【斗南のこと】命令違反で熊本城に突入した山川は、そのとき「薩摩人みよや東の丈夫が堤げはく太刀は利きか鈍きか」と歌を詠んだ。山田顕義は山川を譴責。山川は戦後、大阪鎮台の監察に左遷され、軍人として二度と陽の目をみることはなかった。
2020-10-29 21:55:29【斗南のこと】斗南藩の幹部で、廃藩置県後にも唯一斗南に残ったのは、小参事・広沢安任であった。広沢は、病気や貧困などで斗南から出られず残っている移住民のために懸命に努力した。
2020-11-04 17:44:33【斗南のこと】広沢安任は、古来産地だった南部藩の馬(南部駒)に目を付けた。下北に牧場として適した土地がなかったため、三沢を考える。広沢は三沢の開拓に没頭する。
2020-11-06 20:23:50【斗南のこと】広沢安任は、現・むつ小川原湖付近の広大な土地を青森県に無償借用を申請。明治五年暮れ、牧場経営の母体となる開牧社設立の認可を受ける。
2020-11-10 20:57:37【斗南のこと】広沢安任は、新政府を恨んではいたが、開拓推進のため上京して大久保利通に面会。牧場建設と資金調達を認めさせた。明治6年8月、一時金として7千円の借り入れに成功し、道具などを手に入れることが出来た。
2020-11-11 20:51:48【斗南のこと】広沢安任は、英国人牧人2名を雇い、苦労を重ねて開拓。牧場の面積は1400万坪になり、牛:180頭、種馬:5頭、農耕馬:3頭、農耕牛:13頭の放牧に成功した。
2020-11-15 19:31:20【斗南のこと】明治9年、明治天皇の東北行幸が発表される。その際、広沢安任の牧場の牛馬が天覧に供されるということで広沢は歓喜した。7月12日に三本木原で行われることに決まり、広沢はありったけの牛馬を出すことにした。ところが、その前日に思いもかけない人物が訪問する。
2020-11-17 20:25:45【斗南のこと】広沢安任の牧場の天覧の前日、訪ねてきたのは内務卿・大久保利通であった。大久保は広沢の牧場のバター・チーズ・牛乳・パンを食した。大久保は広沢に参議、北海道開拓使長官への仕官を求めた。
2020-11-18 20:03:03【斗南のこと】明治9年7月。東北行幸で明治天皇が広沢安任が開拓・経営する三本木原の牧場を訪問する。広沢の説明に天皇は「御苦労であった」と言葉を掛けた。広沢は漢詩を作り、この日の感動を詠んでいる。
2020-11-21 22:05:41【斗南のこと】明治11年、広沢安任は牧場の拡張が波に乗る。三本木だけでなく、下北地方の開発にも手を伸ばす。大久保利通、松方正義、渋沢栄一、福沢諭吉、勝海舟らの大物との交際を広げる。
2020-11-23 17:09:32明治11年5月14日。内務卿・大久保利通が清水谷で暗殺される。享年49。当然ながら会津人の多くは快哉を叫ぶ。柴五郎は「会津を血祭りあげたる元凶(略)赦すこと能わず(略)自らの専横、暴徒の結果なり」と評している。だが、広沢安任は資金融資や牧場まで来た利通への厳しい評は残していない。
2020-11-24 19:08:28【斗南のこと】明治11年8月。広沢安任は『開牧五年記事』をまとめた。開拓初期の開牧舎から広沢牧場までの歩みをまとめたものである。福沢諭吉が序文を書いている。福沢は他人の著書に序文を書かなかったが「広沢君は当世まれに見る人物なので請いに応じた」と言う。
2020-11-25 19:19:43明治18年、広沢安任の養嗣子である弁二が、駒場農学校(現在の東京大学農学部)を卒業し、獣医師として広沢牧場に帰ってきた。立派な跡継ぎが出来た広沢は、このころから自分の牧場だけでなく青森県全体の酪農や日本の開発のことに力を入れはじめる。
2020-11-27 21:36:35【斗南のこと】明治21年、広沢安任は東京淀橋に広沢牧場東京出張所を設ける。山川浩、秋月悌次郎らとの交流が始まる。日本の開発を掲げて、会津で山川、柴四郎、青森で広沢が第一回衆議院議員選挙に立候補したが、3人とも落選する。
2020-11-28 17:22:08【斗南のこと】広沢安任は、明治24年、東京でインフルエンザに罹患し、世を去った。遺体は下北の地に移され葬られている。山川浩、秋月悌次郎などが悼み追悼詩を送っている。
2020-11-29 18:45:39【斗南のこと】廃藩置県で、大参事・山川浩など幹部・移住民が斗南藩を去った。しかし、わずかだが、貧困・病気等の理由で斗南に留まらざるを得なかった人間がいた。留まった移住民の子孫からは青森県知事が出ている。小参事・広沢安任はその民のために頑張った。青森の酪農の先駆者である。 (完)
2020-11-29 18:59:34【斗南のこと】私見ですが、斗南藩で農業を拡大することが間違っていた。寒さや雪だけでなく、”やませ”と呼ばれる寒風が邪魔をする。もし、望みがあるなら、林業でひば材を切り出し、海運業で東京等の都会に運ぶというのが最適解だったと思う。しかし、資金面などで難しかったであろう。
2020-11-29 19:11:11