ますらおの はじをしのびて ゆくたびは すめらみくにの ためとこそしれ
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シービー @MrCB_Harukaze

文久3年(1863)1月、佐久間象山の長州招聘に失敗した久坂玄瑞と山縣半蔵(宍戸璣)池田屋に居た。象山は日本だけで攘夷を行うことは不可能であり、「海軍力と武備の増強」を忠告した。そこに志道聞多が訪ねてきて、象山の言葉に従い英国密航を決意する。

2021-06-04 19:00:57
シービー @MrCB_Harukaze

聞多は、密航するため、養子となっていた志道家を継ぐことをあきらめ、井上家に復籍する。久坂ややじは反対するが、周布さん、桂さん、晋作などは同意する。桂さんは自分も行きたいと言ったらしいが、藩の首相的な立場の人間に許可が下りるわけがなく、あきらめている。

2021-06-04 19:04:05
シービー @MrCB_Harukaze

周布さんは横浜の伊豆倉商店の佐藤貞次郎に聞多の密航計画を相談する。聞多の密航計画はすぐに知れ、山尾庸三と野村弥吉(井上勝)も行きたいと言い出す。4月18日、藩主毛利敬親が聞多、庸三、弥吉の英国行きを認める内命を下す。

2021-06-04 19:09:09
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年(1863)5月、聞多は横浜でイギリス領事ガワーに渡航費の相談をする。ガワーは一人1000両かかるという。藩主からは一人200両、計600両もらっていたが、大半を品川の土蔵相模で散財していた。そこに遠藤謹助が仲間に加わる。聞多は麻布藩邸に武器密輸入用の1万両があることをつかんでいた。

2021-06-04 19:15:39
シービー @MrCB_Harukaze

当時武器の密売を担当していたのが伊藤俊輔である。聞多は俊輔に金の横流しを頼む。俊輔は仲間に入れてくれることを条件に軍資金の責任者村田蔵六に会わせ、5人分の旅費5000両をせしめることに成功した。5人は、イギリス汽船ケルスウイック号に乗り込み、5月12日、横浜港を出航した。

2021-06-04 19:20:40
シービー @MrCB_Harukaze

長州ファイブの一人、日本の鉄道の父井上勝像と旧宅跡 pic.twitter.com/bXokQzhNp3

2021-06-04 19:25:59
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シービー @MrCB_Harukaze

5人が乗った英国汽船ケルスウイック号は、5日後に上海に到着する。日本で密航の手はずを整えてくれたジャーディン・マセソン商会の上海支店でイギリス行きの船に乗り換えるためである。聞多は「自分も是は今迄は大江変に誤ったという考が起ったのだ」と語っている。

2021-06-05 20:18:07
シービー @MrCB_Harukaze

この言葉は開国派に転じたもので、俊輔に語ったものだが、俊輔は笑って相手にしなかったという。聞多は周布さんにも「長州が攘夷論をやるが大きな間違いである」と手紙を送っている。周布さんもそれを見て「上海を見ただけで攘夷を諦めたか」と笑ったという。

2021-06-05 20:20:36
シービー @MrCB_Harukaze

上海の商会の支店長が質問をする。横浜で少し英語をかじった井上勝が「英国への渡航理由を尋ねている」と通訳した。聞多は『英和対訳珍辞書』を見て”Navigation”と答える。海軍の意図で答えたつもりだが、航海の意味である。支店長は航海術を学びたいと理解した。

2021-06-05 20:25:57
シービー @MrCB_Harukaze

5人は、聞多と俊輔、井上と山尾と遠藤の二組に分けられ、聞多らはペガサス号に3人はホワイト・アッダー号に乗せられる。聞多と俊輔はその船で水夫の仕事をさせられる。”Navigation”と答えた結果である。甲板の掃除、帆の向きの操作など重労働であった。

2021-06-05 20:30:42
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年(1863)9月23日、ペガサス号はロンドン港に到着する。後発のホワイト・アッダー号の方が早く到着していた。ペガサス号は300トン、アッダー号は600トンで、船の性能差であろうか。ともあれ、5人は再会する。聞多は「繁栄の状況を見て(略)攘夷などは一瞬で吹き飛んだ」と回想している。

2021-06-05 20:34:37
シービー @MrCB_Harukaze

ロンドンに着いた聞多たちは、まず、ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン(UCL)の科学教授、ウィリアム・ウィリアムソン教授宅であった。日本で渡航を手配してくれたマディソン商会本店の紹介であった。俊輔、井上、遠藤は教授宅に下宿し、聞多と山尾は別の下宿に身を寄せた。

2021-06-06 17:38:51
シービー @MrCB_Harukaze

聞多と山尾は、画家のアレキサンダー・クーパー邸に下宿する。5人はそこで英語の勉強をし「英字新聞を持ってきたり(略)読めるようになりました」と聞多は回顧している。なお、クーパー邸はその後英国にやってくる日本人の定宿のようになる。(長州藩山崎小三郎、南禎助、薩摩藩村橋久成等)

2021-06-06 17:54:46
シービー @MrCB_Harukaze

5人はULCの法文学部に聴講生の資格で入学する。聴講生なので学びたい講義に出席し、都度聴講料を払う。聞多以外の4人は分析化学をまず学ぶ。井上と遠藤が続いて地質鉱物学、山尾が土木工学、さらに野村は数理物理学も学んでいる。「毎日朝夕は家で稽古(英語・数学)昼間は大学で稽古」と俊輔は回想。

2021-06-06 18:52:55
シービー @MrCB_Harukaze

5人は大学の講義だけでなく、造船所、工場、造幣局、博物館、美術館等にも頻繁に通い西欧文明を吸収しようとしていた。入学2か月後にはイングランド銀行も訪ねている。訪問記録が残っており「志道聞多・野村弥吉・山尾庸三・遠藤謹助・伊藤春輔」の名前がある。聞多は英国では志道を名乗っていたようだ

2021-06-06 18:57:34
シービー @MrCB_Harukaze

聞多と俊輔は、帰国後君前会議で「江戸、大坂の如きは、到底比較すべきにあらず。その国力の豊富なるも我が邦に幾百倍なるやを知るべからず」と、西欧文明技術の盛んなことを示した。暗に四ヵ国艦隊との戦争は無謀であると伝えたかったのであろう。

2021-06-06 19:02:25
シービー @MrCB_Harukaze

今日の青天を衝くの聞多俊輔シーンは、君前会議で聞多と俊輔の主張が退けられながら、藩主敬親の「前年の馬関戦争の戦後処理を9月まで引き延ばす。受理されない場合は長州藩から攻撃する」と言う手紙を渡され、姫島で英国艦長ダウエル大佐と通訳サーネスト・サトウと交渉し決裂したあたりでしょうか。

2021-06-06 19:11:15
シービー @MrCB_Harukaze

ある日、マセソン商会の支配人ヒュー・マセソン(マディソンではなくマセソンが正しい発音のようです)が5人のもとにやってきて重要な情報を伝える。文久3年(1863)7月2日に勃発した薩英戦争戦争に関する情報である。

2021-06-07 18:05:06
シービー @MrCB_Harukaze

マセソンは「薩摩の行動に関して日本からの情報を5人に伝えたところ、5人は全員で署名した手紙を私によこした。そこには2人が帰国する決心をしたことが記されてあった。さらに、ラザフォード・オールコック卿に会えるように手配して欲しいとも」と述べている。

2021-06-07 18:08:03
シービー @MrCB_Harukaze

帰国の決心をしたのは聞多と俊輔であった。なお、マセソンへの手紙は文久3年12月ごろと思われる。しかし、マセソンからの情報を入手する以前に、5人は現地の新聞(タイムズ)で長州藩の外国船砲撃事件や薩英戦争などを詠み知っていたと思われる。

2021-06-07 18:12:34
シービー @MrCB_Harukaze

聞多は「日本に関係ある記事は注目して見ていた。元治元年(1864)になると、江戸政府が長州を懲罰しないなら砲撃を受けた各国が自ら長州を征伐しなければならぬという議論も紙上に現れてきた。俊輔に相談して海軍を学んでも自分の国が滅びたら無益であるから、2人で帰国して、勲功にも拝謁し、

2021-06-07 18:17:00
シービー @MrCB_Harukaze

欧羅巴の形成事情を説いて、攘夷の方針を変じて尊皇開国の方針を執らせようと云うと、俊輔も同意したものですから、あとの3人を残して、俊輔と私が帰ることになりました」と『懐旧談』で回顧している。

2021-06-07 18:19:59
シービー @MrCB_Harukaze

『タイムズ』に薩英戦争と長州の外国船砲撃の双方の記事が載ったのは1863年10月21日(文久3年秋)である。全文を正確に理解できなかったと思われるが、聞多は心を痛めたのであろう。なお、この日付の記事は5人のロンドン到着前であり、何かの機会で誰かから日本情報として古い新聞を渡されたのであろう

2021-06-07 18:26:13
シービー @MrCB_Harukaze

聞多が薩摩藩が英国と和議を結び、賠償金支払いに応じたこと、下関が蘭米仏の軍艦の砲撃を受けて砲台を占領されたことなどを知ったのは、1864年2月9日付け『タイム』の記事からと思われる。聞多は「吾輩が海軍の学術を研究しても、自分の国が滅びた時には実際に応用することができようか」と述べている

2021-06-08 16:05:16
シービー @MrCB_Harukaze

俊輔も「欧州諸国の制を実施して国家の隆盛を期しているの目撃し、益々封建を廃止しなければと確信した」と後に在英中の体験を語っている。聞多と俊輔は「開国主義者」「国家主義者」へと脱皮した。

2021-06-08 16:09:27
シービー @MrCB_Harukaze

ロンドンの国立公文書館に『ラッセル覚書』と呼ばれる史料が保管されている。1864年7月1日にレジナルド・ラッセル氏が記載したもので日本に3年ほど居留した英国商人と考えられている。そこには「私は、日本の現状について聞き出すため、ロンドンにいる長門の大名毛利大膳大夫の3人の士官を訪ねた(続く

2021-06-08 16:15:38
シービー @MrCB_Harukaze

昨年の夏、米蘭仏の艦船に砲火を浴びせた大名である。」と記されている。3人の士官とは、野村(井上)、遠藤、山尾を指している。ラッセルは3人と2度会談しており、初回は聞多と俊輔が帰国の途に就いた後2か月後の6月下旬と思われる。ラッセルは彼らの派遣の目的などを聞いた。

2021-06-08 16:21:15
シービー @MrCB_Harukaze

3人は「外国船砲撃の目的は、真の目的は”不正な大君政府(幕府)”を倒し、祖国に平和と秩序をもたらすため。権力を正当な皇帝であるミカドへ取り戻す。そのため、有力大名は大君を西洋列強と不和にさせることで力を弱め、正統な主権者の力を回復できるように望んでいる」と答えた。

2021-06-08 16:26:15
シービー @MrCB_Harukaze

さらに「権力を回復させるには、列強諸国がミカドを真の主権者として認めることが必要であり、不正な条約が廃棄されれば攻撃は収まるであろう」と述べる。このことから、英国外務省は長州藩の真の狙いを不確かな情報であるが入手していたと思われる。

2021-06-08 16:30:56
シービー @MrCB_Harukaze

少し時間を遡り、聞多と俊輔が帰国の意志を表した時、ウィリアムソン博士をはじめとした周囲はこぞって反対した。「こんな若造になにができる」「せいぜい殺されるのがおちだ」と罵ったとも言われる。

2021-06-08 16:34:16
シービー @MrCB_Harukaze

聞多は「一死は固より覚悟せねばならぬ」と述べた。が藩論を開国に変える以外国の滅亡を救う道がない。他の3人もともに帰国しようというが、聞多はこれを止めた。後事を託す者がいなくなるというのが理由である。聞多と俊輔は4月半ばごろロンドンを後にした。

2021-06-08 16:40:35
シービー @MrCB_Harukaze

1864年11月、薩摩藩が19名の藩士を留学生として派遣する。いわゆる薩摩スチューデントである。薩摩藩は薩英戦争の講和交渉で英国に留学生を派遣することを提案。英国も承諾します。薩摩藩は4名の視察員と15名の留学生を決定。元治元年(1865)3月22日にグラバーの船で鹿児島を出港した。

2021-06-09 19:19:56
シービー @MrCB_Harukaze

薩摩スチューデントには有名な五代才助もメンバーに入っていた。英国政府との交渉で留学が許可されているため、長州ファイブのような苦労はなく、快適な船旅だったと言われている。ロンドンには二ヶ月後の5月28日(西暦だと1865年6月21日)に到着する。

2021-06-09 19:23:09
シービー @MrCB_Harukaze

ある日、薩摩スチューデントの世話役だったグラバー商会のライル・ホームが路上で3人の日本人と出くわす。長州ファイブの居残り組の3人である。薩摩藩の畠山丈之助は「昨日はホームが長州人に遇ヒ候由。三人一昨年より当地にヘ来リ文理学稽古致候と聞き及候」と記している。

2021-06-09 19:29:31
シービー @MrCB_Harukaze

野村、遠藤、山尾の3人は薩摩スチューデントの存在を知り、1週間後に宿舎フラットを訪ねた。両藩は「禁門の変」依頼の仇敵であり、かなり微妙な雰囲気であったようで、3人も友好と云うよりは事情探索の意味合いが大きかったようだ。

2021-06-09 19:33:50
シービー @MrCB_Harukaze

薩摩藩町田清蔵は「日本人三人が訪問してきた。沢井ら五人が集まり相談し、階上に案内することにした。三人は「長州藩より渡英した遠藤謹助、山尾庸三、井上弥吉と申す者で、日本を発した時は伊藤俊介、井上聞多なりしに、両人は先に帰藩し、学費の送金無く困難して居ります」と彼らの言葉を記す

2021-06-09 19:40:18
シービー @MrCB_Harukaze

薩摩スチューデントと長州ファイブの会談は当初ギクシャクしていたが、遠い異国で学ぶ同じ立場からか結局5時間も話し込んだ。また、翌日、山尾の誘いで大学のスポーツ競技会を観戦したりするうちに打ち解けていった。

2021-06-10 17:14:44
シービー @MrCB_Harukaze

薩摩スチューデントはウィリアムソン博士の勧めで市内数か所に分散居住する。正式な留学生であり、薩摩藩は二十万両を資金として準備しており、学費や生活費には困らなかった(むしろ裕福?)。一方、長州ファイブは、藩からの送金が途絶え、学費の支払いにも困る長体だった。

2021-06-10 17:21:06
シービー @MrCB_Harukaze

そんな中、山尾はカレッジを退学し、造船技術を習得するためにグラスゴーに行きたいと言い出した。このとき山尾は旅費がないとクーパー邸に同宿していた薩摩藩士村瀬直衛に借金を申し込む。藩費を他藩に貸すわけには行かず、他の薩摩藩士からカンパを募り16ポンドを渡したという。

2021-06-10 17:25:30
シービー @MrCB_Harukaze

一方、遠藤は肺病の兆しを見せていた。後に遠藤は帰国するが、ヒュー・マセソンは「残った山尾、野村(井上)は長足の進歩を遂げた、私は、採鉱、造船、その他多くの産業を学ばせた」と回想している。遠藤が帰国の準備をしているころ、長州藩から南禎助と山崎小三郎がロンドンに到着する。

2021-06-10 17:30:50
シービー @MrCB_Harukaze

南禎助と山崎小三郎。慶応元年(1865)3月に晋作坊ちゃんが英国に密航する予定であったが俊輔と一緒に訪ねた長崎のグラバーに今は下関開港に尽力すべきと説かれ渡英を断念した際、坊ちゃんが自分の代わりにと義弟の谷松助(南禎助)と山崎、武田庸次郎を渡英させた。なお、武田は上海で日本に戻る。

2021-06-10 17:38:12
シービー @MrCB_Harukaze

山崎小三郎の話をする。南禎助と山崎の渡英費用は晋作坊ちゃんから渡された1000両のみであった。一人最低1000両と言われ聞多が強引に藩からかき集めたのは一人1000両である。長州ファイブはそれでも足りず、山尾が薩摩藩士に窮状を話している。

2021-06-11 19:07:23
シービー @MrCB_Harukaze

南と山崎の窮状について俊輔が聞多宛ての手紙を残している。「山崎、南両者無金にて朝夕衣食の事も弁じがたく、衣服も変えず、居処に火炉等無く深冬を凌ぎ無窮の貧困を致し事由。山崎は労瘵(ろうさい。労咳か)の病を得難儀。病気は深くついに病院で療養、Marchの始病死仕り候」野村からの情報である

2021-06-11 19:17:22
シービー @MrCB_Harukaze

野村は「此以後は必ず外国へ人を出すなれば、先づ金等の事を弁じ、其上ならでは決て送りくれ申さず様」とも云っている。『伊藤博文伝』山崎は1866年3月3日入院先で肺病により息を引き取る。享年22。

2021-06-11 19:29:03
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんは慶応2年(1866)3月28日の桂さんと聞多宛ての手紙で山崎小三郎が貧困生活の中で客死したことを嘆き、藩政府を攻め、さらにロンドンの山尾と野村に仕送りするよう藩に頼んでいる。藩はこれに応じて仕送りを増やしたという。一坂太郎『高杉晋作の手紙』

2021-06-11 19:32:11
シービー @MrCB_Harukaze

山崎の死は英国に居る薩摩藩士と山尾、野村の結びつきを強固なものにした。山崎の死は薩長同盟締結の数日前だったが、英国ではすでに薩長は競争心を捨て、日本のために毎日勉学に励むようになった。山崎の墓はロンドン郊外のブルックウッド協同墓地内にある。

2021-06-11 19:38:57
シービー @MrCB_Harukaze

1865年秋、英国の薩摩・長州藩留学生の間に小さな留学生サークルが誕生する。薩摩藩の14名の藩士が10月21日、UCLに聴講届を提出し、分析化学を学びはじめる。野村はその頃、数理物理学を学びはじめている。薩摩藩と長州藩の留学生が同じ大学の学生となった。

2021-06-12 19:24:40
シービー @MrCB_Harukaze

両藩の留学生は、日本のためにと熱心に勉強する。1866年秋には薩摩藩留学生は、実験物理学も履修する。なお、この年の3月、佐賀藩から石丸虎五郎、馬渡八郎、芸州藩から野村文夫が密航留学生としてロンドンに到着する。裏で手を回したのはやはりグラバーであった。佐賀藩主鍋島直正も積極的であった。

2021-06-12 19:30:16
シービー @MrCB_Harukaze

佐賀藩近臣が藩主鍋島直正を説得し、許可を得るが、藩費を充てることは承諾しなかった。そのため、石丸と馬渡は脱藩の形をとり、費用はグラバーから借りて密航した。芸州藩の野村も脱藩して密航という形をとっている。1865年12月4日、三人を乗せたチャンティクリーフ号は出航、翌年3月27日ロンドン到着

2021-06-12 19:36:30
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.