↓ 公正世界仮説を維持するために被害者非難を行う、という指摘です。では「自分が悪いからだ」と自己非難する場合、公正世界仮説をリフレーミングすれば対処可能でしょうか? 只今自炊ちうの自己愛家族の第10章にヒントがありそうです。(続) twitter.com/tabitora1013/s…
2015-11-11 13:04:49「人はなぜ被害者を責めるのか?」 psychmuseum.jp/just_world/ 「悪いことは悪い人に起きる」「頑張らなかった人は痛い目にあう」そういう秩序を信じることは心の安定につながる…日本心理学会のサイトめっちゃ膝ポン… pic.twitter.com/aIWq3dHESo
2015-11-08 23:00:41「人はなぜ被害者を責めるのか?」 psychmuseum.jp/just_world/ 「悪いことは悪い人に起きる」「頑張らなかった人は痛い目にあう」そういう秩序を信じることは心の安定につながる…日本心理学会のサイトめっちゃ膝ポン… pic.twitter.com/aIWq3dHESo
2015-11-08 23:00:41(続) キーワードは、能力主義「我為すゆえに我あり」( Task Competency : I Do, Therefore I Am )です。これに対する別の熱いモットーが第10章の最終行に提示されています。 過日自炊した部分は第2章の途中なのですが、一語一会! いざ10章を。
2015-11-11 13:19:17自己愛家族(出身)の人々がいつも苦しむ問題は、外的評価への強烈な願望である。しばしばこの人たちは、何らかの形で評価を受けるような仕事の状況に自分を置くことによって、この要求を補償することができる。Id. at 157
2015-11-11 13:29:12仕事を通じて評価を獲得するというこの能力は、このような人々が私たちの社会で手に入れることのできる方法のひとつである。このような人々はしばしば成功した「専門家」であり、外から見る人は彼らの哀れなほど低い自己評価にはほとんど気づかない。
2015-11-11 13:35:01彼らに仕事の能力があることは、しかしながら良し悪しである。成功したサバイバーが助けを求めると、「何がいったい不満なのかね?」といった態度に非常にしばしば出会うことになる。
2015-11-11 13:39:40さらに、人がもし、仕事の能力だけが自分に価値があることを自他に証明する方法であると思っているなら、当然その人は為すべき仕事を持っていなければならないことになる。
2015-11-11 13:42:19そこで常に、もっと修得しなければならないコース、もっと取らなければならない学位、もっとボランティアで奉仕しなければならない作業、焼かなければならないもっとたくさんのクッキー等々が必要になってくる。
2015-11-11 13:46:37仕事中毒の素は、自己愛家庭の中に、まさにどこにでも播かれているのである。「我為すゆえに我あり」は、このような家族から出たたくさんのアダルトチルドレンのモットーになるだろう。Id.at 158
2015-11-11 13:49:54低い自己評価の補償である外的な評価へのこの要求は、仕事場で問題を生じることになる。しかし一般的に、葛藤は人間関係の場で起こる。サバイバーたちは全面的な承認と支持を与えられないような状況になると、どんな場合でもうまくやれなくなる。
2015-11-11 14:10:44これはその人の配偶者、親しい関係にある者、あるいはその子どもにとって厄介な重荷になるだろう。私たちは他の人間を愛したり、承認したりするのと同程度には、その人の行動や言葉、あるいは考えのすべてを全面的に承認することはしないからである。
2015-11-11 14:15:08このことは、その人が自分の行動に対する批判(承認しないこと)と、自分の存在そのものへの批判とを区別できないことから、二重に複雑になる。
2015-11-11 14:17:15「我為すゆえに我あり」から引き出される命題はすなわち、「私がすることを認めないことは、即ち私を認めないことである」ということになる。
2015-11-11 14:19:51ある特定の行動(言葉、考えなど)が承認されないことを、人間としてその人自身が承認されないこととして一般化してしまう傾向は、このような人々にとって問題の多い領域の一つである。
2015-11-11 14:23:29彼らの世界観は、まさに建設的批判の概念を名辞矛盾にしてしまう。私がしたことを認めないことが私を認めないことなら、そこには何も「建設的な」ものが存在しない。正すことは拒否である。(correction is rejection.) Kindle 1543 / 2028
2015-11-11 14:32:50自己愛家庭で育てられたアダルトチャイルドは、良い雇い主、マネージャーあるいは管理者であることが難しいであろう。その人は正すことと拒絶することとを同一視していて、スタッフに必要な注意や教育をすることがとても困難だからである。 Id.at 159
2015-11-11 14:41:28パワーと責任の組み合わせもまた、自己愛家族出身の人々にとっては問題である。彼らは自分がコントロールしていないことに責任を取ろうとし、持ってもいない力を行使しようとし、持っている力を行使するのを拒否するのである。
2015-11-11 14:48:44問題の多いパワーの過剰使用は、両極端症候群と基本的に関係がある。
2015-11-11 14:52:24たとえば、もしある人がある委員会の責任を持たされるとしたら、その人は自分が「すべての」権限を持ったと受け取り、「仕事がうまくいくように」と、委員会のメンバーを酷使するかもしれない(無駄な会議、深夜の電話、やたらと多い報告書等)。
2015-11-11 14:56:28これを翻訳すれば、委員長は自分のことも他人のこともほとんど信頼できなくて、自分の力を侵入的に使うことによって、過剰補償するのである。彼は権威と仕事を代表することに自信がなく、あらゆる人をその人たちが不快になるほど監督し、後でとやかく言うのである。(「全部」の部分。)
2015-11-11 15:08:01それから、委員会のメンバーが不満を洩らしたり、辞任したり、反抗したりすると、彼はお手上げになり、仕事を辞めてしまうか、その地位を退くか、あるいは拒絶してしまう(「皆無」の部分)。 (ちなみにその工場長は他配になって…や、やめようか? (´ω`) )
2015-11-11 15:16:55しかし自己愛家族で育った人にもっと普通に起こるのは、パワーを十分に発揮しないことである。このような人たちは、人が正当(合法的)に持っているパワーを十分使わなかったり、拒否したりすることもまたパワーの間違った使い方であるということが理解できない。
2015-11-11 15:26:32自己愛的な家族のサバイバーたちはこの状況に特に影響されやすい。それは、①彼らの仕事志向の世界観 ( 我為すゆえに我あり ) が彼らを良い働き手にし、努力した分野での成功を勝ち取りやすいうえ、
2015-11-11 15:37:55②彼らの低い自己評価と基本的な信頼の欠如が、自分に力があるという現実を自分で受け入れ難くしているからである。
2015-11-11 15:38:39人は自分が持っていることを知らなかったり、受け入れることを拒否しているパワーを使うことはできない。しかし自分のパワーを認めることを拒否することは、それを乱用することになるのである。Id.at 160
2015-11-11 15:42:22パワーを適切に使えないことは、この人たちにすっかり浸みついた癖になっている可能性がある。彼らは自分の自己愛家族の中で反映的で反応的であるようにしっかり訓練されてきたので、世話をしようとする傾向がある。
2015-11-11 15:45:48受け入れられたいというこの要求は、しばしばある種の超民主的な仮面を付ける。私は誰に対しても公平でなければならないので、決断する(あるいは判断を下す、あるいは議論を終わらせる)ことはできません。言い換えれば、私は誰かが私を認めてくれないことが恐いということである。
2015-11-11 15:52:07この「公正さ」を装った不決断は、パワーの誤用であり、その影響を受けた人たちはそれを感じ、憤る。
2015-11-11 15:55:00パワーはその背後に責任を背負っている。パワーを適切に喜んで使うことと、パワーの中に含まれている究極的決定を一貫して支持すること、この二つが責任のすべてである。そのどちらをやり遂げることに失敗しても、パワーを持っている人に依存している人々にとっては乱用になる。
2015-11-11 16:00:09秘訣は、今ある現実の受容である。ちょうど過去の現実を受け入れることと同様に、彼らは、現在大人として自分が何者であるかという現実を受け入れるための助けを必要としている。
2015-11-11 16:05:22過去の古いテープが再生され、彼らに出過ぎた真似をしないように、自惚れ過ぎないようにと聞こえ続けている。そこで、これらの患者たちは本当に自分が何者であるかを考えるための、現実検討を必要としている。
2015-11-11 16:20:53そこで彼らは大人としてのパワーと責任、言い換えれば、彼らの宝物を見つけて、自らを新しい方向に向かわせるのである。
2015-11-11 16:21:28The Treasure 今ある現実、パワーと責任の受容、そして「世話をやく」ことへと駆り立てる拒絶への恐れといったものを扱う中で、患者にもっとも役立つとわかったオリエンテーションは、著者たちが「宝物」と呼んでいるものである。
2015-11-11 16:29:05自分が何をもっているか、(性格、才能そして特徴)、すなわち自分の存在そのものが宝物であることを患者が認めることが重要なのである。それは彼女だけに特有で、そのことに価値があるのだ。
2015-11-11 16:33:08私たちは患者に好きな色、そして好きな宝石の名を挙げるように求める。ある患者が色は薄紫、そして宝石はサファイアと答えた。そこで著者は彼女に自分を薄紫色のサファイアであると思うように言う。 pic.twitter.com/RmrxAs97Bf
2015-11-11 23:19:51それはブルーのサファイアよりずっと稀少で、だからずっと価値が高いのである。しかし私たちは次のような可能性もあることに注意を向ける。それはとても珍しいものだから、多くの人はそれがサファイアであると認めないかもしれない。
2015-11-11 23:24:24彼らはそれを綺麗だがそれほど価値のないアメジストだと考えるかもしれない。著者は患者にそのことが宝石の価値に影響するかどうか尋ねた。答えはもちろんノーであった。誰かがそれが何であるかを知っていようといまいと、宝石の本来の価値は変わることはない。
2015-11-11 23:28:33著者たちは患者に、ある人は宝石は好きではないかもしれないと続けて語る。その人たちはそれを屑篭に捨てるかもしれない。そのことが宝石の価値を変えるだろうか? 答えはやはりノーである。
2015-11-11 23:41:22ある人達はこう言うかもしれない。「まあ、薄紫のサファイア!! なんてみっともないんでしょう。誰だってサファイアはブルーのはずだって知っているわ。うちではサファイアはブルーですよ。でもあなたは違っている。違うということはよくないことだわ。」
2015-11-11 23:49:42しかし、このことは宝物の本来備わった価値を左右するだろうか? いずれの場合も私たちは、宝石、宝物の価値は他の人の認知には左右されないという結論に達する。その宝石は本来的で純粋で、多大な価値を有するのである。
2015-11-12 00:12:04患者が自分自身を宝物として見ることができるようになると(薄紫色のサファイアのように)、彼女は自分自身と自分の人間関係を違った見方で見ることができるようになる。
2015-11-12 00:15:40たとえば、もし誰かが彼女(彼女の宝物)を高く評価しないなら、それは彼らが無知だから、すなわち薄紫色のサファイアを知らないからに違いない。 それは不幸ではあるが、サファイアの価値を低めるものではない。Id.at 162
2015-11-12 00:20:25価値を認めて宝物を評価する人が少しはいるだろう。大事なことは、このような人々を見つけることであって、他の人によってがっかりさせられることではない。
2015-11-12 00:26:19もしこのような人々の幾人かが、薄紫色のサファイアの価値について教育されるなら、それはすばらしいことだ。しかしもし幾人かの人たちが無知のままにとどまることを選び、自分に理解できないものを拒んだとしても、それはただ単に残念だというだけだ。
2015-11-12 00:30:43他の人たちにとって価値は関係ないのだろう。彼らはただ薄紫色のサファイアが好きでないだけなのだから。それでもよい。そのことで宝石の価値が下がることはないのだから。
2015-11-12 00:33:13この新しい見方から自分の責任とパワーについて理解しやすくなる。また、拒絶を処理するための新しいフレームワークも身につく。
2015-11-12 00:40:24自分を宝物と見ることは、患者にとって非常に有効な観念である。 いったん人が持っているものが、あるいはその人そのものが宝物であることになれば、人は違う感じ方をし、行動するものである。
2015-11-12 00:44:28そこで「我為す故に我あり」という世界観は不適切なものになる。 新しいモットーは、『我あり、故に価値あり』ということになるだろう。Id.at 163
2015-11-12 00:48:28