秋山先生の言葉を借りれば「山田市之丞の戦い」それまでは、蔵六、晋作坊ちゃん、鳥羽伏見では西郷、上越では狂介がいた。箱館は市ぃ一人であった。
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シービー @MrCB_Harukaze

明治元年(1868)8月19日、旧幕臣榎本武揚が旧幕臣とフランス軍事顧問団5名を乗せ、開陽丸、回天丸、蟠竜丸、咸臨丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、長鯨丸の旧幕府艦隊8艦が江戸を脱出する。これには振武隊渋沢成一郎も同乗している。艦隊は奥羽越列藩同盟支援のため太平洋を北上する。

2021-07-25 18:35:12
シービー @MrCB_Harukaze

榎本武揚は仙台藩に抗戦を説くが、すでに藩は降伏に傾いており、10月18日宮古湾を出航し、蝦夷を目指した。10月20日、蝦夷内浦湾鷺ノ木に到着する。箱館への嘆願書を届ける部隊が上陸をする。榎本らの首脳部は艦隊に残る。

2021-07-25 18:52:47
シービー @MrCB_Harukaze

当時五稜郭には、新政府の箱館府が置かれ、府知事には公家の清水谷公考が任じられていた。また、周囲は松前藩領であり、戊辰戦争時に新政府側に寝返っていた。22日以降、旧幕府軍の陸戦部隊が上陸を開始し、大鳥圭介は新撰組、遊撃隊、、伝習隊を、土方歳三も額兵隊を率いて進軍を開始する。

2021-07-25 19:04:41
シービー @MrCB_Harukaze

榎本武揚の到着の報を掴んでいた箱館府知事清水谷公考は、直ぐに脱出の手配をする。一説には箱館に居留する外国人から戦場にするなという申し入れがあったという。また、松前藩軍も降伏し、各々青森まで脱出する。山田市之丞は、清水谷に「逃亡せず時間を稼ぐ」よう書簡を出していたが無駄であった。

2021-07-25 19:16:13
シービー @MrCB_Harukaze

明治元年(1868)10月26日。榎本軍が五稜郭および箱館の街を占領する。11月5日、松前城も占拠される。11月6日、青森に到着した越後口海軍参謀山田市之丞は大総督府から青森口総督府陸軍参謀に任じられる。大総督府は春季の攻撃を奨めてきており、市ぃはそれに従う。

2021-07-25 19:28:33
シービー @MrCB_Harukaze

この頃の大総督府の軍令は大村益次郎が発していたと考えて良いと思う。市ぃはその辺も汲んだのかもしれない。

2021-07-25 19:37:55
シービー @MrCB_Harukaze

なお、市ぃは箱館府と松前藩の敗戦(脱出)がよほどくやしかったのか「箱館一敗後万事粉擾、(略)手段絶え申し候」長州の杉孫七郎宛に送っている。さらに書簡では「誠に近古未聞の守節にて御座候」と呆れ、藩政府に「(軍艦は)来夏迄と安心罷り存り候」と軍艦の到着が遅いことを皮肉っている。

2021-07-25 19:42:12
シービー @MrCB_Harukaze

明治元年(1868)11月1日、箱館府から脱出してきた清水谷公考は、この日青森から浪岡の玄徳寺に移り自ら謹慎する。政府に待罪書を提出したが、11月27日、箱館府知藩事の身分はそのままで、青森口総督府総督に任命される。当初、箱館征討は徳川昭武に命じられるはずであったが出兵は停止になっている。

2021-07-26 20:03:34
シービー @MrCB_Harukaze

この頃の青森口総督府の陣容は、総督清水谷公考、海軍参謀山田市之丞、陸軍参謀熊本藩太田黒亥和太惟信、軍監長州藩林半七友幸、熊本藩野田大蔵豁通、長州軍隊長森清蔵といったとところである。ちなみに、黒田了介は庄内藩降伏後東京に凱旋し、鹿児島に帰郷している。登場するのは戦い前の4月である。

2021-07-26 20:13:52
シービー @MrCB_Harukaze

榎本武揚は蝦夷地渡航の目的は旧幕府家臣達の生活安定のためで蝦夷地開拓をしたいとの嘆願を何度かしているが、新政府には受け入れられなかった。戊辰戦争時の6ヵ国中立宣言が戊辰戦争勝利により、明治政府が実質的に日本唯一の政権として認められたと考えると、激しい言葉だが国内反乱分子とも言える

2021-07-26 21:14:06
シービー @MrCB_Harukaze

明治元年(1868)12月15日、榎本武揚は蝦夷地平定の祝賀祭(蝦夷地領有宣言式)を催し、榎本を蝦夷政府総裁とする仮政府の樹立を宣言した。また、英仏船長と会談し、箱館での貿易は蝦夷政府が続けると、独立国のように振る舞っている。

2021-07-26 21:23:06
シービー @MrCB_Harukaze

この頃青森口の実質総司令官である山田市之丞は、厳冬のため「兵隊も余程難渋罷り在る事故、金子御仕送りの事」と長州藩政府に依頼している。また、待機生活で兵の緊張が解けぬよう苦心している。12月22日に青森の常光寺に本営を移すが、このとき、「大病院」も開設し、兵の健康に気を遣っている

2021-07-26 21:32:33
シービー @MrCB_Harukaze

榎本武揚にとって頼みは旧幕府軍の遺産である艦隊であった。当初、品川にあった八艦で出港したが、房総沖で暴風雨に襲われ咸臨丸・美賀保丸の2隻を失う。その後仙台藩に貸与していた太江丸、鳳凰丸、千秋丸を艦隊に加える。

2021-07-27 20:05:58
シービー @MrCB_Harukaze

その後、千秋丸を売却、秋田藩からアシロット(高雄丸)を接収するも、最も頼りにしていた開陽丸を11月に江差で失い、榎本の艦隊は弱体化します。この間、大総督府は対抗すべく諸藩から軍艦を募っていた。そして、念願の「甲鉄」(ストーンウォール)を1月15日に買収する。

2021-07-27 20:38:21
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)1月3日、明治政府から榎本軍の追討令が発せられる。青森には諸藩の兵が集結し、その数は約6000人にのぼっていた。この頃、本営は蓮心寺に移っている。ちなみに榎本武揚は、山田市之丞のことをまったく知らなかったようで、政府軍は熊本藩大田黒亥和太が指揮しているらしいと書いている。

2021-07-27 20:49:30
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)1月20日、松前藩に箱館征討の先鋒の命が下る。この頃、東京では西郷隆盛が山田市之丞が若すぎる(25歳)ことを理由に司令官とすることに反対していた。自分が箱館に行き指揮を執ると言うのだ。大村益次郎は「山田は私より用兵の才がある」と断っている。

2021-07-27 20:59:11
シービー @MrCB_Harukaze

西郷は長州を押しのけて薩摩の手柄にしたいと考えていたのであろうか。その後、西郷は薩摩に帰藩していた黒田了介を2月に(ごり押しで?)青森口総督府陸軍参謀とする。他に佐賀藩増田虎之助が海軍参謀に任じられるなど、開戦準備が忙しくなっていく。

2021-07-27 21:07:50
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)2月22日、山田市之丞に訃報がもたらされる。父顕行がまだ若い40代で亡くなった。弟で河上家を継いだ河上繁秀(久二郎)と共に悲しんだという。「家大人逝去の報在り、哀愁禁せず」として、放浪十歳業難為 東馳西奔幾別離 孝養更無酬膝下 空開此翰泣天涯 の詩を残している。

2021-07-27 21:21:14
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)3月9日、明治政府の艦隊が品川沖を出発する。軍艦「甲鉄」「春日」「丁卯」「陽春」輸送船「飛龍丸」「豊安丸」「戊辰丸」「晨風丸」の八艦である。その後「朝陽」「延年」も宮古湾海戦後に加わる。

2021-07-28 19:45:45
シービー @MrCB_Harukaze

この艦隊の司令官は肥前藩青森口総督府海軍参謀増田虎之助であったが、「甲鉄」の艦長は長州藩中島四郎で、乗組員のほとんどが長州藩兵であった。これは、大村益次郎が山田市之丞を喜ばせるための配置と早乙女先生は記している。なお、浦賀から青森口総督府陸軍参謀黒田了介も乗り込んでいる。

2021-07-28 19:50:23
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)3月20日、箱館から榎本軍艦隊の「回天」「蟠竜」「高尾」が密かに出港する。明治政府の艦隊を叩き、あわよくば「甲鉄」を奪う作戦である。3月25日、両艦隊は宮古湾で戦闘に入る。アボルダージュ!(海戦の模様は、日テレ『五稜郭』で)結果は、榎本艦隊の敗北に終わる。

2021-07-28 20:08:17
シービー @MrCB_Harukaze

3月26日、明治政府の艦隊が順次青森湾に入る。黒田了介は「石炭さえ充分なら明日にでも蝦夷地へ向けて出発するんだが」と言う。やはり、薩摩の手柄を一番に考えているようだ。ただ、北越では西郷とは不仲だったはずだが、藩への思いは一緒だったのかしら。

2021-07-28 20:13:32
シービー @MrCB_Harukaze

東京では、またも西郷隆盛が「おいが箱館に行きもす」と騒ぐ。大村益次郎は辟易して「西郷さんが到着するころには箱館は墜ちているでしょう」と嫌み?を言う。西郷は待てずに出発した。結果は大村益次郎の言うとおりになる。

2021-07-28 20:19:51
シービー @MrCB_Harukaze

明治元年(1869)4月4日、山田市之丞は、軍政官大村益次郎の強力な推挙によって、青森口総督府陸軍兼海軍参謀に任ぜられる。名実共に箱館征討の総司令官となった。陸軍副参謀に長州藩森清蔵、陸軍参謀に長州藩堀真五郎なども任じられている。いよいよ、開戦である。

2021-07-28 20:27:33
シービー @MrCB_Harukaze

ちなみに、長州藩森清蔵は、山田市之丞陸軍参謀兼海軍参謀直属の副参謀である。

2021-07-28 20:29:51
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)4月6日、午前11時、青森から政府軍艦隊が出港する。軍艦は「甲鉄」「春日」「丁卯」「陽春」,船員運送は「飛龍丸」「豊安丸」「ヤンシー号」物資搭載は「オーサカ号」第一波は1500人、率いるのは長州藩山田市之丞陸軍兼海軍参謀である。

2021-08-02 19:43:26
シービー @MrCB_Harukaze

艦隊の出航直後に天候が急変し、時化模様になった平舘に避難。次の日も風波が収まらないため上陸作戦は9日にずれ込む。4月9日、軍艦「春日」「甲鉄」が2時20分に乙部沖に到着する。兵数で劣る榎本軍は、江差と松前を重点的に防衛していましたが、日本海側の乙部までは手が足りませんでした。

2021-08-02 19:50:23
シービー @MrCB_Harukaze

この上陸作戦を企画したのは山田市之丞と考えられる。4時に「ヤンシー号」も乙部沖に到着する。「春日」「甲鉄」は海岸を砲撃するが、榎本軍の兵はいない。朝6時「ヤンシー号」兵士850名が無血上陸を達成する。その後「丁卯」「陽春」「豊安丸」「飛龍丸」も到着し、1500名全員を揚陸させた。

2021-08-02 19:57:04
シービー @MrCB_Harukaze

榎本軍は政府軍上陸に気づき、江差から3個小隊を急行するが、寡兵かつ軍艦からの艦砲射撃で勝負にならず、江差方面へ退却する。政府軍は榎本軍の砲台を艦砲射撃叩き、大砲の大部分を分捕る。14時20分、政府軍の地上部隊が江差を攻撃し、占領した。政府軍は海岸を南下し、松山城を目指す。

2021-08-02 20:05:24
シービー @MrCB_Harukaze

位置関係が分からない人用に。(ネットからお借りしました。) pic.twitter.com/4PWRKAqQu5

2021-08-02 20:33:50
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シービー @MrCB_Harukaze

山田市之丞は、江差上陸戦の勝利の際「地を隔てて 戦場の実を識りがたし(略)馬を留め 幽然と砲声を聴く」と詩を読んでいる。明治2年(1869)4月10日、政府軍は上ノ国を確保するが、なぜか支隊が勝手に木古内進軍を中止する。松前藩士が松前城攻めを優先したかったのではとと言われている。

2021-08-03 20:00:00
シービー @MrCB_Harukaze

4月11日、松前城下では伊庭八郎、江差から退却した松岡四郎次郎、小杉雅之進らが江差攻撃を図り、16時に北上が開始される。途中で政府軍の斥候隊と小隊を此を駆逐する。山田参謀は、勝手に木古内進軍を中止した支隊を叱り飛ばし上ノ国に追い返した。この頃、政府軍の陸戦部隊が乙部と江差に揚陸される

2021-08-03 20:17:50
シービー @MrCB_Harukaze

この間、榎本軍は「二股口」に陣地を築く。中心となったのは、フランス軍騎兵伍長フォルタンである。この戦場は後に土方歳三が指揮をとることになるが、この時点では土方は現場にいない。五稜郭では大鳥圭介が連絡を受け、伝習隊1個小隊と額兵隊3個小隊を率いて、木古内に向かう。

2021-08-03 20:23:37
シービー @MrCB_Harukaze

4月12日、榎本軍今井信郎は、衝鉾隊1個中隊を率いて市渡村に向かい、2個小隊を率いて二股口に応援に向かう。土方歳三も衝鉾隊と伝習隊を率いて出発する。翌13日15時、二股口で最初の戦いが始まる。政府軍長州、備後福山、松前、薩摩の兵約500、榎本軍約130。翌14日の6時まで15時間の射撃戦となります。

2021-08-03 20:34:50
シービー @MrCB_Harukaze

先に弾薬が尽きたのは政府軍でした。榎本軍は市渡村に弾薬庫を創っていて35000発撃ったと言われます。政府軍は一人100発しか持っていませんでした。第一次二股口戦で政府軍は退却する。山田市之丞は14日、青森の後続部隊に進発を促す。敗軍の様子と退却のことを書いている。

2021-08-03 20:44:54
シービー @MrCB_Harukaze

市ぃは「実以て兵隊の不足大窮仕り候。(略)兵士に対して言い訳の至し方に困り入り候。何卒至急千人計り(略)弾薬其外米塩の類いも今ニ三遍相成らざる候では、則ち窮兵と相成り」と兵と弾薬を至急送って欲しいと依頼している。

2021-08-03 20:51:23
シービー @MrCB_Harukaze

箱館戦争における第一次二股口の戦いは、おそらく長州藩山田市之丞が司令官として指揮する戦いで唯一の敗戦ととらえても良い。二股口は土方歳三が指揮したことで有名だが、このときはフランス軍騎兵伍長フォルタンが数日前から陣地を築いたことが勝因と考えていい。

2021-08-08 14:25:37
シービー @MrCB_Harukaze

当時土方歳三は二股口の戦いには参戦して居らず、市渡村の弾倉を管轄しており、二股口の戦いには夕方に雨が降ってきたことで弾薬を輸送したことだけが唯一の関わりです。

2021-08-08 14:28:44
シービー @MrCB_Harukaze

一方、市ぃは、上陸した兵1500を500人ずつ、二股、木古内、松前に分けざるを得ず、さらに松前藩士の命令違反もあり、不運が重なった。戦いの結果については言い訳無用であるが、少し同情はしてしまう。

2021-08-08 14:33:26
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)4月16日、山田参謀の求めに応じて援軍と弾薬が黒田了介陸軍参謀の指揮で到着する。これ以降、山田市之丞の活躍や行動は公式文書から消える。これが何を意味するのかは、各自のご想像にお任せします。

2021-08-08 14:51:04
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)4月16日、山田市之丞陸軍兼海軍参謀の増援も求めに応じて黒田了介陸軍参謀指揮の増援兵が上陸する。榎本軍では二股口の勝利で浮き足だっていたが、五稜郭から伝令が来て自重します。

2021-08-09 15:46:50
シービー @MrCB_Harukaze

榎本軍は兵の数が限られているため、防衛拠点を絞る作戦を考える。具体的には、最大拠点として木古口、そして二股口である。この時点で松前は放棄したと考えて良い。

2021-08-09 15:51:57
シービー @MrCB_Harukaze

4月19日、政府軍は箱館湾に艦隊を派遣する。熊本藩曽我準造が海軍参謀として指揮を執る。「春日」「丁卯」遅れて「甲鉄」。大きな功績は得られなかったが、陸軍だけでなく海軍からの脅威を植え付けたことは大きかったであろう。

2021-08-09 15:57:31
シービー @MrCB_Harukaze

4月20日、政府軍は榎本軍最大の防衛拠点である木古内に突入する。防衛の責任者の一人であった伊庭八郎は銃弾に当たり重傷を負う。戦況を見た大鳥圭介は、木古内の防衛拠点縮小を考える。おそらく、箱館戦争のターニングポイントはここであろう。

2021-08-09 16:02:33
シービー @MrCB_Harukaze

榎本や大鳥圭介は、この戦いを勝てるとは決して思って居らず、どれだけ長引かせて気概や意地を見せられるかと思っていたと考えます。土方や永井などは違う気持ちだったでしょうが。つまり、榎本軍内部の方針も異なっていたと考えます。

2021-08-09 16:07:18
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)4月23日、政府軍軍艦「丁卯」と「陽春」が津軽藩の進撃と合わせて木古内から箱館近くまで夜に斥候を行う。当日は榎本軍で酒宴が開かれていた。板倉勝静と小笠原長行の上海亡命の別れの宴と言われています。ただ、5月20日ごろ浦賀で箱館終戦を知り、上海行きは中止している。

2021-08-10 19:31:18
シービー @MrCB_Harukaze

二股口では江差から増援兵を受け、政府軍が進行。これに榎本軍の衝鉾隊・伝習隊などが応戦し、25日まで激戦が続く。24日は政府軍艦隊「甲鉄」「春日」「丁卯」「朝陽」が7時半に箱館湾に入り、榎本軍艦隊「回天」「蟠龍」「千代田形」と開戦を交える。弁天台岬の砲台も応戦し、五稜郭防衛戦第1弾である

2021-08-10 19:39:29
シービー @MrCB_Harukaze

開戦は途中休憩を挟み16時まで続いたが決着は着かず、政府軍は箱館湾を離脱する。二股口では激戦が続き、榎本軍は伝習歩兵隊大川正次郎が指揮を執っていた。そこに伝習士官隊1個中隊(滝川充太郎)が到着する。政府軍では長州藩軍艦駒井政五郎が現場指揮を執っていたが、戦死し、稲倉石まで退却。

2021-08-10 19:47:31
シービー @MrCB_Harukaze

山田市之丞は第二次二股口の戦いの間、少し後方の鶉村で待機しており、松陰門下の先輩である駒井の遺骸を見てショックを受けたであろう。25日、弾薬が乏しくなった政府軍はいったん退却し、稲倉石で再起を図る。そして、矢不来を決戦の場として定める。

2021-08-10 19:56:07
シービー @MrCB_Harukaze

第二次二股口は敗戦とまでは言えないが、またも市ぃは攻略することが出来ませんでした。弾薬補給が難しい地ということが理由かも知れませんが、市ぃにとっては鬼門の地でしょうか。

2021-08-10 19:58:36
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.