光る君へ 第一回 貞元2年(977年)公卿補任 (関白・太政大臣 従一位兼通11月8日薨去) 関白 正二位 頼忠 54歳 右大臣 従二位 源正信 58歳 大納言 正三位 兼家 49歳 大納言 従二位 為光 39歳 権大納言 従二位 朝光 27歳 中納言 正三位 源重信 56歳 権中納言 従三位 濟時 37歳
2024-01-13 17:24:43中納言 従三位 文範 69歳 中納言 従三位 源重光 55歳 権中納言 従三位 顕光 34歳 参議 源忠清 源保光 源惟正 為輔 時光 源伊陟 非参議 源博雅 國章 季平 藤原は略
2024-01-13 17:24:44光る君へ 第二回 永観2年(984年)公卿補任 関白太政大臣 従一位 頼忠 61歳 左大臣 正二位 源雅信 65歳 右大臣 正二位 兼家 56歳 大納言 正二位 為光 43歳 大納言 正二位 源重信 63歳 権大納言 従二位 朝光 34歳 権大納言 従二位 濟時 44歳 中納言 正三位 文範 76歳
2024-01-16 21:03:34権中納言 正三位 顕光 41歳 中納言 正三位 源重光 62歳 権中納言 従三位 源保光 61歳 参議 従三位 源忠清 公季 為相 大江斉光 従四位下 佐理 源伊陟 時光 非参議 従三位 國章 道隆 義懐
2024-01-16 21:03:35ソース dl.ndl.go.jp/pid/991099/1/1… 道隆が初掲載だからプロフィール載ってるんだけど、時姫って贈正一位なの!?いや夫も息子もみんな摂政関白で娘は国母で孫は天皇だからそりゃそうか…
2024-01-16 21:03:35光る君へ 第三回 永観2年(984年)四位以下 宣孝 六位 蔵人 道長 19歳 従五位下 右兵衛権佐 道兼 24歳 従五位下 蔵人 平惟仲 41歳 従五位上 肥後守 実資 27歳 従四位下 蔵人頭 左近衛中将 公任 19歳 従四位上 左近衛権中将 讃岐守 斉信 18歳 従五位下 行成 13歳 従五位下
2024-01-27 11:26:30光る君へ 第四回 永観2年(984年) 五節舞の検証 五節舞について、古記録から漏れている年もあるんですが、この年はなんとバッチリ残っている方です。 まあ史実は史実、ドラマはドラマ(念仏)であり、この度も良い勉強の機会を与えていただいたのでシェアしたいという話。 1/10
2024-02-01 23:55:44左大臣家での会話より、「大変なことになった、我が家からも誰か五節の舞姫を出さねばならぬことになった」 小右記に五節舞の献上者の話が出てくるのが10月14日条。左大将(権大納言藤原朝光)・藤宰相(藤原佐理)・景舒朝臣(藤原景舒)の3人です。 2/10 pic.twitter.com/IW3xU5XZf5
2024-02-01 23:55:46つまり肝心の倫子の父、左大臣・源雅信の名前はありません。「書いてないだけでやっていないとは言っていない」理論、かもしれませんが。ちょっと問題が。 3/10
2024-02-01 23:55:47フォロワーさんがご紹介くださったこちらの論文によると、 cir.nii.ac.jp/crid/139029069… ★この時代より前には、舞姫はそのまま後宮に残るパターンが多かったので献上者本人の娘を舞姫にすることが多かった ★やがて、大嘗祭で叙位が受けられる以外メリットがなくなったのでやりたがる人が減った 4/10
2024-02-01 23:55:47★娘を出す殿上人1人と公卿数人の輪番制になった(←イマココ) という経緯があったようで、この公卿数人はその年によって違い、残りの3人を共同でプロデュースした…ということのようです。 5/10
2024-02-01 23:55:48実際小右記11月18日条には「殿上の五節、参入す。景舒の女(むすめ)なり。」とあり、19日条には「三所の五節、参入す。」とあるので、矛盾はないのではないでしょうか。 6/10 pic.twitter.com/l99DkEpl7W
2024-02-01 23:55:49というわけで、そもそも権大納言朝光と藤宰相佐理の娘と思われる茅子さんと肇子さん、さらに倫子さんも別に舞姫やらんでも良かったっぽいし、代打ではなく普通にサロンつながりでまひろにやらせるんでも良かったのではないか… そしたら花山天皇の風聞もなくて良かったのではないか… 7/10
2024-02-01 23:55:50別方向から検証すると、後年1003年に行成31歳と隆家24歳が同時に献上者に指名されてますが、実子に今のまひろのような年齢の娘がいるとは考えにくいので(そもそも記録にもいない)やはり公卿で実の娘を舞姫にする想定はあまりなかったんじゃないですかね? 8/10
2024-02-01 23:55:51ちなみに小右記でのこの豊明節会、大変詳しく書かれており 11月22日条によると ・大変寒くて雪が降り、途中から雨儀(雨シフト)になった ・関白頼忠、途中から具合悪くなって別のところで休んでた(寒さに弱そう…) ・五節の舞の途中で花山天皇は退出した そうです。 9/10
2024-02-01 23:55:51まあ本番は途中で帰ってるんですけど、19日にこっそり控え室に来たらしい(11月19日条、赤マーカー部分)花山天皇のお戯れに「如何であろう、如何であろう」が発動する実資さんであった。 (完) 10/10 pic.twitter.com/OrccVck6G1
2024-02-01 23:55:53光る君へ 第一回〜第四回までの間の古記録小ネタ拾い読み 天元5年(982) 4月から永観2年(984)11月までに実際あった話。今回は小右記のみ。 日付も書いたから実際の記述を知りたい人は古記録データベースで検索するか、現代語訳を買うか借りるかしてね〜! rakusai.nichibun.ac.jp/kokiroku/index…
2024-02-03 12:30:28天元5年(982) 4月9日条 「承香殿女御・尊子二品内親王が叔父の光昭卒去により密かに自ら髪を切る」 宮人が秘匿して本当のことを言わないとか邪気のせいとか額の髪を切っただけだからとかワンチャン無かったことにしたい雰囲気がすごい。後の貴人女性の落飾への解像度が高まる
2024-02-03 12:30:29同4月29日条 「雷雨が止まず、事情を奏上し雷鳴陣を立てた」 平安前期好きフォロワさんの間でも話題になっていたこれ、武官が次々配置につくのがかっこいい。国史大辞典によると中期にはやらなくなっていくらしいので希少な記述かも
2024-02-03 12:30:29同5月8日条 「中宮内裏参入による女官饗禄」 これも後年の小右記ではあんまり見ないかも?女官の構成がめっちゃわかる。追記で台盤所と侍所でも饗宴があったと書いてある
2024-02-03 12:30:30永観2年(984) 1月11日条 「頼忠が大饗しようとしたけどその日は先祖である昭宣公基経の薨日だったわって言ってきた」 頼忠から見たら曽祖父…?基経の影響力すごい!!
2024-02-03 12:30:31同7月27日条 「円融→花山の譲位・立太子日時勘申」 ドラマでも出てきたシーンだけど、実際には晴明と一緒に文道光が2日かけて勘申してる。2日かかったのは最初の日程が忌日だったため審議したりやり直したりしたため。決定した日程は8月27日。
2024-02-03 12:30:33同9月9日条 「新東宮・懐仁に壺切御釼を遣わす&円融院に太上天皇尊号を奏上」 今年の後半に重要になる(かもしれない)太刀だから覚えておいて! 太上天皇は、後日(18日条)辞退されました
2024-02-03 12:30:33同10月1日条 「文夾に挿して返給する道兼に『前例を知らないのか』」 道兼のいいところ探そうと思ったけまだどこんなのしか見つからない(いい所ではない)
2024-02-03 12:30:34同10月6日条 「天皇の御馬御覧に御釼を持って伺候する権中将・公任」 あの花山天皇の脇にあの公任が太刀持って控えてるの見たすぎるじゃないですか!?!?なお実資さん的には『如何なものか』らしい
2024-02-03 12:30:34同10月10日条 「花山天皇即位式」 ・左大臣は最初に宣命の草案を奏上→その後の儀式は名前が出てこない ・右大臣・右近中将道隆は列立 ・行事の進行が隙間なく書かれてて(そりゃそうだ)どこでそんなことできんだよ ・あっほんとだ褰帳二人のうち一人は源明子だ!玉冠脱いだすぐ後に出てくる
2024-02-03 12:30:35同11月2日 「円融院触穢&解除」 そう、やべ触穢ったかもと思ったら河原で解除(げじょ=お祓い)すんですよね… 詮子様に桧扇投げて流血させた後も解除したんですかね
2024-02-03 12:30:36同11月27日条~12月1日条 「賀茂臨時祭の御禊の間、馬を牽くのサボってたので斉信・宣孝・源時叙が超怒られる」 ↑ってなことがあって花山天皇がバチくそ怒ってるんですが、(続く)
2024-02-03 12:30:36斉信と時叙(倫子様の兄弟)については実資が「まだ若いし許してあげて」ととりなして「まあええわ両者の親父にも良く言っとけ」で手打ちになっている。タカさんは「特に誡めて許すように」だけど具体的な処分は載ってない 今回は以上!
2024-02-03 12:30:37