伊藤之雄『リーダーとしての山県有朋』 一坂太郎『山県有朋の「奇兵隊日記」』 田中彰『高杉晋作と奇兵隊』 より
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安政5年7月、山県小助(狂介)は藩から京への派遣を命ぜられる。(今後基本的に狂介と呼びます) ざっくり言えば、京における時勢視察(諜報活動)が任務であった。この時、狂介を含めて6名が任命されている。

2022-03-02 18:00:37
シービー @MrCB_Harukaze

伊藤俊輔、杉山松助、伊藤伝之助、岡仙吉、総楽悦之助と狂介である。この時の人選には松陰先生が関わっており、山県狂介と総楽悦之助以外の4人は松下村塾の塾生であった。狂介は友人であった杉山松助が松陰先生に推薦して加えられたと思われる。

2022-03-02 18:00:49
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山県狂介は、京で久坂義助(玄瑞)と知り合う。久坂は狂介に梅田雲浜を紹介した。狂介は雲浜と交遊し、「論理明晰に時勢を論じるのを聞き、感激して元気を奮い起こされた」と回想している。京で志士と交際することで、狂介は明確に尊皇攘夷思想を抱くようになった。

2022-03-02 18:00:59
シービー @MrCB_Harukaze

山県狂介の京都滞在は2か月程度と短いもので、10月には先に派遣されていた中村道太郎と共に帰藩している。久坂は京で、山県狂介に松陰先生の門下生になるよう勧め、紹介状を持たせていた。

2022-03-02 18:01:17
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狂介は帰藩後、松陰先生を尋ねたが、当初先生は「資格無し」と拒絶したと言われる。狂介が強く希望したため先生は「それではともかく遊びに来るが良かろう」(『山県公のおもかげ・追補版』入江寛一)と言い、松下村塾に入門する。

2022-03-02 18:01:22
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山県有朋像、山口菜香亭 山県有朋書「江山豁如」、山県有朋誕生地碑 pic.twitter.com/RWZBKIoUHo

2022-03-02 18:19:56
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安政5年10月、山県狂介は松下村塾に入門したが、11月29日、松陰先生は自宅厳囚、12月5日に野山獄に再獄と決定し、12月26日に野山獄に送られた。なので、入門直後の時期、狂介と松陰先生がどの程度会い、講義が行われたのかは定かではないが、かなり短い時間であっただろうことは想像がつく。

2022-03-03 19:13:23
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しかし、松陰先生は、野山獄で安政6年1月27日に書いた入江杉蔵(九一)宛て書簡で「直八・小助は気」と山県狂介の気迫・気力を評価している。短い期間に狂介を気に入っていたらしい。

2022-03-03 19:13:44
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結局、松陰先生は5月25日、江戸に送られ、10月27日には江戸で斬首された。山県狂介は「愁傷は言葉に表せなかった」と回想している。

2022-03-03 19:14:03
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この頃、長州藩は薩摩藩に対して毎年「国老」からの手紙を送る慣例があった。安政6年7月、山県狂介は、藩からこの手紙の送り役として任命される。

2022-03-03 19:14:14
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表向きは手紙の届け役であったが、裏の任務として薩摩藩の動向を探る役目も持っていた。しかし、狂介は、薩摩藩の他藩士に対する警戒が厳しいことや、方言が聞き取れないこともあり、動向を探ることは出来ずに帰国した。

2022-03-03 19:14:18
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文久元年11月、山県狂介は時山直八と共に藩命により九州諸藩の探索に赴いている。二人は豊後岡藩に着く。勤王家として知られる小河弥右衛門に面会を申し込むが会えなかった。岡藩は二人を警戒し、捕縛しようとしたため逃げた(『懐旧記事』)と狂介は語っている。

2022-03-07 16:44:05
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小田原 山県有朋庭園 古稀庵 pic.twitter.com/GDzb2jSgOd

2022-03-03 19:20:27
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この頃は、薩摩藩といい岡藩といい、狂介は手柄を挙げることはできなかったが、立て続けに藩庁から探索を命ぜられるほどに名声は上がっていたと思われる。12月、山県ら元塾生は「一燈銭申合書」を作成した。1日2枚分の写本をし、それらを販売し、尊攘運動の費用に当てようというものである。

2022-03-07 16:44:19
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「一燈銭申合書」は久坂玄瑞が起草し、高杉晋作、佐世八十朗、伊藤俊輔、前田孫右衛門、桂小五郎ら元塾生・藩要路を含めた24人が名を連ねていた。山県狂介も賛同していたが、この頃は藩からよく仕事を頂いていたので、写本をする時間がなかなか取れなかったらしい。

2022-03-07 16:44:43
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狂介は写本ができないかわりに、その分を銭で払っている。「一燈銭申合書」は志は高かったが、藩の仕事や攘夷活動で忙しい者が多く、思惑通りの活動はできなかった。12月から2月までで写本を続けるか銭を収めたのは7人であり、そのうちの一人が狂介であった。実直で真面目な性格がうかがえる。

2022-03-07 16:45:29
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文久2年2月、元塾生松浦松洞が山県狂介を訪ねて来た。元塾生が16日に観梅会を催すということであった。しかし、これはある目的を隠した会であった。薩摩藩国父島津久光が3月5日に兵を率いて京に乗り込むとい噂について話すための集会であった。

2022-03-08 18:42:58
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だが、狂介は風邪をひいていて”観梅会"には出席できなかった。その会で尊皇攘夷活動を本格化するため島津久光に京都で合流し行動を起こすということが決まった。2月23日、山県狂介は手元役北条瀬兵衛が江戸に行くことになり、狂介はその随行を命ぜられる。

2022-03-08 18:43:08
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久坂玄瑞はこれを好機と思い「君は東に行き、江戸の同志を募り、京都に相応じるために周旋するのが良かろう」と言う。狂介は「そんなことを独力で行う力など私にはない。私はむしろこの江戸行きを辞退し、君たちと共に上京したい」と伝える。

2022-03-08 18:43:16
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久坂は「是非とも、この任に当たってもらいたい」と言うので、狂介も承諾し、江戸に向かうことになった。しかし、島津久光の行動は、長州藩士が期待していたものではなかった。長州藩は尊攘活動について方向転換を余儀なくされる。

2022-03-08 18:43:27
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そんな中、高杉晋作は江戸藩邸を脱走して京都に入る。3月11日、狂介は晋作坊ちゃんと賀茂神社行幸を拝謁。15日には晋作坊ちゃんは、時勢に感じるところがあると野村和作に髪を剃らせ、入道となり「東行」と号したと狂介は書く。

2022-03-08 18:43:50
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『懐旧記事』ではこのときはじめて高杉晋作の名が登場する。その後、狂介も晋作坊ちゃんも長州に帰り、晋作坊ちゃんは10年の暇乞いをし、松陰先生の生家近くで隠遁生活に入る。

2022-03-08 18:43:56
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年1月18日、山県狂介は士分に取り立てられる。4月16日には上位の詔が下る。久坂義助(玄瑞)をはじめとした元塾生らは、来る5月10日の攘夷決行のため長州藩に帰藩する。狂介は萩の西之浜の24ポンド砲台数門を馬関に移設したいと藩庁に申し出た。

2022-03-09 16:26:16
シービー @MrCB_Harukaze

その際、晋作坊ちゃんと会い、京都の事情を話し、坊ちゃんは急激な変化に驚いたと記している。その後、久坂らは馬関に赴き本陣を光明寺に置き攘夷への準備を始めた。5月10日、オランダ船(実際はアメリカ船で狂介の誤解)への砲撃を始めるが、狂介は「これが我が国攘夷の第一先着である」と述べている

2022-03-09 16:26:44
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だが、その後、アメリカ船ワイオミング艦、フランス船セミラミス艦、タンクレート艦により反撃を受け、癸亥丸・庚申丸・壬戌丸は大破・沈没する。また、フランス兵の上陸により前田砲台は利用不能となる。

2022-03-09 16:27:06
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この頃久坂義助(玄瑞)は「いまや馬関において奉勅攘夷の手始めを行ったうえは、すでに根拠である京都に赴き(略)座してその変を観ている時ではない」と有志を率い6月に馬関を去り京にむかった。

2022-03-09 16:27:11
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馬関での攘夷戦争の敗報を知り、長州藩主父子は激怒し、隠棲していた晋作坊ちゃんを呼び意見を求めた。坊ちゃんは藩正規軍を補佐してゲリラ的に戦う「奇兵隊」の結成を提案した。藩主敬親はこれを採用し、馬関の防御を晋作坊ちゃんに一任する。

2022-03-10 19:11:59
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6月6日、馬関竹崎の商人白石正一郎の屋敷に入り、翌日から奇兵隊の編制に取りかかり、奇兵隊を結成する。高杉晋作はトップの総管(総督)兼政務座役に任じられた。その頃山県狂介は「ロイマチス」(リューマチ)に罹り萩で療養中であった。狂介は「数十日外出もできない状態が続いた」と述べている。

2022-03-10 19:12:31
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この間、京では「八月十八日の政変」が起こり、三条実美ら七卿が長州藩に落ちのび、長州藩も事実上京から追放された。また、8月16日には奇兵隊と先鋒隊の争い(教法寺事件)が起きていて、晋作坊ちゃんは、8月27日政務座役を免じられ、9月15日には奇兵隊総督を免じられる。

2022-03-10 19:12:50
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ただし、晋作坊ちゃんは9月10日には政務座役に再任されており、処罰というよりも晋作坊ちゃんの藩内での地位を高めるための藩による施策と考えられる。また、総督を辞めたがその後奇兵隊との関わりは続いている。

2022-03-10 19:13:35
シービー @MrCB_Harukaze

教法寺事件のころ、奇兵隊と先鋒隊の争いの噂を耳にした山県狂介は、病をおして馬関に赴いたが、すでに奇兵隊士宮城彦輔に割腹の命が下っており顔色を失ったと述べている。狂介は馬関の騒動が収まってから川棚(下関市)の温泉で療養している。

2022-03-10 19:14:13
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教法寺事件の後、藩政府は再び争いが起きるのを恐れたのか、奇兵隊に対して秋穂(本陣万徳院)に移って山口を守備するように命じ、隊は9月6日に移った。晋作坊ちゃんの後任総管には河上弥市と滝弥太郎が任ぜられた。

2022-03-11 19:14:29
シービー @MrCB_Harukaze

奇兵隊はその後、9月25日に三田尻に転陣する。七卿警護を任じられたためである。この頃から『奇兵隊日記』に山県狂介(小助・小輔)の名が散見される。9月21日の『奇兵隊日記』には「山県小輔今四ツ時より、俵山より帰陣の事」とある。

2022-03-11 19:15:02
シービー @MrCB_Harukaze

狂介の奇兵隊入隊の経緯と時期は資料が残っておらず、定かではないが、晋作坊ちゃんと交遊があった縁で奇兵隊と関わっていたと思われる。10月には狂介が晋作坊ちゃんに物品購入の依頼をした事を示す手紙が坊ちゃんから狂介宛てで残っている。

2022-03-11 19:15:40
シービー @MrCB_Harukaze

このことから、京ではじめて会い元松陰先生門下ということもあり、意気投合し親しく付き合ううちに、晋作坊ちゃんからの引き立てで奇兵隊に入隊したと考えられるが、入隊時期については『懐旧記事』に記載が無く不明である。

2022-03-11 19:16:18
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奇兵隊は、12月20日に三田尻から下関に転陣し、そこで12月23日、山県狂介は奇兵隊軍監兼壇ノ浦枝営の司令に任ぜられた。この頃の奇兵隊は、河上弥市が生野事件で隊を脱走したため、10月から赤禰武人が総管に任ぜられて滝弥太郎と二人総管体制であった。

2022-03-11 19:16:35
シービー @MrCB_Harukaze

狂介が軍監になった直ぐの文久4年1月26日以降、『奇兵隊日記』にそれまでの小輔・小助から狂介・狂輔・狂助という名前で登場する。軍監になったことで、より一層尊攘運動に邁進する意気込みを表すために改名したのであろう。もちろん、師の松陰先生と「西海一狂生東行」の影響も大きかったであろう。

2022-03-11 19:17:59
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奇兵隊に三田尻から下関への転陣が下った理由は、生野の変が影響したものと考えられる(田中彰『高杉晋作と奇兵隊』)。生野の変に参加した澤宣嘉を除いた六卿は三田尻から山口に移動させられる。その際は奇兵隊が護衛に当たったが、その後六卿護衛の任は解かれている。そして、下関への転陣命令である

2022-03-12 19:27:03
シービー @MrCB_Harukaze

藩政府は、生野の変での澤卿と河上弥市のように、諸卿と奇兵隊が第二の生野の変を起こすことを恐れたと想像される。文久3年12月18日、奇兵隊は藩庁から下関転陣の命令を受け、20日に出発している。

2022-03-12 19:27:47
シービー @MrCB_Harukaze

文久4年(1864)は2月20日に元治元年と元号が変わった。元治元年2月29日、奇兵隊総管滝弥太郎は藩政府の仕事に転じたため、奇兵隊総管は赤禰武人一人体制となった。

2022-03-12 19:28:36
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奇兵隊の軍監となった山県狂介と新総管赤禰武人は同い年であった。そのためお互いライバル意識があったのではないかと一坂先生は述べる(『山県有朋の奇兵隊日記』)。

2022-03-12 19:28:48
シービー @MrCB_Harukaze

この頃、長州藩内では、来島又兵衛、真木和泉らを中心とした進発論が勢力を増し、京に進撃し、7月19日に「禁門の変」を起こしたが、敗北して長州藩は朝敵となる。それに加え、前年5月の外国艦隊砲撃に対する報復のため四ヵ国連合艦隊が関門海峡に向かっていた。

2022-03-12 19:28:58
シービー @MrCB_Harukaze

山県狂介は「わが軍前田の砲台には前田陣営に兵を出し、壇ノ浦砲台より兵を出して部署を定めた。(略)私は大杓で兵士に酒を飲ませて「軍中だから肴がないが、十八隻の夷艦がよい酒の肴だ」と言った」と述べている。この辺り、「小助の気」と松陰先生が評するとおりの将の器を見せている。

2022-03-12 19:29:14
シービー @MrCB_Harukaze

8月5日、長州藩と四ヵ国連合艦隊は開戦。長州藩は艦船・砲台をほぼ失い、陸戦でも圧倒され、実質2日間で敗戦となった。8月8日に講和会談が行われ、3回の会談を経て講和が成立した。

2022-03-13 17:30:57
シービー @MrCB_Harukaze

講和会談中、、奇兵隊と諸隊は講和会談の邪魔になると藩政府が判断したためか、8月10日、馬関から宮市(防府)に転陣を命じられ、三田尻御茶屋を本陣とした。この後、長州藩では周布政之助らを中心とする正義派から椋梨藤太を中心とする俗論党が政権を握り、朝廷・幕府への恭順路線を進める。

2022-03-13 17:31:21
シービー @MrCB_Harukaze

この状況を見て、奇兵隊・膺懲隊・集義隊・御盾隊は、9月から10月にかけて10回近く藩庁に建白書(幕府軍と戦うべきという主張)と提出している。山県狂介は山口の藩政府の形勢が危急と聞いて「若干の兵を氷上(山口市)に出して保護した」とも述べている。

2022-03-13 17:32:46
シービー @MrCB_Harukaze

さらに「野村靖之助(靖)その他の同志と謀り、両公に拝謁して陳弁し」とも述べている。これは、当時優柔不断だった藩主父子が、諸隊からの矢継ぎ早の建白書に対して、建白を採用すると約束していたため、早く実行してくれと強い口調で迫ったものである(9月19日付け建白書より)。

2022-03-13 17:33:02
シービー @MrCB_Harukaze

山県狂介はもはや決戦しかないとまで訴えた。しかし、9月25日、井上聞多が襲撃され重傷を負い、翌日周布政之助が自刃するに及び、俗論党は勢いを増し、9月下旬には藩政府から正義派はほぼ一掃された。10月4日には藩主敬親は萩に帰還した。

2022-03-13 17:33:26
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年10月20日、奇兵隊は三田尻から徳地に転陣する。山県狂介は「徳地は防州の山間に位置するが国境に兵を出すにも、山口と往来するにも便利だ」とし転陣を決めた。この頃は、俗論党の諸隊への締め付けもあり、藩政府による諸隊のコントロールが難しくなっていたのであろう。

2022-03-14 18:08:02
シービー @MrCB_Harukaze

奇兵隊は本陣を正慶寺に定め、澄月院以下6つの寺を屯所とした。俗論党が主権を握った藩政府は、10月21日、奇兵隊赤禰武人、御盾隊太田市之進ほか荻野隊、膺懲隊、義勇隊、八幡隊、集義隊、真武隊の各総管及び旧遊撃隊飯田竹治郎らを萩の政事堂に招集し、諸隊に解散を命じた。

2022-03-14 18:08:16
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.