竹本知行『大村益次郎』 木村紀八郞『大村益次郎伝』 山本栄一郎『大村益次郎』 石井孝『戊辰戦争論』 より
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シービー @MrCB_Harukaze

「海軍は、明治14年より毎年軍艦1隻を用意。3年後には海軍の形が整い、5年後には海軍士官が要請される」という。

2022-10-06 19:27:52
シービー @MrCB_Harukaze

そして「皇国の兵制を統一する目処」で「それぞれ5年で成就すれば諸藩は兵制の何たるかを理解し」「一般ごとに朝廷の兵制に倣い、(略)数年後には必ず統一されるはず」なので急いだり行き当たりばったりではいけないという。

2022-10-06 19:28:02
シービー @MrCB_Harukaze

「また、薩長は今勢いがあるからといって薩長に従う必要はない。肥前や土佐の兵が精強だとしても目今の肥土に依拠する必要もない」「永敏の見込みはこれよりほかない」ので御評決を願うのみであると結ぶ。

2022-10-06 19:28:12
シービー @MrCB_Harukaze

「東京へは天下の凄い奴が集まってくる。(略)そうすると何か新しい事をするたびに、何とかかんとか論が起こり、ついにそのことは仕上げぬ中に崩してしまうようなことになる、それではいかん」(船越衛談)蔵六が大久保との抗争に関して語っているのであろう。

2022-10-08 19:19:17
シービー @MrCB_Harukaze

大阪にて軍事拠点や教育を行うという構想にはそれも大きな要因であったであろう。奥羽の方が脅威という意見に対して「大村大輔はこれを見て笑って、奥羽はいま10年や20年頭を上げる気遣いはない。今後注意すべきは西である。と言われた。」(曾我祐準談)

2022-10-08 19:19:54
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は自分の考えを成し遂げるには「東京」は不都合な地と考えたのであろう。蔵六は曾我に「大阪は警備も宜しいし(略)」などの談を残しているが、後付けの理論と思う。自分の構想を邪魔されずに達成する為には東京を離れなければならない、という強い思いがあった。

2022-10-08 19:20:15
シービー @MrCB_Harukaze

この頃の蔵六の構想は蔵六暗殺後に市ぃや船越ら起草『海陸軍建設要綱』に纏められた。「今般大阪において陸海軍練兵所ならびに兵学寮御取立相成りたく候こと。大阪はいわゆる海陸四達の要地にして、皇国の中央に位す。四方の変に応じやすし。ゆえに軍務の根本たる学校等を立。この地をもって最上とす」

2022-10-10 18:30:57
シービー @MrCB_Harukaze

確かに、今後の首都としても、東京では東に偏り過ぎている感はある。「一、兵部省役丁を建設。二、海陸兵学寮を造営するべきこと。三、陸軍の屯所を建設すべきこと。四、銃砲、火薬製造所を置くべきこと、軍医院を設置すべきこと」

2022-10-10 18:31:55
シービー @MrCB_Harukaze

戊辰戦争・箱館戦争のころに軍病院の原型はできていたが、明確に軍政として整備を主張している。この蔵六の源構想を実現するためには、京都大阪方面を実地検分し、それの実現性あり、かつ有用であることを示す必要がある。

2022-10-10 18:32:39
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は明治3年7月19日、巧妙な作戦を繰り出す。父の見舞いのための帰国を願いでる。三条実美の助力もあり、太政官から「兵学校取建扞器械製造御用為取調状況被仰付候事」との命令が下り、帰省と京都大阪検分の二つが許可された。

2022-10-10 18:32:50
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は、明治3年7月27日に東京を出発することになるが、その前に桂さんと頻繁に会っている。木戸日記によると、14日、16日、22日、23日。そして、26日、蔵六出発の前日にも蔵六が訪問していることが分かる書簡が残っている。

2022-10-12 19:51:44
シービー @MrCB_Harukaze

この頃、桂さんは体調を崩して(後に箱根で療養する)いたが、京阪に出発する蔵六の身を案じていた。当時京都府権大参事だった長州藩士槇村正直に「今日には海江田のような表裏ある者が影響力をもっており(略)京都の治安維持に万全を期して欲しい」旨の手紙を送っている。

2022-10-12 19:52:10
シービー @MrCB_Harukaze

海江田信義は明治2年8月、京都軍務官判事となり、新官制改革で刑部大丞兼弾正大忠に任ぜられていた。現在で言えば、京都の検察・裁判所の実力者というところであろう。そもそも、海江田が京都に赴任したのは、蔵六との力争いに敗れて軍人としては将来がないことを大久保が不憫に思っての人事である。

2022-10-12 19:52:45
シービー @MrCB_Harukaze

桂さんが海江田を警戒するのは無理もない。蔵六は京阪には東海道を使わずに中山道を使う。これは、兵部省の気遣いであった。蔵六のように洋式推進者を付け狙う輩を騙すため「東海道を通る」という触れ込みをしておいて中山道に向かわせた。なお、蔵六は船が苦手だったため、船旅は避けたと言われる。

2022-10-12 19:53:45
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六の京阪行き随行者は、兵部省作事(建築のこと)取締吉富作之助、元奇兵隊士篠田武造、若党山田善次朗の3名であった。篠田は護衛役と思われる。蔵六らが出発した後、兵部省権大丞船越衛が岩倉具視に呼び出された。

2022-10-18 18:08:43
シービー @MrCB_Harukaze

岩倉は「至急用がある。行った道は分かっておるか。実は、黒田了介と村田新八が来て、大村益次郎の論には反対であったが考え直して協力する。と言ってきた。大村にこの事を伝えて何事も共にするようにと説け」と言う。

2022-10-18 18:09:37
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、これを受け入れた場合、兵部省大丞(実質事務官のトップ)に薩摩藩出身の二名を据えるということになる。だが、この時点で、大丞には山田市之丞が内定していた。その人事を覆すことになる。船越は早かごを飛ばし、三日後に甲州で蔵六らに追いついた。

2022-10-18 18:10:08
シービー @MrCB_Harukaze

船越が岩倉の伝言を伝えると、蔵六は「そうか。ならば、大丞は山田市之丞を取りやめ品川弥二郎にしよう。長州からは弥二郎、薩摩からは黒田、村田で3名を大丞にと申し上げてくれ」と言う。船越は岩倉の意を汲んでくれたことを喜んだが、なぜ弥二郎なのか不思議に思って聞いた。

2022-10-18 18:10:38
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は「山田の方が軍事をよく知っているが、話し合って物事を決めるには向かない。山田と黒田では論が合わぬ(箱館戦争で立証済み?)。品川と黒田は相性が良い。だから品川に替える」と言った。(船越衛回顧談より)要は、蔵六が考える軍政の確立には薩長の融和が必要であるという政治的判断であろう

2022-10-18 18:11:11
シービー @MrCB_Harukaze

これに対して、桂さんが8月1日に船越に託した蔵六あての手紙で、「この節いかがの事か。ぜひ先生をおとどめ申し候ように。かつ黒田了も軍務ならばご奉公つかまつり候とか、私はいまだ一行分かり申さず」と強く反対した。

2022-10-18 18:11:49
シービー @MrCB_Harukaze

さすが桂さんである。黒幕には大久保利通がおり、長州(蔵六)の手の内を探る企てと見たのであろう。この人事は、蔵六の暗殺事件もあり、いったん沙汰止みとなる。実際、蔵六亡き後に市ぃや船越らが意志を継いで建設した大阪兵学寮の廃止を了介は主張している。

2022-10-18 18:12:08
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六ら一行は、明治3年8月13日に京都に到着した。宿は三条木屋町二番路次の長州藩抱屋敷(長州藩の別邸)。翌日から伏見の練兵場で調練の検閲、京都諸所の兵営を巡回、宇治の火薬庫予定地の踏査などを行っている。

2022-10-19 17:40:17
シービー @MrCB_Harukaze

さらに、大阪に赴き、大阪城内の鎮台、兵学寮、大砲製造所、軍医学校の建設予定地を検分、天保山において海軍根拠地の調査を行っている。この頃、京阪での蔵六の活動を助けたのは、伏見兵学寮権頭原田一道である。原田は、蔵六が蕃書調所時代の同僚であった。

2022-10-19 17:40:30
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は常に原田を連れて道頓堀などで一献傾けていた(原田一道回顧談)。一方で、船越衛には「原田の計画をすべて実行すると金が掛かりすぎる。学んだ生徒が本物になってからでよい」と言ったという(船越衛回顧談)。まさに、軍事は政治・経済の一部分であるという蔵六の理念と思われる。

2022-10-19 17:40:54
シービー @MrCB_Harukaze

その頃、桂さんは病気療養のため8月4日、箱根湯本に移っている。翌日、桂さんは京の蔵六に手紙を送っている。「京都刑法の薩人(海江田信義のこと)、おおいに軍務官の論に反し候事を企て(略)」と京阪の治安と海江田に対する警戒を促している。

2022-10-19 17:41:14
シービー @MrCB_Harukaze

桂さんの手紙に蔵六は8月14日「当京もこの節は至っておだやかにこれあり」と返信している。桂さんの心労を気遣ったのか、実際に警戒心が乏しかったのかは、定かではない。8月25日、長州の妻琴子に「京阪に到着し、9月15日に帰省する」旨の手紙を送っているが、これが実現することはなかった。

2022-10-19 17:42:44
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は積極的な行動を見せる。大阪の調査見分以外にも、京都鴨川東の土地に下士官養成校・河東操練所を建設している。フランス陸軍を手本にした下士官養成機関である。このとき、伝習生の選出は山田顕義が担当している。

2022-10-20 16:13:59
シービー @MrCB_Harukaze

市ぃはこのとき山口に帰省していたが、整武隊、徳山藩兵、報国隊等長州藩兵、岡山藩兵、鳥取藩兵らから100名ほど選手して京都に送った。その中に、寺内正毅、児玉源太郎、乃木希典ら将来の陸軍を背負う人材もいた。そして、この伝習生は脱隊騒動において支援部隊として長州に送られ活躍している、

2022-10-20 16:14:15
シービー @MrCB_Harukaze

京阪では軍制確立に忙しい蔵六であったが、大阪では恩師緒方洪庵夫人・八重を訪ねたりしている。そして、蔵六は大阪での職務を終えて9月3日、京都木屋町の旅宿に戻った。

2022-10-20 16:14:21
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年9月3日、大阪での庶務を終えて京に戻った蔵六は、翌4日兵部省京都庁舎で勤務する。職務を終えて宿に帰ると、静間彦太郎(長州藩)と安達幸之助(加賀藩)が訪ねて来た。三人は宿奥の二階四畳半の部屋で酒席を開いた。その後、暮れ六つ(午後6時)に二人の来客がある。

2022-10-21 17:40:35
シービー @MrCB_Harukaze

来客のうち一人が「萩原俊蔵」という名を告げる。宿若党山田善次朗が取り次ぐ。蔵六は「公用ならば明日役所に、私用ならば明後日に」と返答する。善次朗はそう来客に伝える。そこを何とかと来客がせがむので善次朗が再び蔵六に取り次ごうとしたとき、来客は抜刀して蔵六らの居室に乱入した。

2022-10-21 17:40:58
シービー @MrCB_Harukaze

二人は善次朗を切り、蔵六の頭部に刀を振るう。このとき、蔵六が逃げたため頭部には軽傷であったが、致命傷を負うことはなかった。しかし、それた刀が右膝に深く切り込んだ。これが後に蔵六の致命傷となる。このとき燈火が消え室内は真っ暗となった。

2022-10-21 17:42:14
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六襲撃犯は八人いた。団伸次郎(長州藩)、金輪五郎(久保田藩)、伊藤源助(白河藩)、太田光太郎(長州藩)、宮和田進(吉田藩)、神代直人(長州藩)五十嵐依織(越後国府兵)、関島金一郎(信州出身)である。驚くべきことに長州出身者が3名いた。

2022-10-21 17:42:20
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六に切りつけたのは団伸次郎と金輪五郎である。狭く低い屋根の室内で斬り合いが始まる。蔵六が切りつけられたとき後ろの押し入れにもんどりうって襖と共に打ち倒れ、その勢いで燈火が消え、部屋は真っ暗となった。安達と山田二名が賊と立ち会うことになった。

2022-10-23 19:11:52
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、暗闇で部屋も狭い。安達は二階部屋の窓から飛び降りる。そこに、待ち受けていた神代直人らが切りつける。団も飛び降りて加勢する。安達を切った後、団が大村に間違いないといい、一同は引き上げた。静間も同じような最期を遂げる。

2022-10-23 19:11:57
シービー @MrCB_Harukaze

重傷を負った蔵六は、刺客が河原に飛び降りた後、階段を降りて身を潜めたと言われる。蔵六襲撃のとき京都府権大参事槇村正直は、蔵六の旅籠の近所、3、4件隣りにいた。槇村は大村益次郎を訪ねようと向かっていたとき、鴨川方向から大きな声が聞こえてきた。

2022-10-25 21:06:30
シービー @MrCB_Harukaze

急いで向かうと5,6人が慌てて去って行くのが見えた。河原に行くと死体が2体折り重なっていた。灯りを取りに寓居に向かうと玄関に飛び込んでくるものがいた。宿の吉富音之助である。蔵六が襲われたことを伝える。槇村の下人が人を呼びに行ったと見えて、藩邸から何人か来た。

2022-10-25 21:07:30
シービー @MrCB_Harukaze

すぐに、兵部省京都出張所大丞河田景与、陸軍少将四条隆謌、京都府大参事松田道之らに報せた。また、伏見兵営から1中隊を派遣し蔵六の警護につかせ、京都弾正支団には蔵六の遭難届を出した。

2022-10-25 21:07:52
シービー @MrCB_Harukaze

このあたりは『槇村正直履歴書』に記されているいきさつで、大河『花神』では浴槽に身を潜めていたとなっているが、槇村は「玄関の間に横たわっていた」と回想している。

2022-10-25 21:08:19
シービー @MrCB_Harukaze

最初から玄関にいたのか、浴槽から這い出してきたのかは定かではない。槇村によると「押し入れの中だ」と言ったという。なお、このとき、蔵六は槇村に対して「辞表を出してお入てくれよ」と(警備が甘いことに対する冗談?)言ったという。

2022-10-25 21:09:37
シービー @MrCB_Harukaze

現場の旅籠で蔵六は応急治療を受けた。医師は主に大村達吉が行ったが、新宮涼民、前田松閣らも加わっている。蔵六の傷は、「前額竪疵」「左顳顬竪削疵」「外腕斜疵」「ひじ斜カスリ疵」「右手指節薄疵」「右膝関節斜疵」よ6箇所もあった。

2022-10-26 19:41:41
シービー @MrCB_Harukaze

大村達吉は、9月4日から12日にかけての治療で「格段の御衰弱もこれなく、神経症諸症発動のご様子も御座なく候」と書いている。木屋町の旅籠では治療にも警備にも都合が悪いため、9月7日、河原町の長州藩邸にみがらを移す。

2022-10-26 19:42:27
シービー @MrCB_Harukaze

そこでは見舞客にも対応していたが、右膝関節の傷が化膿して高熱が続き、治療の目処が立たなくなった。蔵六を大きな病院に移す話しが現実味を帯び、9月20日、大阪から大阪府仮病院長緒方惟準(緒方洪庵二男)と大阪府仮病院の蘭医ボードインが来診した。診察の結果、大阪府仮病院に移送することとなる

2022-10-26 19:44:31
シービー @MrCB_Harukaze

昨日のツイートで、蔵六が槇村に「辞表を出しておいてくれよ」と言ったことを槇村に対して言ったと勘違いしました。実は、大村益次郎名義で槇村が辞表を出していました。申し訳ありません。

2022-10-26 19:47:10
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.