奥深く君は隠れぬ いまさらに 生野の山の 名を恨むかな
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シービー @MrCB_Harukaze

宇土の戦いで、川路少将の別動第三旅団が勝利し、さらに佐土原隊の村田正宣を捕虜にし、尋問の末「熊本方面の薩摩軍は1万4千」「鹿児島にて兵を募集中」「熊本城を水攻めにし兵糧攻めをしている」との情報を得る。

2021-09-25 14:22:26
シービー @MrCB_Harukaze

順調に北上を続ける衝背軍の背後から、鹿児島を出発した薩摩軍が進撃していた。別府晋介、辺見十郎太が指揮する9番、10番大隊である。4月6日、八代で政府軍を会戦する。当初薩摩軍が優勢であったが、高島少将の別動第一旅団が薩摩軍の背後を突き、薩摩軍を撤退させる。

2021-09-25 14:28:00
シービー @MrCB_Harukaze

この後数回の戦闘が行われるが、政府軍が勝利し、薩摩軍は神瀬に撤退する。これで、政府軍が熊本城に連絡するルートを阻止するものがなくなり、熊本城救出は時間の問題となる。

2021-09-25 14:30:39
シービー @MrCB_Harukaze

この頃の熊本鎮台は籠城50日近くに及んでいて、食糧・弾丸共に底をつきかけていた。「東京日日新聞」の福地源一郎が従軍記者になっており、「軍人は阿讃は白粥、昼夜の二食は米飯に栗あるいは麦を加え(略)馬を殺して(略)鯉・鮒の類いをとりて」と悲惨な状況を報じている。

2021-09-27 20:08:48
シービー @MrCB_Harukaze

黒田中将参軍は、熊本鎮台の奥少佐率いる「突囲隊」(包囲を突破するための決死隊)と面会し、4月12日を以て一斉攻撃とする意思を固める。攻撃目標を川尻に定め、その途中の御船、甲佐などを攻撃する。4月14日、山田顕義少将の別動第二旅団、黒川道航大佐の別動第四旅団が川尻を占拠する。

2021-09-27 20:18:32
シービー @MrCB_Harukaze

明治10年(1877)4月14日、衝背軍は川尻を占領する。熊本城まで7Kmの距離であり、周囲では一気に進撃するべきという意見が多かったが、山田顕義少将・別動第二旅団司令長官は意見を退け、待機を命じる。黒田中将参軍が15日に上げる狼煙を合図に進撃するという命令を下していたためである。

2021-09-28 19:42:09
シービー @MrCB_Harukaze

ところが別動第二旅団の右翼(緑川上流付近)に布陣していた山川浩中佐率いる5個中隊が熊本城を目指して渡河を開始する。山川は川尻の陥落を知り「是はもう川尻の陥落であるから遅れてはならぬ、早くやれ」と指示した。

2021-09-28 19:53:02
シービー @MrCB_Harukaze

一方、薩摩軍は本営を二本木から木山に移し、西郷隆盛は村田新八らとともに移動を開始する。川尻では桐野利秋の軍が気を吐いていたが衝背軍の勢いに抗えず撤退する。薩摩軍は近辺の軍に対して木山までの撤退を命じた。熊本城を包囲していた薩摩軍もこれに従う。

2021-09-28 19:58:43
シービー @MrCB_Harukaze

熊本鎮台兵は薩摩軍撤退を見て砲弾を浴びせかけるが、敵の奸計(まて、孔明の罠だ?)を警戒し、城からでることはなかった。午後4時、城下に進撃した山川浩大佐の軍が城下の長六橋に敵兵がいないことを確認し、一気に熊本城にたどり着いた。

2021-09-28 20:03:10
シービー @MrCB_Harukaze

当初、鎮台兵は山川の軍を敵兵と誤認し、射撃を加える。山川軍は、ラッパを吹き、旗を振り、味方で在る事をアピールする。鎮台兵は、やっと味方であることを理解し、熊本城は開放された。翌15日、別動第一旅団、続いて山田顕義少将の別動第二旅団、そして黒田中将参軍が城に入城する。

2021-09-28 20:14:22
シービー @MrCB_Harukaze

山田顕義少将は、山川浩大佐の軍令違反を厳しく譴責した。しかし、熊本城開放は嬉しかったらしく漢詩を作り「明治十年四月十一日、決死隊戦士四十名を選抜し、 これを2隊に分けて先陣とし緑川の北に位置する走潟の賊塁に突撃させた。(続く)

2021-09-28 20:19:30
シービー @MrCB_Harukaze

三日間、激戦が続き、十四日になってようやく熊本城と連絡することが出来た。小踊りして喜び、この詩を作った。(「學祖 山田顕義漢詩百選 日本大学」より)と記している。詩は「険難の地を利用した賊軍の守りは堅く東より派遣されて来た官軍は、前進できないままであった。

2021-09-28 20:21:51
シービー @MrCB_Harukaze

しかし 選り抜きの四十名で編成された勇敢なる決死隊は進んで危険を冒し ついに緑川を渡った 賊軍の堡塁は 金石よりも堅固で四十日間も攻撃しつづけてまだ前進できずにいたしかし 四十名の士気高く あたかも暴風の如き勢いで濛々とたちこめる 朝靄の緑川を突破した」とある。

2021-09-28 20:22:15
シービー @MrCB_Harukaze

「明治十年四月十五日・・・電報十餘通到来。山田顕義率し旅団、昨十四日、川尻を攻撃し、賊敗走。山川中佐一中隊を率い、城に至り、始めて連絡を相達せり。依って木留・植木・鳥栖の賊、潰走し、此口の官軍、追撃し、亦、熊本城に連絡を取り、於于此、前後相合す。守城、今日まで五十・・・」

2021-09-28 20:24:00
シービー @MrCB_Harukaze

と桂さんも「木戸孝允日記」に書いている。まぁ、違反は違反で許さんが、解放は解放で嬉しいというところであろう。なお、残念なことに、この吉報の間もなく桂さんは他界するのであるが。

2021-09-28 20:26:53
シービー @MrCB_Harukaze

明治10年(1877)4月16日、山県有朋中将参軍が熊本城に入った。早期の解決を図る山県は、17日、西郷隆盛に対して「自決勧告」の書簡を送る。ただし、西郷の手元に届いたかは不明である。政府軍は軍議で薩摩軍への総攻撃を決定する。

2021-09-29 20:06:23
シービー @MrCB_Harukaze

総攻撃軍は、第一旅団(野津鎮雄少将)、第二旅団(三好重臣少将)、第三旅団(三浦梧楼少将)、第四旅団(曾我祐準少将)、別動第一旅団(高島鞆之助少将)、別動第二旅団(山田顕義少将)、別動第三旅団(川路利良大警視)、別動第四旅団(黒川道軌大佐)、別動第五旅団(大山巌少将)の約三万。

2021-09-29 20:16:27
シービー @MrCB_Harukaze

第一目標は御船の薩摩軍、20日午前6時に攻撃開始。現場指揮は、山田顕義少将。いわゆる「城東大会戦」である。約4時間後の10時には、御船を制圧。圧倒的な戦力の差ゆえである。市ぃは日記に「殺賊無残」と書いている。

2021-09-29 20:26:29
シービー @MrCB_Harukaze

健軍、安田窪の両方面は薩摩軍が健闘していたが、御船陥落で木山からの本営撤退を決定し、他の部隊も撤収したためほぼ一日で会戦は政府軍の大勝利で終結した。ちなみに、なぜ市ぃが現場指揮を執ったのかは、黒田清隆衝背軍参軍が辞表を提出(辞職承認は22日)していたからと思われる。

2021-09-29 20:30:17
シービー @MrCB_Harukaze

この時、山川浩の部隊が緑川を渡った、御船と目と鼻の先に配置された。別動第二旅団本隊は隈庄というそれよりずっと後方に位置している(原口泉「戦況図解西南戦争」)14日の軍令違反に対して市ぃが山川をあわよくば戦死させようとした、なんて与太話もあったりする。これも観光史観の一部かしら・・・

2021-09-29 20:40:28
シービー @MrCB_Harukaze

明治10年(1877)4月22日、黒田清隆中将衝背軍参軍の辞任が承認される。辞職理由は、本職である開拓使の仕事に専念するためと言われる。了介の別動第一旅団~別動第四旅団の指揮権は、山田顕義少将別動第二旅団司令長官が引き継いだ。

2021-10-01 18:07:52
シービー @MrCB_Harukaze

22日、西郷隆盛は村田新八、池上四郎と兵2000を率いて新拠点の人吉に向かう。桐野利秋は、人吉で2年は戦えると考え、その間に土佐などの士族が立ち上がると考えていたようだが、その夢はすぐに消え去る。

2021-10-01 18:13:18
シービー @MrCB_Harukaze

山県有朋参軍は軍議を開き、5月6日に人吉攻撃を決定する。山田顕義少将率いる別動第二旅団、黒川道軌大佐率いる別動第四旅団が主攻撃部隊である。市ぃは人吉に通じる七つの街道を進み、人吉を包囲し叩く作戦を敢行する。そして、6月1日、人吉を制圧、4日には人吉隊280が降伏する。

2021-10-01 18:21:35
シービー @MrCB_Harukaze

西郷隆盛らはその少し前の5月29日に宮崎へと逃れている。以降、日向、大分などで会戦が勃発する。なお、少し前の4月27日には、川村純義参軍が率いる9個中隊が鹿児島を制圧している。政府軍は薩摩の拠点である宮崎を攻撃する。

2021-10-01 18:44:15
シービー @MrCB_Harukaze

宮崎方面においても薩摩軍の抵抗は激しかったが、兵数と食糧、弾薬がほぼつきかけており、政府軍はほとんどの戦場でげ撃破する。山田顕義少将が率いる軍は、小木場・大木場・田代で薩摩軍を破り、宮崎に進出。三好重臣の第二旅団、曾我祐準の第四旅団と合流し、高岡・倉岡・佐土原を占領する。

2021-10-02 18:01:15
シービー @MrCB_Harukaze

8月2日には高鍋を占領。その日、山県有朋参軍から山田顕義に「鬼野原から細島地方を襲撃せしめては如何に」との伝言、市ぃは賛同する。市ぃは伝家の宝刀「衝背作戦」を計画。狂介は「断然是を行うを要す」と賛同。いろいろあるが、こと、戦術に関しては狂介は市ぃを最大限に信頼しているのであろう。

2021-10-02 18:07:25
シービー @MrCB_Harukaze

明治10年(1877)8月16日、俵野において西郷隆盛は解軍令を発し、西郷に従う兵は可愛岳から鹿児島を目指して政府軍の包囲網を突破し、9月1日に鹿児島に入った。その数、500と言われる。これに対して、政府軍は長期戦を取り、包囲網を固めていく。そして、総攻撃の日を9月24日に決定する。

2021-10-02 18:17:15
シービー @MrCB_Harukaze

明治10年(1877)9月24日、日本最後の内戦「西南戦争」が終結する。そして、「用兵の天才」山田市之丞の軍人としての半生も終わる。また、徴兵制による民間人が士族を破ったことで、新しい日本の軍事制度の完成を意味した。山田顕義は司法大輔としての職務に戻ることになる。

2021-10-02 18:23:39
シービー @MrCB_Harukaze

山田顕義は、明治19年(1886)12月に伊藤博文、大山巌らと九州を巡察している。そのとき、西南戦争を思い、漢詩を詠んでいる「憶塁上硝姻昏 弾雨剣光満乾坤 不計残生遇盛世 再来今日弔英魂」(「山田顕義詩書」日本大学大学史編纂課)

2021-10-02 18:36:08
シービー @MrCB_Harukaze

「鹿児島戦場名覧」(日本大学大学史編纂課)。西南戦争に参加した将校の番付表。市ぃは官軍の五番目に列している。 pic.twitter.com/FIi5KKiYD7

2021-10-02 18:38:54
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シービー @MrCB_Harukaze

明治10年(1877)10月4日、山田顕義は東京に凱旋する。その後は、明治11年(1878)11月20日、陸軍中将に昇進、12年(1879)9月10日、参議兼工部卿に就任。明治14年(1881)10月21日、内務卿に就任する。そして、明治16年(1883)司法卿に就任、17年(1884)8月7日、伯爵を授けられ華族に列する。

2021-10-05 18:22:21
シービー @MrCB_Harukaze

明治16年(1883)12月12日、日本初の内閣で初代司法大臣に就任する。西南戦争以降、基本的に軍事には携わらなかったが、明治14年(1881)4月7日、当時海軍卿であった榎本武揚海軍中将が更迭された際、後継に山田顕義の名前が挙がった。が、海軍を牛耳っていた薩摩からの反対で川村純義海軍中将が任じられた

2021-10-05 18:29:12
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シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.