持ち前の強運で神戸事件を解決に導き、新政府に出仕、任期1年足らずであったが初代兵庫県知事を勤めた。
0
シービー @MrCB_Harukaze

天保12年(1841)9月2日、周防国熊毛郡束荷村字野沢の農家林家に長男利助が生まれる。父は十蔵、母は琴子。諱は博文、通称は俊輔、春輔など。号は春畝。以後、俊輔で統一。

2021-05-06 18:33:25
シービー @MrCB_Harukaze

俊輔の父十蔵は、公米を独断で利用し、そのため妻子を妻の実家に預け萩に向かう。十蔵は職を転々としたが水井武兵衛に雇われる。水井は元は伊藤弥三右衛門の次男でありその後伊藤姓に戻る。

2021-05-06 18:40:09
シービー @MrCB_Harukaze

生活が落ち着いた十蔵は、、嘉永2年(1849年)妻子を萩に呼び寄せる。俊輔が9歳のころである。安政元年(1854)水井改め、伊藤直右衛門は、十蔵とその妻子を伊藤家の養子とする。伊藤家は足軽を務めていたため、俊輔も足軽身分となる。

2021-05-06 18:45:08
シービー @MrCB_Harukaze

安政3年(1856)9月、伊藤俊輔は、当時長州藩が警備を任せられていた相模国に一員として派遣される。この時、組の支配頭として赴任していた来原良蔵と出会う。来原は俊輔を見込み、徹底的に鍛え上げる。

2021-05-06 18:49:58
シービー @MrCB_Harukaze

冬でも4時頃に俊輔の小屋に来てたたき起こし、自分の小屋に連れ帰って学問を指導した。また、「もし戦地において草履を得ることが出来ない時は、いかがするか」と常に海岸や山野を歩かせた。俊輔17歳のとき帰国するがその時来原良蔵から松陰先生を紹介され、松下村塾に入門する。

2021-05-06 18:54:32
シービー @MrCB_Harukaze

安政4年(1857)9月、帰藩した伊藤俊輔は、来原の勧めのとおり松陰先生の松下村塾に入門した。翌安政5年(1858)に友人河野三郎宛の手紙で塾の盛んな様子や自身も昼夜読書していると記している。

2021-05-11 19:37:16
シービー @MrCB_Harukaze

安政5年(1858)7月26日、長州藩は京の形勢視察のため中村道太郎を派遣する。そのお供には、伊藤俊輔、山県小輔らが選ばれている。俊輔は10月1日に萩に帰っている。偶然だが帰藩していた来原良蔵に従い、9日に長崎に旅立つ。やはり、縁が深いのであろう。

2021-05-11 19:43:04
シービー @MrCB_Harukaze

伊藤俊輔は、来原良蔵のもとで洋式銃陣をまなぶ。11月19日に長州に帰るが、19日にはまた来原に従い長崎に行き、小銃雷管を学んでいる。とはいえ、俊輔の真骨頂は周旋にあり、軍事ではなかったと思う。このことが俊輔の将来に役立ったかは疑問である。

2021-05-11 19:47:02
シービー @MrCB_Harukaze

余談だけど、軍事という面では、聞多が結構良い感じですよね。内訌とか四境戦争とか、結構、やるよねと思います。まぁ、思いが強すぎて晋作坊ちゃんに「朱子学じゃ戦はできぬから」と言われたりしますが。

2021-05-11 19:51:16
シービー @MrCB_Harukaze

安政5年(1858)9月15日、俊輔は、桂さんの江戸赴任で手附として同行する。義弟の来原からの推薦であった。江戸には10月11日に到着する。俊輔が到着後すぐ、10月27日に松陰先生が「安政の大獄」で処刑される。

2021-05-24 18:48:11
シービー @MrCB_Harukaze

俊輔は桂さんに従い、小塚原で先生の遺骸を受け取る。裸の先生の遺骸に、桂さんは襦袢、飯田正伯は下着、俊輔は帯を着せて納棺、埋葬する。

2021-05-24 18:50:09
シービー @MrCB_Harukaze

その後、俊輔は、士雇となり、利助から俊輔に名を改める。このころから、志士として、イギリス公使館焼き討ちなど過激な行動も行うようになる。極めつけは国学者塙次郎を山尾庸三と供に暗殺している。

2021-05-24 18:53:56
シービー @MrCB_Harukaze

文久2年(1862)8月27日、俊輔にとって最大の恩人、来原良蔵が江戸で自決する。享年34。藩是が攘夷に転換したとき「航海遠略策」に賛同していたことを恥じ、忠義を示すため外国人居留地襲撃を発言。世子から戒められたのを悔いての行動と言われている。

2021-05-24 18:59:25
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年(1863)4月18日、井上聞多、野村弥吉(井上勝)、山尾庸造の3人が長州藩の英国密航留学生計画に名乗り出て内定する。聞多は俊輔を誘い、俊輔も渡航する決意を固める。5月10日には攘夷を断行している裏で12日に長州ファイブは横浜を発ち、英国へと向かう。

2021-05-25 18:38:21
シービー @MrCB_Harukaze

俊輔は、出発前に父に宛てた手紙で海軍技術を学ぶために3年間渡航するつもりだと書いている。5人はロンドンでUniversity College of London(UCL)に聴講生として通う。学生ミトフォードは俊輔を「如何にも天ぴんの高鳴りする人物だった」と回顧している。

2021-05-25 18:44:06
シービー @MrCB_Harukaze

留学して半年たったころ現地新聞『タイムズ』で四ヵ国艦隊により長州藩を懲罰する協議を行っている旨の記事を読み、攘夷は不可能と説くため、俊輔と聞多は急遽帰国する。しかし、長州藩首脳は、帰国した二人に耳を貸そうとしなかった。

2021-05-25 18:47:45
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)8月4日、やっと重大さを知った長州藩は俊輔と聞多に戦争回避の交渉を命じた、がすでに遅かった。翌5日に四ヵ国艦隊は前田・壇ノ浦の砲台を攻撃、7日には彦島の砲台を破壊。長州藩は講和を決定する。

2021-05-25 18:54:46
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)8月8日、長州藩は、高杉晋作を講和使節の使者とし、俊輔と聞多を通訳として戦後処理に当たらせた。交渉は3回行われ、砲台の破壊、外国艦の安全の保証、外国人の上陸の許可等をもって講和が行われた。アーネスト・サトウは要求を飲んだのは俊輔の影響があったようだと書き残している。

2021-05-26 19:59:19
シービー @MrCB_Harukaze

俊輔はその後、修交特使井原主計に従い、イギリス軍艦に乗り、横浜まで出張する。長州藩に突きつけられた賠償金の交渉のためである。結局、賠償金は幕府が支払うことで決着が着き、俊輔は9月23日に山口に帰り、金十両の恩賞を受けている。

2021-05-26 20:02:58
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)12月15日、晋作坊ちゃんは藩政府の実権を握る俗論派打倒のため、功山寺で決起する。その際、俊輔は、花山春太郎の変名で馳せ参じている。坊ちゃんは内訌戦に勝利し、藩政府は「武備恭順」に方針を変更する。

2021-05-26 20:07:42
シービー @MrCB_Harukaze

慶応元年(1866)7月、俊輔と聞多は桂さんの命で長崎に赴く。薩摩藩名義で英国商人グラバーから軍艦や小銃を購入するためである。このとき、俊輔は、吉村荘蔵の変名を用いている。俊輔はこのように藩の重要な使いをこなしていたが、昇進の方は、慶応3年(1868)3月に士分三十人通へと昇った程度である

2021-05-26 20:11:57
シービー @MrCB_Harukaze

俊輔は、文久3年(1863)に親の勧めで結婚する。松下村塾生入江九一の妹すみである。しかし、ほとんど供に生活する時間はなく、慶応2年(1866)3月に離婚している。そのきっかけとなったのが、後の日本最初のファーストレディとなる梅子である。

2021-05-27 19:09:26
シービー @MrCB_Harukaze

梅子は、芸妓「小梅」として亀山八幡宮の茶屋で元治元年ごろ英国から帰ってきた俊輔で出会い、不倫関係を続けた後、俊輔の離婚が決まり再婚した。俊輔と梅子の出会いには実は伝説が残っている。俊輔が明石でスパイを行っていたとき、会ったというものである。

2021-05-27 19:14:39
シービー @MrCB_Harukaze

慶応2年に俊輔は明石藩のスパイを命じられ、雲晴寺に潜り込んでいたころ、豊江という芸妓と出会う。本名を梅といい、俊輔はその豪胆さが気に入り夫婦となったというもの(明石郷土史『西摂大観』等)ただの創作なのか、俊輔の過去を抹消したのか、長州側資料には出てこない。

2021-05-27 19:20:46
シービー @MrCB_Harukaze

なお、ファーストレディが芸妓であるという出生を聞かれることを俊輔はひどく嫌い、戸籍調べの巡査が来る度「伊藤博文の妻に間違いない。そんなに詳しく聞かんでも良い」と突っぱねたという(村松剛『醒めた炎』)

2021-05-27 19:24:23
シービー @MrCB_Harukaze

明治元年(1868)1月11日、二人のフランス水兵が備前岡山藩の行列を横断しようとし、無礼と見た岡山藩滝善三郎が槍で突き、さらに威嚇射撃を行った。水兵は逃げ惑った。いわゆる「神戸事件」である。これを知った英国公使ハリー・パークスは、報復を企てる。

2021-05-28 19:02:59
シービー @MrCB_Harukaze

パークスは公使館警備の英国兵を繰り出し、神戸港開港直後で港にいたアメリカ・フランス軍艦から兵を上陸させる。岡山藩は退却する。さらに英・仏・米の各軍隊は神戸村を占領する。この危機を救うのが、伊藤俊輔(このころは俊介)である。

2021-05-28 19:07:34
シービー @MrCB_Harukaze

後に初代総理大臣となる俊輔も、新政府発足当時は主要メンバーにいない。「伏見鳥羽の戦争の時は、吾輩は国に居た」と述べている。俊輔は「暫く兵庫へ参り(略)米国あたりへ遠游つかまりたく」と木戸孝允あてに手紙を書いている。米国行きの船を探すためにたまたま事件真っ最中の神戸に12日に着いた

2021-05-28 19:14:58
シービー @MrCB_Harukaze

事件を見かねた俊輔は、旧知のパークスを訪ね談判を行う。パークスは憤慨し、俊輔の言葉に耳を傾けない。俊輔は「私が三日のうちに始末をつける」といい、大阪に向かう。新政府の要人になっていた後藤象二郎や五代才助に「すぐに新政府を宣言しなければならぬ」と説いた。

2021-05-28 19:19:14
シービー @MrCB_Harukaze

俊輔の意見は採用され、外国事務取調掛東久世通禧が勅使となり、神戸に向かい、仏・英・伊・米・独・蘭公使を集め「王政復古」を宣言した。俊輔は「これで初めて外国人が新政府を認めた」と述べている。外国諸国は新政府を日本代表として認め、事件解決の交渉が始まった。俊輔が表舞台に出る。

2021-05-28 19:23:52
シービー @MrCB_Harukaze

「神戸事件」解決の主役となった俊輔は、明治政府から辞令を受け取る。「外国事務掛仰せ付けられ候に就いては、東久世前少将同道諸事取り計らうべき事」。しかし、事件和解の条件は、新政府にとって非常に厳しいものであった。

2021-05-29 19:45:27
シービー @MrCB_Harukaze

明治元年(1868)1月16日、外国公使は和解条件の1つに「岡山藩側の発砲する様下知致せし士官は死罪」という文言を入れてきた。しかし、新政府はなるべく穏便に済ませようとしたのか、この条件を承諾する。2月2日、岡山藩は滝善三郎正信を新政府に引き渡す。

2021-05-29 19:50:43
シービー @MrCB_Harukaze

滝善三郎は朝議により切腹と決まった。俊輔と五代才助は助命を外国側に願い出たが無理であった。なお、このとき英国公使パークスは助命を考えたが、直接の被害者である仏の公使ロッシュが強行したと言われる。滝の切腹は2月9日永福寺にて行われることとなる。

2021-05-29 19:53:57
シービー @MrCB_Harukaze

ちなみに、滝の切腹は外国人の前で行われ、外国人にとって初めて目の当たりにしたハラキリとなる。この仕置きは国辱との非難を受け、3月28日、長崎に居た井上馨(徴士参与職外国事務局判事)は、俊輔と桂さんに「どんな国が相手でも信義と公法で外交すべし」と手紙を送っている。

2021-05-29 20:00:05
シービー @MrCB_Harukaze

ここまで、やはり、俊輔、聞多、五代という直接外国を知っている3人の活躍が目立ちますね。

2021-05-29 20:01:49
シービー @MrCB_Harukaze

明治元年(1868)1月25日、明治政府の一員となった伊藤俊輔(俊介)は、参与に就任する。総裁、議定とともに三職と称される大官であった。参与は行政部門を担当するが、俊輔は当然のように外交関係を担当している。同僚に井上馨(聞多)、薩摩藩寺島宗則などがいた。

2021-05-30 19:25:25
シービー @MrCB_Harukaze

明治元年(1868)5月23日、兵庫県が誕生し、神戸は大阪管轄から兵庫県に組み入れられる。そして、その初代知事に俊輔が抜擢される。開港により国際港となった神戸がある兵庫県のトップは、国際感覚があり外国と交渉ができる人物でなければならず、俊輔以外に適任者がいなかった。

2021-05-30 19:29:21
シービー @MrCB_Harukaze

なお、兵庫県知事就任前の5月6日には、俊輔は従五位に叙せられている。それを知った俊輔の父母は、萩で息子の出世を祝う祝宴を開いたという。俊輔にとっても良い親孝行になったであろう。出世の道を順調に進んでいるように見えたが、思わぬ事件が降りかかる。

2021-05-30 19:33:45
シービー @MrCB_Harukaze

俊輔は、県庁が港から遠いため新県庁舎を建てることを決意する。そして、建設中の県庁で9月3日に酒に酔った外国人が作業の邪魔をする事件が起きた。俊輔らは止めようとしたが外国人は持っていた小刀で襲いかかってきた。職人らが取り押さえ、男をアメリカ領事館に引き渡した。

2021-05-30 19:39:01
シービー @MrCB_Harukaze

犯人は、アメリカ商船の水夫パール・マスコ。さらに、その事件の前に、遊女屋で酒に酔い、神戸警護の任にあった徳島藩士青木猛を突き刺していたことが判明する。青木は28日に死亡する。これは、開港以来外国人が日本を殺害した初めての事件となった。

2021-05-30 19:42:48
シービー @MrCB_Harukaze

俊輔は外国に侮られ悪い前例を作らぬよう、新政府に対して「皇国重大の事件、かつ、政府の威厳が立つか立たぬかに関係します」とし、犯人の死刑をアメリカに求めるよう手紙で訴えた。さらに、証拠として参考人の始末書や医師の診断書などをアメリカ領事に送り、抗議を行った。

2021-05-30 19:46:16
シービー @MrCB_Harukaze

談判を重ねた結果、明治2年(1869)3月、アメリカ公使は犯人に対して禁獄1年に処し、本国送還を決めた。新政府はさらに謝罪を要求し、公使は要求に応じたため、事件は落着した。罪が軽いのは、領事裁判権が米国にあり、米国が裁いたためである。幕末に結ばれた条約のせいである。

2021-05-30 19:50:37
シービー @MrCB_Harukaze

俊輔は、兵庫県知事に就任したばかりの頃、和服で頭に髷を結い、腰に刀を差していた。やがて散髪し、4分6分に分け、蝶ネクタイに洋服を着込んだ。このため市民からは「坊主奉行」とあだ名されていた(岡久渭城『神戸物語』より)

2021-05-31 18:44:15
シービー @MrCB_Harukaze

俊輔は、妻梅子と長女貞子を長州から呼び寄せ、神戸で一緒に住んでいる。馬に乗って県庁に出勤した。俊輔の当時の月給は500円で、現代の数千万の価値があるとされる。萩に住む両親に数回にわたり仕送りし、「私儀は衣食住の不足もこれ無く」と手紙を書いている。

2021-05-31 18:51:40
シービー @MrCB_Harukaze

当時、俊輔は実業家藤田泰蔵と交遊していた。屋号は長崎屋で、元は長崎の武器商人。後に神戸に移った。ある時、俊輔は藤田に短刀を贈った。松陰先生が密航を企てたとき所持していたと伝えられるものである。

2021-05-31 18:56:53
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生の短刀は、藤田家で大切に保管されていたが、昭和4年(1929)にカナダのバンクーバーに住むライフ・アウターブリッジに贈られた。それが昭和63年、カナダ人から萩市に贈られたという。

2021-05-31 18:59:05
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)4月14日、俊輔は兵庫県知事を免ぜられる。原因は、前年11月10日に新政府に提出した意見書と言われる。その意見書の中で、全国の大名が政治や軍事の権限を天皇に奉還せよと説かれていた。いわゆる版籍奉還の勧めである。

2021-06-01 16:38:36
シービー @MrCB_Harukaze

俊輔の提言で、木戸孝允や大久保利通は薩摩・長州・土佐・肥前の四藩に、率先しての版籍奉還を願い出させた。そして、全国の藩も従わせようとした。ここまでは良かったが、勢いに乗った俊輔は次の提言を行う。これが退任の引き鉄となった。

2021-06-01 16:42:02
0
まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.