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シービー @MrCB_Harukaze

「歴史が右するか左するか、開戦するか持久するかの岐路に立って最終決断を下すのは。けっきょくのところ、その劇的な瞬間に要路の位置を占めている人間個人である」(野口武彦『長州戦争』)

2021-11-04 15:53:49
シービー @MrCB_Harukaze

四境戦争芸州口。征長先鋒総督府は広島城下に置かれた。そこには、幕府軍陸軍の精鋭部隊、西洋式武装を備えた和歌山藩軍、富士山丸など最新の軍艦を配備するなど、おそらく当時としては日本一の軍組織であったかも知れない。長州軍も四境にうち最大の兵2000を投入している。

2021-11-04 15:57:48
シービー @MrCB_Harukaze

征長軍は広島藩と岩国藩の藩境小瀬川を超えて長州藩領への侵攻を考えた。長州軍は、瀬戸内の小瀬川口を大手、山間部の山代口を搦手と位置付けている。長州軍は当初、遊撃隊、維新団、衝撃隊、岩国藩兵などで編成された。途中から、御盾隊、良城隊も加わる。どの隊も基本的に西洋式で武装されている。

2021-11-04 16:03:49
シービー @MrCB_Harukaze

征長軍は、5月28日に征長先鋒副総督本庄宗秀が広島本営に入る。そして、6月5日、征長先鋒総督徳川茂承(もちつぐ)が続いて入った。だが、ここでも広島藩があいまいな姿勢をとり続ける。四境戦争は全般がそうであったが、諸藩の中には出兵に消極的な藩が多く存在していた。

2021-11-04 16:11:34
シービー @MrCB_Harukaze

幕府は当初広島藩を先鋒と考えていたが、その態度を見限り彦根藩と高田藩に先鋒を命じる。6月14日、幕府軍先鋒は大竹村を攻撃する。芸州口戦の開戦である。幕府軍は岩国藩領和木村に大砲を放つ。長州藩軍は大竹村の山側に回り込み砲撃を行う。高田藩兵は広島方面に撤退する。

2021-11-04 16:18:32
シービー @MrCB_Harukaze

彦根藩兵は和木村を砲撃していたが、岩国藩兵が応戦し、やはり広島方面に退却する、「長州軍は散兵にて、井伊家は連隊なり」と高田藩士が記録している。

2021-11-04 16:23:41
シービー @MrCB_Harukaze

散兵戦術は少人数で散開し多数の兵に立ち向かう戦術であるが、広く散開するために指揮命令が届きにくく、小隊の士官によるその時々の状況判断が重要な戦術でもある。長州藩は大村益次郎によりその訓練がよく為されていたため、大軍かつ西洋式武装の幕府軍に対して善戦したと言える。

2021-11-04 16:26:04
シービー @MrCB_Harukaze

四境戦争での長州藩の大きな特徴は、民衆への配慮である。石州口での大村益次郎の施策のように芸州口でも、征長軍を敗走させると大竹村・玖波村に「兵火のために難渋している場合は申し出次第速やかに処置する」と高札を立てている。また、炊き出しを行い、彦根藩が残した兵糧1000を分配している。

2021-11-05 19:09:55
シービー @MrCB_Harukaze

さらに、医師を派遣し、負傷者や病人の治療に当たらせている。それに対する対価は一切受け取っていない。6月15日、長州軍は本陣を小方村に移す。遊撃隊・衝撃隊を先鋒として小方・玖波方面に派遣した。18日、長州軍は大野村夜襲を計画する。19日午前4時主力の部隊が大野村に着く。

2021-11-05 19:17:53
シービー @MrCB_Harukaze

長州軍は攻撃に移ろうとしたが、征長軍の軍艦が艦砲射撃を行ったため小方本陣に退却する。搦手の部隊が大野村攻撃を開始。大野村を守備していたのは、和歌山藩軍、幕府陸軍歩兵、指揮は和歌山藩付家老水野忠幹である。和歌山藩軍はミニエー銃を装備した西洋式軍隊であった。

2021-11-05 19:22:09
シービー @MrCB_Harukaze

緒戦で敗退した旧装備の高田藩・彦根藩とは全くことなる軍隊である。長州軍と水野軍の間で激戦が始まった。「敵兵もねらひを定候と見るへ、稲の葉をかする様に弾丸飛来り」と水野軍が長州兵を記している。当時の銃は発射時の反動で上向いた銃身修正が必要だが、長州軍は低く撃ち遠距離狙撃に通じていた

2021-11-05 19:29:29
シービー @MrCB_Harukaze

いったん退却した長州軍本隊は、軍備を整えて午前8時に再び進軍を開始。一手は山沿い、一手は本道を進む。が、和歌山藩の猛攻撃を受け、再び撤退する。これを機に芸州口の総指揮を遊撃隊総督吉敷毛利幾之進とするよう藩庁へ嘆願。22日藩庁は幾之進に芸州口諸兵総指揮役を命じる。

2021-11-05 19:34:35
シービー @MrCB_Harukaze

6月23日、長州藩藩庁は宍戸備前の家兵に出陣を命じている。注目すべきは、幹部の任免、部隊の出陣などで政事堂が直接統一的指揮を行っていることである。石州口、小倉口、大島口では方略を示すのみで実際の戦いは各方面司令官(大村益次郎、高杉晋作、世良修蔵ら)に任せていたのとは大きな違いである

2021-11-06 17:47:41
シービー @MrCB_Harukaze

安芸国と周防国の境である山代口は、益田孫槌を総指揮官とし、井上小太郎、久保無二三が参謀を務めていた。ちなみに、7月上旬には、石州口参謀から高田春太郎(井上聞多)が(蔵六指揮で連勝のため活躍の場が無くて)転じて参謀に加わっている。

2021-11-06 17:54:56
シービー @MrCB_Harukaze

この方面の編成は、膺懲隊、八幡隊、鍾秀隊、益田孫槌一手などで、後から鴻城隊、宇部兵が加わっている。任務は主に亀尾川口への侵入である。6月19日、長州軍は移動を開始。20日には保祖原村に着陣する。6月20日正午、幕府軍宮津藩軍と幕府別手組300と戦闘状態に入った。

2021-11-06 18:03:05
シービー @MrCB_Harukaze

宮津藩軍も武装は西洋式で、小銃と砲台から焼夷弾、榴弾を発射し、長州軍は非常に苦戦する。この津田村の戦いで長州藩軍は死者11人を出し、芸州口の戦いでは最大の犠牲者を出している。21日、牧村半九郎(正直)密用聞継役への報告には、明確に「敗戦」と報告されている。

2021-11-06 18:08:57
シービー @MrCB_Harukaze

敗戦の原因として、士官が揃っていないためであるとし、人選をよくし、精兵の援兵を急務としている。6月25日、長州軍は再び四十八坂を進み大野村を攻撃する。搦手の松ヶ原からは衝撃隊、遊撃隊などが布陣。大手の西国街道からは岩国兵、遊撃隊などが布陣した。

2021-11-06 18:15:06
シービー @MrCB_Harukaze

6月25日午前零時、松原口から部隊が出陣。午前二時には大手の四十八坂からも出陣する。これに対して大野村の和歌山藩兵は大量の小銃で抗戦。長州軍は大苦戦に陥っている。銃一丁につき120発の発射で、銃が火のように熱くなり持つことが出来ず、装填しても弾丸が下がらず、発射に苦労する。

2021-11-06 18:19:30
シービー @MrCB_Harukaze

午後二時、長州軍は兵を収めて玖波村まで帰陣するが、その時、幕府軍商船が艦砲射撃を行っている。長州軍の海軍は小倉口にすべて投入していたため、海軍の援護がなく、この先も幕府軍艦の艦砲射撃は長州軍を悩ませることになる。

2021-11-06 18:23:16
シービー @MrCB_Harukaze

四境戦争は、実質的に日本における近代戦争の初めと言って良い。そのため、兵站は非常に重要であった。特に軍夫が重要な役割を担った。長州軍の場合、兵30人の小隊につき12人あてがわれている。征長軍広島藩は藩兵1190、従僕239の計約1500に軍用夫は2063である。

2021-11-08 19:01:16
シービー @MrCB_Harukaze

このように軍夫は大量に動員されたが、征長軍からは「14日戦ヨリ毎日郷夫抜逃」と軍夫の逃亡が相次ぐ。彦根藩は6月15日、広島から彦根藩まで飛脚を送り「兵糧方焚出し請負ノ者逃去リ、足留人足、郷夫も逃亡候(略)町夫、郷夫の儀も不足に付、急速可指越」と依頼している。

2021-11-08 19:07:43
シービー @MrCB_Harukaze

このように征長軍における軍夫の逃亡は深刻化する。「彦藩農兵を募る、人望離れたるに依て不応」と記録があり、募集しても集まらない状態が続く。彦根藩の軍夫は止戦により9月に帰国するが「郷夫共を難苦せしめ(略)実似可悪事也」と批判している。

2021-11-08 19:12:40
シービー @MrCB_Harukaze

和歌山藩では戦争中に7999人が軍夫として従事したが、その中心となった農民が藩政を忌避する態度を取る。逃亡者は国から連れて来た者だけでなく、戦地広島で徴用されたものにまで及んでいる。征長軍の隊が広島から石州口へ進軍しようとしたが人夫不足のためできなかった。

2021-11-08 19:17:42
シービー @MrCB_Harukaze

これに対して、長州藩軍は緻密に軍夫確保に努めている。槇村半九郎(正直)は藩庁政事堂へ「人夫については人柄を選んで頭取を命じ、諸世話の駈け引きをさせるようにすれば逃亡は防げる。死亡怪我んお者について早々詮議して報償すれば競って働く」と意見し対策したため、軍夫不足には陥らなかった。

2021-11-08 19:22:24
シービー @MrCB_Harukaze

「芸州小瀬川合戦略図」(『増補改訂和木町誌稿』)山口県文化振興課 維新史回廊より isinsi.jp pic.twitter.com/drjilYjX3r

2021-11-08 19:27:18
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シービー @MrCB_Harukaze

征長軍は、一般民衆への態度にも問題があった。この点、長州藩は常に民衆への配慮を忘れなかった。ある意味、勝敗を分けた一番の要因かも知れない。

2021-11-09 18:26:07
シービー @MrCB_Harukaze

芸州口の一番の激戦場となった大野村(広島藩領)では「誠ニ此節ハ多人数故、入込ニて大乱レ(略)茄南瓜其外ヲ盗取」「ソノ制詞モナカリケル」と農民が記録している。征長軍は軍規が乱れていてそれを取り締まることも無いと書かれている。

2021-11-09 18:29:18
シービー @MrCB_Harukaze

一方、長州藩の民衆配慮に関して「軍夫ハ領内ヨリ引率シ来ルヲ以テ、条項(強制のこと)ニ適スル者無シ」と、広島藩領玖島村での記録がある。人夫の強制挑発はなかったいうことである。「懇到ニシテ猛カラス、能人民ヲ愛撫シタリ」とも記されている。

2021-11-09 18:35:40
シービー @MrCB_Harukaze

征長軍先鋒副総督本荘宗秀は、今までの征長軍の苦戦を見て、止戦を画策している。拘禁中の長州藩主名代宍戸備後助(璣)と小田村素太郎を長州藩に帰して講和しようとした。6月21日夜、本荘は宍戸と会い、長州藩主父子がいったん幕府の処分令を飲み、家中から寛恕の嘆願があれば解決すると話す。

2021-11-09 18:41:27
シービー @MrCB_Harukaze

そして、宍戸の言うとおり証書を残すとまで言う。宍戸は結果は約束できないが尽力すると答えた。6月27日、宍戸と小田村は放免となり、岩国藩の新港まで護送され、岩国藩に幕府令を交付し、本藩と三支藩に通達することを依頼する。

2021-11-09 18:46:56
シービー @MrCB_Harukaze

宍戸と小田村は広島藩士植田乙次郎と立野一郎を伴い、山口に向かう。山口政事堂は三田尻にて応接しようとし、7月2日、杉孫七郎と広沢真臣を派遣する。広沢らは幕府側から開戦しており、今さら止戦嘆願はできないと回答。植田は今後も周旋に尽力すると言い、広島藩に帰った。

2021-11-09 18:51:09
シービー @MrCB_Harukaze

本荘宗秀が宍戸と小田村を解放し、止戦交渉をしようとしたのは完全に独断であった。そのため、征長軍先鋒総督徳川茂継は7月4日、辞表を提出するための使者を大坂に派遣する。さらに、本荘に対しても辞表を提出したことを告げたことで、征長軍の指揮は副総督である本荘が担うことになった。

2021-11-10 17:48:10
シービー @MrCB_Harukaze

この事が公になり、本荘は孤立を深める。あせった本荘は広島藩に命じて深町三郎左衛門を岩国領に派遣し、長州軍の撤兵を督促する。7月5日、深町と岩国領で会談が行われたが、岩国領は征長軍が先に撤兵すべきと主張(そりゃそうだ)。翌日も広島藩から撤兵の申し入れがあったが、岩国は拒否している。

2021-11-10 17:52:03
シービー @MrCB_Harukaze

7月6日、和歌山藩軍と水野一手が大野村から広島藩領に退却する。12日、征長軍先鋒副総督本荘宗秀は、さらに岩国領に使者を派遣すると共に、幕府直轄軍を広島城下に退かせる。13日、本荘の使者深町は、岩国に対して、撤兵・止戦の意を本藩(萩藩)に伝えることを要請する。

2021-11-10 17:56:36
シービー @MrCB_Harukaze

本荘は、一方で幕府首脳に対する工作も行っている。7月5日、大坂の板倉勝静・稲葉正邦に弁疎状を送り、長州藩の武器は精鋭で幕府軍の比ではない(かなり嘘が混じっているよね。西洋式武器を効果的に使いこなす能力が勝っている、が正しい)、征長は困難である。が故に長州藩に妥協を求めたと。

2021-11-10 18:01:01
シービー @MrCB_Harukaze

征長軍の最先端である広島藩での内紛を知り、大坂の幕府首脳は、先鋒総督徳川茂承の慰留に努める。将軍徳川家茂の書簡と幕閣の意見書を茂承に送る。さらに、老中水野忠誠を副総督に任じ、本荘には大坂への出頭を命じた。そして、諸藩には征長に尽力するよう通達。

2021-11-10 18:05:28
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩は(おそらく)撤兵はないものと判断し、この間に兵を入れ替え、士気を高めようとする。政事堂は7月10日に御盾隊へ出陣を命じ、先陣の一部の隊を帰休させるなど結構な数の兵の入れ替えを行っている。(われらが市ぃの出番?)

2021-11-10 18:08:46
シービー @MrCB_Harukaze

大坂の幕府首脳の慰留により、征長総督徳川茂承(もちつぐ)は辞表を撤回する。また、将軍徳川家茂が危篤状態であることから早急に討伐を遂げようとした。7月20日、征長軍は大軍で広島城下を進発する。

2021-11-12 19:38:18
シービー @MrCB_Harukaze

7月27日午後一時、征長軍は宮内村に集結し、総攻撃の準備を進める。長州軍は征長軍に備えて、御盾隊全軍、一新組が大野村に進軍する。長州軍は各二小隊を左右の山上に、二小隊を本道に配置した。これに、遊撃隊と良城隊が援軍に加わる。

2021-11-12 19:42:49
シービー @MrCB_Harukaze

ご期待にお応えして(お呼びでない?)御盾隊の状況を呟きます。御盾隊は、太田市之進(御堀耕助)を総督に、一番隊長渡辺与八郎、二番隊長駒井政五郎、三番隊長河野亀太郎、四番隊長三刀屋七郎次、五番隊長寺島秀之丞、六番隊長山本重助の六隊編成である。

2021-11-12 19:49:56
シービー @MrCB_Harukaze

なお、山田市之丞は例の晋作坊ちゃんの大島口奇襲戦に参加しており、復帰したのは7月14日である。7月中旬には、小瀬川口の指揮は、参謀高田春太郎(井上聞多)と遊撃隊石川小五郎が執っていた。太田は石川と謀り、大野村に奇襲を仕掛ける。

2021-11-12 19:53:34
シービー @MrCB_Harukaze

この時の奇襲は約70人の死傷者を出して退却する。8月2日、征長軍は更に、大野村に進撃する。長州軍は四十八坂口と松ヶ原口に諸隊を配備した。征長軍の中心は西洋式軍装の和歌山藩でそれに加えて幕府海軍から艦砲射撃が行われた。広沢真臣は「残念千万」と長州藩に海軍の援護がないことを嘆いている。

2021-11-12 20:04:57
シービー @MrCB_Harukaze

この戦は夜になっても続いたが、午前四時に征長軍いったん退いている。8月6日、広沢真臣は広島藩施設と秘密裏に会見する。もともと広島藩は休戦を望んでいたので停戦交渉を行う。長洲軍は最後の決戦の準備を行う。玖波村、宮内村を拠点に陣立てを策したのは山田市之丞と言われる。

2021-11-12 20:11:44
シービー @MrCB_Harukaze

8月7日に長州藩は玖波、松ヶ原、友田の三方面から征長軍への攻撃を企てる。四十八坂口に遊撃隊、良城隊、御盾隊、鍾秀隊、松ヶ原口に御盾隊、維新団、衝撃隊、遊撃隊、玖波村に良城隊、岩国兵、小方村に遊撃隊、治光隊を配置。8月6日、夜半に進軍を開始。

2021-11-14 13:38:04
シービー @MrCB_Harukaze

これらの攻撃は、もともと占領や撃破が目的ではなく交戦することで止戦交渉を進めようと考えていたため、征長軍と一戦を交えて帰陣している。このうち宮内村は高田藩、彦根藩、明石藩といった比較的旧武装の軍が多かったのと油断していたため、征長軍が敗走している。

2021-11-14 13:45:10
シービー @MrCB_Harukaze

明石藩にいたっては広島城下まで撤退している。征長軍は宮内村での敗戦で大野村も長州軍に背後を狙われるようになり、8月9日、大野村の征長軍は陣営を焼いて広島まで船と徒歩で撤退する。

2021-11-14 13:53:05
シービー @MrCB_Harukaze

少し時間を逆上り、幕府事情を記す。7月20日、第14代将軍徳川家茂が死去する。7月27日に一橋慶喜が徳川宗家を相続。征長を慶喜が引き継ぐことを朝廷に奏上する。7月29日、一橋慶喜に対して徳川宗家相続と防長追討の名代出陣の勅許が降りる。慶喜は自ら出陣する意欲を見せる。

2021-11-14 13:57:32
シービー @MrCB_Harukaze

8月2日には、征長軍強化のためにフランス公使ロッシュに軍艦と銃砲の購入を依頼する手紙を送っている。8月8日、孝明天皇から節刀を賜る。そして、8月11日、慶喜が率いる軍立てが発令された。

2021-11-14 14:01:02
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、8月12日、慶喜は突如出陣延引を申し入れる。これは11日に板倉勝静が大坂から上京し、小倉口の小笠原長行と諸藩が引き上げたという情報が伝わった事による。8月13日、関白二条斉敬を通じ、征長出陣中止の勅令を内請。8月16日、御前会議において出陣中止が決定する。

2021-11-14 14:06:48
シービー @MrCB_Harukaze

8月16日、一橋慶喜は軍艦奉行勝海舟を止戦交渉のために広島に派遣した。25日に勝は会談の場になる宮島に渡った。しかし、長州藩の使者がなかなか到着しない。長州藩の使節、広沢兵助(真臣)、春木強四郎(太田市之進)、高田春太郎(井上聞多)らは9月1日に到着する。

2021-11-15 19:08:05
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.