竹本知行『大村益次郎』 木村紀八郞『大村益次郎伝』 山本栄一郎『大村益次郎』 石井孝『戊辰戦争論』 より
0
シービー @MrCB_Harukaze

明治元年10月24日、蔵六は軍務官副知事に任じられた。ほぼ軍務事務官としてトップの位置である。これ以後明治の軍政改革は大村益次郎(村田蔵六)を中心に進められることになる。そしてその大仕事を支えたのは、木戸孝允(桂さん)であった。桂さんは東京に来てから蔵六に意見を求めることが多くなる。

2022-09-12 19:53:44
シービー @MrCB_Harukaze

11月6日に三条公の書簡で箱館の件、さらに奥羽民政の処置を大村と談じ、大村と意見が一致したことを日記に記している。明治2年1月17日「蔵六を訪い、要件数条を熟談す」1月22日退朝6時に近し。ただちに大村を訪い、要件数条を論じ、また東北の民政を細論す」とも記している。

2022-09-12 19:54:01
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六との議論の回数と奥羽(東北)の民政についての深い議論が注目される、蔵六は戊辰戦争当時から奥羽を気にかけており、東北諸藩の戦後処理を急ぐべきと桂さんに度々書き送っている。桂さんは蔵六の考えに理解を示しつつも、慎重に処置をしないと将来に禍根を残すと考えていた。

2022-09-12 19:56:27
シービー @MrCB_Harukaze

この頃の桂さんは、ストレスも多く、新橋や深川などで飲み歩くことも多かったというが、それに蔵六がお供をしていたという記録は残っていない。蔵六と桂さんは会津人の救済を積極的に行っている。明治2年2月7日、桂さんは会津藩旧臣に金千両を下付している。

2022-09-13 19:19:53
シービー @MrCB_Harukaze

この事に対して会津藩旧臣小出鉄之助が桂宅を訪問して感謝を伝えている。幸いだったのが、会津藩の降伏者の沙汰は「軍務官」、つまり、蔵六の所属組織が行っていたことである。そして、二人は本格的に善後策を考えることになる。

2022-09-13 19:20:07
シービー @MrCB_Harukaze

北海道への移住促進策である。桂さんは箱館府判事松浦弘に会津人への配慮を求めた書簡を送る。2月16日には蔵六に「会津人は蝦夷地開拓に奮発している。人は活躍できる場所を得ると気持ちを取り戻す。これ以上の上策はない」と手紙を送った。長州藩代表の木戸孝允は、会津人にこの上ない配慮をしていた

2022-09-13 19:21:56
シービー @MrCB_Harukaze

東京遷都後(あえて遷都と言う)、新政府は三条実美を中心に組織される。桂さんは、大監察使依頼村田蔵六(大村益次郎)と三条公が昵懇であるため、岩倉具視に蔵六を軍務のトップとするよう岩倉にプッシュしている。蔵六の軍務官としての急務は、北越・奥羽・箱館の軍役を終えた兵士の処理であった。

2022-09-20 22:49:45
シービー @MrCB_Harukaze

また、それは、明治新政府の軍をどのように健軍するかという問題と表裏一体であった。当時の新政府の健軍には大きく不達の考えあった。一つは、旧諸藩軍を政府が雇用し再編するというもの。二つ目は、新しく全国規模で兵を徴募する(徴兵制)というものである。

2022-09-20 22:50:09
シービー @MrCB_Harukaze

一つ目の説のメリットは費用が抑えられることと基本的に武士が中心であった諸藩兵の技術をそのまま利用できて時間が掛からないということであろう。二つ目の説のメリットは費用と時間は掛かるが四民平等の思想の元に封建制を打破した新国家として新たな軍制を確立できるということである。

2022-09-20 22:51:01
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六と桂さんは二つ目の説を考えていた。一方、新国家成立の原動力薩摩藩の大久保利通参与は、薩摩藩士族による暴動を恐れ、一つ目の説を考えていた。薩摩藩士族の不満は強く、藩主父子も御しきれなくなって、大久保に帰国を懇願、大久保も明治2年1月19日には岩倉公あてて帰国の請願文を出している。

2022-09-20 22:52:33
シービー @MrCB_Harukaze

征韓論は西郷隆盛の代名詞だが、桂さんはもっと前から唱えていた。明治元年12月14日には岩倉具視に建言している。兵力を釜山に派遣し、開港を迫るというものである。真意は朝鮮半島統治ではなく、日本の目を内から外に向けて、さらに陸海軍の諸改革を実行に移し、日本を興起させるというものであった。

2022-09-21 19:51:58
シービー @MrCB_Harukaze

戊辰戦争も終わり新国家として前に進めると思っていたのに、諸藩が割拠して自己の利を追い、国家100年の計がないと。そこで海外に陸海軍の力を発揮することで国内世論を統一したいとの思いであろう。時に、遷都への反対意見が強いことが大きな要因であったようだ。

2022-09-21 19:52:32
シービー @MrCB_Harukaze

そして、村田蔵六は桂さんの征韓論に同意していた。明治2年2月17日、「軍務官へ罷り越し、大村と会津降伏人の一条、その他兵学校の基礎、征韓の大策等を熟談細議す」(『松菊木戸公伝』)とある。

2022-09-21 19:52:46
シービー @MrCB_Harukaze

「初め永敏(蔵六)は公の対韓策をもって、経卒にも無謀としたりしたが、(略)おおいにこれを賛襄し、東京府知事大木喬任もまたこれに同意す。」大木は、2月2日三条と岩倉の二卿に建言、2月17日、蔵六と再度征韓論について熟議、細論したと記す。

2022-09-21 19:52:50
シービー @MrCB_Harukaze

桂さんの征韓論に対して蔵六が本当をどう思っていたのか。蔵六の良き理解者船越衛の回顧談がある。「大村先生は、木戸の朝鮮論には賛成ですが他の朝鮮論にはなぜ不同意か」と問うた。蔵六は「他の朝鮮論は太閤がやったことでよろしくない。」と言う。船越は「木戸の朝鮮論はいかに」と問う。

2022-09-22 19:36:07
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は「それは木戸へ行って聞け。私は言わぬ。が木戸の論なれば同意をするが、西郷などの朝鮮論はどこまでもやらしてはいかぬ」と語った。蔵六と桂さんの関係が把握できるエピソードと言える。船越は桂さんに話しを聞きに行く。

2022-09-22 19:36:30
シービー @MrCB_Harukaze

桂さんの話は、朝鮮を討伐するのが目的ではなく、泰平の世から新国家を作るために国威を示す」という意図だった。要は、征韓論は、新国家の国威を示し、意志を一つにするための方便といったところであろう。船越は、至極納得したという。

2022-09-22 19:37:06
シービー @MrCB_Harukaze

ただし、桂さんは、明治4年から6年にかけて、いわゆる「岩倉使節団」に参加し、征韓論の無謀さに気づいたという。さて、大久保利通は明治2年ごろ任務を終えた旧東征軍を京都に駐屯させる。そして、それを東京に行かせる機会をねらう。

2022-09-22 19:37:32
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、蔵六は2月19日、勝手に国に帰るよう通達する。軍務官副知事という、今で考えれば軍の官僚最高官位の命であり絶対である。これに対して、大久保利通は寝技で対抗する。岩倉具視を動かし、桂さんに書簡を送る。

2022-09-22 19:37:48
シービー @MrCB_Harukaze

旧幕府勢力の榎本武揚らが五稜郭を占領した箱館戦争。市ぃが実質総司令官となり討伐を行うが、それに先立ち明治元年11月から翌年春までは待機をしている。これは、蔵六の戦略によるものである。

2022-09-24 20:42:51
シービー @MrCB_Harukaze

「この冬に向かって寒い土地に行っては、とても仕事がやりにくかろう。厳寒中にこちらから戦をしにいくのは、いかにも不利である。(略)箱館の追討ということは来春になってやるのが得策で、こちらの行動が自由になるまで待たなければならぬ」(『大村益次郎事蹟』)。

2022-09-24 20:43:02
シービー @MrCB_Harukaze

有名な話しに西郷隆盛の出兵がある。西郷は薩摩で支援の兵を集め、5月5日に東京に到着した。「大村先生は、もう兵を出すには及ばぬということであったが、西郷は、是非出して貰いたい、という。しかし、西郷が行ったところが、もう戦は済んでおるというようなことであった。」(軍務官権判事船越衛談)

2022-09-24 20:43:53
シービー @MrCB_Harukaze

西郷が品川を出発したのが5月16日、榎本軍降伏が5月18日、西郷が函館に着いたのが5月25日である。西郷はむなしく6月1日に横浜に戻る。「西郷は不服であるに違いない。国に帰らぬように東京に残せと朝廷と命令があり、東京にすぐ来るようにと手紙を書いた。

2022-09-24 20:44:13
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、大村先生は、西郷は必ずと止まりはせぬ。国へ帰るぜ。と言う。西郷は手紙を見ても、西郷は帰ったと言え、と答えた。大村先生は、それ見い、と言った。」(船越衛談)

2022-09-24 20:44:28
シービー @MrCB_Harukaze

榎本武揚、大鳥圭介らの幹部6名が箱館から東京に護送されたのは6月30日。「榎本を助けるのならば大鳥もやはり助けなければならぬ。どうしても官軍に抵抗して一番強いが、後日のために尽くすならば、大鳥が一番賊の中で役に立つ。どうしても戦はあの人が一番良い」と蔵六は語った(野辺地尚義談)という

2022-09-24 20:44:38
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年6月2日。鳥羽・伏見の戦い以降の戦役に関する軍功行賞が行われた。永世録の第一は西郷隆盛2000石、第二は大村益次郎1500石、板垣退助・伊地知正治1000石、山県狂介・前原一誠600石である。ちなみに、蔵六の1500石は、征討代将軍仁和寺宮と同等である。

2022-09-26 17:59:11
シービー @MrCB_Harukaze

「太成復古の祭にあたり、憤然力を朝廷に尽くし、続いて東下、大総督を輔翼し、軍務励精・画策籌謨違算なし。ついに平定の功を奏し、宸襟を安んじ奉り候段、叡感斜めならず。そこでその賞として、千五百石下下賜候事」(大村益次郎御沙汰書)。

2022-09-26 17:59:21
シービー @MrCB_Harukaze

9月14日には、箱館征討の軍功行賞があり、黒田清隆700石、山田顕義600石などである。さらに文官の行賞が9月26日に行われた。三条実美・岩倉具視5000石、木戸孝允・大久保利通1800石、広沢真臣1800石、後藤象二郎1000石などである。いわゆる、維新三傑の次に蔵六の功績は褒賞されたと言って良い。

2022-09-26 17:59:28
シービー @MrCB_Harukaze

桂さんは、戊辰戦役で戦死した者の招魂場を上野に設ける構想を抱いていた。「前年の彰義隊戦争の兵火に焼かれ、無残な姿をさらしているのを目の当たりにして、この地を清浄して招魂場を建設したいと考えた。」(『木戸孝允日記』)桂さんは明治2年1月17日に村田蔵六に会い、意見を交換する。

2022-09-27 19:12:22
シービー @MrCB_Harukaze

東京遷都後、招魂場建設は新政府内部でも気運が高まった。軍務官知事仁和寺宮は、大村益次郎、船越衛、香川敬三(元東山道軍総督府大軍監、兵部権大丞)に諮問した。上野、江戸見坂(現港区虎ノ門)などが候補地として挙がったが、蔵六は「亡魂の地である。」と反対した。

2022-09-27 19:12:35
シービー @MrCB_Harukaze

「政府においてはいずれの土地でも替えてやろうという。九段の上は元幕府の歩兵調練場で10万坪の地を選定しました」(加茂水穂談)。桂さんは特に反対はしなかったが、東京招魂社建設のため、当時桂さんが住んでいた近くの九段坂町に対して立ち退きの沙汰があり、住民は非常に困った。

2022-09-27 19:12:58
シービー @MrCB_Harukaze

桂さんと蔵六は協議し、立ち退きの件を中止させて住民を安堵させている。6月29日、招魂場が開場され、新政府軍戦死者3588人が合祀された。祭主は仁和寺宮嘉彰親王、副祭主ははじめて直垂を着た蔵六が努めた(加茂水穂談)という。

2022-09-27 19:13:21
シービー @MrCB_Harukaze

桂さんの日記には、7月1日「広沢・大村来訪。大村は招魂場に至る。招魂場において相撲あり」、7月2日「大村来訪、三時後、大村・伊勢と招魂場に至り、角力を一見す」、7月4日「今日招魂場において花火を発す。」とあり、蔵六と一緒に角力見物をしている。

2022-09-27 19:14:10
シービー @MrCB_Harukaze

諸藩の士族兵を御親兵にと主張する大久保利通といわゆる徴兵制を志向する大村益次郎はこの頃(明治2年初期)対立している。大久保は明治2年7月1日、三条実美と岩倉具視宛てに蔵六を更迭させる官員のリストを送り、5日には木戸孝允に軍務官副知事(蔵六)の交代人事について申し入れている。

2022-09-28 19:32:45
シービー @MrCB_Harukaze

当然、桂さんは承諾しなかったが、蔵六も考えるところがあったのだろう、蔵六は辞表を提出する。「益次郎の申し上げる事が行われなければ役を退いて国へ行った方が良い」と言ったという。(船越衛談)

2022-09-28 19:33:04
シービー @MrCB_Harukaze

桂さんの日記にも、7月7日「大村もまた来て、身上のことを談ず。近日の時情より起こること多し」と書かれており、恐らく、辞職して国に帰ることを伝えたと思われる。しかし、蔵六の辞表は政府から却下されている。そんなとき、7月8日、官制大改革が行われる。

2022-09-28 19:33:22
シービー @MrCB_Harukaze

新官制は、神祇官を置き、その下に太政大臣、左右大臣、大納言、参議をおい天皇を補弼させる。行政各部門は、民部・大蔵・宮内・刑部・兵部・外務の六章と大学校(文教)、弾正台(検察・警察)などが置かれた、いわゆる、二官六省である。各省には卿・大輔・少輔・大丞・小丞をおいた。

2022-09-28 19:33:55
シービー @MrCB_Harukaze

この新官制で、三条実美は右大臣、岩倉具視は大納言、副島種臣と前原一誠が参議となる。兵部省は、仁和寺宮嘉彰親王が卿、大村益次郎が大輔となった。卿はほぼお飾りで実質、蔵六が新官制軍政のトップとなったのである。ちなみに、大久保利通、木戸孝允、板垣退助は待詔員学士に任命されている。

2022-09-28 19:35:49
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年7月8日、官制改革で兵部大輔として実質的な政府の軍政トップに立った蔵六に7月10日、桂さんが訪問する。帰宅後、桂さんは蔵六に書簡を送る。

2022-09-29 18:32:11
シービー @MrCB_Harukaze

「世間の様々な俗論が横から入ってついに今日の情勢になったもので(略)上が権力を掌握し、一律の有り様を示し、抵抗するものはことごとく一刀両断にするということをどこまでも行わなければならない」(『木戸孝允文書 三』)と書かれていて、蔵六を励ましたかった様子がうかがえる。

2022-09-29 18:32:39
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、この”俗論”とは、世間一般を指すのか大久保(薩摩?)を指すのかは想像すると面白い。一方で、桂さんは7月10日の日記で三条実美公に建言したことを書いている。やはり、桂さんは新官制になったとはいえ、このような時勢に対して不満があったと思われる。

2022-09-29 18:33:23
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は桂さん宛てで書簡を送っている。「気持ちが大いに奮い立ちました。(略)前原(一誠)参議は出家、山田市之丞は今日辞職して帰国の船に乗りました。(略)あなたの教えに従って、(略)この上ながらお導きのほど。お願い申し上げます。」(『木戸孝允関係文書 二』)。

2022-09-29 18:33:40
シービー @MrCB_Harukaze

刑部大輔の佐々木高行は日記で「大村益次郎云う。御一新は旧習を脱し、公家方を武家の風にいたし、強きにやる様のはずなしにつるに、またまた卿とか大輔とか軟弱に陥りと言う。(自分も)白無垢を着重ね得るなり。戒むべし」と書いている。

2022-09-29 18:34:36
シービー @MrCB_Harukaze

この頃、兵部省の建物は馬場先御門外、旧鳥取藩上屋敷に置かれている。現在の東京駅から目と鼻の距離である、兵部大輔となった蔵六は、この地域の中の官舎に移る。蔵六はこの頃、軍政改革を強硬に進める意志であったようだ。

2022-10-05 17:36:03
シービー @MrCB_Harukaze

陸軍兵式をフランス式にする。おそらく、旧幕府が仏式兵制なので効率的であったこと。旧幕府側通訳が方にいたことから、早急に健軍するために好都合であったと推測される。何事も効率を好む蔵六らしい考えかもしれない。そして、この時重要なのは、軍事の拠点を大阪に置くことを考えたことと考える。

2022-10-05 17:36:14
シービー @MrCB_Harukaze

有名な『4斤砲をたくさんひそかに製造しておけ』曾我祐準談)の根拠であろう、戊辰、箱館で終わったはずの内戦はまだ終わっておらず、その後の火だねは西(萩、佐賀、熊本、薩摩等)から起きると予測していたのであろう。蔵六を戦略家や戦術家として評価されることは多いが、政治家として凄いと思う。

2022-10-05 17:37:03
シービー @MrCB_Harukaze

新官制で兵部大輔となり、桂さんに励まされた蔵六は奮起した。自らの「健軍計画」を文書にまとめて維新三傑(木戸、西郷、大久保)に提出する。蔵六は「自分が新政府に出仕したのは、討幕雄藩(薩長土)の抵抗を排して、統一された新軍隊の兵制を建てるため」という。以下、『朝廷之兵制永敏愚案』

2022-10-06 19:27:07
シービー @MrCB_Harukaze

「皇国の兵制が統一できないのは、薩摩の名兵があり、土佐の名兵があり、長州の名兵があって、これらを廃することができていないために、兵制を統一することができないのである」「朝廷には軍事力がなく無刀である」と頭書から手厳しい。「これが軍務官に応じた理由である」と。

2022-10-06 19:27:23
シービー @MrCB_Harukaze

そして「朝廷軍務の粗目処」として「軍事予算の10分の6で海陸軍を建設し、10分の4で兵器の貯蓄及び積立金とする」要は軍事会計を定めるということである。「軍事予算が定まった時は陸海軍の兵学校を建設」「陸軍は明治3年1月より徴兵。3年後には常備兵の形が整い、5年後には陸軍士官が整う」

2022-10-06 19:27:35
0
まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.