秋山先生の言葉を借りれば「山田市之丞の戦い」それまでは、蔵六、晋作坊ちゃん、鳥羽伏見では西郷、上越では狂介がいた。箱館は市ぃ一人であった。
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シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)4月26日、第二次二股口の戦いが落ち着き、榎本軍は矢不来の守備を強化する。指揮は大鳥圭介が執り、兵は約500人以上に上った。28日、政府軍の陸軍と海軍は矢不来総攻撃の打合せを行う。政府軍陸軍部隊は深夜に泉沢を出発し矢不来に向かう。一方政府軍艦隊は茂辺地に艦砲射撃を加える。

2021-08-11 19:33:47
シービー @MrCB_Harukaze

矢不来とその周辺には、伝習隊、彰義隊、遊撃隊、衝鋒隊らが守備にあたる。しかし、衝鋒隊は艦砲射撃で粉砕される。指揮官の永井蠖伸斎は戦死する。兵は潰走し、その場に居た大鳥圭介にも止められなかったという。海岸寄りを守備していた額兵隊も潰走する。

2021-08-11 19:41:27
シービー @MrCB_Harukaze

兵力に勝る政府軍陸軍部隊の進撃は続く。これに、「陽春」「丁卯」の軍艦が支援。そして、「春日」が輸送してきた増援兵士を揚陸させます。この時点で矢不来の戦いの勝敗は着いたと言って良いでしょう。榎本武揚は有川まで来て指揮を執ったそうですが、結局敗残兵を全員五稜郭に引き取ることを決める。

2021-08-11 19:46:34
シービー @MrCB_Harukaze

政府軍海軍は追い打ちをかけるように10時に箱館湾に突入。榎本軍艦隊を攻め立てる。決着は着かなかったが、政府軍艦隊は拠点である青森の三厩には戻らずにらみ合うこととなる。政府軍陸軍は富川村まで進出する。

2021-08-11 19:51:22
シービー @MrCB_Harukaze

矢不来を攻略し、政府軍念願の二股口とその後方の弾薬基地の市渡の攻略の目処が立つ。榎本軍は二股口かの撤退を決める。撤退戦の指揮は土方歳三、先鋒が伝習隊、殿が衝鋒隊と今井信郎。いったん五稜郭まで撤退する。また、仏軍将校ジュール・ブリュネは仏軍人全員の脱出を仏軍艦に依頼する。

2021-08-11 19:57:42
シービー @MrCB_Harukaze

榎本軍の善戦は、大鳥圭介ら旧幕府軍の指揮官の力もありますが、何と言っても旧幕府に協力していた仏軍将校と兵士の力が最も大きかったと考えられます。第一次二股口の戦いはその最たるものと思います。市ぃも相手が悪かったという感想しか在りません。

2021-08-11 20:01:01
シービー @MrCB_Harukaze

戦争というのは、へまをしない限り、兵・武器・食糧の物量に勝る方が勝つ。まして、籠城戦は後方支援や同盟軍がいなければ絶望的。聡明な榎本武揚や大鳥圭介は分かっていただろうが、としちゃんや永井や旧幕府軍隊指揮官はどうだったか。というより死に場所見つけてたのかも知れないけど。

2021-08-11 20:11:53
シービー @MrCB_Harukaze

陸軍参謀薩摩藩黒田了介が寛典を密議したことは、箱館戦争を薩摩藩主導で終わらせようという意志と考えて良い。この時点で本来相談すべきは実質司令官である山田市之丞であるべきだが無視している。また、このころ三条実美は榎本らの死刑を望んでおり、長州藩はそれに同心していたようだ。

2021-08-16 19:16:13
シービー @MrCB_Harukaze

なお、余談ですが、この日(明治2年(1869)5月9日)戦いが小休止状態であったためか、榎本軍の高松凌雲が小野権之丞を訪ねている。また、土方歳三と永井尚志も小野を訪ねている。

2021-08-16 19:21:57
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)5月10日、榎本軍は箱館の「武蔵野楼」で宴会を開く。おそらく最後の晩餐と考えていたのかも知れない。夜、政府軍「豊安丸」「ヤンシー号」が密かに箱館湾に向かう。この作戦を考えたのは陸軍参謀黒田了介と言われる。

2021-08-16 19:27:27
シービー @MrCB_Harukaze

山田市之丞と黒田了介は兵を二分割して攻めることで合意していた。市ぃは長州軍を主力とした部隊で七里ヶ浜方向から、了介は海上機動で薩摩藩を主力とした部隊で箱館山の裏から弁天台場を攻める、という作戦である。

2021-08-16 19:32:56
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)5月11日、箱館山の裏側を攻める作戦が開始されます。これを援護するために、午前3時から政府軍艦隊が艦砲射撃を行います。陸上部隊を支援するために注意を向け、少数の奇襲部隊が見つからないようにしていたと思われます。

2021-08-16 19:36:55
シービー @MrCB_Harukaze

政府軍「甲鉄」「春日」が弁天台場「回天」「朝陽」「丁卯」が七里ヶ浜、「陽春」が大森浜を狙います。この間に薩摩を中心とした奇襲部隊が山を登り、市内を厭制射撃します。箱館山の守備担当だった榎本軍新撰組は蹴散らされます。これを知り、大森浜にいた伝習士官隊が逆襲を図りますが断念します。

2021-08-16 19:44:21
シービー @MrCB_Harukaze

5月11日4時20分、箱館山の奇襲部隊が山を駆け下り市中に突入する。5時20分には政府軍は弁天台場や「回天」に対して砲弾攻撃を行う。榎本軍海軍総督荒井郁之助は脱出し、「回天」は遺棄される。奇襲部隊は、箱館山の麓から進軍し、一本気柵を攻撃する。

2021-08-17 19:06:41
シービー @MrCB_Harukaze

七重浜の山田市之丞部隊は、赤川地区の衝鋒隊と上山地区・四稜郭を大砲・銃で攻撃する。衝鋒隊古屋佐久左衛門は日没後五稜郭に撤退する。上山地区・四稜郭の松岡四郎次郎も五稜郭に撤退。その中、元新撰組副長土方歳三は五稜郭を出て桔梗まで物見に行き、引き返し、五稜郭付近で手兵をまとめる。

2021-08-17 19:17:46
シービー @MrCB_Harukaze

土方は一本木関門へ南進する。しかし、そこには薩摩軍が待ち構えていました。土方は前列に出て、午前10時頃、腹部を狙撃され落馬。すぐに部下が首を切断し、見つからない場所に埋めたと言われます。同じ頃、箱館病院に松前藩と津軽藩兵士が突入しようとします。これを薩摩の監軍が止めています。

2021-08-17 19:25:04
シービー @MrCB_Harukaze

子母沢先生の説では、榎本軍に降伏を推めたのは、陸軍兼海軍参謀長州藩山田市之丞としています。市ぃが清水谷総督と了介と協議し、投降させるには第三者を介した方がいいと高松凌雲と小野権之丞に白羽の矢を立てたといいます。子母沢説では、後の開拓使の実力者了介が市ぃに関する資料を処分した見解

2021-08-17 19:39:52
シービー @MrCB_Harukaze

この騒ぎで小野権之丞が一時捕縛されるが、夕方に病院に戻されています。午後2時過ぎには、ほぼ政府軍の掃討戦状態になりました。夕方6時、政府軍が一本木関門から北進します。榎本軍は退却のため箱館市中にや周辺の建物に多くの放火を行った。

2021-08-17 19:31:25
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)5月12日、政府軍は弁天台場を残して五稜郭周辺を制圧した。政府軍軍艦「甲鉄」は未明から五稜郭内に艦砲射撃を行う。そして朝になり、五稜郭内の建物に命中し始める。五稜郭内部に立て籠もる榎本軍兵士は建物内部での居住を諦め、地面に穴を掘り、その中で過ごすことになる。

2021-08-18 19:38:46
シービー @MrCB_Harukaze

この間政府軍陸上部隊は敢えて進撃を控えており、箱館病院の諏訪常吉を薩摩藩士池田次郎衛、村橋直衛が訪ねる。終戦(降伏)工作のためである。これを依頼されたのが病院長高松凌雲と事務長小野権之丞である。

2021-08-18 19:45:16
シービー @MrCB_Harukaze

その後、政府軍地上部隊は五稜郭に近くに進出し、野戦砲で五稜郭に砲撃を加える。しかし、無理やりに攻めるつもりはないため、午後には攻撃を止める。翌5月13日政府軍はこの日から降伏勧告を本格化させる。高松と小野は榎本武揚と松平太郎宛に帰順勧告書を五稜郭に届ける。

2021-08-18 19:50:06
シービー @MrCB_Harukaze

制圧せずに残して置いた弁天台場にも使者を出して帰順を説く。この間、五稜郭ではけが人を脱出させている。おそらく、食糧等の節約のためと言われている。最後に残った者は、士官と兵卒それぞれ25人程度、計50人程度であった。弁天台場では小銃で抵抗を続ける。

2021-08-18 19:54:36
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)5月14日、榎本武揚と松平太郎は連名で高松凌雲と小野権之丞宛てに恭順拒否の返書と「梅津」の洋書(「万国公法」)を送達した。返書の写しは弁天台場にも送られる。政府軍特使田島敬蔵は弁天台場に行き、榎本への面会を要求した。

2021-08-19 18:02:47
シービー @MrCB_Harukaze

台場守備の新撰組相馬主計、永井尚志らが五稜郭に出かけ榎本武揚に伝える。榎本は五稜郭から出て一本木関門近くの橋の上で田島らと立談する。田島は強く帰順を勧める。榎本は拒否して帰るが、相馬は弁天台で田島と降伏交渉に入った。おそらく、榎本とは事前に打ち合わせが出来ていたのであろう。

2021-08-19 18:08:54
シービー @MrCB_Harukaze

そして、永井尚志が15日日付で条件付降伏文書を渡す。弁天台場の守備兵240名は台場を出て実行寺に移る。榎本武揚と大鳥圭介は夜、彰義隊と陸軍隊で夜襲を掛けようと出陣するが兵の士気はほとんど上がらず、榎本は五稜郭に戻る。

2021-08-19 18:14:43
シービー @MrCB_Harukaze

5月15日、伝習歩兵隊と衝鋒隊は五稜郭を出て政府軍への攻撃のため進行する。しかし、政府軍の銃砲が激しく、亀田八幡宮に避難するが、そこにも艦砲などで攻撃を受けすぐに五稜郭に退却する。「甲鉄」は五稜郭への艦砲射撃を再開し、午後まで続ける。

2021-08-19 18:19:46
シービー @MrCB_Harukaze

五稜郭外に居た大鳥圭介が、郊外守将中島三郎助に陣を焼き払い五稜郭に籠もるよう説得するが中島は拒否した。夜になって松平太郎が同じように中島を説得するがこれも拒否する。中島は死を覚悟していたようだが部下は五稜郭に逃げていってしまう。

2021-08-19 18:24:42
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)5月16日、政府軍山田市之丞陸海参謀が激しく抵抗すると見られる千代ヶ岱への総攻撃を行う。榎本軍の見国隊はすぐに降参する。中島三郎助とその長男、次男は討死し、全滅した。一方、市ぃが率いる長州軍は戦死者5名。この攻撃は深夜3時に行われたが立案は市ぃで相変わらずの切れ味である

2021-08-20 18:16:03
シービー @MrCB_Harukaze

午後、薩摩藩の者が五稜郭に向かい、弁天台場が帰順、千代ヶ岱は占領を告げる。兵卒は知らされてなかったためか動揺が走り脱走者が相次いだという。薩摩藩士が渡した手紙には法律書の礼として「海軍参謀」と署名され、酒5樽鮭数十匹が届けられた。曽我準造海軍参謀の起案と言われる。

2021-08-20 18:23:00
シービー @MrCB_Harukaze

五稜郭では降伏会議が開かれる。榎本武揚は興奮したのか徳川慶喜から拝領した短刀で自決しようとしたが、彰義隊大塚が止めたため思い直し、「明朝7時前に自ら場外に出て降伏交渉に応ずる」と使者を出し、幹部で酒宴を開く。

2021-08-20 18:27:43
シービー @MrCB_Harukaze

果たして、榎本武揚のこのときの行動は本物だったのか演技だったのか。もともと留学し、日本有数の頭脳であり、討死を考えていたとは思えないところもあり、相馬と永井には帰順を交渉するよう話していた節があります。少なくともただで死んでたまるかぐらいには思っていたのかも(個人の感想です)

2021-08-20 18:31:04
シービー @MrCB_Harukaze

現在、箱館戦争での降伏交渉資料には、山田市之丞の名前が出てこない。普通に考えれば実質総司令官である市ぃの名前が出るはずであるが、不自然なほどに。兵藤二十八は、市ぃは上流階級出身であるため、了介のようにがんがん進むタイプには遠慮したのではと考察している。

2021-08-20 18:35:09
シービー @MrCB_Harukaze

後に大鳥圭介が「南柯紀行」で降伏式のことを記している。「五稜郭を出て亀田村の長藩の参謀山田某に面会し」と記しており、ここには了介は登場しない。少なくとも榎本軍上級幹部は市ぃのことを記している。が公式資料にはほとんど登場しない。というのは何を意味するのか興味深い。

2021-08-20 18:41:45
シービー @MrCB_Harukaze

また、大鳥圭介は「南柯紀行」で榎本武揚、大鳥圭介ら4人の幹部を市ぃは礼を持って遇してくれたと書いている。「過酷の取扱いなく、酒肴を饗し(略)不思議に思う程なり」と。明治政府時代、市ぃと榎本は仲良しであったが、こういうところに引かれたのかもしれない。

2021-08-20 18:46:55
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)5月17日、朝七時、榎本武揚、松平太郎、荒井郁之助、大鳥圭介が五稜郭を出る。途中、榎本と松平2名が陸軍参謀黒田了介に面会。しかし、その場に陸海参謀山田市之丞はいなかった。

2021-08-21 17:56:20
シービー @MrCB_Harukaze

兵藤二十八「奇怪極まる話しである。黒田がどのように山田を納得させていたのか、どの史家も明らかにできていない。政府軍が矢不来の防衛戦を破って以降、山田がどこで何をしていたのかほとんど分からないのです。」要は、ほとんど市ぃ総司令官に関する資料が残っていないと言うことです。

2021-08-21 17:58:49
シービー @MrCB_Harukaze

降伏条件がだいたい合意され、亀田八幡宮の境内で降伏式が執り行われた。翌5月18日、五稜郭は閉城と決まり、榎本は目録を黒田了介に手渡す。まだ米は500俵残っていたという。午後2時、政府軍海軍軍監十津川藩前田雅楽が受取役として入城し、榎本は明け渡しを済ませた。

2021-08-21 18:05:54
シービー @MrCB_Harukaze

榎本武揚、松平太郎、荒井郁之助、大鳥圭介らは、亀田村の政府軍陣所に行き、陸軍兼海軍参謀長州藩山田市之丞に面接する。このときの話しは、大鳥圭介が記録している。榎本等は箱館港近くの猪倉屋に留置、その後弘前に送られる(大鳥の記録では)。投降した兵は箱館市内の寺院に分散して収容された。

2021-08-21 18:10:42
シービー @MrCB_Harukaze

市ぃは、5月下旬に箱館を引き上げ、6月4日に品川に着いた。降伏から10日あまりで帰途に着いたことになる。本来なら幹部なので戦後処理が落ち着いてからとも思うが、明治元年(1868)10月1日に三田尻を出てからそのまま青森に行き、戦争終了が明治2年(1869)5月18日である。

2021-08-21 18:21:24
シービー @MrCB_Harukaze

その間父親を亡くしたこともあり、早く帰郷したかったのであろう。6月10日、明治天皇に拝謁し、12日に陸海軍参謀の任を解かれた。7月8日に兵部大丞(兵部大輔大村益次郎の次役)に任ぜられた。7月11日、市ぃは杉孫七郎らと長州藩船鳳翔丸で帰国の途に就く。

2021-08-21 18:28:17
シービー @MrCB_Harukaze

途中難破して清水港で修理待ちというアクシデントがあったが、8月9日、三田尻に到着する。10日に山口政事堂に帰国の報告を済ませる。20日ごろ藩から軍政主事に任命される。長州藩の軍事責任者となった。

2021-08-21 18:34:35
シービー @MrCB_Harukaze

8月19日、諱を顕孝から顕義に変え、通称として藩政府に届けて出ている。市ぃは、狂介、八十朗と共に永世600石の賞典録を賜っている。その後、大村益次郎の暗殺、脱退騒動等を経て、明治三年(1870)10月、湯田温泉瓦屋の娘龍子と結婚する。

2021-08-21 18:51:30
シービー @MrCB_Harukaze

箱館戦争についての逸話。西郷が援軍を率いて5月5日に東京に着いた。蔵六は、「今から行っても間に合いますまい」と言ったが、西郷は出発し、5月25日に到着するが、蔵六の予言どおり五稜郭は開城(5月18日)していた。6月1日横浜に戻った西郷は、蔵六に会わず薩摩に帰ったという。軍務官権判事船越衛談

2021-08-21 18:53:08
シービー @MrCB_Harukaze

箱館戦後の市ぃの逸話。東京へ凱旋した市ぃが蔵六から招待された.どんなご馳走をしてくれるのか期待して行ったら、酒と豆腐だけで、憮然とし、酒だけ飲んでいたら蔵六が「豆腐を愚弄するものは、国家を滅ぼす」と怒られたという話し。調べても出典が見つからない。司馬先生の演出だろうか……

2021-08-21 18:53:50
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.