伊藤之雄『リーダーとしての山県有朋』 一坂太郎『山県有朋の「奇兵隊日記」』 田中彰『高杉晋作と奇兵隊』 より
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シービー @MrCB_Harukaze

ただし、奇兵隊赤禰武人ら数名は招集に応じなかったため、解散令は送付されたという。そのようなとき、10月27日、晋作坊ちゃんが徳地の奇兵隊本営を訪ねてくる。坊ちゃんは萩の自宅にいたが身の危険を感じて萩を脱出し、途中遭難した聞多を見舞っている。

2022-03-14 18:08:41
シービー @MrCB_Harukaze

山県狂介は晋作坊ちゃんと会い、これからの方策を話し合ったと述べている。話し合いは三更(午前零時から二時)まで及んだがまとまらず、晋作坊ちゃんは「ともし火の影はほそく見る今宵かな」と俳句を微吟したという。

2022-03-14 18:08:58
シービー @MrCB_Harukaze

狂介は晋作坊ちゃんに伊藤伝之助(奇兵隊幹部で元松下村塾生)を付け、富海で早船に乗せ、馬関に行かせた。晋作坊ちゃんは馬関で白石正一郎を訪ねた後筑前に潜伏した。このころ奇兵隊総管赤禰武人は帰省しており、長い間不在であった。

2022-03-14 18:09:35
シービー @MrCB_Harukaze

徳地での晋作坊ちゃんと狂介の会談は『世に棲む日々』では、坊ちゃんが煙管を吸い、狂介が「火がついておりませんが」と言い、坊ちゃんが「火がついていないのは、ぬしのことよ」と言おうとしてやめた、と描かれている。この会談で実際に何が話し合われたのかは、狂介も坊ちゃんも語っていない。

2022-03-14 18:17:35
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年11月1日、山県狂介は宮市(防府市)を訪れていた。そこで、偶然海軍局総督松嶋剛蔵に会った。狂介は宿で久しぶりに天下の事を話そうと誘い、松島も応じた。しかし、後で松島が「山口から急使が来て私を召すというので今から行ってくる」と言う。

2022-03-15 18:22:38
シービー @MrCB_Harukaze

狂介は「もし行ったら、再会の日は無いでしょう」と止めるが、「私が罪を得ると言っても、遠島ぐらいでしょう」と松島は去った。これが狂介と松島の最後の別れになった。その夜、山県狂介が眠りについた後、奇兵隊の世木騎六が「福田侠平が山口から来て、急いで帰陣してくれと懇願している」と伝えた。

2022-03-15 18:22:57
シービー @MrCB_Harukaze

狂介は直ちに徳地に帰ると福田侠平は「奥阿武郡須佐に退き、時期を観て事を挙げるのはどうだろう」と言い、「野村靖之助とも謀り、三条公らにも上陳して決議された」と付け加える。山県狂介は「奥阿武郡は不便でありそこに割拠するのは得策ではない」と別案を示した。

2022-03-15 18:23:11
シービー @MrCB_Harukaze

侠平はその案に賛成し、直ぐに三条公に謁っするために帰っていった。狂介の示した案は、鴻峰大神宮参詣を名目に、諸隊を山口に集結させ割拠するというものであった。

2022-03-15 18:23:32
シービー @MrCB_Harukaze

すぐに福田侠平から手紙が届き、三条公も賛成し、諸隊からも異議はなかった」というものであった。福田侠平はこの頃、山口藩庁や公卿らとの交渉を数多くこなしていて、交渉力が秀れていたと思われる。

2022-03-15 18:23:36
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年11月4日、奇兵隊は徳地から山口に移動した。遊撃隊・八幡隊・御盾隊・膺懲隊も参集し、山口の諸隊は約700人。本陣を永福寺に定め、6日、ここを諸隊会議処と定めた。諸隊は、すでに藩の管理から離れ自分たちで意志決定する体制を築いたと言える。

2022-03-16 18:29:55
シービー @MrCB_Harukaze

11日、萩から毛利上野介が藩主父子の使者として山口に来た。諸隊からは太田市之進と野村靖之助らが応対。上野介は解散を迫るが、太田らは拒否。上野介は一旦萩に戻った。

2022-03-16 18:30:28
シービー @MrCB_Harukaze

山県狂介は宿で太田市之進からこのことを聞いた。狂介は、長府侯(毛利左京亮元周)に藩主敬親との仲介を依頼することとし、諸隊幹部の賛同を得た。11月12日、藩政府は三家老に切腹を命じ、征長軍への恭順の意を強める。諸隊は、湯田温泉に居た五卿を迎えて山口を発ち、17日長府城下に入った。

2022-03-16 18:31:06
シービー @MrCB_Harukaze

長府藩は、五卿を功山寺に、奇兵隊を覚苑寺に迎え入れた。そして諸隊は19日、連盟で毛利元周に上書し、藩主父子を欺いて三家老を切腹させ、防長二州を餌にして和平を図る「俗論党」を非難した上、長府藩が正義を貫いて欲しいと訴えた。

2022-03-16 18:31:21
シービー @MrCB_Harukaze

この頃、萩本藩から椙杜駿河が使者として来て、諸隊に対し五卿の西遷を命じた。諸隊は激高したが、阿月に帰省していた奇兵隊総管赤禰武人もこの頃帰って来ていた。

2022-03-16 18:31:53
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰武人は「国内において両党が争っている場合ではない。私は萩に赴き、十全の処置を施してくる」と自説を披露した。山県狂介はこれを怪しがり、時山直八について行かせている。が、赤禰武人は萩で両党混和の説を説き、ついに俗論党もこれを受け入れ、赤禰に周旋を担当させることとした。

2022-03-16 18:32:09
シービー @MrCB_Harukaze

五卿が山口に居たとき、三条実美は聞多の生家に離れを増築し、そこに居ました。現在は井上公園に「何遠亭」として再建されています。 pic.twitter.com/4QoaGDzGgw

2022-03-16 18:47:19
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シービー @MrCB_Harukaze

元治元年11月25日、晋作坊ちゃんが亡命先の筑前博多から帰藩する。12月8日、赤禰武人は萩から長府に帰って来た。山県狂介は、「赤禰は諸隊総管を集めて正邪混和説を述べたが、諸隊総管はすべて赤禰の論に反抗し、大いに赤禰の心事を疑った」と述べる。

2022-03-17 18:46:48
シービー @MrCB_Harukaze

以前の赤禰の言動を思い出しながら、名望を失ったのは自らが招いたことだ、とも述べている。懐旧記事によるものなので後年の回想であり、正直どこまでが本当かは分からない。そもそもこの頃は、奇兵隊は自重論だったようである。

2022-03-17 18:47:32
シービー @MrCB_Harukaze

やがて、晋作坊ちゃんが長府にやってきて決起を唱えていたが、赤禰武人は取り合わなかったと狂介はいう。坊ちゃんは遊撃隊総督石川小五郎と謀って馬関を奪う作戦を立てた。しかし、狂介は「一同力を合わせて決行すべき」と福田侠平と共に反対したと述べる。

2022-03-17 18:48:03
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんは12月15日、長府を発して馬関に赴いた。16日早朝、新地会所を襲撃し、19日、三田尻海軍局で軍艦を奪った。狂介は反対したことが後ろめたかったのか、この辺りの詳細はあまり語っていない。12月17日、諸隊は晋作坊ちゃんに呼応すべく、三条西季知と四条隆謌の二卿を奉じ萩へと向かう。

2022-03-17 18:48:29
シービー @MrCB_Harukaze

山県狂介は「呉竹の世のうきふしの秋と笠 おもひたつ身ぞうれしかりける」と詠み、月代を剃り、遅れて出発した。不承不承であることを表現したと思われる。狂介はいったん吉田に向かったが、赤禰武人は馬関に向かってしまっていて、「これより後、赤禰の姿を見ることはなかった」と述べている。

2022-03-17 18:49:11
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年12月17日、諸隊は晋作坊ちゃんの決起に呼応すべく、五卿の三条西季知、四条隆謌を奉じて萩に向かった。表向きは五卿の九州移転が決まったため挨拶にということであった。(これに狂介が渋々と遅れて向かったことは以前に書いた)

2022-05-04 17:15:49
シービー @MrCB_Harukaze

萩の藩政府は諸隊の進発に狼狽し、使者を送る。二卿と諸隊が伊佐(美祢市)に着いた頃、萩入りを見合わせるよう告げ、二卿は長府に戻る。慶応元年1月15日、五卿は九州に渡り、2月12日に太宰府に移った。赤禰武人は長州藩の内訌を回避すべく馬関の伊藤俊輔を訪ねて説得するが失敗し、九州に亡命した。

2022-05-04 17:16:19
シービー @MrCB_Harukaze

奇兵隊日記では「赤禰武人脱走」と記されている。赤禰はその後、上方に向かい逮捕され長州藩から断罪される。この頃、萩藩政府は諸隊追討を決めた。粟屋帯刀を先鋒とした藩政府軍は絵堂に陣を構え、本営を明木に置いた。さらに、諸隊には「遊撃隊を馬関に追討に行くので、道を開けるように」と命じた。

2022-05-04 17:16:53
シービー @MrCB_Harukaze

諸隊は「今から萩に陳情しに行く。邪魔をすれば何らかの事変が生じるかもしれない。馬関には北浦道を通行せよ」と応じなかった。両者の間に緊張が走るが、狂介は一計を案じ「諸隊が解散するには時間が必要」と藩政府軍に伝え、藩政府軍は萩に報告すると答える。

2022-05-04 17:17:38
シービー @MrCB_Harukaze

狂介はさらに、諸隊の建白書への返事を1月3日までに貰いたいと要求する。使者はこれにも応じた。しかし、期限の1月3日になっても藩からの返事は来ず、6日になって使者が来たが、その間に諸隊は戦闘準備を整えていた。狂介は使者を引き留め宿泊させ、その日のうちに絵堂を奇襲する部隊を出発させた。

2022-05-04 17:18:08
シービー @MrCB_Harukaze

GWゆっくりしていると、ついつい「ポチっとな」しててしまうことが多い。もうすぐインセンティブもあるし、ま、いっかとする。

2022-05-05 09:45:18
シービー @MrCB_Harukaze

慶応元年1月5日、奇兵隊軍監山県狂介は、河原(現美祢市)の先鋒を訪ね福田侠平と絵堂襲撃の策を練った。また、「討姦撃」を書き広く配らせている。内容は「藩主父子が正義を為されようとしているところを奸吏(俗論党)が萎縮偸安し、四境の敵に媚び」と俗論党を非難し、藩主父子の正義を貫かせる、

2022-05-05 10:18:25
シービー @MrCB_Harukaze

という意気込みが記されている。また、俗論党側に付いた荻野隊に進路を誤っていると忠告の手紙を送った。絵堂急襲の先鋒は奇兵隊幹部天宮慎太郎を斥候司令とし、秋吉台の山路に向かう。この部隊には中村芳之助、田中敏助が戦書を帯同した。

2022-05-05 10:19:06
シービー @MrCB_Harukaze

先鋒が絵堂に到着し、粟屋の政府軍本営に戦書を指し出し、「我等諸隊数回の弁論も既に尽き」「雌雄を決することにした」と述べ、後続の諸隊軍に合流する。銃声と共に兵を進め朝方には敵兵を打ち払い、絵堂を占拠した。だが、残兵掃討で奇兵隊幹部藤村太郎と天宮慎太郎が斃れるという出来事もあった。

2022-05-05 10:20:36
シービー @MrCB_Harukaze

そのうち政府軍の将財満新之丞が数十名を率いてきたが、これを返り討ちにした。長州の内訌「太田・絵堂の戦い」の始まりである。諸隊全軍は伊佐から絵堂に移動したが、守備には向かない地として1月6日に太田(現美祢市)に転陣する。

2022-05-05 10:20:57
シービー @MrCB_Harukaze

諸隊は太田で民衆が諸隊に期待を寄せている姿を見た。1月7日には御盾隊が小郡の勘場(代官所)から銀三十五貫を借用、さらに賛同する代官と提携して山口・舟木・徳地・三田尻・吉田・大島などの長州の行政機能を掌握していった。

2022-05-05 10:21:24
シービー @MrCB_Harukaze

@minato_i_ そのお話しは聞いたことがあります。鉄道系はミステリーだけでなく、いろいろと厳しそうですね。

2022-05-05 16:36:06
シービー @MrCB_Harukaze

慶応元年1月10日朝、藩政府軍が川上口方面から攻撃を行う。その方面の諸隊指揮官は三好軍太郎である。諸隊は地雷を仕掛けておいたが、二個の地雷は不発であったため、諸隊は一時退いた。政府軍は諸隊本営(大田天神)に迫る。奇兵隊軍監山県狂介は、小隊を率いて敵に猛攻撃をかけた。

2022-05-05 17:05:09
シービー @MrCB_Harukaze

午後四時政府軍敗走し、三好は追撃を行う。この戦いは後世「保守と急進の天下分け目の戦闘」と評される。狂介らは「維新の元素」を創ったという自負があった。戦闘の少し前、馬関の晋作坊ちゃんが兵を率いて合流すると知らせてきた。

2022-05-05 17:06:28
シービー @MrCB_Harukaze

坊ちゃんの手紙には「わしとおまへは焼山かづら うらは切れても根はきれぬ」という都々逸が添えられていた。坊ちゃんは馬関から遊撃隊を率いて諸隊と合流する。また、小郡方面に物資調達に行っていた御盾隊も戻ってきて、諸隊は一気に勢力が大きくなる。この後、狂介と晋作坊ちゃんは戦略で対立する。

2022-05-05 17:07:08
シービー @MrCB_Harukaze

大田での勝利の後、奇兵隊軍監山県狂介は山口に入ることを考えていた。大田は絵堂同様守備に適していないという判断である。慶応元年1月17日、杉孫七郎から高杉晋作宛ての手紙が諸隊本営に届く。

2022-05-06 18:13:58
シービー @MrCB_Harukaze

手紙には「清末候(毛利元純)が君意を奉じて(諸隊を説得して萩への進撃を食い止めること)大田に来る」と記されていた。しかし、翌18日になっても来なかった。これを知った晋作坊ちゃんは俗論党の勢いが弱まったと見て「直ちに明木の藩政府軍の本拠を攻撃し、萩に進軍する」という提案を行う

2022-05-06 18:15:18
シービー @MrCB_Harukaze

狂介は「明木までの道は険しく行軍は難しい。山口に退いて陣を固め、三方から萩を攻めるのが良い」と言う。坊ちゃんは主張を曲げない。狂介は御盾隊総督大田市之進(御堀耕助)、奇兵隊軍監福田侠平、八幡隊幹部堀真五郎らに「諸兄がこの案に従うなら私も従おう。そのときは私を先鋒にしてくれ」と言う

2022-05-06 18:16:16
シービー @MrCB_Harukaze

要は、自分が犠牲になり行軍を助ける覚悟という意志を見せて諸隊幹部に翻意を促したと思われる。諸隊幹部は議論が紛糾する。それらを見ていた晋作坊ちゃんは突然、狂介の提案どおり山口への撤退を了承する。19日には山口への移動が始まった。

2022-05-06 18:16:51
シービー @MrCB_Harukaze

この出来事は、諸隊の武力で藩政府軍(俗論党)を破ったという諸隊の自信と声が大きくなり、高杉晋作といえど鶴の一声で指揮できる状況では無くなっていたことを意味する。山口に入った諸隊は再び「諸隊会議所」を設ける。晋作坊ちゃんはこの状態を見て危機感を覚えたか、後に諸隊を抑える策を講じる。

2022-05-06 18:18:56
シービー @MrCB_Harukaze

諸隊が山口に入る少し前、井上聞多は鴻城軍を指揮し、佐々並に陣を敷いていた。萩で俗論党が世子の出馬を促していると聞き、山県狂介の陣に吉富藤兵衛を派遣する。吉富は「世子が出馬したら、井上他は割腹するつもりだ」という伝言を伝える。

2022-05-07 19:31:12
シービー @MrCB_Harukaze

狂介は「世子であれ君公であれ洞春公の霊牌を先に押し立て進む」と答えた。この違いは、大組出身で世子の小姓を努めた聞多と中間出身で直接的に世子と関係のなかった狂介二人の育ちの違いと思われる。晋作坊ちゃんは吉富に「聞多に、朱子学じゃぁ戦は出来んからと能く言ってくれ」と言ったという。

2022-05-07 19:33:22
シービー @MrCB_Harukaze

慶応元年2月1日、柏村数馬・山田宇右衛門が山口に来て、椋梨藤太ら俗論党は退けられ、諸隊の建白も採用するので鎮静するようにとの君命が伝えられた。諸隊は萩城に迫り兵力により改革を実行すべく、奇兵隊は生雲、御盾隊は明木、他各地に兵を配布し萩に進軍する。

2022-05-07 19:33:42
シービー @MrCB_Harukaze

また諸隊は、軍艦癸亥丸を馬関から萩沖に展開し、空砲を発射し威圧行動を行う。余談であるが、この頃狂介の祖母が入水自殺している。この戦いが原因であるかは定かでない。椋梨ら俗論党は石州に脱出を図るが途中捕らえられ処刑される。御盾隊は南明寺、奇兵隊は東光寺、その他諸隊も萩城下に入る。

2022-05-07 19:34:04
シービー @MrCB_Harukaze

2月28日、藩主と世子は山口に移動し、政事堂も山口に戻した。そして、幕府が説明を聞かなければ軍勢を迎えて戦うという方針(武備恭順)が確認される。

2022-05-07 19:34:19
シービー @MrCB_Harukaze

征長軍に備えるべく、御盾隊は三田尻、遊撃隊は高森(岩国市)、膺懲隊は徳地、奇兵隊は馬関、八幡隊は小郡、集義隊は舟木(宇部市)鴻城軍は山口、南園隊は萩に屯営することとした。なお、奇兵隊は4月に吉田に転陣している。ここに長州の内訌は終結する。

2022-05-07 19:34:25
シービー @MrCB_Harukaze

この政権交代後、諸隊の総督は、形式的に藩重臣(一門・寄組)が担うことになった。諸隊の力と発言力が大きくなることを恐れたのであろう。奇兵隊は第四代総督に寄組士山内梅太郎が就く。が、奇兵隊の実権は軍監山県狂介と福田侠平が握っていく。

2022-05-07 19:40:10
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.