明治二年十一月四日、旧南部藩の三万石は、旧会津藩主の嗣子・松平容大に与えられ、新たに「斗南藩」が創立されます。その後、明治四年七月十四日に廃藩置県により「斗南県」となりました。実際に移住が始まったのが明治三年五月。廃藩置県まで1年と2か月でした。その歴史を綴ってみました。
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シービー @MrCB_Harukaze

会津藩が斗南藩に移邦されたと勘違いしている人が多い。会津藩は、戊辰戦争での降伏により、取り潰しになっている。 斗南藩は、旧会津藩主:松平容保の嫡男:容大を藩主として「新たに」創設された。両藩は、事実上、繋がりのないものである。 これを理解していないと、維新の歴史を誤る。

2019-12-16 01:01:36
シービー @MrCB_Harukaze

会津藩と斗南藩の構成員(幹部や主要藩士等)に共通者が多いため誤解をうむのだろう。新規創設藩なので、旧会津藩の藩士・住民に強制的な移住の義務はない。幹部や藩士は当時の忠誠感のため移住者希望は多かったが、一般住民では希望は少なかった(有名どころでは、山本八重は移住していない)

2019-12-16 01:06:34
シービー @MrCB_Harukaze

移住希望者が少なかったため、旧会津藩幹部は、一般民に対して「移住希望者は、士分とする」と通達しため、そこそこの希望者を得た。 というのが実情である。 会津藩と斗南藩については、再考が必要と思う。

2019-12-16 01:11:07
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、廃藩置県で斗南藩を多くの旧会津人が離れたが、そこに留まり、その子孫には、青森県知事になった人もいる。 小参事:広沢安任のように、幹部でありながら留まり、青森県の酪農業を先駆してくれた人もいる。 そういう縁は大切にしたいと思う。

2019-12-16 01:25:57
シービー @MrCB_Harukaze

松平容大を藩主として新藩設立が許されたとき、新政府が山川をはじめとした幹部に猪苗代地方と南部藩領(斗南)のどちらかを選ぶように言い、斗南を選んだという有名な話しがありますが、当時の新政府の公文書には一語もそんなこと書かれていません。

2019-12-25 19:52:56
シービー @MrCB_Harukaze

新政府創生期で混乱していたとはいえ、一つの藩を新たに創立するという大事なのに記録しなかったとは思えません。あくまで、個人の感想ですが、そんな話しは無かったと考えます。もとは、旧会津藩士には北海道への移住開拓をと考えていたので、北方である斗南移住開拓は規定路線と考えます。

2019-12-25 19:59:04
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】明治元年(1868)9月22日。会津藩降伏。松平容保父子は妙国寺に入って謹慎。12月、松平容保は東京に送られ備前池田家に永預け、嗣子喜徳は久留米藩有馬家に永預け、会津藩は取り潰しとなった。 ※これからの一連のツイートは、私的な知見に基づくもので、正式な史観ではありません。

2020-07-20 20:01:57
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】会津藩降伏後、藩士は塩川と猪苗代に収容されていた。その後、高田藩預かりと東京へ送られる。

2020-07-22 21:42:13
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】会津藩の再興計画は広沢安任が練る。山川大蔵をリーダーに広沢と永岡久茂が補佐する体制。新政府は旧会津藩士には北海道の開拓を任せる方針であった。長州木戸と大村が計画したらしい。その後北海道開拓は兵部省から開拓使に所管が変わり、下北の開拓を任せる方針に変更される。

2020-07-23 17:36:35
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】明治二年(1869)9月。太政官から松平家家名再興を許すとの通達があった。11月3日、嫡男・容大に家名存続が許され、11月4日旧南部藩領の北郡、二戸郡計3万石の支配を命じられ、1月5日、旧臣の謹慎が解かれた。

2020-07-24 16:52:49
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】会津藩士約4千戸のうち斗南への移住は約2800戸。残り800戸は農民として会津に残り、400戸は東京または他県に移っている。従い、藩士の強制移住ではなかった。

2020-07-27 22:43:35
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】斗南藩への移住は品川から海路、新潟から海路、陸路の3つに分かれていた。明治3年5月29日新潟港出港船が6月10日夜に現むつ市大湊に到着した。現地にはこの記念碑があり、会津鶴ヶ城の石垣と同種の石を使用し、会津の方角に向けて建てられた。 pic.twitter.com/tNyhiJAk0A

2020-07-29 23:05:59
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シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】斗南藩の知事は松平容保の子、容大(3歳)であった。容大は幼く、山川浩(大蔵)が権大参事として実質的に政治を担う。当初五戸に藩庁が置かれたがすぐに現むつ市田名部に置かれる。山川は新潟から海路で移動し明治3年6月下旬に田名部に着いたと思われる。

2020-07-31 22:19:52
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】斗南藩の藩庁は現むつ市田名部円通寺に置かれた。権大参事山川浩ほかの幹部はそこで政務を執る。隣の徳玄寺に藩知事松平容大の遊び場件食事場が設置された。まだ3歳の容大は基本そこですごした。山川らは重要な会議は徳玄寺で行った。藩知事の前での決裁とするためかも知れない。 pic.twitter.com/Sfq7orBOpW

2020-08-02 21:46:20
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シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】山川浩大参事は、斗南藩理念を発している。要約すると、旧家家名を立てることになったが、小家となったため、武家社会ではなく、農、林、工、商を立て、自主的な民となることが陛下の意思であるというものだった。おそらく、小参事広沢の筆によるものと思われるが、藩士の覚悟が見える。 pic.twitter.com/4FKNPIQ3Tb

2020-08-05 16:26:52
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シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】山川や広沢ら幹部がまず着手したのが、移住者の住と食の確保である。幹部らはむつ市田名部の中心地から4Kmの距離にある妙見平を検討した。山川は後に「斗南ヶ丘」と命名している。一戸建て30棟、二戸建て80棟を建設している。 pic.twitter.com/DXwhhhOOfy

2020-08-09 17:57:55
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シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】斗南藩ではすぐに廃刀令が断行された。厳しい風土の中、侍の意識を捨て開墾することが必要と考えられたことが一番の理由である。田名部、五戸、野辺地など主要地には教貧所(職業訓練校のようなもの)を設置し、殖産のための技術を教えた。 pic.twitter.com/kbqr4qjVPz

2020-08-11 21:09:37
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シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】斗南藩の実質的な指導者は大参事山川浩(大蔵)であった。戊辰戦争での日光の戦いや彼岸獅子の入城が有名で旧会津藩で家老・軍事総督を勤める。山川一家は明治二年(1869)6月下旬に斗南藩に移住した。弟の健次郎は長州藩士奥平謙輔に預けられている。

2020-08-14 21:12:06
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】小参事広沢安任は、山川浩の右腕として斗南藩の政務を執った。会津藩の下級武士の家に生まれたが松平容保公上京の際公用方に任ぜられ、新撰組の面倒を見る。後に薩摩藩に逮捕される。会津城下の戦いを経験してないため新政府との忌憚のない交渉を期待され小参事に抜擢される。

2020-08-16 21:51:57
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】小参事永岡久茂は最高幹部の一人。鳥羽・伏見の戦いに敗れてからは奥羽越列藩同盟の結成に奔走。山川と広沢が「永岡は雄弁にして折衝の才有り」と評し、小参事となる。斗南藩移住後は幹部として海洋事業の開発に着手する。後に思案橋事件で逮捕され獄中死している。

2020-08-17 22:38:51
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】明治4年にある捕り物が起きた。会津で会津人が偽金作りをしていたことが判明。戦後新政府が犯人を検挙したが、一部の7人が斗南藩に逃亡し、佐井村に潜んだ。斗南藩は隠そうとしたが、新政府の密偵に探知され、やむを得ず全員検挙した。8月に田名部苫生野原で処刑されている。

2020-08-20 22:47:55
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】山本八重の幼なじみ日向ユキも斗南藩に移住している。移住地は田名部でなく、野辺地。田名部より少し都会で幾分は気候も厳しくない。非常によく働き、針仕事、草履作りなどをやり小銭を得ていた。その後北海道に渡り、旧薩摩藩士の開拓使内藤兼備と結婚した。移住者では幸せな方だった。

2020-08-22 21:33:38
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】明治四年(1871)7月14日。廃藩置県が命ぜられる。斗南藩は斗南県となった。とはいえ、気候が厳しく産業もなく、食べ物にも困るという状況は何も変わらなかった。この状況を打破すべく、小参事広沢安任は他の県との合併により発展させる案を考えていた。

2020-08-26 22:50:50
シービー @MrCB_Harukaze

ちなみに、廃藩置県時、大参事山川浩は、各地で不平不満がありいずれ政変が起きる。そのとき、反政府の行動を起こすと考えていたらしい。山川らしいが、斗南県の将来を深く考えていた広沢と比べると為政者向きではないと思わざるを得ない。

2020-08-26 22:57:09
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】小参事広沢安任は、貧しい斗南県を救うには富める県との合併が必須と考えた。弘前、黒石、八戸、七戸、斗南の5県合併で大きな県を作ろうという案を思考している。これは、現在の青森県を形作るものである。しかし、戦国時代以来のいがみ合いの津軽と南部を結びつけることは容易ではない

2020-08-29 21:18:10
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】中世まで現在の青森県地域は南部氏が治めていた。しかし、戦国のころ南部氏家臣の大浦為信(津軽為信)が謀略で弘前を奪い、豊臣秀吉に領地を安堵してもらった。それ以来両氏は犬猿の仲であり、戊辰戦争のころには野辺地で戦争までやっている。

2020-09-01 16:49:47
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】廃藩置県直後の明治4年(1871)7月23日。斗南県小参事広沢安任、八戸県大参事太田広城が大久保利通内務卿の官邸に出頭し、太政官および大蔵省が諮問。五県(弘前、黒石、八戸、七戸、斗南)が決定される。

2020-09-04 21:36:13
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】廃藩置県で斗南藩は消失し斗南県が設立された。明治政府の統治下に置かれ、さらに、5県統合で斗南県自体がなくなるということでもあった。旧会津藩移住者からは「何のための移住だったのか」という声が大きかったが、小参事広沢安任はチャンスととらえていた。

2020-09-13 21:15:50
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】廃藩置県後、南部・下北・津軽の5県が統合し、青森県が誕生した。そのとき、青森県知事野田の報告書では、「斗南藩への移住者1万3千人のうち3千人は出稼ぎに出ており、6千人が重病人や老人などである。男子で壮健のものは2千3百人」という。

2020-09-18 21:55:08
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】明治四年に会津藩旧藩主松平容保が東京から発して斗南を訪問している。旧大参事山川浩が佐井港で迎え同道した。旧家臣の移住者らは沿道にに集まり歓喜の声を上げたという。

2020-09-21 19:05:58
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】明治四年7月に斗南の地を踏んだ旧会津藩主松平容保は約1か月滞在し、旧領内の田名部、野辺地、七戸、三戸、五戸等を通り、容大を連れて東京へ出発する。容大は幼い頃に別れてすごしたためか、容保の顔は忘れていた様子だったという。

2020-09-23 21:33:57
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】松平容保・容大親子が斗南の地から離れたとき、旧斗南藩の幹部の多くは斗南の地を去る。旧大参事山川浩らは東京へ。また何人かは北海道へ渡る。その中でただ一人、旧小参事広沢安任だけが青森に残った。

2020-09-25 20:39:55
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】旧斗南藩幹部でただ一人斗南の地に残った旧小参事広沢安任は、病気で移住できないなどの理由で残った人々の仕事探しに奔走した。そのとき、資金援助などで支援してくれたのが、旧七戸藩大参事新渡戸伝であった。新渡戸稲造の祖父である。

2020-09-27 22:20:48
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】広沢安任を支援した新渡戸伝は、南部藩家臣を父に持ったが内紛に巻き込まれ、下北半島に流された。新渡戸は侍をやめて商人になる。広沢の求めに応じて鎌、桑、鋤などを提供した。広沢は新渡戸の好意に目の前で号泣したという。

2020-09-30 21:31:36
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】廃藩置県で東京に移住した旧大参事山川浩は、浪人として浅草観藏院で母と妹と暮らした。山川は新政府の仕打ちを非常に恨んだ。旧小参事永岡久茂を度々会っては怒りをぶちまけ反政府運動を画策するまでに来ていた。しかし、山川は旧会津藩のリーダーとして軽はずみな行動はできなかった

2020-10-01 21:38:10
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】旧小参事永岡久茂は副島種臣、板垣退助らと親交を結び、薩長批判を行った。山岡浩は正攻法で、参議大隈重信に旧会津人の処遇改善を訴えるとともに、鹿児島の海江田信義にも頼ったという。

2020-10-03 17:03:01
シービー @MrCB_Harukaze

疑問なのは、この時点(廃藩置県で斗南藩が消滅し、移住者は自由に東京その他の地に再移住し、職業も自由に選択出来た)で、旧会津人の待遇に何が不都合があったのかが分からない。おそらく、廃藩置県の時点で、旧会津藩どころか日本全国の旧藩の住民は同じ待遇と思うのだが。

2020-10-03 17:07:18
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】旧大参事山川浩、旧小参事永岡久茂らは新政府に監視されていた。密偵は旧熊本藩士庄村省三であった。山川は不満を抱き、薩摩藩出身の海江田信義や大山綱良とも会っており、新政府が不安を抱いたようである。一説には監視は三条実美の指示とも言われる。

2020-10-04 22:30:11
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】山川浩が鹿児島士族と手を結ぶことを嫌った新政府は山川の懐柔を考え、旧土佐藩の谷干城に依頼。谷は戊辰戦争の日光口で山川と戦っており、その名を知っていた。谷は山川を呼び出し、弟(健次郎)妹(捨松)が新政府に世話になっていることなどを話し山川を説得。山川は陸軍に入る。

2020-10-07 19:48:16
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】陸軍に入った山川浩は、明治六年に熊本鎮台勤務を命じられる。しかし、その頃征韓論で西郷隆盛が下野するなど政情が不安定で赴任を送らせていた。政府は旧薩摩士族の反乱は必至とみて、熊本鎮台の強化に乗り出す。谷干城を熊本鎮台長官に任じ、谷は山川に同行を求める。

2020-10-08 21:30:18
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】明治六年山川浩は、陸軍少佐を命じられ熊本鎮台参謀として赴任した。当時、鹿児島と佐賀の旧士族の反乱が懸念されていたが、最初に動いたのは佐賀であった。山川は自ら出兵を希望し、佐賀県庁に向かった。時を同じくして鎮圧のために土佐の岩村高俊が佐賀県権令に任命される。

2020-10-10 22:34:27
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】明治7年(1874)2月1日。江藤軍が佐賀県庁を襲撃する。反乱軍2500に対して鎮台軍は400。山川浩は、この戦いで左手を負傷し戦線を離脱する。このとき、親友であり妹操の夫である小出光照を亡くしている。意気消沈した山川を谷干城は東京に帰し、治療に専念させた。

2020-10-12 17:54:09
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】東京に帰り、佐賀の乱で負傷した左手の傷を療養し、傷が癒えた頃、山川浩は旧会津藩主松平容保と一時会津に帰郷している。6年ぶりであった。見張りが厳しく余り自由はなかったが、設けられた面会場で土地に住む旧家臣とその家族と再会を果たしている。

2020-10-13 19:21:46
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】旧斗南藩小参事永岡久茂は、上京後、『評論新聞』を創刊して反政府運動を行っていた。同じ反政府派である長州藩出身の前原一誠とも親しくしていた。『評論新聞』は過激であったため、何度か発禁処分を受けたが、『文明新誌』など新しい雑誌を発刊し、政府攻撃を続けた。

2020-10-17 18:15:04
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】明治9年10月29日、旧斗南藩小参事永岡久茂は、前原一誠から萩の乱蜂起の連絡を得た後、かねてからの計画どおり千葉佐倉鎮台の仲間と合流して会津に入り、前原と東西で呼応して政府を転覆する行動を図る。いわゆる思案橋事件である。

2020-10-21 20:21:55
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】明治9年10月29日。永岡久茂らは行動を起こそうと小網町の船宿に行ったが、不審に思われ日本橋警察署に密告される。駆けつけた警察官4人と乱闘になり永岡は腰に傷を負い捕らえられる。その傷がもとで翌年梶橋の獄舎で獄死する。享年38。斗南藩小参事の最期である。

2020-10-23 21:35:36
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】斗南藩小参事永岡久茂と共謀した長州藩前原一誠について、広島鎮台司令長官三浦梧楼は「正直な人だが少し愚痴な人であった。それでついに滅亡を招いた」と評している。永岡がどの程度前原を頼りにしていたかは定かではないが、最後の賭けであったろう。会津と長州のわずかな接点である。

2020-10-25 20:36:54
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】明治10年2月。西南戦争が起こる。旧斗南藩大参事山岡浩は、陸軍中佐として従軍する。所属は、元長州藩・陸軍少将山田顕義率いる別動第二旅団。軍の任務は、背面軍として熊本に上陸し、熊本城を救済することであった。

2020-10-26 21:41:55
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】明治10年4月14日。陸軍少将・山田顕義率いる別動第二旅団は川尻を攻め占領した。熊本城まで一気に進撃するべきという意見が多かったが、山田は黒田清隆の命に従い、それに反対した。しかし、別動第二旅団の右翼を受け持つ陸軍中佐・山川浩は熊本進撃を決意する。

2020-10-27 20:22:28
シービー @MrCB_Harukaze

【斗南のこと】明治10年4月14日。黒田清隆中将の命令により15日進撃すべく、山田顕義少将からも待機との命が出されていたが、別動第二旅団の右翼中隊が山川浩中佐のもと熊本城に進撃を開始する。完全な命令違反であった。午後四時、熊本城下に達し、熊本城は開放される。

2020-10-28 20:51:14
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.