0
シービー @MrCB_Harukaze

「晋作も黒船を見た」 晋作坊ちゃんは、安政元年1月15日に萩を発ち江戸に赴く。坊ちゃんの父小忠太は当時世子轆尉(定広・元徳)の教育係に任じられていた。轆尉は天保10年生まれで坊ちゃんと同い年であった。小忠太は轆尉に息子を接近させようとしていた。

2021-12-26 21:38:34
シービー @MrCB_Harukaze

16歳になった轆尉は将軍家定に拝謁し、毛利家の世子であることを認めてもらうために安政元年に江戸に往くのであるが、その一向に小忠太も警備役として従う。さらに小忠太は願い出て晋作坊ちゃんも一行に加えてもらった。嘉永6年12月14日藩は「又兵衛嫡孫高杉晋作」宛てに許可が出されている。

2021-12-26 21:42:00
シービー @MrCB_Harukaze

まだ小忠太も家を継いでいなかったので又兵衛嫡孫宛になっている。一行は安政元年2月16日、江戸に到着した。再来日中のペリーは幕府と日米和親条約締結を巡り交渉中の頃であった。16歳の晋作坊ちゃんが江戸に来たのはそういう時期であった。時期的に黒船を見たとしても何の不思議もない。

2021-12-26 21:46:39
シービー @MrCB_Harukaze

見なかったとしても、当時の江戸の情勢は晋作坊ちゃんのその後の思想に大きな影響を与えたであろうことは想像に難くない。しかし『世に棲む日々』ではまったく触れられて居らず、萩に居たことになっている。これには理由がある。この史実は近年(平成14年)になって判明したものである。

2021-12-26 21:49:42
シービー @MrCB_Harukaze

『世に棲む日々』は、昭和44年から45年に掛けて連載され、単行本になったのは昭和46年である。当然、司馬遼太郎は知らなかった。なので「描けなかった」。『司馬遼太郎が描かなかった幕末』にあるエピソードにも「描けなかった」ものもある。

2021-12-26 21:52:03
シービー @MrCB_Harukaze

今年も大河ドラマをコンプリートしました。今後も頑張ってライフワークにしていこうと思います。

2021-12-26 21:55:52
シービー @MrCB_Harukaze

「三枚橋の中の橋を渡った」のは本当か 文久2年11月28日、幕府は吉田松陰をはじめとして国事犯刑死者の罪を赦し、礼葬・復権を赦す大赦が発せられる。これは、久坂玄瑞を筆頭に長州藩ぐるみで運動したことが実を結んだものである。

2021-12-27 19:01:35
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生の改葬は、文久3年1月5日小塚原から長州藩下屋敷のあった若林村(現世田谷区松陰神社)に行われている。この時の参加者は、晋作坊ちゃん、俊輔、山尾庸三、白井小助、堀真五郎などである。この時、晋作坊ちゃんの伝説的エピソードがある。

2021-12-27 19:06:35
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生の遺骸を持った晋作坊ちゃんが将軍しか渡れない上野の三枚橋の中の橋(御成橋)を強引に渡ったという。ちなみに、大河『花神』では、坊ちゃん「わけは、家茂にきけ」と大見得を切る名場面である。しかし、このことは当時の史料にはなく、明治30年、大正のころに突然出現する。

2021-12-27 19:12:26
シービー @MrCB_Harukaze

これを司馬遼太郎は『世に棲む日々』に取り入れている。晋作坊ちゃんの快男児ぶりと幕府の弱腰を際立たせるためであろう。いわゆる一坂先生言うところの「武勇伝三点セット」の一つである。ちなみに、三点セットは『防長回天史』全十二冊には、ひとつも出てこない。

2021-12-27 19:16:17
シービー @MrCB_Harukaze

「将軍を野次る」逸話も史料なし 「武勇伝三点セット」の一つ、京都に向かう晋作坊ちゃんかごに乗ったまま箱根の関所を破らせた逸話。『世に棲む日々』では「江戸三百年のたいだに白昼公然と関所を破ったのは、この男だけである」描かれる。しかし、このエピソードも史料には見えない。

2021-12-28 18:24:51
シービー @MrCB_Harukaze

その後、晋作坊ちゃんは京都に入る。同じ頃、将軍徳川家茂も京都に入り、文久3年3月11日、孝明天皇の攘夷祈願の賀茂行幸に随従させられる。その時、晋作坊ちゃんが「いよう。」「征夷大将軍」と声を掛けるように叫んだ。連れの狂介は顔色を失う。征夷大将軍に対してこれほどの無礼を働いた人間はいない

2021-12-28 18:30:07
シービー @MrCB_Harukaze

司馬遼太郎『世に棲む日々』ではそう描写されている。しかし、これについて確かな史料は存在しない。司馬先生はさらに「将軍の従士たちは余程悔しかったのであろう、江戸までこのことを手紙で送ったものが多い」と描く。が、この「手紙」も存在を確認されていない。

2021-12-28 18:33:30
シービー @MrCB_Harukaze

一坂先生は「この辺が司馬遼太郎作品の罪作りなところである」と論評している。つまり、司馬遼太郎作品の『武勇伝三点セット』は少なくとも史料では確認できない「史実」としている。

2021-12-28 18:36:57
シービー @MrCB_Harukaze

では、一坂先生は司馬遼太郎作品を否定していたのか?一坂先生は司馬作品について「驚くほど重要な話しをしていることに気づいた」と述べる。「それやこれやで、幕府は長州を目の敵にしはじめた」と司馬先生は描く。「晋作の理論は久坂と違い、いったん大乱世を現出する以外に革命の道はない」と言う

2021-12-28 18:41:16
シービー @MrCB_Harukaze

幕府と長州藩の対立がなぜ起こったかのかを、晋作坊ちゃんの「スタンドプレー(武勇伝三点セット)」が原因のように描くことで、幕末政治史の流れを生みだした「戦略」にまでなった。と一坂先生は批評する。褒め言葉なのか批判なのかは各自が判断してください。

2021-12-28 18:45:25
シービー @MrCB_Harukaze

「に」か「を」か 『世に棲む日々』では、晋作坊ちゃんと野村望東尼の合作の句を辞世の句(本当は違うけど)として描いている。「面白きなき世”を”」としている。これにはほかの説もあり、「面白きなき世”に”」である。たった一字だが感じる感覚を大きく異なる。

2021-12-29 13:07:43
シービー @MrCB_Harukaze

高杉家の写本『東行遺稿』では”に”であり、古い史料ではほとんど”に”である。”を”は昭和になってから見られるようになる。奈良本辰也先生『高杉晋作』の影響が大きかったのかなと思う。(この本、僕も持っているが、奈良本先生晋作坊ちゃんが好きすぎて、冷静な立場で書いていないでしょ)

2021-12-29 13:12:03
シービー @MrCB_Harukaze

ただ、”を”の方が「そんなつまらない世を変える」という意味が強くなるので、それが好んで使われたのかも。僕としては、晋作坊ちゃんがそんな思いはなく、死に向かっている中で「そんなつまらない世の中を面白く生きた」と回想していると思っているので”に”派である。一坂先生も”に”派でしょう。

2021-12-29 13:16:40
シービー @MrCB_Harukaze

「面白き」の句は晋作坊ちゃんと望東尼の合作であるが実筆が見当たらない。『東行遺稿』(明治初めに出稿)では、丙寅(慶応2年)の作となっていて坊ちゃんが亡くなった前年である。明治・大正期の小説にもこの句は紹介されているが、辞世とは書かれていない。司馬先生の小説から辞世となったようだ。

2021-12-29 13:24:47
シービー @MrCB_Harukaze

「晋作は魔王か悪魔か」 英国通訳官アーネスト・サトウの回顧談では1回目の会談に現れた晋作坊ちゃんについて「魔王のように傲然と構えていた」と記す。司馬先生は以後『世に棲む日々』の中で「魔王」という言葉を多用する。坊ちゃんが敗軍の代表であるのにひるむことなく堂々と対峙したと思わせる。

2022-01-02 00:51:50
シービー @MrCB_Harukaze

その「魔王」は司令官クーパーに「自分たちは負けていない」と主張した。クーパーは賠償金として「三百万ドル」を求める。が、「魔王ら(このあたりの筋では徹底的に晋作坊ちゃんを魔王と司馬先生は描く)は朝廷と幕府の攘夷命令書を持ってきていて」”自分たちに責任はない”と主張した。

2022-01-02 00:56:32
シービー @MrCB_Harukaze

クーパーは「賠償金の件は、幕府に交渉する」と答える。サトーはこの会談後同僚に「あの魔王は、あさってくる頃には態度が柔らかくなっているに違いない」と話す。しかし、これは晋作坊ちゃんを「英雄」として小説内で描くための表現である。

2022-01-02 01:00:09
シービー @MrCB_Harukaze

サトウの回顧録では「使者は足を踏み入れたときは悪魔(ルシフェル)のように傲然としていたのだが、だんだんと態度が和らぎ、すべての提案を何の反対もなく承認してしまった。それには伊藤(俊輔)の影響があったようだ」と書いている。

2022-01-02 01:02:54
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんは「長州藩主は敗北を認めて,友好関係を開くために講和を望んでいる」と述べている。クーパーは藩主の信任状を持ってくるよう伝え、書き方も指南した。どうやらこれで講和が叶うと安心したようだ。国際社会の常識で解決しようとした坊ちゃんの先見性が見える、はひいきしすぎであろうか。

2022-01-02 01:08:56
シービー @MrCB_Harukaze

「彦島租借の謎」 外国艦隊との講和会談はその後2回行われた。二回目は文久元年(1864)8月10に行われるが、晋作坊ちゃんと俊輔はこれには参加していない。藩内の過激攘夷派に命を狙われる危険性があり、舟木(現在の宇部市)に潜伏していたためである。8月14日に三回目が行われた。

2022-01-02 17:44:21
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんは、宍戸備前、毛利出雲、井原主計、山田孫右衛門、山田宇右衛門ら藩首脳、村田蔵六、戸田亀之助、松村甲熊、井上聞多、伊藤博文らを引き連れ再び使者として乗り込む。外国側は藩主の出席を求めたが「蟄居中」と断った。

2022-01-02 17:56:09
シービー @MrCB_Harukaze

その後、外国船が関門海峡を通過することを認めること、砲台を修復しないこと、下関で食料や水、燃料の補給を許すといったことが取り決められる。晋作坊ちゃんのファインプレーがあったかどうかは定かではないが、おそらく俊輔がそのように交渉しと想像する。賠償金もあっさりと幕府に請求となった。

2022-01-02 17:59:38
シービー @MrCB_Harukaze

『世に棲む日々』では、三回目の会談の席でクーパーが彦島の租借を申し入れ、晋作坊ちゃんが『古事記』を延々と演説し、俊輔が通訳に困り、外国側も等々諦めるというシーンが描かれている。大河『花神』の名場面である。しかし、この話は多くの高杉晋作本に登場するが、史料的な根拠は無い。

2022-01-02 18:04:29
シービー @MrCB_Harukaze

当然、英国側の記録にも存在しない。しかし、『世に棲む日々』には気になるエピソードも存在する。俊輔が明治42年(1909)7月、下関から韓国へと海路で向かう際、彦島を見て、側近の者に幕末の思い出として「先方より講和条件の一つとして暫く租借したしと提議したるも終に条件より削除せしめた」と語る

2022-01-02 18:09:59
シービー @MrCB_Harukaze

さらに「彦島は恰も今日の香港と均しく、馬関は九龍と異なるなきに至りしやもいまだ測り知るを知らず」などと語ったという。俊輔が戯れに法螺を拭いたのか、それとも予備会談的なものがあり、そのとき強行に突っぱねたのか、知るよしもないが、晋作坊ちゃんの古事記演説には触れていない。

2022-01-02 18:13:51
シービー @MrCB_Harukaze

「晋作の挙兵、あれこれ」 元治元年(1864)12月15日、晋作坊ちゃんらは下関新地にあった長州藩(萩藩)の「新地会所」を襲撃・占領する。この挙兵を坊ちゃんは後日「義挙」(慶応元年3月5日佐世八十朗あて)「俗論と一戦の節」慶応2年3月13日木戸孝允あて)などと呼んでいる。

2022-01-03 15:38:25
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰武人は母あて「下関新地一暴挙」と記し、後の史書では、中原邦平「馬関の義挙」、村田峰次郎「高杉下関新地の役所を襲撃」と記す。つまり、あくまで馬関(下関)挙兵したと認識されていたと思われる。現在の「新地会所」は石碑があるのみだが、戦前は作閒鴻東が撰文した晋作挙兵の地石碑があった。

2022-01-03 15:45:08
シービー @MrCB_Harukaze

萩藩の領地にある「新地会所」を襲うことで俗論派に宣戦布告したから義挙なのである。だが、戦後、挙兵の位置が「功山寺」に変わってくる。しかし、功山寺は支藩長府藩にあり、江戸時代下関とは別の町であった。晋作坊ちゃんは、新地会所襲撃前に功山寺に立ち寄ったがそれは五卿への挨拶のためである

2022-01-03 15:50:49
シービー @MrCB_Harukaze

だが、その挨拶を記念して大正9年、功山寺門前に「高杉晋作回天義挙」の石碑が建つ。このため、戦後「功山寺決起」「功山寺挙兵」という呼び方ができた。そして、『世に棲む日々』では司馬先生が見出し(第四巻21ページ)で「功山寺挙兵」を用いる。さらに、昭和47年には有名な高杉晋作像が建つ。

2022-01-03 15:57:09
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、観光行政はいろいろとややこしいため、これを元の「馬関(下関)挙兵」に戻すことは難しいであろう、と一坂先生は言う。ただ、梅渓昇『高杉晋作』で「晋作の下関挙兵」としているため、修正途上にあることを感じるとも記している。

2022-01-03 16:02:52
シービー @MrCB_Harukaze

このエピソードは、どちらかと言えば、司馬先生というよりも長府の観光政策による影響が大きいように思いますが、『世に棲む日々』大河『花神』の影響もあったでしょうね。

2022-01-03 16:08:38
シービー @MrCB_Harukaze

功山寺回天義挙の碑、高杉晋作決起の像、下関新地会所跡の碑 pic.twitter.com/dO8uEgBzw6

2022-01-03 16:14:33
拡大
拡大
拡大
シービー @MrCB_Harukaze

「以外に地味だった晋作の役人生活」 文久元年(1861)3月11日、晋作坊ちゃんは同い年の世子毛利定広公の小姓役を命じられる。坊ちゃんにとって初出仕である。さすがエリートである。この頃のことを『世に棲む日々』では13日から勤務を始め、登城して世子とお目見えしたと描かれている。

2022-01-05 19:47:27
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、史実では世子定広公はこの頃江戸に滞在している。しかも、『世に棲む日々』では世子が「晋作、そちはこの世で何が一番好きだ」と問う。坊ちゃんは「女(色町の女のこと)が好きでございます。と答える。世子は「しかし、予はそれらの婦人を見たことがない」とと感想を述べる。

2022-01-05 19:51:24
シービー @MrCB_Harukaze

萩での世子との初お目見えとこのやり取りは司馬先生の創作である。そもそも、晋作坊ちゃんは父小忠太が世子の教育係を務めていた関係で少年の頃から面識があったので初お目見えではない。そして、この頃は萩で作法などを勉強し、江戸に居る世子の元に7月10日に向かっている。

2022-01-05 19:54:26
シービー @MrCB_Harukaze

世子との創作のやり取りを描くことで晋作坊ちゃんのハチャメチャさを印象付けている。が、実際は、この頃の坊ちゃんは『贄御(せつぎょ)日誌』という日記を書いている。その中で坊ちゃんは公務の時以外は、上役や同僚に挨拶状を書いたり、親戚を訪ねたり、法事に出席したり

2022-01-05 20:02:01
シービー @MrCB_Harukaze

墓参りをしたり、明倫館で文武修行をしたり、病で寝込んだ妻の看病をしたり、庭掃除をしたり、など至って平凡な暮らしをしている。淡々と役人修行に励んでいた。いくら将来の希代の志士といえど、年がら年中過激な生活を送っていた訳ではない。

2022-01-05 20:04:31
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、余りにも平凡すぎたのか、『世に棲む日々』ではほとんど触れられて居らず、くだんの創作が為されているのである。ちなみに、一坂先生『高杉晋作の「革命日記』にこの日誌とほかの「東帆録」など6つの日記がが載っているので読んでもらうと坊ちゃんのイメージが変わるのではと思う。

2022-01-05 20:10:28
シービー @MrCB_Harukaze

「消えたヨーロッパ行き」 『世に棲む日々』では、晋作坊ちゃんの上海行きで、周布さんが「日本人がはじめて海外を見るに当たり、よほど眼力の確かな者を」と説明し、坊ちゃんは飛びつき、長井雅楽暗殺の中止を誓う。さすが周布さん、やんちゃ坊主共を丸め込むのがうまい、と思わせるシーンである

2022-01-06 18:23:43
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、この晋作坊ちゃんの上海行きには、裏事情が存在していた。坊ちゃんの『初番手行日誌』では、かねてから海外行きを希望しており、当初はヨーロッパに行く予定であった。幕府が計画したものに晋作坊ちゃんを参加者にできるよう藩ぐるみで運動していた。

2022-01-06 18:26:54
シービー @MrCB_Harukaze

もちろん、長井雅楽暗殺計画とは何の関係もない。そして、坊ちゃんにヨーロッパ行きの内定が文久元年(1861)9月9日に下る。喜んだ坊ちゃんは日誌に「それがしの心中喜悦思うべし」と記している。『英国誌』を読んだり、決意を託した漢詩を読んだりしている。

2022-01-06 18:30:10
シービー @MrCB_Harukaze

ところが、この内定が急遽取りやめになる。長州藩からの内定者は、晋作坊ちゃんの他に杉徳輔(孫七郎)の二人であったが、幕府から長州藩は一人のみと通達があり、藩は杉を選んだ。当然、坊ちゃんは落胆した。そこに、幕府から上海渡航の計画が明らかになった。

2022-01-06 18:33:23
シービー @MrCB_Harukaze

その話しに晋作坊ちゃんが選ばれた。『世に棲む日々』にはそういう裏事情は書かれていない。世子定広公は坊ちゃんに五郎丸袴を与え励ますが、坊ちゃんはあまり乗り気ではなかったという。ヨーロッパと比較すればそういう気分になるのは理解できる。

2022-01-06 18:36:05
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんは父小忠太に相談する。小忠太は「君命である」と説得する。忠と孝には絶対服従の坊ちゃんである。そこでようやく上海行きを決断する。坊ちゃんの日記『遊清五録』の巻頭に記されている。司馬先生は、そういううじうじした坊ちゃんを描きたくなく、意識的に省いたと想像する。

2022-01-06 18:39:18
0
まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.