大平喜間多『佐久間象山伝』 より
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シービー @MrCB_Harukaze

象山は、土佐藩からの招きを断って貰えるよう、藩主幸教に頼んだ。幸教公は土佐藩に拒絶の書状を送った。象山は長州藩と土佐藩からのスカウトをどちらも断った。象山は大恩ある前藩主真田幸貫のために、松代藩に残ったのかも知れない。

2023-02-16 19:09:32
シービー @MrCB_Harukaze

象山は、蟄居赦免の翌年文久3年1月2日、登城し、幸教に新年の挨拶と藩政改革の意見を述べた。翌日、再登城し、政治・経済のトップの家老赤沢助之進、軍事トップの家老矢沢監物をはじめとした藩重臣たちを前に、「今は家柄・門閥を尊重し、意味の無い格式を重んじる時代ではありません」と話しはじめた

2023-02-16 19:12:04
シービー @MrCB_Harukaze

「賢者が上におり、愚者が下に居るのでなければ、善政は到底実現できません」と言い放ち、「我が藩の政治が現在非常に不振を極めているのは、常に賢者が下におって、愚者が上にいるからです」と締めくくった。会議の座は重苦しい雰囲気に包まれた。

2023-02-16 19:12:22
シービー @MrCB_Harukaze

その後、赤沢に対して「六廉」、矢沢に対して「四つ目殺し」とそれぞれ古い中国の言葉、囲碁の戦法をレクチャーした。矢沢は赤面し、赤沢は「いろはから覚えるつもりです」と反省の言葉を言う、が、象山は辛辣であった。

2023-02-16 19:12:38
シービー @MrCB_Harukaze

「その心掛けは誠に結構です。しかし、初歩から取り組むとあっては、泥縄のようなもので何の役にも立ちません」と言い、それを聞いた矢沢は「今日限り役をご辞退させていただく」と言い放つ。

2023-02-16 19:12:55
シービー @MrCB_Harukaze

それを見て家老小山田采女が取りなしたが、象山はとどめを刺すように「国家の非常時に愚もつかぬ話しで正義の論を退けられるのであれば、勝手に為さるがよろしかろう」と激昂した。ついに座の一同は総辞職を申し出る。

2023-02-16 19:13:10
シービー @MrCB_Harukaze

象山は、閉居していた望月主水を起用して政治・経済担当に、自身は軍事・学制を担当して藩政を立て直そうとしたが、藩内では象山の強引さを喜ばない者が多く、結局総辞職は認められないことになり、象山の考えた人事は実現しなかった。

2023-02-16 19:13:17
シービー @MrCB_Harukaze

藩政改革の道を閉ざされた象山は、今は自分に利のない時期と考え、時機の到来を待つことにした。馬で郊外まで乗り風景を楽しんだり、詩歌を創ったりする生活を送っていた。文久3年(1863)7月26日、京の伝奏飛鳥井雅典の使者から松代藩京都留守居役玉川一学のところに書状が届く。

2023-02-17 19:00:45
シービー @MrCB_Harukaze

貴家御家来佐久間修理殿を朝廷が招いているとの内容であった。これは、真木和泉が推薦したことによるという。和泉は、かつて象山のもとで砲術を学んだことがり、象山が当代の逸材であることは承知し、尊敬していた。故に推薦したと思われる。

2023-02-17 19:01:05
シービー @MrCB_Harukaze

和泉は攘夷派でもあったので、象山の兵器・砲艦などの知識を仲間に役立たせたいという裏もあったであろう。象山はこのことを聞き大変喜んだ。そして、藩も象山の朝廷招聘に協力した・・・が、これには裏があった

2023-02-17 19:01:56
シービー @MrCB_Harukaze

以前から象山と反りが合わなかった家老真田志摩、鎌原伊野右衛門らが、良い機会だから象山を藩から追い出そうとしたのである。彼らは藩主幸教に飛鳥井雅典へは「差し上げきり」にする旨返事をすべしと仕向けた。そうすれば、象山と松代藩の縁は切れて以後、松代藩に戻ることはできなくなる。

2023-02-17 19:02:25
シービー @MrCB_Harukaze

藩内でこのような不穏な情勢であったから、象山と仲の良い者の中には朝廷招聘を辞退するよう言う者もあった。しかし、憂国の士であり、勤皇の士である象山は朝廷の命に背くことは能わずと応じる決意をする。

2023-02-17 19:02:37
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、京で八月十八日の政変が起こり、長州は京を追われ、三条実美ら七卿が都落ちをした。朝廷では尊攘派の勢力が弱まり、公武合体派の勢力が主流となる。その結果、9月に「もはや御用の筋これ無きにつき」と朝廷側から象山の招聘を撤回した。

2023-02-17 19:03:21
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年3月17日、象山は息子格二郎、門人高麗津左右輔以下15人の従者を従え、京を目指して松代を出発した。途中川の増水などで手間取り、京に到着したのは29日であった。六角通東洞院西入る 旅館越前屋に宿を取り、早速老中首座水和泉守野忠精、老中酒井雅楽守忠惇らに到着の挨拶回りをしている。

2023-02-19 17:38:02
シービー @MrCB_Harukaze

将軍家茂からの招聘ということで、象山は意気盛んであったが、意外と幕府側の評価は低かった。4月3日、象山は二条城に出仕したが、老中酒井からのお達しで20人扶持に15両の手当、しかも身分は直参ではなく御雇いであった。

2023-02-19 17:38:28
シービー @MrCB_Harukaze

国家に有用な人物と一橋慶喜が評価していても、彼から下の層の者達はしょせんそういうものであった。プライドの高い象山は自尊心を傷つけられ、お役目を辞退して藩へ帰ろうとしたが、幕府御徒士目付清水畸太郞が慰留し、懇願したので、不本意ながら承知して帰宿した。

2023-02-19 17:38:53
シービー @MrCB_Harukaze

だが怒りは収まらず、親戚の斉藤友衛に怒りを露わにした手紙を送っている。象山の偉さは、腹は立つが、国家存亡の機に放って藩に帰るというのは、志士たるものの取るべき行動ではないとして京に留まった。しばらくは、西洋鞍をした愛馬に跨がり、京の春の景色を楽しみながら心の憂さを晴らして過ごす。

2023-02-19 17:40:35
シービー @MrCB_Harukaze

象山は、待遇は良くなったが幕府全体から見ればお雇いの下っ端役人にしか過ぎなかった。だが、人物・見識・学問は傑出していて、他に比較する者がないほとであり、論ずるところは重要な言論として受け入れられた。

2023-02-21 19:35:14
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1863)5月1日、象山は将軍徳川家茂に拝謁し、諮問に答える。このことは象山の名声を一気に高めた。西洋学知り、心酔していたためか、白紬か黒の紋に三つ引きの定紋がある筒袖の衣服を普段着ていた。門人たちが理由を尋ねると「西洋人はみな筒袖を着ているが、誠に便利で良い」と答えたという。

2023-02-21 19:36:33
シービー @MrCB_Harukaze

馬具も西洋の物が軽便で良いと愛用していた。門人は攘夷派のため危険な京なので、日本の馬具を使ってくださいと注意したが、象山はまったく耳を貸さなかった。京で西洋馬具を使用している者はおらず、象山は大評判になってしまった。そのことが山階宮の耳に入り、「馬を牽いて参上せよ」と連絡があった

2023-02-21 19:37:40
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)4月10日、象山は招待に応じて山階宮邸に赴き、愛馬を庭に入れ、庭で自慢の馬術と西洋鞍と鉄蹄の便利さを見せた。山階宮は大変満足され、象山はここでも大いに面目を施した。

2023-02-22 20:11:30
シービー @MrCB_Harukaze

象山は早速翌11日、松代藩斉藤友衛に山階宮の前で馬術を披露して褒められたこと、馬に新しい名前を頂いたことを嬉しそうに書いている。これにより愛馬都路は王庭と名を改めた。この時のことは妻順子にも手紙を送っている。なお、この馬は象山亡き後、新選組局長近藤勇に贈られたという。

2023-02-22 20:11:47
シービー @MrCB_Harukaze

象山はこの事もあり、山階宮邸に度々参上して親交を深めていく。4月23日にも参上して時勢についての意見を申し上げたところ、山階宮は感服し、中川宮朝彦親王に会って意見を聞かせてくれと依頼する。

2023-02-22 20:11:52
シービー @MrCB_Harukaze

象山は、5月15日、山階宮の紹介で中川宮邸を訪ね、天下治平の策を論じた。中川宮は熱心に話しを聞き、近衛家からの献上品を象山に与えた。象山は増す増す宮家の信頼を得る。京での名声も増す増す高くなり、薩摩藩島津久光などは、家臣高崎兵部を遣わし象山に度々意見を求めるようになる。

2023-02-23 19:34:15
シービー @MrCB_Harukaze

久光は開国論者であったので象山の意見に感服し、自藩に招こうと西郷吉之助に命じて説得させた。象山は幕府の求めに応じて上洛したということでこれを断った。この件もあり、西郷は度々象山宅を訪問し、国事を断じた。

2023-02-23 19:34:43
シービー @MrCB_Harukaze

ある日、象山は一人の客を玄関から送り出し、知り合いに向かって「この大きな方が西郷吉之助殿だ」と紹介したという。西郷も、人に「私がもし佐久間に会い、その意見を聞かなかったならば、大きな失策をしたかもしれない」と語ったという。

2023-02-23 19:34:55
シービー @MrCB_Harukaze

また西郷は大久保一蔵に「学問と見識においては佐久間抜群の事に御座候。勝先生にもひどく惚れ申し候」と手紙を送っている。勝海舟も敬意を示していたが、こと、学問見識では象山が抜群との感想である。老中水野忠精も象山の学識に敬服し、山階宮に、度々召しだしてください」と推薦している。

2023-02-23 19:35:34
シービー @MrCB_Harukaze

このように、象山の名声は、幕府、朝廷に広まり、影響力のある重要人物となって、朝廷も物事の決定を為すときには象山の意見に左右されるほどになっていた。

2023-02-23 19:35:38
シービー @MrCB_Harukaze

象山は、3月29日に上洛して以来越旅館前屋治郎左衛門を宿としていた。いつまでも仮住まいで済ます訳にはいかないので4月14日、鴨川の西岸に家を見つけそこに引っ越した。

2023-02-24 19:20:31
シービー @MrCB_Harukaze

だが、その家は手狭でみすぼらしく、粗末な家であった。身なりにうるさい象山は気に入らず、1か月ほど過ごして5月6日に鴨川の木屋町に良い家を見つけ再び引っ越した。その家は部屋が15,6あり、厩も備わっていて堂々たる家だったので象山は満足した。象山はこの家を気に入り、煙雨楼と名付けた

2023-02-24 19:20:54
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)6月5日、池田屋事件が起きる。長州藩は兵を率いて京周辺に陣を敷いた。国家が風雲急を告げる中、象山は、山階宮、中川宮、会津藩士広沢寅次郎、山本覚馬らと頻繁に会い、密議を重ねていた。そして、ある日、象山は一橋慶喜邸に出向く。

2023-02-24 19:21:47
シービー @MrCB_Harukaze

象山は一橋慶喜に、「京に集まる脱藩浪人が尊皇攘夷を唱えていますが、無知蒙昧の振る舞いは国家を危うくするものです。長州藩は尊皇の名を借りて兵を京都へ進めるとは実に不当なことです。藩主の勅勘御免、五卿の復職を乞うのは口実で、天皇を擁して天下を奪う野心に違いありません」と述べた

2023-02-25 21:10:11
シービー @MrCB_Harukaze

慶喜は象山の発言に賛同し、公武合体の実現を望んだ。象山は、「京は守り難い地なので地形に恵まれ堅固な彦根城にい朝廷を遷し、幕府の兵で御守りするのが上策」と言上した。慶喜は迷いもせず、「いかにもその方の言うとおりである」と名言した。

2023-02-25 21:10:28
シービー @MrCB_Harukaze

会津藩の広沢寅次郎、山本覚馬は象山の公武合体・開国進取論に賛同していたため、象山は二人に相談し、会津藩の武力を後ろ盾に彦根遷都を決行しようと企て、山階宮、中川宮にも献策し、いずれも賛同を得ていた。これに慶喜も賛同したので、象山は成功したも同然と着々と計画を進めた。

2023-02-25 21:10:36
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)6月27日、象山のところに幕府鉄砲奉行小林祐三が来て「真田侯が幕府のお召しによって兵を率いて上洛、その途中大津に宿泊している。しばらく大津にとどまり守備の任についてもらえないだろうか」と述べた。

2023-02-26 18:42:27
シービー @MrCB_Harukaze

象山は自分の計画を思い、いずれ会津藩が天皇を守護して彦根に行くはずだから、松代藩兵は大津にいて守備するのが好都合と考え、大津に急いだ。松代藩宿陣に家老真田志摩を訪ね、天下の形勢を論じ、遷都も止む得ない事情であり、大津の守備を願い出た。

2023-02-26 18:43:07
シービー @MrCB_Harukaze

志摩は、幕府の命令で上洛するのであるから、藩の一存でそれはできない、と断る。象山は、幕府には自分が取り計らうので心配は無いと言う。しかし、志摩は、とにかく一度京に参上し、そのとき将軍の命があれば大津に引き返す、と受け入れない。

2023-02-26 18:43:30
シービー @MrCB_Harukaze

象山はさらに説得に努めるが、もともと家老真田志摩とは折り合いが良くない間柄であり、ついに志摩は、象山を門外に引き出してしまった。象山は、腹が立ったが、計画を進める上でここは重要な時であると考え、大津にある彦根藩の衛所を訪ねることにした。

2023-02-26 18:43:35
シービー @MrCB_Harukaze

象山が向かったのは、旧知の間柄である彦根藩士岡本半介であった。いよいよ彦根への遷都というときに、琵琶湖を渡る便を図って貰うことを依頼しに行ったのである。ところが、岡本は象山との面会を避け、「佐久間修理というものは知らぬ」と部下に応対させた。

2023-02-27 19:25:17
シービー @MrCB_Harukaze

象山は、岡本の立場を推し量って「知らぬと仰せであれば、それは仕方ないこと」と引き返した。象山が計画した彦根遷都に暗雲が漂いはじめる。だが、象山は大津に出向く前に姉に宛てた手紙で、このような結末になるであろうことを書いている。予期はしていたが、いざそうなると失望の念は大きかった。

2023-02-27 19:25:57
シービー @MrCB_Harukaze

翌6月28日、松代藩主真田信濃守幸教、家老真田志摩以下の兵が京都に入った。象山は、藩宿陣である仏光寺に挨拶いに伺う。翌6月29日、象山は山階宮から伊丹の銘酒一樽を頂戴した。

2023-02-27 19:26:15
シービー @MrCB_Harukaze

そこで、半分の五升を藩主に献上するため、7月1日に藩主近臣の者にその旨を申し入れた。だが、藩主幸教は断ってきた。宮家からの頂戴品を断るのは普通あり得ない。おそらく、象山とは犬猿の仲である家老真田志摩が何かしたのであろう。

2023-02-27 19:26:20
シービー @MrCB_Harukaze

象山は勤皇であったが、公武合体を主張した。決して幕府派ということではない。国内での紛争を回避し挙国一致体制で外国に当たらなければならないという考えからである。しかし、狂信的尊攘派は佐幕と見て、象山は非難され敵と見なされるようになっていた。

2023-02-28 19:22:28
シービー @MrCB_Harukaze

当時の風潮どおり、象山も国賊として「天誅」の標的になってきた。それに伴い門人や知人は警戒するようにと意見をしてきた。これは、象山派の人間も同じである。薩摩藩国父島津久光は象山の身を心配した

2023-02-28 19:22:51
シービー @MrCB_Harukaze

久光は文久3年10月に上洛したが、公武合体は難しいと考え薩摩に帰ろうとした。その際、家臣高崎兵部を象山のもとに遣わして帰国を勧告している。しかし、象山はまったく聞く耳を持たなかった。側室のお蝶に、「日本の興廃は我が身一つにつながっているのではないか、今さら何で死を恐れることがあろう

2023-02-28 19:23:33
シービー @MrCB_Harukaze

己の心中はいつも安らかだ」と決意を示す手紙を送っている。象山の日々は相変わらず愛馬に乗り京を風景を楽しみ、公武合体を成就させようと八方を奔走していた。その恐れを知らない姿は、尊攘派をますます刺激していった。

2023-02-28 19:24:07
シービー @MrCB_Harukaze

象山も不逞攘夷派志士に対して無防備だったわけではない。ピストルを用意して警戒していた。「馬にて出候せつも勝(海舟)に調へもらひ候六挺がらみの短筒を腰に致し、常に弾をこめ置き候次第」と姉宛の手紙に書いている。

2023-03-02 20:04:03
シービー @MrCB_Harukaze

だが、基本的に尊攘派には一切意に介さず活動していたため、尊攘派志士は激昂していた。そういう状況を見て、7月7日、仙台藩医羽生が「彦根遷都の一件を長州藩一味が嗅ぎつけて激昂し、先生の身辺を付け狙って居る様子です」と注意してきた。象山はそれでも意に介さないようであった。

2023-03-02 20:04:14
シービー @MrCB_Harukaze

翌8日、二条関白邸、山階宮、中川宮邸を訪問し、9日には会津藩広沢富治郎が象山宅に訪ねている。この動きで分かるとおり、彦根遷都をあきらめずに活発に活動している。これらの動きを察知した尊攘派志士らは錦小路、高辻両家に匿名の檄文を投じる。それは象山を名指しし、強く非難した文書であった。

2023-03-02 20:04:18
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シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.