大平喜間多『佐久間象山伝』 より
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シービー @MrCB_Harukaze

安政元年(1854)秋、佐久間象山は国元での蟄居を命ぜられ、松代に送られた。初めは甥の北山世方宅に世話になっていたが、後に家老望月主水の別邸を借りて移った。その別邸は家老の下屋敷らしく3千坪の敷地に、100本以上の桜や竹林があり、風雅な場所で、象山は大変気に入った。

2023-02-02 18:49:50
シービー @MrCB_Harukaze

とはいえ蟄居の身であるから、通常は二階の八畳間で過ごさなければならない。この部屋から古戦場の川中島が一望できたことから、象山は「聚遠楼」と名付けた。

2023-02-02 18:50:19
シービー @MrCB_Harukaze

蟄居の身であるから、日常は部屋から出ず、勉学に励み、外部の人間とは接触しないようにするのが作法であったが、象山は憂国の士であることは止めず、家老に書を送り国策を説き、友人知人らと書簡のやり取りを行い時勢を論じるなどの活動を行っていた。

2023-02-02 18:50:34
シービー @MrCB_Harukaze

さらには、象山を慕って他藩から訪ねて来る志士には内密で砲術を教えるなどとうてい蟄居の身とは思えない生活を過ごしていた。(蟄居中にこういうことをするのは、確かもう一人いましたね。さすが師弟です)

2023-02-02 18:50:45
シービー @MrCB_Harukaze

蟄居中とは言えないほど活発な志士活動を行っていた象山について、親しい友人は心配して控えるよう忠告する者もいた。象山は「私は蟄居中であっても国家の困難な状況は一時も忘れることができない」と答えた。

2023-02-03 18:32:02
シービー @MrCB_Harukaze

象山の生活はやがて幕府の知ることとなり、安政2年9月6日、老中阿部正弘は松代藩主幸教に注意が為された。藩はこれ以後、象山に対して、訪問客を差し止め、書簡の往復を禁止し、門口には番人を見張りに立て、親類縁者であっても交流しる人の氏名はすべて記録した。

2023-02-03 18:32:14
シービー @MrCB_Harukaze

取り締まりが厳重になったが、象山にとっては却って学問に使える時間が増えたため、この平穏な時間を楽しんでいるような詩も創っている。本を読むこと以外やることがなくなったので、洋書なども読み込み、象山の知識は一層進歩していった。

2023-02-03 18:32:26
シービー @MrCB_Harukaze

安政3年(1856)7月21日、タウンゼント・ハリスが米国総領事としてサン・ジャシント号で下田に来航した。ハリスの来航目的は通商条約の締結であった。幕府は通商条約締結を拒み、交渉の時間を引き延ばしていた。

2023-02-04 18:47:36
シービー @MrCB_Harukaze

その後、安政4年(1657)7月20日、米軍監ポーツマス号が下田に入港。幕府は同艦の江戸入港の危機を感じ、ハリスに江戸城で将軍との謁見を許可する。ハリスは12月7日に登城し、13代将軍徳川家定に謁見して米国大統領の親書を渡した。

2023-02-04 18:48:19
シービー @MrCB_Harukaze

老中堀田正睦は通商は避けられないと考え、朝廷から許可を得て調印することを約束する。そして、林大学頭、津田正路を京都に派遣して勅許を得ようとした。しかし、まったく相手にされなかった。そのため、翌年1月老中堀田が自ら海防掛川路聖謨、岩瀬忠震を従えて上洛した。

2023-02-04 18:48:36
シービー @MrCB_Harukaze

佐久間象山は、以前から堀田正睦を見識と政治能力の高さは一流の人物と評価しており、外交手腕に大きな期待をよせていた。しかし、ハリスに屈して仮条約を結んだことで堀田に失望する。象山は、安政5年1月26日、蟄居中に禁を破り、同士である京都の梁川星巌に密書を送る。

2023-02-04 18:49:24
シービー @MrCB_Harukaze

佐久間象山が梁川星巌に送った手紙は「日本の土地・人は天皇のものである。外国公使のいいなりになるとはけしからん。通商をするならば、まず朝廷の許可を得るべきである。

2023-02-05 14:30:04
シービー @MrCB_Harukaze

今後は優秀な人材を外国に送り、いずれは外国との交易で利益をあげて諸外国に劣らぬ国力を持つようにしたい。これは堀田侯であればできるので罪が赦されるように運動してやってくれ」というものであった。梁川星巌は象山の考えに同意し、池内大学に依頼して象山の意見書を関白九条尚忠に上申できた。

2023-02-05 14:30:29
シービー @MrCB_Harukaze

象山は、自分の建議が朝廷に届いたことを喜び、再び星巌に「国防整備、国権伸張、親兵設置」の意見書を送った。星巌も再び朝廷工作を行った。しかし、この間に、堀田正陸の調停工作は失敗し、幕府と朝廷の間には大きな溝ができてしまった。

2023-02-05 14:30:37
シービー @MrCB_Harukaze

交渉に失敗した老中堀田正陸に同情した象山は、米国使節との対応案を起草して藩主真田幸教の名で幕府に上申しようとしたが、藩内には反対派が多かった。そのため、藩主名ではなく、藩主の口上書を添えた形にして提出した。だが、幕府は相手にせず、僅かに川路聖謨と岩瀬忠震が参考にした。

2023-02-06 19:00:50
シービー @MrCB_Harukaze

その後大老井伊直弼が通商条約調印を決断、批准のために日本から使節を米国に派遣することになった。「咸臨丸」による太平洋横断である。象山は、自説が実現し大層よろこんだ。奇しくもこのときの船長は、象山の門下生であり義理の弟である勝麟太郞であった。

2023-02-06 19:01:27
シービー @MrCB_Harukaze

その後、安政の大獄が初まり、象山の門下生である吉田松陰も獄に入れられる。松陰先生は獄にあっても憂国の思いを持ち続け、安政6年(1859)4月25日、象山への密書をしたため、門弟である晋作坊ちゃんにこれを託した。

2023-02-06 19:01:49
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生から佐久間象山への手紙は「先生とお別れしたのも昨日のように思われますが、数年の昔となり、お会いしたい気持ちでいっぱいです」と門下生であったころを懐かしむ挨拶ではじまり、「国家はいよいよ危機に直面している」と言う。

2023-02-07 19:00:59
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生は「天下を救う策をご教授願う。門人高杉暢夫を使わすので、一 幕府の諸侯の中で誰を信頼すべきか、二 我が国の在り方はどのように定めるべきか、三 自分の死に場所はどこか」と象山に問うている。

2023-02-07 19:02:39
シービー @MrCB_Harukaze

そして「この高杉はまだ若年であるが、相当役に立つ男であるから、拙者と思ってご教授をお願いいたします」と晋作坊ちゃんを褒めている。晋作坊ちゃんは松陰先生の密書を携えてすぐに象山を訪問するはずであったが、何か都合ができたのか延期され、翌万延元年9月21日、ようやく松代に到着する。

2023-02-07 19:02:55
シービー @MrCB_Harukaze

松代に着いた晋作坊ちゃんは、長崎屋新三郎の宿に泊まった。この頃の晋作坊ちゃんは、試撃行の最中で行く先々で剣の試合申込をしていた。多くは断られていたが、壬生藩では藩士松本新五郎と試合をしたと伝わる。

2023-02-08 19:41:41
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、晋作坊ちゃんの日記には結果は書かれておらず、それどころか、この日から日記が適当になる。おそらく、コテンパンに負けてふてくされたと想像される。松本側が伝えるところでは、三本勝負で晋作坊ちゃんは一本も取れなかったという。

2023-02-08 19:42:22
シービー @MrCB_Harukaze

松代でも22日の昼に文武学校で藩士と試合をしたと伝わる。そしてその同じ日、佐久間象山を訪ねる。初め、聚遠楼に行き、玄関口から堂々と面会を求めた。ところが、蟄居中であると断られてしまう。まだ象山に対する厳重な藩の監視は続いていた。

2023-02-08 19:43:14
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんは困惑し長崎屋の主人に相談する。すると「山口屋甚右衛門という武具屋が象山先生のお気に入りでよく出入りしている。そのものに相談してわ」という。晋作坊ちゃんは早速甚右衛門宅に向かい、あっせんを依頼した。

2023-02-08 19:43:29
シービー @MrCB_Harukaze

甚右衛門は快く引き受けてくれ、秘策を授ける。晋作坊ちゃんは松代藩の目付役へ「武者修行のため廻国する者であるが、病を発して困っている。佐久間象山先生は蘭方の医術に長じておられるとのことで是非診察をお願いしたい」と願い出た。目付役は診察ならば差し支えないと許可を出した。

2023-02-08 19:43:45
シービー @MrCB_Harukaze

そして、夜午前0時ごろに密かに佐久間象山を訪問する。そして、国家の危機について激論を戦わせ・・・たとは伝わっていない。というより、晋作坊ちゃんはこの象山との面会のことは日記にはなにも書いていない。象山側に伝わる話しだと処刑さされた愛弟子松陰先生の思い出話を晋作坊ちゃんとしたという

2023-02-08 19:44:10
シービー @MrCB_Harukaze

「松陰はあまりに事を急ぎすぎた」と泣いたという。その後、晋作坊ちゃんの攘夷論を聞き、それは不可であると説き聞かせ、朝6時まで夜を徹して話し込んだという。自分の意見に反論されふてくされて何も書かなかったのか、それとも他に理由があって書かなかったのか、真相は晋作坊ちゃんのみぞ知る。

2023-02-08 19:45:01
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんが口実にした「蘭方医の診察」であるが、象山はもともと砲術を学ぶために蘭学を勉強したが、その頃の蘭学の先生はほとんどが医者であった。そのため、象山も自然と医学も勉強し、診察や投薬なども積極的に行ってきた。

2023-02-09 18:55:13
シービー @MrCB_Harukaze

象山は医学は本職ではないが、日本の医学にとって非常に大きな功績を残している。それは種痘法の普及に努めたことである。文化6年には日本に種痘法が伝わり、嘉永2年には肥前藩がオランダから牛痘種を輸入して実施した。

2023-02-09 19:07:59
シービー @MrCB_Harukaze

象山は蘭書ですでに種痘法をしっていたが、牛痘を手に入れることができなかったため、機会を得ていなかった。肥前藩が輸入したことを知り、手に入れて息子の格二郎に試みた上、城下の親しい人たちに実施している。信州で初めて実施したのは佐久間象山である。

2023-02-09 19:08:05
シービー @MrCB_Harukaze

佐久間象山は、勝海舟の妹順子と結婚している。かなり歳をとってからの結婚で、42歳の時であった。実は、それ以前に縁談があった。天保11年(1840)12月9日、象山30歳の時知人に宛てた手紙に「婚儀の義も申上候処(略)来春に相成候」と縁談がほぼまとまっているという意味のことを書いて送っている。

2023-02-10 19:04:28
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、この縁談に対して藩が反対した。家老矢沢監物は、藩と象山の間を取り持ち、この縁談を纏めようと骨を折ってくれたが、急死してしまい、結局縁談はまとまらなかった。このことが影響して晩婚になったのかもしれない。

2023-02-10 19:04:42
シービー @MrCB_Harukaze

象山が勝海舟の妹順子と結婚したのは、嘉永5年(1852)12月で、媒酌人は勝の剣術の師匠島田見山である。象山が順子と結婚した理由は、当時象山には側室(お菊)がおり、お菊は男子を産んでいた。当時5歳の格二郎である。

2023-02-10 19:05:16
シービー @MrCB_Harukaze

当時、象山の家の召使いが暇を取っていたため、家事に困っており、母が正室を勧めて順子に白羽の矢が立った。象山42歳、順子17歳である。回りで「若過ぎではありませんか」と言う者もいたが、「妻は若い方が良いようです」とに笑ったという。象山は京で襲撃されるが、順子は明治41年(1908)まで生きた

2023-02-10 19:08:00
シービー @MrCB_Harukaze

象山には、お菊とお蝶という二人の側室がいた、お菊は札差の娘で家は裕福、歌、絵、書もできてしかも美人であったという。象山はお菊を見初め是非貰い受けたいと父親に申し込んだ。父親は正室ならともかく側室では、と断った。

2023-02-11 20:31:33
シービー @MrCB_Harukaze

象山は「私は国を救うために勉強に励んでいるまだ書生の身であるため妻を迎える訳にはいかない。しかし、女手ががないのは不都合であるため、是非お願いしたい」と強引に頼み込んだ。根負けしたのか象山の高名にひかれたのかついに承諾した。

2023-02-11 20:31:45
シービー @MrCB_Harukaze

お菊は、弘化3年(1846)7月に長男恭太郎を産んだが夭折する。象山は大変悲しんだという。嘉永元年11月11日、お菊はふたたび男児を産んだ。象山の一粒種格二郎である。お菊は象山に寵愛されたが、嘉永5年2月暇乞いをして象山の元を離れた。

2023-02-11 20:32:18
シービー @MrCB_Harukaze

喧嘩別れではないようで、象山は別れの詩を創り悲しんでいる。格二郎はその後お蝶という側室に育てられた。お蝶は塾の小間使い出身で象山との間に二人の男子女子をもうけたが二人とも夭折した。お蝶は象山が亡くなってからも格二郎の面倒をよくみて、改易となった佐久間家再興に力を尽くしたという。

2023-02-11 20:33:51
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生は、自分のせいで象山が蟄居になったと考え、その罪が早く赦されることを願った。許されないとしても、せめて罪を軽減してもらいたいとも考えた。そのために、萩藩の政務係坪井九右衛門に尽力を依頼した。

2023-02-13 19:33:14
シービー @MrCB_Harukaze

また、江戸にいた桂さん、久保清太郎にも書簡を送り密かに幕府の意向を探らせ、幕府海防係老中松平伊賀守忠固にも手紙を送り象山の赦免を訴えている。しかし、願いは叶わなかった。そんな中、文久2年7月、幕府の政治体制が大きく変わる。

2023-02-13 19:33:55
シービー @MrCB_Harukaze

一橋慶喜が将軍補佐役、福井藩主松平慶永が政事総裁職となり、幕政の改革が行われる。その一つとして、安政の大獄で罪を着せられた志士、池内大学以下47人を赦免した。だが、なぜか、象山と松陰先生は赦免されなかった。

2023-02-13 19:34:08
シービー @MrCB_Harukaze

象山はこの事を怪しみ、「自分には恩赦が適応されないのは理解できない。藩内で私を良く思わない者がいて妨害しているという噂もある。世の中の情勢が切迫しているのだから、速やかにご赦免するのが国家のためであろう」という上申書を藩家老矢沢将監に提出した。

2023-02-13 19:34:27
シービー @MrCB_Harukaze

幕府内でも開国の方向に梶を切ったことで象山のような識者の登用を求める声が大きくなっていた。長州藩主毛利敬親も象山が赦免に漏れたことを遺憾とし、文久2年11月「国家多事の時に佐久間修理のような天下の有用な人物を辺土の埋もれ木としておくのは国家の一大損失である」と幕府に陳述した。

2023-02-13 19:35:32
シービー @MrCB_Harukaze

さらに土佐藩主山内豊重(容堂)も熱心に象山の赦免運動を行った。その結果、文久2年12月29日、佐久間象山は禁錮赦免の措置が降り、9年ぶりに自由の身となった。

2023-02-13 19:35:42
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩主毛利敬親と土佐藩主山内容堂が佐久間象山の赦免運動を行ったことには訳があった。もちろん、象山という優秀な自分物が埋もれていることを惜しんでいた。だが、ほかに二人に共通の想いがあった。毛利敬親も山内豊信も自藩に象山を引き抜こうという下心があったのだ。

2023-02-14 19:28:36
シービー @MrCB_Harukaze

なので、象山がまだ正式に赦免になっていない時期から、両藩はスカウト合戦を行っている。最初は文久2年(1862)12月、土佐藩の中岡慎太郎、衣裴小平、原三四郎の三人が使者となり、藩主の書状を携え松代まで向かった。

2023-02-14 19:28:58
シービー @MrCB_Harukaze

そのすぐ後、久坂玄瑞、山県半蔵、福原乙之進がやはり藩主の使者として松代に到着している。久坂は桂さんから託された縮緬の手土産を携え象山を訪ね、藩主毛利敬親の意思を伝えた。

2023-02-14 19:29:22
シービー @MrCB_Harukaze

土佐藩は藩主の書状を携え、礼儀を尽くして訪ねたのに対し、長州藩は藩主の手紙もなかったためか、礼儀に厳しい象山は「自藩の改革が必要で、お誘いには応じられない」と断った。

2023-02-14 19:29:51
シービー @MrCB_Harukaze

当時長州藩の藩是は攘夷であり、そのリーダーとも言える久坂は激しく攘夷を説いた。象山は攘夷は不可であると論じ、海軍力の充実が急務であると力説した。

2023-02-14 19:30:21
シービー @MrCB_Harukaze

久坂と山県は松代から長州藩の来島又兵衛、麻田公輔に「攘夷については意見が合わなかったが、兵制砲艦のことは大老先生(象山のこと)無くては叶いません。今後は有志の士を選び、松代に遣わして翁(象山)に随従して学問いたさせたく」と手紙を送っている。

2023-02-14 19:31:03
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シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.