつつき、青竹と称して安酒の一升ビンを抱いて呑んでいる時に、片や背広を着こなしてさっそうと「今日は小幡だ」と去っていく姿を見た時に、何ともいえないこれでよいのかと複雑さがこみ上げてきた。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-07 08:11:01
遠田大亮 @DaisukeEnta

昭和四十八年、いよいよ亀ヶ崎地区の命の綱である内川原地区に火がついたのである。 畑あっての鵜渡川原、鵜渡川原といえば畑、そしてウドガワラ胡瓜、野菜のフレ売り、長い間、酒田市民に新鮮な野菜を提供してきたのである。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-07 08:12:39
遠田大亮 @DaisukeEnta

そして一年の生活費の大部分を稼 いできた土地である。しかし全国の道路網が整備され、輸送手段である車社会になるにしたがい、全国各地の野菜がどっと流通してくると、相対的に地元の畑作物の優位性がなくなってきたのであった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-07 08:16:34
遠田大亮 @DaisukeEnta

ある日、裏の畑で水を掛けるために天秤で水桶をかついでいた私の家内に、「かあちゃん、そのうちそんなものかつがなくてもいぐなっさげの」と、近所の畑の耕作者にいわれたと言って、ほんとだがと聞かれた。 亀ヶ崎今昔物語水越主基 pic.twitter.com/NHY38qRupD

2024-02-07 08:20:01
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遠田大亮 @DaisukeEnta

もともと内川原の畑には道路はなかったのである。あったのは矢場道と田村牛乳店前の広野道の二本で、その間の畑への通路は人や馬がやっと通れる草道であった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-08 08:08:47
遠田大亮 @DaisukeEnta

一本は丸之橋から元火葬場(亀ヶ崎七丁目公園)までと、それから分かれて権吉沼までなど数本であった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-08 08:09:34
遠田大亮 @DaisukeEnta

自分の畑に行くまでは他人の畑の端を歩いてゆかねばならず、肥桶をかついだり収 穫物を運んだりで、いつしか通路が広くなり、ことに耕耘機を使用することになると、どうしても他人の土地を歩かざるを得ず、苦情をいわれたりしたものであった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-08 08:10:17
遠田大亮 @DaisukeEnta

昭和三十年の初め頃になると、牛馬もいなくなり、また人を雇い入れることも難しくなり、三輪トラックや耕耘機の時代となったのである。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-08 08:11:11
遠田大亮 @DaisukeEnta

そこで道路が是非必要であると、土地所有者が中心となり、土地改良法による土地区画整理事業を起こし、碁盤目状になった 道路に畑作業の利便性は大きくなったのである。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-08 08:11:31
遠田大亮 @DaisukeEnta

如何に時代の流れに新しい農業を合わせようとしても、その声は金の魔力には消えてし まうのだろうか。タラ籠を背負って腰をまげ、地這いの名産鵜渡川原胡瓜を籠に放り投げる、その重労働の対価も一攫千金には太刀打ち出来なくなったのである。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-08 08:12:07
遠田大亮 @DaisukeEnta

今まで区画整理に無縁の人や、かつてその味をしめた人など俄然騒がしくなり、熱病に侵されたようにその勢いは誰も止めることが出来なかった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基 pic.twitter.com/iBs3oHG5Rb

2024-02-08 08:15:35
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遠田大亮 @DaisukeEnta

それでも地盤がよいというだけで、仮換地の時より評判もよく、紙のうえでの図面上の保留地への申し込みが殺到し、どこが良いのか今の雇用促進事業アパートの前、亀ヶ崎六丁目の角地である一区画になんと四十九名の申し込みがあり、大激戦の中で抽選して大きなため息にどよめいた一コマもあった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-09 08:27:30
遠田大亮 @DaisukeEnta

価格も坪三万円で、三年ほど後に起きた酒田大火による急な住宅需要で、真ぐに三倍の十万円にはね上がったのを見れば、安い買い物であった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-09 11:50:32
遠田大亮 @DaisukeEnta

そのようにして工事、土地の売れゆきなど順調に経過し、いよいよ昭和五十一年十一月内川原土地区画整理組合の竣工祝賀会を、中町の産業会館で全組合員、多くの来賓を招待 して賑やかに挙行する予定で、段取りその他準備怠りなく待ち構えていたのであった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-09 11:52:00
遠田大亮 @DaisukeEnta

ところが昭和五十一年十月二十九日夕方、忘れることが出来ない酒田大火が起こった。 中町中心部から新井田川まで、真っ黒くただれた焼け野原となってしまったが、幸い産業会館は直ぐ隣まで焼けたがかろうじて残ってくれたのである。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-09 11:52:36
遠田大亮 @DaisukeEnta

そこで組合役員は竣工祝賀会をやったらよいか、中止か、苦渋の決断を迫られたのである。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-09 11:53:06
遠田大亮 @DaisukeEnta

すでに案内状はかなり前に発送していたし、その返事をもとに席順も決めていたし、 今更という考えもあったが、あの惨状を見れば片や泣いているし、その中で惨めな焼け跡を眺めながら、そこら辺で着飾って賑々しく行き来してはいられないのではないか、止めた方がいいのではないかと意見が一致し、中止と決めたのであった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-09 11:54:32
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遠田大亮 @DaisukeEnta

その代わりに浮いた 竣工祝賀会の費用の一部として、酒田市へ罹災者義援金として金五十万円を寄付したのである。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-09 11:56:05
遠田大亮 @DaisukeEnta

今は当時の役員は残り少なくなってしまった。亀ヶ崎六丁目・七丁目には、過去の出来事など知らぬげに住宅で埋まっている。遠く霞むなだらかな月山、両羽橋と堤防、旧国道七号線を行き交う車、夜の流れるヘッドライトも見えなくなった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-09 11:57:29
遠田大亮 @DaisukeEnta

のどかな畑に豊かな実りを求め、鍬をかついで歩む老爺の姿は今はない。ただあるのは、豪華であるがどの街とも同じような景観、それぞれ思い思いの家の構え、ただ無表情に人々は行き交うのみ。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-09 11:58:16
遠田大亮 @DaisukeEnta

土地の所有とはもともと何だったのだろうか。地面を掘って見ても先人の汗もにじんでこないし、ウドガワラ胡瓜の種子の化石も出てこない。ただ時の流れの風紋と、粛々と進む人と物の風化の中で、土地は黙して語らずその疑問に答えようともしないのである。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-09 11:59:06
遠田大亮 @DaisukeEnta

もう一方の亀ヶ崎先祖伝来の最後の本田地区の田んぼは大切に残されていた。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-10 07:20:28
遠田大亮 @DaisukeEnta

この土地を造成することは簡単だが、亀ヶ崎地区の農業をどうするかを考えないで進めることが出来ないとする考え方と、昭和四十七年(一九七二)国道バイパス開通以来、南は東両羽町、北は四ツ興野部落まで宅地造成が進んでいる現状の中で、その間にポケットのように本田地区の田んぼが残されていた。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-10 07:21:06
遠田大亮 @DaisukeEnta

しかし国道バイパス沿いや、駅立町線沿いの乱開発に頭を悩ませていた。それが進むと、将来の正常で有利な土地造成に支障をきたすとの意見に分かれていた。 亀ヶ崎今昔物語水越主。 pic.twitter.com/alORH1yORy

2024-02-10 07:24:20
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遠田大亮 @DaisukeEnta

昭和五十三年(一九七八)いろいろ問題があったが、発足に踏み切った。そもそも本田地区の田んぼは、重粘土で固く水持ちがよく、水利状況が悪い昔は砂壌土と違い干ばつに 強い上田とされていた。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-11 09:12:09
遠田大亮 @DaisukeEnta

私が農業に就いたのは昭和二十五年(一九五〇)で、その当時は若くして非力であった。重粘土であったが故に、馬耕・代掻きは大変だった。ある時は田んほがゴロゴロとしていたので、田植えのとき型付け役から逃げられた時もあった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-11 16:52:46
遠田大亮 @DaisukeEnta

それ以上に苦労したのは田んぼの水掛けで、我が家の田んぼは末流の高い所にあった。 その水も朝五時から夕方五時までで、その上、刻限と称して五日毎に水の流れは休みであった。 亀ヶ崎今昔物語水越主基

2024-02-11 16:54:17
遠田大亮 @DaisukeEnta

上流中流にある田んぼは、午前午後の太陽の高いうちにたっぷりと掛けることが出来て、悠々と引き上げてゆくのである。我が田んぼに水がくるのは太陽が西に落ちる頃で、すでに揚水の水は時間切れで他地区の田んぼに回されている。 亀ヶ崎今昔物語水越主。

2024-02-11 16:55:46
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まとめたひと
遠田大亮 @DaisukeEnta

農業、農政、農協等“農”に関してのツィートが多いです。 (個人的には)GHQの占領政策や押し付けられた憲法を金科玉条としたままでは、日本農業はもっと衰退すると考えています。 山形県農協中央会勤務。農協監査士。明治大学法学部卒。山形県酒田市出身。 過去のツィートは、以下↓のまとめサイト(min.t)からどうぞ。