萩ものがたり『松下村塾』海原徹著 より
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シービー @MrCB_Harukaze

安政2年(1855)12月15日、吉田松陰は野山獄を出された。病気療養の名目で実父の杉百合之助お預けの沙汰によるものである。そのため、外出、外部の人間との接触は禁じられ自宅の一室に謹慎しなければならない。謹慎場所は実家杉家の四畳半の部屋(うち一畳分は神棚や仏壇があり実質三畳半)が使用された

2022-02-09 19:03:15
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生は、家族が学問の中断を惜しんだこともあり、そこで12月17日から24日まで「孟子」の講義を行っている。謹慎中であるため聴講者は父百合之助、兄梅太郎、外叔久保五郎左衛門の身内3人のみであった。その後しばらく講義は行われず、翌年3月21日に再開される。

2022-02-09 19:03:40
シービー @MrCB_Harukaze

この時は、三人に加え、叔父玉木文之進、従弟玉木彦助、従弟高洲滝之充、隣家の佐々木梅三郎らも加わっている。間もなく梅三郎の兄亀之助・謙蔵らも加わり、年末までには計18人にまでなり、次第に学塾のようになっていった。

2022-02-09 19:03:54
シービー @MrCB_Harukaze

謹慎中でもあり、松陰先生の講義は当初夜間密かに行われていたが、次第に昼、そして『武教全書』の講義が始まる8月には朝・昼・夜の別無く、聴講者が訪ねてきたらいつでも講義が行われるようになる。この謹慎部屋では安政4年(1857)10月までの1年7か月講義を行った。

2022-02-09 19:09:32
シービー @MrCB_Harukaze

その間、いわゆる塾生は46名を数えた。有名どころでは。久坂玄瑞、松崎(赤禰)武人、吉田栄太郎、松浦亀之助、品川弥二郎、伊藤利助(春輔)高杉晋作佐世八十朗(前原一誠)あたりが、その頃の塾生として記録されている。

2022-02-09 19:13:14
シービー @MrCB_Harukaze

そのため、一度の講義に聴講生が6,7名という時もあり、講義部屋の増築が迫られることになった。 (しかし、藩主の覚えがめでたいとはいえ、謹慎中の身での外部を交えた人間への講義がよくお咎めなしだったものである。)

2022-02-09 19:18:03
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幽囚室跡、増築後の松下村塾 pic.twitter.com/VbtBlFyLMj

2022-02-09 19:22:09
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当時、杉家の敷地に八畳の小屋があった。昔は厩舎だったようだが、ここ最近は、農作業を手伝う日雇いが寝泊まりするのに使用されていた。安政4年の夏ごろからは、村塾の教授手伝いとして松陰先生に招かれた富永有隣の居室になっていた。手狭になった松下村塾の増築にちょうど良い立地である。

2022-02-10 20:15:03
シービー @MrCB_Harukaze

塾生は、修理や畳替えなどを行い(畳代は塾生の寄付で賄われた)11月5日に松下村塾の塾舎として完成する。松陰先生は大喜びで、九州遊歴中の松浦松洞にこのニュースを手紙で送っている。しかし、この新松下村塾は、塾長を久保五郎左衛門、教師を富永有隣としている。

2022-02-10 20:15:25
シービー @MrCB_Harukaze

これは、松陰先生がまだ謹慎中の身であったため、藩に遠慮したものと考えられる。松陰先生は早速新舎に移って塾生と起居を共にするようになる。さらに、富永有隣、冷泉雅二郎(天野御民)、岸田多聞、増野徳民なども寄宿するようになった。

2022-02-10 20:15:41
シービー @MrCB_Harukaze

そのため、八畳間もやや狭く感じられるようになる。それで「七畳半ト三畳のノ二間ト土間」の古家を購入し、解体・運搬し、八畳の新舎に継ぎ足しを行った(杉民治回想より)。このときは概ね大工に頼んだようだが、簡単な補修は塾生が手伝った。

2022-02-10 20:15:52
シービー @MrCB_Harukaze

有名な品川弥二郎の「師の顔に泥を塗る」エピはこのときのことである。松陰先生はまたも大喜びで、当時江戸にいた久坂玄瑞に「(運搬は)皆塾童なり。大愉快」と手紙を送っている。この八畳間に四畳半と三畳二間の増築は3月中旬に完成した。なお、松下村塾の看板は梅田雲浜が書いたと言われている。

2022-02-10 20:16:02
シービー @MrCB_Harukaze

「松下村塾とは、いったい何だったのか」 いきなりですが・・・ 塾生のその後の回想。やじ「三百人の書生」いきなり♪飲んだビールが五万本♪なみの回想。一方、最後の塾生と言われる天野清三郎は「二,三十人位」と謙虚な回想。

2022-02-11 19:13:24
シービー @MrCB_Harukaze

記録として残っていてある程度長期に通った塾生は92人。塾生92人のうち、身分で分けると、士分53人、卒分10人、医者4人、僧侶3人、他国人一人、不明8人である。様々な人間が学ぶが、やはり士分・卒分の割合が多い。

2022-02-11 19:14:14
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生自身が元々大組の藩士であったし、塾経営を支えた知り合いもほとんどが士分であるので、そのコミュニティを考えれば当然であろう。年齢層を見ると、最年少は9歳、最年長は36歳。大部分が20歳前後の若者で、平均年齢18.6歳。(”幕末男子の育て方”は、意外と的を・・・以下自粛)

2022-02-11 19:14:51
シービー @MrCB_Harukaze

なぜ、そのような若者がわざわざ松下村塾を松陰先生のもとで学ぼうとしたのか。当時、松陰先生は国禁を犯そうとした(猥褻物陳列罪?)大罪人である。萩城下での忌避感は、高杉家をはじめとしてひどかったのに・・・

2022-02-11 19:15:21
シービー @MrCB_Harukaze

海原先生は「そのような型破りの人間の顔を一度見てみたい」と若者が思ったのでは、と考察している。横山重五郎という塾生は、一度大罪人を見てみたいと冷泉雅二郎に連れられて村塾に来た。

2022-02-11 19:15:50
シービー @MrCB_Harukaze

横山が見たのは「眇めで痘痕だらけな恐ろしい人間が書籍を授けた」横山はがっかりしたが、それが富永有隣と知り、翌日もう一度出かけて(先生に会えた?)そのまま塾生になった、というエピがある。

2022-02-11 19:16:05
シービー @MrCB_Harukaze

親の進めという塾生もいた。主に山鹿流兵学関係の子弟である。一番多いのは先生・仲間からの勧め。久坂玄瑞、赤禰武人、土屋恭平、富樫文周らは月性の紹介と言われる。佐世八十朗は一時期学んだ来原良蔵に、晋作坊ちゃんは岡部富太郎や久坂に。やじ、俊輔は吉田栄太郎誘いと言われる。狂介も同パターン

2022-02-11 19:18:57
シービー @MrCB_Harukaze

また、当時松陰先生が藩主からの覚えがめでたく、特に足軽・中間など身分の低い者を藩に紹介して仕事を得るということもたびたびあり、それを目当てにという塾生もいたという。やはり、松陰先生の名声と先生を慕う仲間の応援が大きかったのであろうと思う。

2022-02-11 19:21:23
シービー @MrCB_Harukaze

松下村塾の塾生は、今と違い、毎日規則正しく通うのではなく、自分が学びたい講義があるときだけ通うスタイルが多かったようである。統一したカリキュラムや時間割はなく、出入り自由ということである。これは、藩校明倫館のシステムの真逆である。

2022-02-12 17:10:17
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、塾生はいいとして、それを一手に引き受ける松陰先生は大変であっただろう。自分のペースとか都合とかはほぼないままに講義や論議を行うのである。よほど相手のことを思っていなければできないことと思う。このシステムは、塾生の大半が萩周辺に住んでいたからこそ可能であった。

2022-02-12 17:10:31
シービー @MrCB_Harukaze

久坂は平安古なので徒歩で40分ぐらいかかったと思われるが、大半の塾生は2,30分の通学圏内であった。(だから、晋作坊ちゃんは夜でも通えた)もっと言えば、松本村周辺の塾生が3分の1であり、(栄太郎、俊輔、やじ、市ぃetc)昼夜を問わず、ひっきりなしに出入りしていたと思われる。

2022-02-12 17:10:43
シービー @MrCB_Harukaze

例として、栄太郎は当初熱心に継続的に通ったが、藩から仕事を得たため、仕事の合間を縫って、朝昼晩深夜を問わず時間が空いたときに通ってきた。萩以外の塾生もいたが、大概は士分であり、萩の知り合いや明倫館宿舎に宿泊して通った。八十朗は宇部に実家があったが、萩の親戚宅から通ったという。

2022-02-12 17:11:25
シービー @MrCB_Harukaze

時山直八の家は約1時間の距離のため、たびたび塾に泊まったという。松陰先生は夢中になると深夜まで講義・議論するので。最も長く継続した塾生は増野徳民である。安政3年10月から安政6年まで在塾。久坂、晋作坊ちゃん、栄太郎、俊輔などは、藩の公務を仰せつかるので居られなくなるという事情もあった

2022-02-12 17:14:57
シービー @MrCB_Harukaze

まぁ、松陰先生の絶交宣言以外では特殊事情を除き、破門にしたこともなく、退塾届を出した塾生もいないと思われるので、あくまで諸事情があり、塾生ではあったが、継続的に松下村塾に通うことができなかったという塾生が大半と思われる。

2022-02-12 17:21:42
シービー @MrCB_Harukaze

松下村塾には、入学金や授業料があったのか? 天野清三郎は「なし。却って食事のご馳走になることもあった」(おにぎりか?)と述べている。滝弥太郎は「はじめて先生に見え、束脩(入学金のようなもの)を行ふ」と述べている。

2022-02-14 17:47:14
シービー @MrCB_Harukaze

真逆の回想であるが、おそらく、入学金や授業料については、塾生の任意ということであった可能性が高い。すべて自由ということである。当時の萩では、入学時に束脩として銭15文、謝儀(授業料)として銭378文を盆・暮の二回納入する塾が多かった。それをしっていた弥太郎は慣習で収めたと思われる

2022-02-14 17:53:10
シービー @MrCB_Harukaze

当然、他の塾生も束脩などを収めた者もいたであろう。なお、謝儀(授業料)については記録が残っていない。まったく貰っていなかったと考えられる。しかし、寄宿する塾生も多かった松下村塾では、生活に要する米代等の費用は自弁であった。また、調理に必要な油代等も別途納入されていた。

2022-02-14 17:59:31
シービー @MrCB_Harukaze

天野は「遠方より来て居るものは食費を払って居たものもあったようだ」と回想する。冷泉雅二郎は「村塾に寄宿する生徒は交番して飯を炊き調理を為す。薪炭の如きも皆自身市にいきて購求す」と述べている。

2022-02-14 18:03:35
シービー @MrCB_Harukaze

当時は米の消費量は現代よりも多かった。1日五合ぐらいは食べていたようだ。貧乏は塾生は賄いきれず、杉家で補うこともあった。やじは「豆腐のかすに塩を入れて水を和し僅かに米一つまみを加えた」粗末な弁当を持ってきたりしたが、松陰先生は自分おかずを分けてやったし、飯を振る舞うこともあった。

2022-02-14 18:07:53
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生は、入塾希望者には必ず「何のために勉強しようとしているのか」と尋ねた。将来どのような人間になりたいのかという意味である。大概は勉強ができるようになりたいと答えた。「学者になってはいけない。人は実行が第一である。」と諭した

2022-02-15 18:17:38
シービー @MrCB_Harukaze

入塾時のこのやりとりは多くの塾生の印象に残った。正木退蔵は後に自分が勤める学校で同じようなことをしている。松陰先生は、学問を世の中や人の役に立てることができなければ意味が無いと考えていた。

2022-02-15 18:18:14
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生は性善説に立っていた。そのため、教育できない人は存在しないはずで、個人的差異を生まれながらの特色で個性を捉えていた。人の可能性を肯定的に見ようとしていた。

2022-02-15 18:18:55
シービー @MrCB_Harukaze

吉田栄太郎が入塾してきたころ韓退之の詩を読ませ、喜ばないのを見て孟子について意見を求めた。どの領域に興味があるのか知ろうとした。その後、晋語六などを教えたが、すべて栄太郎の要望を受けたものである。決まった教科書はなく、塾生が選んで教科書とした。生徒の個性を大事にしたのである。

2022-02-15 18:19:08
シービー @MrCB_Harukaze

松下村塾での授業は、塾生各人の興味や関心を踏まえフレキシブルに行われた。たとえば「孟子」の講義では、字義を教え意味内容を学習するのではなく、孟子の生きた時代の古代中国の社会的事実や教訓を題材にしながら、論議を深めるものであった。

2022-02-16 18:08:01
シービー @MrCB_Harukaze

いわばテキストを学ぶのでなく、テキストを題材に自由に議論するといったものである。題材は多岐に渡り、マゼラン、コロンブスらの冒険、ナポレオン、ワシントンらの政治的偉業、ペリー来航に関して攘夷の是非を論ずるなどした。松陰先生は可能な限り分かりやすい授業も目指した。

2022-02-16 18:08:15
シービー @MrCB_Harukaze

世界・日本の地図を開いたり、時々の情勢を織り交ぜたりした。授業だけでなく、手紙のやり取りを利用した。松下村塾には見台(教卓)がなく、松陰先生は絶えず塾生たちの間を動き回り教えた。

2022-02-16 18:08:26
シービー @MrCB_Harukaze

入門に来た馬島春海に「教授は能はざるも、君等と共に講究せん」と答えたのは師弟が同じく研鑽に励むことを望んだものである。和気藹々とした師弟関係を理想とし、言葉遣いも丁寧であった。

2022-02-16 18:08:38
シービー @MrCB_Harukaze

松下村塾の授業は、室内だけで行われた訳ではない。少人数の会読などは塾舎の外で行われたりもした。村塾の近くの畑で草取りをしながら意見を交わしたこともあった。これは、少年時代の松陰先生が兄梅太郎と共に、父百合之助の野良仕事を助けながら学んだやり方である。

2022-02-17 18:18:15
シービー @MrCB_Harukaze

体育について、天野清三郎は「よく運動を勧めた」と回想している。授業の合間に「一同外に出て、草を取り」と気分転換に身体を動かした。これは、とても理にかなった方法である。冷泉雅二郎は、米搗きをしながら「大日本史」を読了したという。

2022-02-17 18:18:29
シービー @MrCB_Harukaze

松下村塾では少しであるが、武術も教えたらしい。撃剣、遊泳、遠足、演習、操練などである。村塾の庭では、隔日に剣術が行われ、佐々木謙蔵、岡部富太郎、中谷茂十郎の三名が師範役となった。夏の暑い日には松本川で遊泳も行われた。

2022-02-17 18:18:40
シービー @MrCB_Harukaze

演習・操練は、松陰先生得意の山鹿流兵学と通じるものがあり、先生自ら指揮して教えたらしい。が、さすがに謹慎の身であるので、村塾周辺に留まった。村塾には士分以外の塾生もいたので、百姓・町人身分の塾生も参加していたと考えると、奇兵隊のプロトタイプと言えないこともない。

2022-02-17 18:18:45
シービー @MrCB_Harukaze

当初スタートした松下村塾は「近来は丸に慷慨は打ち止め、時務も論ぜず、上人(月性)の不興を蒙り」と松陰先生が自嘲気味な感想を記すほどののんびりした日々であった。だが、安政5年正月に日米通商条約問題が起こると様相は一変する。

2022-02-18 18:13:15
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生は通商条約を「亡国への第一歩」と評し、絶対的な反対の意思表示をした。たとえ300諸藩が賛成しても、わが長州藩だけは「確乎として特立して、天下恢復」も立場を貫くべきと主張する。先生は塾内だけでなく、藩全体にその考えを喚起しようとした。

2022-02-18 18:13:29
シービー @MrCB_Harukaze

舟木方面に八十朗を、周東には松浦松洞を派遣して広めようとしている。だが、その頃は幕藩体制強固な時代で長州藩自体も反対の立場を取る。また、その布教活動のために送り込んだ中村道太郎、土屋蕭海が周布政之助の側に着いてしまったことで、いささか藩に対して裏切られたという被害妄想が強くなる。

2022-02-18 18:14:46
シービー @MrCB_Harukaze

さらに、所詮は数十人の塾生を動員しても、その影響力はたかが知れているということにも気づき、一気に状況を変えようとする。松陰先生は、同じような考えを持つ他塾への働きかけを考える。

2022-02-18 18:15:03
シービー @MrCB_Harukaze

まず、阿武郡須佐村の育英館に働きかける。交流が始まり、富永有隣以下の10数名の塾生が育英館を訪問する。さらに、松陰先生の親友僧月性を通じて活動を拡散する。月性の影響力は大きく、村塾への入門、また他塾との交流も増えた。このようにして、松陰先生はやがて間部老中要撃策に突き進む。

2022-02-18 18:15:12
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生に大きな影響を与えたのは、僧月性であろう。月性は外夷に対し「勤皇の義兵ヲ大挙シテ」と述べる過激な思想であった。さすがに捨てておけないと藩要路は獄にとまでの意見ががあったが、周布政之助や敬親公の「狂人の言は捨て置け」という助け船もあって難は免れた。

2022-02-20 14:39:31
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生は、月性の過激な討幕論には反対した。幕府が間違っていれば諫めれば良い。という立場であった。先生は、世の安寧のためには、朝廷・幕府・長州藩が協力することが一番と思っていた。加えて、天子の意志はそうとは限らないのではと思っていた。ある日、塾生とこのことで激しい議論になった。

2022-02-20 14:39:41
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.