ますらおの はじをしのびて ゆくたびは すめらみくにの ためとこそしれ
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シービー @MrCB_Harukaze

佐賀藩・芸州藩の脱藩密航留学生がロンドンに到着したとき、地元紙にその記事が載り、大歓迎を受けたという。遠い東洋から留学に来たことや日本という国への好奇心からであろう。さらに三人が髷を結い、刀を差し、和服姿であったことも大きな興味を引いたと思われる。長州薩摩留学生は洋装であった。

2021-06-12 19:41:52
シービー @MrCB_Harukaze

長州ファイブが出航する直前、密かにマセソン商会に行き、「胡冠(帽子)を蒙り胡服(洋服)を着候事ゆえ、断髪つかまつり(略)後一笑」と述べている。俊輔は「ますらをのはじをしのびてゆくたびは すめらみくにのためとこそしれ」と歌を詠んでいる。大河『花神』でこの名シーンは観られる。

2021-06-12 19:49:16
シービー @MrCB_Harukaze

佐賀藩・芸州藩の留学生三人はスコットランドに向かう。そしてその頃、さすがの薩摩藩も資金難で数名の留学生を帰国させることになる。結果、町田、畠山、森、鮫島、市来のロンドン勢6名、スコットランドの磯永、フランスの中村、田中の9名となった。大藩といえど外国留学生の資金は負担であった。

2021-06-13 18:39:05
シービー @MrCB_Harukaze

スコットランドでも留学生サークルが出来上がる。佐賀藩石丸、馬渡、芸州藩野村、薩摩藩磯永、長州藩武田庸次郎(南禎助、山崎と一緒に渡英を試みるが、諸事情で上海から戻っていたが、再び渡英)である。

2021-06-13 18:47:31
シービー @MrCB_Harukaze

この頃土佐藩からも留学生が到着している。中井弘蔵(桜洲山人)、結城幸安の2名であり、1867年1月19に到着している。中井は元薩摩藩士で脱藩し後藤象二郎を頼っていたが坂本龍馬らに見いだされて白羽の矢がたったらしい。偶然であるが、薩摩留学生の町田、吉田、森、鮫島らは、元の上司同僚である。

2021-06-13 18:52:36
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩に詳しい人は「中井」の名を見て聞いたことが・・・と思う人もいるであろう。聞多の妻武子の元夫である。中井が京都で奔走中に中井が聞多に妻武子を預けたが、戻ってきた時には武子は聞多の妻になっていたという(諸説あり)。幕府は慶応2年4月7日に海外渡航を許可したので密航留学生ではない。

2021-06-13 19:00:20
シービー @MrCB_Harukaze

聞多と俊輔がロンドンを出航し、横浜に帰着したのは、元治元年(1864)6月10日のことである。当時の長州藩は、6月5日の池田屋事件で吉田稔麿らを失い、八月十八日の政変での汚名をそそぐために、来島又兵衛とはじめとした進発派が京を目指そうとしていた時機であった。

2021-06-14 19:08:11
シービー @MrCB_Harukaze

その頃、駐日英国公使オールコックは、米・蘭・仏の各国公使と協議の上、下関攻撃の計画を練っていた。聞多と俊輔は上陸後すぐマセソン商会のガワーを訪ねた。当然オールコックとの会見を希望したであろう。実現するまでの間、二人はポルトガル人になりすまし、居留地内のホテルに身を隠した。

2021-06-14 19:14:25
シービー @MrCB_Harukaze

数日後、聞多と俊輔がオールコックを訪問する。オールコックは英国艦隊司令官キューパー提督に「この二人の若者が無事に山口に帰り着き(略)藩主が二人の説得に耳を傾け(略)あり得ないことではない。そうなれば我々は友人を作ることになる」と手紙を書いている。よほど信頼されたのであろう。

2021-06-14 19:22:24
シービー @MrCB_Harukaze

聞多は「あたかも大人四人がかりで一人の幼児を殴りつけるに等しく、大人の了見とは思えない。必ず藩主を説得して攘夷を止めさせ、開国主義へ方針転換させてみせる」と説いた。長州を幼児に、諸外国を大人に見立てている。情ではなく理屈で押し通そうとする聞多に動かされ、オールコックは軍艦で送る。

2021-06-14 19:28:07
シービー @MrCB_Harukaze

聞多と俊輔は6月18日に英国軍艦バロッサ号に乗り長州を目指す。しかし、翌日には四国による武力行使の共同覚書が調印され、20日以内に満足すべき保証がない場合は、通告無し行動を開始する、と幕府に伝えられた。二人に許された時間は短い。

2021-06-14 19:32:23
シービー @MrCB_Harukaze

バロッサ号には日本語が堪能な通訳、アーネスト・サトウ、エンスリー、中沢見作が同乗した。聞多と俊輔は長州藩士宛の覚書を三人と共同で訳し、親交を深めた。サトウは「この2人は周防の富海に上陸する予定だった。中沢は彼らは十の六、七まで首を刎ねられ二度と会う機会はあるまいと云った」と述べる

2021-06-15 14:37:05
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)6月23日、バロッサ号は姫島に停泊。聞多と俊輔は小舟で翌24日に周防富海に上陸した。警備の杵築藩の役人は長州藩三田尻代官所に「異人」が上陸し、「日本風の服」に着替えたと報告している。2人は7月6日にバロッサ号に戻ってくるはずであった。

2021-06-15 14:44:15
シービー @MrCB_Harukaze

聞多と俊輔は、24日夕刻に山口に到着し、旅籠万台屋利七宅に滞在する。そこに集まった昔の仲間、渡辺内蔵太や大和弥八郎らは2人の攘夷不可論について理解が及ばなかった。2人は直目付毛利登人に頼み、藩主毛利敬親への拝謁を申し出る。26日、2人は主君の前で持論を力説する。

2021-06-15 14:50:05
シービー @MrCB_Harukaze

敬親公は聞多の言葉に理解を示したようだが、藩全体が攘夷論で満ちているため、すぐに開国主義へ転換するのは難しいとの見解を述べる。聞多は君前会議の開催を懇願し、翌27日に君前会議が開かれることになった。

2021-06-15 15:05:38
シービー @MrCB_Harukaze

聞多は君前会議で英国密航からこれまでのいきさつを述べる。そして四ヵ国代表からの覚書を提出する。聞多は西欧諸国の富強と攘夷の無謀を説く。「攘夷を決行することは国家を滅ぼすこと」と云う。聞多は涙を流し説得を続け、議論は6,7時間に及ぶが物別れに終わった。

2021-06-17 13:23:58
シービー @MrCB_Harukaze

聞多は「是非此攘夷の方針を翻して開国の方針を執るが良いと云うことを極論いたしました。(富強の例として電信を説明すると)ほらを吹くにも程が有るでは無いかと嘲笑せらるる」と『懐旧談』で回顧している。また「精神ばかりを以て競争することは出来ない」とも述べている。

2021-06-17 13:28:58
シービー @MrCB_Harukaze

×覚書を提出する ○覚書を提出することは控えた

2021-06-17 13:30:12
シービー @MrCB_Harukaze

君前会議後、聞多は藩内から「外夷のスパイ」「売国奴」と呼ばれ斬るべしという意見まであった。藩政府派は6月30日に改めて攘夷の布告を発した。しかし、藩の主力は京都に向けて進軍中であり、反政府派四ヵ国に対して回答引き延ばしの手段に出る。交渉役は聞多と俊輔である。

2021-06-17 13:33:41
シービー @MrCB_Harukaze

藩庁は藩主敬親公名義で「前年の馬関戦争の戦後処理を9月まで引き延ばす。受理されない場合は長州藩から攻撃する」と言う手紙を聞多と俊輔に手渡し、英国軍艦バロッサ号が停泊する姫島に向かわせた。藩命のため「信義に反する」が2人は英国艦長ダウエル大佐と通訳サーネスト・サトウと交渉する。

2021-06-17 13:38:26
シービー @MrCB_Harukaze

聞多と俊輔は約束より1日早い7月5日に姫島に戻る。交渉は夜10時半すぎから深夜に及ぶ。さすがに「受理されない場合長州藩から攻撃する」の下りは省いた。当然ながら交渉は決裂した。サトウは「欧州からわざわざ帰って来ながら、藩主への忠告が失敗に終わったことに同情の念に堪えない」と述べている。

2021-06-17 13:44:34
シービー @MrCB_Harukaze

英国との交渉が決裂した聞多と俊輔は山口に戻る。その約二週間後、7月19日に禁門の変が起こる。長州藩は撃破され、朝議は長州藩追討を決定し、幕府は西国諸藩に出兵命令を下す。聞多は萩城下にいる姉小沢常を訪ね、その足で菊屋横丁の晋作坊ちゃんの家に向かう。坊ちゃんは牢から出て家で蟄居中である

2021-06-18 18:14:10
シービー @MrCB_Harukaze

聞多が晋作坊ちゃんに欧州での見聞と開国論を披露すると坊ちゃんはすぐに賛同してくれた。その後、聞多は藩政府の命で7月23日に急遽山口に戻った。26日に三田尻で君前会議が開かれ、藩政府は掌を返すように、聞多に対して杉徳輔と共に外国との止戦交渉に当たれと命じた。聞多は当然固持した。

2021-06-18 18:19:50
シービー @MrCB_Harukaze

聞多は「諸君は、たとえ防長二州が焦土となって滅びようとも攘夷の方針は決して変えない。、と豪語していたではないか。それが今、現実となって目の前に迫ってきている。ところが、京都での敗報に接して、狼狽のあまり前議を翻して、今度は戦いを止めるよう外国と交渉してくれという。(続く)

2021-06-18 18:23:43
シービー @MrCB_Harukaze

実に無定見、無責任の極みである。こうした無責任の輩と一緒に善後の策を講じても、決して良い結果は得られない。」と言い放ち、席を蹴ってその場を去った。聞多の怒りが目に見えるようである。『花神』では聞多が癇癪を起こしたと表現している。

2021-06-18 18:27:12
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)7月27日と28日、四国連合艦隊17隻が豊後姫島沖に向けて横浜港を出航した。総兵員数は約5千人である。8月2日、連合艦隊は姫島沖に到着した。翌朝全艦で下関海峡へ向けて航進する。8月4日、艦隊は海峡入り口から約2マイル離れた場所に投錨し、戦闘準備に入った。

2021-06-18 18:32:54
シービー @MrCB_Harukaze

聞多と俊輔は以降、講和談判を成功させ、明治政府の重鎮となっていく。一方、他の長州ファイブのその後はどうなったか。

2021-06-18 23:07:09
シービー @MrCB_Harukaze

いわゆる「薩長同盟」成立の頃、遠藤謹助がロンドンを後にして日本に向かう。病を患っていたためでもあるが、実際のところは山尾や野村(井上)に比べて学問ができないというのが帰国の大きな理由であったと言われる。山尾庸三と野村弥吉は英国で学問を続ける。

2021-06-18 23:20:32
シービー @MrCB_Harukaze

山尾と野村(井上)に帰国の君命が下る。新しい日本にとってその知識や技術を役立てることも求められた。桂さんは「野村弥吉おいおい君命もこれあり、帰国致し候様にとの御事に御座候」とその頃のことを記している。山尾と野村は明治元年(1868)11月19日に横浜港に帰国する。5年振りの日本であった。

2021-06-18 23:28:16
シービー @MrCB_Harukaze

二人は21日に江戸の桂さん(木戸)を訪ねる。「夕刻山尾庸三、井上弥吉来る(略)暫く往時を談じ桜屋に至り数杯を傾く」と桂さんは日記に書いている。12月、山尾と野村は帰藩する。山尾は海軍局教授役を命じられ造船学を教えた。野村は井上家に復籍し、鉱業管理の業務に就く。

2021-06-18 23:42:42
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)10月、二人は上京する。俊輔と大隈重信が英国資本を導入し鉄道事業を進める計画を立て、聞多と俊輔が二人に上京を促したのである。野村改め井上弥吉は10月に大蔵省に出仕し、俊輔と大隈の鉄道資金調達のために通訳として関わった。

2021-06-18 23:48:00
シービー @MrCB_Harukaze

山尾は横須賀製鉄所事務取扱の職にあった。明治3年閏10月に工部省が設けられ、井上はそこに移り、工部権大丞に任ぜられる。そして、明治4年(1871)8月、鉄道事業を統括する鉄道寮の長官の職に就く。そして、明治5年(1872)9月、新橋・横浜間に日本初の鉄道が開通する。

2021-06-18 23:55:36
シービー @MrCB_Harukaze

井上弥吉は、明治18年(1885)12月、内閣制度の下、初代鉄道局長官に任じられ、明治22年に東京・神戸間の東海道全線を開通させる。明治43年(1910)8月2日、欧州鉄道巡視の途中病のためロンドンで客死する。享年67。一方、山尾は井上と同じく工部省設立時に工部権大丞に就く。

2021-06-19 00:00:50
シービー @MrCB_Harukaze

山尾は工部少輔、大輔を経て明治13年(1880)2月、工部卿に就任する。山尾は、技術者育成の教育事業を進め、工部学校設立の建議書を太政官に上申し、「工部大学校」を設立させた。さらに、彼は障害者教育にまで力をいれ、ろうあ学校「楽善会訓盲院」も設立させている。

2021-06-19 00:08:38
シービー @MrCB_Harukaze

山尾は明治14年(1881)10月に参事院(正院法制局の後継)議官となる。大正6年(1917)死去する。享年81。死因は心臓病とも脳溢血とも言われる。遠藤謹助は帰国後、桂さんから外国交渉を任されていた。英国公使ハリー・パークス、ジョージ・キング提督と三田尻藩主世子会談の通訳は遠藤が努めた。

2021-06-19 00:23:05
シービー @MrCB_Harukaze

遠藤謹助は新政府樹立直後は、兵庫運上所司長として税関業務や外交事務に携わる。明治2年(1869)8月に大蔵省通商司に就く。明治3年(1870年)11月、造幣権頭に就任。一時造幣局を離れるが、明治14年(1881)に造幣局長に就任。 明治26年(1893)9月13日に病気で死去。享年57。

2021-06-19 00:36:51
シービー @MrCB_Harukaze

ロンドンのUCL構内には、長州ファイブと薩摩スチューデントの功績を讃えた記念碑が建てられている。そこには「伊藤博文 井上勝 井上馨 遠藤謹助 山尾庸三」5名の名と「はるばると こころつどいて はなさかる」の俳句が刻まれている。(完)(主に、犬塚孝明『密航留学生たちの明治維新』より)

2021-06-19 00:48:38
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.