奥深く君は隠れぬ いまさらに 生野の山の 名を恨むかな
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シービー @MrCB_Harukaze

明治6年(1873)10月25日、参議の江藤新平、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎が提出した辞表が受理される。江藤新平は政府を去る。江藤については「御用滞在仰付けられ候」と東京に留まることが求められたが、翌年1月13日、江藤は佐賀に旅立つ。

2021-09-13 18:57:45
シービー @MrCB_Harukaze

もとからその雰囲気はあったが、明治六年政変で西郷隆盛が下野すると士族の反政府気分がいっそう盛り上がった。佐賀も例外ではなかった。当時の佐賀県権令岩村通俊は大隈大蔵卿宛てで、憂国党という士族集団の対策に苦心している、と書簡を送っている。

2021-09-13 19:04:05
シービー @MrCB_Harukaze

江藤新平は、当初鎮撫に努めるつもりであった。が、東京で岩倉右大臣が襲われ(喰違の変)たため、警戒した大久保利通が佐賀県権令岩村通俊を更迭し、実弟岩村高俊を後継に添える。高俊の傲岸な性格は事態を悪化させると反対されたが、大久保は聞かなかった。

2021-09-13 19:14:25
シービー @MrCB_Harukaze

2月1日、一部士族が軍資金入手のため公金を強奪する事件があり、その事件はすぐに東京の内務省に電報で伝えられる。いわゆる「佐賀の乱」の勃発である。2月4日、内務卿大久保利通の内示発令。陸軍省は、陸軍大輔西郷従道、熊本鎮台司令長官谷干城に佐賀士族の鎮圧を命じた。

2021-09-13 19:29:42
シービー @MrCB_Harukaze

進撃の市ぃFINAL 佐賀の乱・西南戦争編を呟きます。佐賀の乱の手持ちの資料が少なく、進行は遅いかも知れません。

2021-09-13 19:31:56
シービー @MrCB_Harukaze

余談ですが、毛利敏彦先生によると、佐賀士族による小野組官金略奪というのは事実無根とのことである。が、大久保利通は深く調査もせず出兵命令を下している。このあたりは先生の『幕末維新と佐賀藩』を読むと面白い考察がある。

2021-09-14 18:41:00
シービー @MrCB_Harukaze

2月4日の佐賀出兵命令前後は、幕末維新ファンにとっては興味の引く動きが多い。岩村高俊(精一郎)が7日に権令赴任の途に着く。明治6年(1873)12月30日に熊本鎮台勤務となっていた山川浩(大蔵)陸軍少佐は出兵命令を受けて佐賀県庁防衛の任に着いている。

2021-09-14 18:47:33
シービー @MrCB_Harukaze

さらに、なぜ陸軍大輔西郷従道が佐賀出兵の指揮官になったかというと、山県有朋陸軍卿が山田顕義との対立で陸軍省内が騒動になり、それを抑えきれなかったため木戸孝允が見放し、2月8日に陸軍卿を辞任したためである。(そこの市ぃファン、ざまぁw とか言わないように)

2021-09-14 18:53:24
シービー @MrCB_Harukaze

その頃、山田顕義は軍のことはあきらめ司法の道を目指していた。「佐賀の乱」は市ぃにとって人生の突破口になる。2月12日、清国全権公使の任を解かれる。そして、山県が陸軍卿を辞任して東京に残るため、14日に佐賀に向かう大久保利通の軍事顧問として随行することになる。

2021-09-14 18:59:33
シービー @MrCB_Harukaze

明治7年(1874)2月9日、政府は文官である大久保利通に対して、鎮圧のための軍事・刑罰の全権を与える。このとき、大久保は木戸孝允に内務卿代理を依頼する。一方佐賀では、江藤新平は反乱軍とは一線を引いていた。また東京からは説得のため島義勇が三条実美太政大臣の依頼で佐賀に向かう。

2021-09-14 19:09:02
シービー @MrCB_Harukaze

2月10日、権令岩村は赴任途中に熊本鎮台に寄り、司令長官谷干城少将を訪ねる。佐賀への派兵を依頼するが、谷は当初兵力不足で出兵を渋るが政府(大久保利通)の命であるとして強引に押し切る。650の兵を派遣し、岩村はその半分の海路組に同行して15日に県庁(佐賀城)に入る。

2021-09-16 21:26:53
シービー @MrCB_Harukaze

明治7年(1874)2月11日、江藤新平と島義勇は長崎で面会し岩村高俊権令の暴挙を阻止し郷土防衛にあたることで意見を一致した。江藤は12日、佐賀に入り反乱勢力である征韓党や憂国党の首領として擁されることになる。

2021-09-16 21:18:29
シービー @MrCB_Harukaze

当の佐賀県庁は、いきなりの軍隊入城に驚き、東京の内務省に「大騒動なり」と電報で訴えている。この頃までは現地佐賀ではそれほど目立った反乱分子の武力行動はなかったが、岩村のこの行動で俄にきな臭さくなっていく。(小千谷といい、佐賀といい・・・)

2021-09-16 21:32:35
シービー @MrCB_Harukaze

2月15日、権令岩村高俊(精一郎)は、大久保の命どおり?先に兵を動かす。ここにおいて、佐賀士族は生き残るために自衛の戦いを強いられることになる。(仮にそうなることは必然としても、一回ぐらいは講和談判すべきと思うが、そうしないところが岩村の面目躍如である)

2021-09-16 21:36:31
シービー @MrCB_Harukaze

2月14日、大久保利通内務卿兼佐賀鎮圧特命全権委任は、野津鎮雄陸軍少将、山田顕義陸軍少将らと共に東京を発つ。2月15日、岩村権令と鎮台兵が佐賀士族を攻撃するが佐賀士族は城を包囲し砲撃。岩村らの乗船も拿捕される。このときの鎮台兵の指揮官的役目だったのが、山川浩(大蔵)陸軍少佐である。

2021-09-16 21:48:02
シービー @MrCB_Harukaze

佐賀士族は佐賀城(県庁)を攻撃する。約2500という。一方鎮台兵は400弱。政府軍は必死に防戦するが、そもそも兵力が足りないだけでなく、兵糧も充分ではない。(岩村の考えなしで攻撃した結果であるが)山川浩少佐30名ほどで食糧調達のため県庁を出る。

2021-09-17 18:27:16
シービー @MrCB_Harukaze

だが、すぐに敵兵に見つかる。銃撃戦を行うが多勢に無勢で山川は左手に銃弾を浴びる。副官小川亮が何とか県庁まで護衛し戻る。佐賀士族は18日に猛攻撃を仕掛ける。岩村と山川らは県庁を捨て逐語方面に逃げている。この戦いで山川の義弟(妹の婿)小出鉄之助が戦死している。

2021-09-17 18:33:18
シービー @MrCB_Harukaze

山川はこの時の傷が深かったのと妹婿を失い鬱状態になったため谷干城の命で帰京する。江藤新平は2月19日に佐賀城(県庁)に入城する。しかし、同じ19日、大久保利通と野津、山田顕義が率いる約5000の兵が3艦に分乗し、博多に上陸する。市ぃは博多の政府軍本営に入る。

2021-09-17 18:39:41
シービー @MrCB_Harukaze

2月19日、政府が正式に佐賀士族鎮圧の征討令を発する。20日野津鎮雄陸軍少将は佐賀に向けて進撃する。山田顕義陸軍少将は、いったん博多本営の防衛を担う。さらに、政府は島津久光を薩摩に派遣し、西郷は佐賀鎮圧に加担はしないが行動を共にしないという言質を得る。

2021-09-17 18:46:55
シービー @MrCB_Harukaze

後に「萩の乱」を起こす八十朗ですが、江藤新平の「佐賀の乱」に対しては山口権令中野梧一からの要請で県下士族を抑えるため、九州から使者が来たとしても「堅く四疆を守り、賊徒をして寸歩を越さざらしめんと欲す」と防長士族の一致団結を呼びかける檄文を発している。この頃は八十朗も判断力大丈夫

2021-09-17 19:01:19
シービー @MrCB_Harukaze

佐賀士族も一枚岩ではなく、2月21日、前山精一郎(元大総督府応援参謀。仙台で幽閉されていた奥羽鎮撫総督九条道孝を救出。この功で佐賀藩士としては最高の賞典禄450石が与えられた)が中立党を組織して政府軍に合流。江藤新平、島義勇率いる征韓党、憂国党と戦った。

2021-09-18 15:04:04
シービー @MrCB_Harukaze

反乱軍は、2月18日に権令岩村高俊、山川浩少佐の率いる熊本鎮台兵と交戦し、将兵332名中137名を戦死させ敗走させた。22日、政府軍は野津少将を福岡との県境にある要衝「朝日山」に向かわせる。反乱軍は田尻種博と井上考継を先鋒として向かわせ、政府軍部隊を迎撃する。

2021-09-18 15:20:15
シービー @MrCB_Harukaze

さらに反乱軍は、福岡の政府軍本営に対し、三瀬峠に参謀長を務める朝倉尚武を配し、山田顕義少将の率いる軍に対抗させ、山田少将の命で進軍してきた小笠原義従の部隊等を散々に破っている。また、朝日山方面でも政府軍は当初大苦戦を強いられている。

2021-09-18 15:24:45
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、大久保利通が近衛兵や鎮台兵などを次々と戦線に投入する。佐賀軍も反撃したがすぐに弾薬が枯渇し、敗走を重ねる。山田顕義少将が担当する三瀬峠方面も、朝倉尚武軍に苦戦を強いられる。当初、その方面には小笠原義従の一中隊のみしか兵がいなかった。山田少将は中隊全軍で三瀬峠に出撃させる。

2021-09-18 15:40:56
シービー @MrCB_Harukaze

2月24日、貫族隊六個小隊を出撃させるが反撃を受け後退した。その後、26日、27日と攻撃を行い、三瀬峠を占拠する。朝倉直竹は佐賀軍一の用兵家とされ寄せ手の山田顕義に「ここの佐賀兵を指揮しているのは、おそらく朝倉尚武に違いない」と言わしめたとされるほどの戦上手であった。

2021-09-18 15:44:39
シービー @MrCB_Harukaze

緒戦の敗報に驚いた明治政府は、山田顕義に対して「佐賀県賊徒益々凶暴ヲ呈シ、終ニ官兵ニ抗シニ付キ(略)猶此上奮励速カニ平定ノ功を奉スベキ旨、御沙汰候事」と沙汰書を発している。特別な沙汰書を発するほど明治政府は山田顕義を頼りにしていた証拠である。

2021-09-18 15:54:51
シービー @MrCB_Harukaze

当初市ぃは軍事顧問の立場であり、谷干城熊本鎮台司令官を初めとした錚々たる軍人が集結していたため、言動を控えていたがこの沙汰書を拝命し、福岡で現地士族を調達した召募隊を率いて、得意の衝背作戦で迎撃した。

2021-09-18 16:00:26
シービー @MrCB_Harukaze

2月23日、江藤新平が直接指揮した田手川(吉野ヶ里遺跡付近)の戦いに敗北。江藤新平は、これ以上は犠牲者を増やすのみと言い、征韓党の解散を宣言。夜に鹿児島の西郷隆盛を頼って、漁船で佐賀を脱出した。

2021-09-18 16:03:47
シービー @MrCB_Harukaze

江藤新平が佐賀士族に対して解散を宣言したが、反乱軍はそれからも抗戦を続ける。政府軍が佐賀城に入城できたのは2月28日であった。江藤は3月1日、鹿児島の宇奈木温泉で西郷と会談し、再挙への協力を求めた。しかし、西郷は応じなかった。江藤は、東京に戻り三条実美、岩倉具視に真意を伝えたいと思う

2021-09-19 15:29:48
シービー @MrCB_Harukaze

江藤新平は、東京に戻るため土佐の同志の協力を求めることにする。そして、四国に逃亡する。が、政府は江藤の行方を厳重に追求しており、各県に手配書が廻されていた。(このときの手配が日本初の全国指名手配と言われている)

2021-09-19 15:36:17
シービー @MrCB_Harukaze

人相書には「年齢41歳、丈高く肉肥えたる方、顔面長く頬骨高き方、眉濃く長き方」など身体の特徴を記載されていた。江藤は日向から四国宇和島に渡り、さらに高知に潜行する。その後山道で阿波に向かうが3月28日土佐と阿波の国境で逮捕される。

2021-09-19 15:41:23
シービー @MrCB_Harukaze

江藤新平は、東京において裁判での申し開きを求めたが、大久保利通は、4月7日、自身の臨時全権が及ぶ佐賀への護送を命じる。佐賀では8日、9日に権大判事河野敏鎌審理による裁判が開かれたが形式的なものであった。

2021-09-19 15:48:37
シービー @MrCB_Harukaze

4月13日「其の方義(略)除族の上、きゅう首申しつける」との極刑が下され、島義勇他11名も同罪とされ、即日斬首される。この頃のしきたりでは政府高官の死刑は天皇の裁可が必要であったが、大久保利通内務卿の権限で行われた。いわゆる「私刑」と言って良い。

2021-09-19 15:56:54
シービー @MrCB_Harukaze

この判決について、福沢諭吉は「公然裁判もなく(略)政府の体裁に於いて大なる欠典と云うべし」と痛烈に非難している。江藤新平は刑に及んで「唯皇天后土の我が心を知るあるのみ」と三度高唱し、刑に服したという。享年41。

2021-09-19 16:01:39
シービー @MrCB_Harukaze

余談ですが、江藤、八十朗、西郷らはミイラ取りがミイラになって反乱を起こし、さらに、朝廷(明治天皇、三条公、岩倉公等)に話せば分かってくれるという甘い見通しで最期を迎えているように思います。

2021-09-19 16:06:42
シービー @MrCB_Harukaze

山田顕義陸軍少将は、大久保利通内務卿の佐賀の乱鎮圧に軍事顧問として随行するため、2月12日に清国全権大使の任を解かれ(実際には桂さんの助言でいろいろ理由をつけて赴任していない)、明治7年(1874)7月4日、鎮圧の功績もあり、司法大輔に任ぜられる。大久保の信頼が厚かったのであろう。

2021-09-19 16:13:07
シービー @MrCB_Harukaze

明治7年(1874)7月4日、山田顕義は司法大輔に任ぜられる。司法省に入ったと言っても専門知識は皆無に等しいため、市ぃは当時司法省に開設されていた明法寮(法学校)に通う。パリ大学助教授ポアソナードが教鞭を執っていた。市ぃがフランス法の立場を取ったのは、ここでの学びの影響が大きいであろう。

2021-09-20 15:26:26
シービー @MrCB_Harukaze

明治8年(1875)9月、山田顕義は刑法編集を命じられ、その草案作成に取りかかった。この頃、麹町の飯田町に市ぃの新居が完成し、そこに移り住んでいる。市ぃにとって新たな道を進むと共に、プライベートでも落ち着いてきてきた頃に不穏な風が吹き始める。

2021-09-20 15:33:41
シービー @MrCB_Harukaze

佐賀の乱以後、熊本、秋月、萩と士族の反乱が続く。市ぃは軍人として派遣されることはなかったが、政府内では、この次は薩摩であろうという空気が満ちていた。政府は、薩摩の蜂起は明治10年(1877年)2月とふんで準備していた。

2021-09-20 15:41:59
シービー @MrCB_Harukaze

2月15日、西郷暗殺を政府に尋問すると北上を開始する。2月19日、政府は「鹿児島県暴徒征討」の方針を決める。征討総督に有栖川宮熾仁親王、征討参軍に陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義が任じられる。この頃の陸軍兵は約4万であるが、その半分が九州に派兵される。

2021-09-20 15:48:03
シービー @MrCB_Harukaze

陸軍は、少将野津鎮雄を第一旅団司令、少将三好重臣を第二旅団司令、少将三浦梧楼を第三旅団司令に命じた。それぞれ、薩摩軍に包囲された熊本城入城を目指す。政府軍と薩摩軍の間では一大会戦が行われる(乃木希典が連隊旗を奪われたりするのもこの頃)。薩摩軍の動きに各地で蜂起する。

2021-09-20 15:55:27
シービー @MrCB_Harukaze

それらの報告を聞き、山田顕義司法大輔兼陸軍少将は、木戸孝允に面会を求める。市ぃは桂さんに「八代から背後を攻めましょう。私に兵を預けてください」と申し出る。桂さんは「三条公に勧めてみる」と答える。この進言によって別動旅団の編成が決定し、3月18日、市ぃが別動第二旅団長に命じられる。

2021-09-20 15:59:25
シービー @MrCB_Harukaze

「旅団」という軍組織についても山田顕義の影響がある。旅団は西南戦争時に新しく採用された。二個連隊の規模で「少将」が旅団長に任じられることになる。市ぃは3月20日、名古屋鎮台、東京鎮台の兵を率いて神戸を出港。25日に八代に上陸する。

2021-09-21 15:40:27
シービー @MrCB_Harukaze

八代での衛背作戦には、市ぃの別動第二旅団、高島鞆之助大佐(薩摩藩)の別動第一旅団、川路利良少将(薩摩藩)の別動第三旅団が参加している。この頃の熊本城(鎮台)は兵糧も少なく、風前のともしびという状況であった。

2021-09-21 15:47:46
シービー @MrCB_Harukaze

明治10年(1877)3月13日、黒田清隆陸軍中将が征討軍三軍に任ぜられる。事実上の衝背作戦の指揮官となる。山県有朋中将は高島鞆之助大佐に5個中隊を預け、黒田中将の指揮に従うよう命じる。(高島の軍は別動第二旅団と命名されるが、すぐに編成替えがあり、別動第一旅団となる)

2021-09-22 20:53:21
シービー @MrCB_Harukaze

高島の別動第二旅団は3月18日に長崎を出港する。翌日には熊本の日奈久南方洲口に軍艦の艦砲射撃の援助を得て上陸し、八代を占領する。薩摩軍は兵力を熊本城とその北方に集中していた。が、八代が占拠された事を知り、永山弥一郎以下1500の兵を八代方面に送り込む。

2021-09-22 21:00:33
シービー @MrCB_Harukaze

3月25日政府軍と薩摩軍の間で、氷川・砂川地域を挟み激戦が行われる。同日、山田顕義陸軍少将、川路利良陸軍少将兼大警視の率いる軍が八代に到着する。このとき、高島が少将に昇格し「別動第一旅団」、山田の軍が「別動第二旅団」、川路の軍が「別動第三旅団」として編成される。

2021-09-22 21:08:20
シービー @MrCB_Harukaze

3月26日、援軍を得て勢いがついた政府軍は、氷川・佐川の中間地点を奪取、さらに31日松橋を攻撃し、政府軍が勝利する。山田顕義少将は熊本城から僅か12Kmの木原山に登り、狼煙を上げさせ熊本城に援軍到着を知らせた。

2021-09-22 21:13:33
シービー @MrCB_Harukaze

西南戦争従軍時の市ぃ。位置を言わなくても直ぐ分かる存在感。このとき、33歳。 pic.twitter.com/5TmV5IKT2B

2021-09-22 21:18:50
拡大
シービー @MrCB_Harukaze

この頃、自宅で佐賀の乱での傷の療養をしていた山川浩中佐に西南戦争従軍の命が届く。山川は、3月下旬に熊本県日奈久に2個中隊を率いて上陸。山田顕義少将が率いる別動第二旅団に配属されている。松橋を占領した派衝背軍は北上を進め、4月1日には宇土、堅志田を占領する。

2021-09-25 14:17:39
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.