竹本知行『大村益次郎』 木村紀八郞『大村益次郎伝』 山本栄一郎『大村益次郎』 より
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シービー @MrCB_Harukaze

慶応4年(1868)1月9日、鳥羽伏見の開戦の報が京に居た桂太郎から山口にもたらさせる。さらに、朝廷からの御沙汰書「長州藩主父子のいずれか一人が兵を率いて大阪城を襲撃すべし」も携えていた。藩議の結果、世子広封が兵を率い、22日に山口を出発することになる。

2022-05-16 19:39:44
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六(すでに大村益次郎に改名しているが、基本的に村田蔵六と書く)は、14日、木戸準一郎(孝允)、柏村数馬らと世子の随行を命じられると共に、17日、用所本役軍政専任に返り咲く。随行させる以上、長州藩軍事の最高役職につけておく必要があると藩が考えたのであろうか。

2022-05-16 19:40:13
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は上京の軍令状を読み上げる役目を任じられてもいる。1月22日。萩藩世子毛利広封が干城隊を率い、村田蔵六らを随行して山口を出発する。山陽道を東上し、途中尾道で芸州藩の船に乗り換え、2月3日に大阪に上陸、6日に伏見に到着する。世子広封は7日に京へ入り、総裁有栖川宮熾仁親王を訪問する。

2022-05-16 19:41:06
シービー @MrCB_Harukaze

世子在京中、藩兵は蔵六が纏めて大阪に屯営していたと思われる。この頃の新政府の首脳部は、総裁・有栖川宮熾仁親王、副総裁・三条実美、岩倉具視、顧問・小松帯刀、後藤象二郎、木戸準一郎。他に長州藩士では、内国事務局判事・広沢兵助、外国事務局判事・伊藤俊輔、井上聞多がいる。

2022-05-16 19:41:45
シービー @MrCB_Harukaze

2月20日、軍政を統括する組織として軍防事務局が創設される。督は仁和寺宮嘉彰親王、輔は空席、権輔は烏丸光徳、判事は吉田遠江、吉井孝輔(薩摩藩)、津田山三郎(熊本藩)、土肥典膳(備前藩)であった。

2022-05-16 19:42:00
シービー @MrCB_Harukaze

同じ20日村田蔵六は「軍防事務局判事加勢」に補任される(竹本知行先生)。なお、木村紀八郞先生は22日に任じられたとしており、補任が20日、正式出仕が22日なのであろうか。いずれにしろ、軍防事務局判事加勢を任じられたことにより、村田蔵六は朝臣となった。

2022-05-16 19:42:40
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六が軍防事務局判事加勢になっての任務は、各藩から提供された兵を朝廷直轄の御親兵として編成し、その教育訓練のための兵学寮を伏見に整備することであった。

2022-05-17 19:24:29
シービー @MrCB_Harukaze

この時期の事を会計官判事試験補:三宮義胤が「本当の兵に仕立てるのは、後に伏見にできましたアレ(兵学寮)が始まりでありました」「今の軍隊の通りのものを皆ひとつ仕立て上げてやろうというのが大村先生の考えであったのです」と談じている。

2022-05-17 19:24:48
シービー @MrCB_Harukaze

その頃、京では大阪への遷都論が大久保一蔵により建議されていた。大阪遷都は木戸準一郎の賛同も取り付け、3月21日には明治天皇が大阪行幸に出発する。大阪では海軍親閲と陸軍調練叡覧が予定されており、村田蔵六、長岡護美ら軍防事務局官員はその準備に大わらわであった。

2022-05-17 19:25:15
シービー @MrCB_Harukaze

天皇は25日に海軍を閲覧、翌26日には天保山で海軍操練を巡覧した。4月6日、天皇は大阪城内で薩摩・長州・芸州・越前・福岡・熊本らの陸軍調練と砲術操練を叡覧し、この時の訓練の指揮は村田蔵六が執った。

2022-05-17 19:25:35
シービー @MrCB_Harukaze

この時、蔵六は貴人への挨拶として西洋式に「担え筒(捧げ筒)」を行おうとしたが、朝廷関係者から「不敬」と苦情が出た。公家たちはどうしても西洋式挨拶を認めず、仕方なく蔵六が折れて鉄砲を持ったまま土下座させるという礼式になってしまった。

2022-05-17 19:25:59
シービー @MrCB_Harukaze

この時のことを蔵六の良き理解者であった船越衛が「先生困ってしまって「仕方ないの」というようなことであった。なるほど先生困ったろうと思う」と回想している。なお、このエピソードは日テレドラマ『奇兵隊』で、萩藩での世子閲覧のシーンで再現されていて、何度観ても笑えるシーンになっている。

2022-05-17 19:26:40
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六が上京して朝臣となった頃は、鳥羽伏見の戦いが勃発、それが新政府側の勝利に終わり、徳川慶喜をはじめとした幕府側勢力のほとんどが江戸に帰還した状況下にあった。新政府は、各地に征討軍を派遣して旧幕府勢力の平定を目指す。

2022-05-18 20:19:55
シービー @MrCB_Harukaze

1月4日、山陰道鎮撫軍を編成、総督参与西園寺公望。5日、東海道鎮撫軍を編成、総督参与橋本実梁、副総督柳原前光、参謀に木梨精一郎(長州藩)、海江田信義(薩摩藩)。9日、東山道鎮撫使を編成、総督岩倉具定、副総督岩倉具経。同9日、北陸鎮撫使を編成、総督高倉永祜、副総督四条隆平。

2022-05-18 20:21:11
シービー @MrCB_Harukaze

13日、中国四国方面には中国四国征討総督を編成、総督四条隆謌、参謀大山綱良(薩摩藩)。28日、九州方面には九州鎮撫総督を編成、総督澤宣嘉(外国事務総督兼任)。その後、2月に入り各征討軍は再編成される。

2022-05-18 20:22:58
シービー @MrCB_Harukaze

徳川慶喜征討を主な目的とし、2月9日、東征大総督を編成、大総督有栖川宮熾仁親王、参謀に広沢真臣(長州藩)※すぐに辞職、西郷隆盛(薩摩藩)、林通顕(宇和島藩)が任じられ、2月15日に東征の途につく。

2022-05-18 20:23:27
シービー @MrCB_Harukaze

前後して、2月6日、東海道先鋒総督兼鎮撫使を編成、総督参与橋本実梁、副総督柳原前光、参謀に木梨精一郎(長州藩)、海江田信義(薩摩藩)。同6日、東山道先鋒総督兼鎮撫使を編成、総督岩倉具定、副総督岩倉具経、参謀に乾(板垣)退助(土佐藩)、伊地知正治(薩摩藩)。

2022-05-18 20:23:44
シービー @MrCB_Harukaze

同6日、北陸道先鋒総督兼鎮撫使を編成、総督高倉永祜、副総督四条隆平、参謀に船越洋之助(衛)(広島藩)、小林柔吉(広島藩)、津田信弘(肥後藩)。9日、海軍を編成、総督に聖護院宮嘉言親王、参謀に庭田重胤。新政府への敵対勢力征討の陣容が整った。

2022-05-18 20:24:00
シービー @MrCB_Harukaze

徳富蘇峰はこれらの新政府軍の作戦計画について「この起草者は大村益次郎以外では期待しがたい」(『近世日本国民史』)と述べている。木村紀八郞先生は、西郷隆盛らが考えた草案を木戸準一郎から見せられ、全面的に書き改めたものであろうと述べている。

2022-05-18 20:28:40
シービー @MrCB_Harukaze

忘れ物)2月9日、奥羽鎮撫使を編成、総督澤為量(後に九条道孝)、副総督醍醐忠敬(後に澤為量)、参謀に黒田清隆(薩摩藩)※辞任、品川弥二郎(長州藩)※辞任 、大山格之助(綱良)(薩摩藩)※後に下参謀、世良修蔵(長州藩)※後に下参謀、後に参謀醍醐忠。

2022-05-18 21:01:55
シービー @MrCB_Harukaze

新政府にとって最大の攻略目標である江戸(徳川慶喜)は、慶喜が大阪から帰った後、2月12日、上野寛永寺に閉居し恭順の姿勢を見せた。すでに江戸攻略の途にあった東征大総督参謀西郷隆盛が3月9日、13日、14日に渡り山岡鉄舟、勝海舟らと会談し、江戸城および徳川慶喜の処置について会談する。

2022-05-19 18:33:58
シービー @MrCB_Harukaze

西郷は会談前は「甚だ以て不届き千万、ぜひ切腹までには参り申さずては相済まず」と大久保一蔵に手紙で送るほどの強硬派であった。当然、大久保も同様であった。しかし、英国公使パークスの反対意見も聞き、江戸城開城、慶喜の水戸謹慎など7条件で合意する。

2022-05-19 18:34:11
シービー @MrCB_Harukaze

このいわゆる「江戸城無血開城」は、よく言われるように西郷が独断で結んだものではない。

2022-05-19 18:35:18
シービー @MrCB_Harukaze

3月15日を江戸城攻撃開始としていた新政府軍は、東海道先鋒総督兼鎮撫使が芝、東山道先鋒総督兼鎮撫使が市ヶ谷、北陸道先鋒総督兼鎮撫使が千住、海軍先鋒(2月30日海軍改め、総督大原俊実(綾小路俊実)、参謀に伊東外記(佐賀藩)、増田左馬助(佐賀藩))は横浜まで到着していた。

2022-05-19 18:35:42
シービー @MrCB_Harukaze

西郷は、いったん江戸城攻撃中止を命じ、裁断を仰ぎに京に向かう。3月30日、京都で徳川慶喜の処置に関する会議が開かれ、岩倉具視、木戸準一郎らは寛大論を唱え、大久保一蔵も折れ、西郷隆盛が勝海舟から提案された条件は承認された。

2022-05-19 18:35:54
シービー @MrCB_Harukaze

つまり、江戸城と徳川慶喜の処置について、西郷は新政府の判断に従って動いていた。4月11日、江戸城が引き渡され、徳川慶喜は水戸へ退去する。4月21日には、東征大総督有栖川宮熾仁親王が江戸城に入った。

2022-05-19 18:36:25
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は朝臣になってすぐに「従五位下」に任じられています。大河『花神』で、彰義隊征伐の戦略で対立する海江田信義らに黙らせるため「御上に対して恐れがあろう」と一喝する名場面が思い浮かびます。 pic.twitter.com/tbOvm468NT

2022-05-19 18:48:23
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シービー @MrCB_Harukaze

江戸城は開城したが、旧幕府勢力は江戸および江戸周辺で不穏な動きが起きていた。元歩兵奉行大鳥圭介は2000とも言われる兵を率いて下総国府台に集結し日光に向かう。また、元新撰組副長土方歳三が宇都宮城を攻撃し、その後会津に向かう。徴兵隊は木更津で「徳川義軍」を名乗り抵抗の姿勢を示す。

2022-05-20 19:16:11
シービー @MrCB_Harukaze

旧幕府艦隊は榎本武揚が品川沖から脱出、江戸では渋沢成一郞、天野八郎を中心とした彰義隊が上野の山を占拠し、対決姿勢を見せている。このような中、大総督府は江戸の治安を旧幕府に任せる方針を取っていた。しかし、彰義隊による官軍襲撃事件が頻繁に起きるなど混乱を極めていた。

2022-05-20 19:16:33
シービー @MrCB_Harukaze

一方、京の新政府は江戸の情勢を把握するために、佐賀藩江藤新平を大総督府軍監として派遣し調査を行わせていた。江藤は江戸の情勢をまとめ、4月下旬に京に戻り報告を行う。そして、同郷である佐賀藩大木喬任を共に、閏4月1日に江戸対策の急務を論じる意見書を新政府に提出した。

2022-05-20 19:17:05
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六は、この前から江戸・関東の情勢を把握していて、4月には情勢を憂慮する自筆の建白用メモを書いている。その中で西郷隆盛をはじめとする大総督府首脳を「民政に暗い」者達と批判している。

2022-05-20 19:17:35
シービー @MrCB_Harukaze

江戸の情勢を重く見た新政府は、4月27日、岩倉具視、木戸準一郎、広沢真臣で協議し、旧幕府軍との戦争も考えられるため、軍事専門家の村田蔵六を江戸に派遣することを決定する。このとき、蔵六の職位を軍防事務局判事加勢から軍防事務局判事に昇格させている。職務を遂行しやすくする措置であろう。

2022-05-20 19:19:52
シービー @MrCB_Harukaze

慶応4年閏4月1日、村田蔵六は大阪から海路で江戸に向かう。蔵六の東下には桂さんは不満であった。軍防事務局による御親兵創設を急務とし蔵六に期待していた。4月29日には大久保利通に「大村を関東に派遣するとか、軍防事務局において軍事の基本を立てなくてもよいということですか」と手紙を送っている

2022-05-21 18:38:24
シービー @MrCB_Harukaze

閏4月4日、蔵六は江戸に到着し、東征大総督有栖川宮熾仁親王と面会する。この頃、大総督府と東海道総督府は江戸城西の丸に設置されていて、大総督府参謀は正親町公薫、西四辻公業、西郷吉之助、林玖十郎、東海道先鋒総督府は、総督橋本実梁、副総督柳原前光、参謀は木梨精一郎、海江田信義である。

2022-05-21 18:39:15
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は、東海道先鋒総督橋本実梁、北陸道先鋒副総督四条隆平、海軍先鋒総督綾小路俊実らと評議を行う。蔵六は、安房・下総・上総三国が最も危険な状態と判断し、西国から兵を江戸に送り三国鎮圧を行うべしという書簡を京の岩倉具視に送っている。

2022-05-21 18:39:27
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、村田蔵六は歓迎を持って江戸に迎えられた訳ではない。先に征討を行って来た者にとって新人が大きな顔(おでこではない)をすることを好まなかった。早速、東北(庄内)方面での新政府軍敗戦に対して、増援を巡って東海道先鋒総督府参謀海江田信義(薩摩藩)と衝突する。

2022-05-21 18:40:13
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は新政府軍の兵力の少なさから増援は不可と考えた。海江田はせめて苦戦中の宇都宮に兵を送ることを主張。両者が譲らなかったため、庄内への増援は行わない・宇都宮には兵は送らず臼砲を貸与する、ということで決着した。これから後も蔵六は、大総督府や東海道先鋒総督府の参謀たちと対立していく

2022-05-21 18:40:45
シービー @MrCB_Harukaze

当時の江戸における新政府内の対立は、参謀(多くは薩長土肥)のマウント取りみたいなものですが、個人の資質によるものだけが原因ではないと考えます。個人的な妄想ですが、一番の原因は、権限の序列や範囲があいまいであったことと考えています。

2022-05-22 15:22:13
シービー @MrCB_Harukaze

まず、東征大総督府と東海道先鋒総督府(北陸他の先鋒総督府も含む)の権限は各々どの範囲で、軍事上どちらが上なのかも判然としません。大総督府は江戸平定組織の意味合いが強いと思われます。東海道総督府らは方面軍と考えたとき、軍事指揮では大総督府と各先鋒総督府の力関係はかなりあいまいです。

2022-05-22 15:23:18
シービー @MrCB_Harukaze

各総督府の参謀は統合幕僚監部といえますが、統合幕僚長は誰なのか、ということです。そこに、京都新政府から村田蔵六が現れます。蔵六は(実戦指揮の能力有無は別として)軍防事務局所属であり、軍事組織の体制整備や組織管理が仕事です。要は官僚です。

2022-05-22 15:24:05
シービー @MrCB_Harukaze

その蔵六が江戸で戦略や戦術、兵站などの権限の有無もあいまいです。任務は江戸・関東の情勢把握でしたし。もっと言えば、西郷隆盛と海江田信義という別組織の参謀の軍事上の上下関係もあいまいです(郷里が同じだから西郷を立てていたけど)。そういう状況下では、マウント取り合戦は当然と思えます。

2022-05-22 15:25:25
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩出身参謀木梨精一郎も蔵六と対立しています。そのような中、後に、大監察史として三条実美が江戸に派遣されます。軍監は江藤新平(佐賀藩)。これが村田蔵六にとって朗報になります。特に江藤は江戸統治について蔵六とほとんど同じ考えで、かつ、思考回路と性格が似てましたし。

2022-05-22 15:26:00
シービー @MrCB_Harukaze

とはいえ、この大監察史も立場はあいまいで、大総督府を飛び越えた存在とは必ずしもいえず、要は監査官的な存在と考えられます。大総督府の政策について「おかしい」と指摘はできるが、大総督府を超えた権限が与えられていたのかというところがよく分かりません。

2022-05-22 15:26:37
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、三条実美は新政府官員のトップであり、組織的な権限とは飛び越えた部分で江戸でも最高権限を持った(周辺はそう考えた)と思います。このあたりの大総督府・各総督府・大監察史の関係をおわかりの方はご教授いただければと思います。

2022-05-22 15:28:39
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六が到着したころの江戸城新政府は「実に乱脈で仕方なかった」と大総督府下参謀寺島秋介(長州藩)は回顧している。「朝廷から追討の兵を御向けになるのはよろしくない」と軍事を知らない公家に言い「仕様が無いのだ」と。寺島は「もう帰ろうと言っていた」という。

2022-05-23 19:18:02
シービー @MrCB_Harukaze

京では西郷吉之助や林玖十郎らが一旦戻り、三条実美、岩倉具視、小松帯刀、後藤象二郎、広沢兵助(真臣)、大久保一蔵ら新政府首脳と共に徳川家の処分を評議した。結局田安亀之助(徳川家達)に宗家相続を許可するが、領地は未決で、江戸に三条実美を送って徳川処分と民心鎮静に当たらせることとした。

2022-05-23 19:19:37
シービー @MrCB_Harukaze

慶応4年閏4月17日、関東大監察使として長州系公家で実質新政府トップの三条実美、軍監に江藤新平(佐賀藩)・小笠原唯八(土佐藩)を江戸に派遣した。この間、閏4月21日に官制改革が行われ、村田蔵六は軍務官判事に任じられる。

2022-05-23 19:20:02
シービー @MrCB_Harukaze

この頃の江戸・関東は、宇都宮の戦闘、彰義隊討伐、横浜港の警備、奥羽総督府の窮状などなど、問題が山積みであった。宇都宮方面は大鳥圭介部隊が機を伺い、新政府は東山道先鋒総督軍が対応、軍事指揮は参謀板垣退助(土佐藩)・伊地知正治(薩摩藩)が取っていたが苦戦していた。

2022-05-23 19:20:36
シービー @MrCB_Harukaze

奥羽方面は、庄内藩の抵抗と奥羽越列藩同盟が新政府対抗姿勢を見せ、閏4月20日には参謀世良修蔵が暗殺されていた。増援を送ろうにも、北陸道総督軍が越後平定に派兵され、江戸の東海道総督軍の兵力はわずか2000名程度であり、慢性的な兵力不足であった。

2022-05-23 19:21:20
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.