シービー
@MrCB_Harukaze
俊輔は明治2年(1869)1月に、「国是綱目」を建白する。今後の日本の姿を六箇条にまとめたものである。皇統を維持し、郡県制を採用し、外国と交流し、教育を普及させるべしと説く。今では普通の近代国家の姿と理解できるが、当時としては進歩過ぎ、「兵庫論」と呼ばれ保守派から激しい反発を受ける。
2021-06-01 16:46:04
シービー
@MrCB_Harukaze
長州藩ですら俊輔の意見を理解できないものが多かった。「我が藩でも、吾輩をエライ不忠物にして(略)朝廷に出して置く訳にゆかんと云う国論になった」と後に俊輔は回顧している。御堀耕助などは京都まで乗り込んできて木戸孝允や広沢真臣に抗議し、俊輔の足を引っ張った。
2021-06-01 16:49:58
シービー
@MrCB_Harukaze
その頃、議定岩倉具視が俊輔を呼び出し「しばらく隠忍して時機を待て」と忠告した。そうして俊輔は議論を慎むようになる。4月10日に知事を罷免され、さらに新知事の久我維麿を補佐せよと命じられる。あからさまな降格人事である。だが、すでに東京に中央政府は移っており、俊輔を呼び寄せる。
2021-06-01 16:53:50
シービー
@MrCB_Harukaze
俊輔は、4月29日に東京に向かい、政府内で大蔵少輔と民部少輔を兼任する。名実ともに政府の重鎮となった。なお、初代兵庫県知事は、1年足らずの任期で終わった。(完)
2021-06-01 16:58:49