その後、島津斉興が藩主となって参勤の途中に此の地を訪問したときその松が大木になっており、「延齢松」と命名した。薩摩藩士である了介はぜひその松が見たいと桂さんに要望した。桂さんは、長沢池のある鋳銭司が故郷である蔵六に相談した。蔵六は了介のために奔走し、見物をかなえた。
2022-02-04 19:26:14この頃、村田蔵六は、周防国の事件二つに関与している。一つは赤禰武人の事件である。赤禰の処刑後、同郷の白井小助、世良修蔵らが赤禰と関係していたと藩に思われることを恐れた。白井小助は、蔵六に浦家家臣が赤禰とは無関係であることを藩に伝えてほしいと手紙を送っている。
2022-02-04 19:31:42「(白井)小輔より村田蔵六え示談に及び蔵六より政府役人へ談じ候」と『浦靭負日記』に記載がある。続いて、第二奇兵隊の反乱の鎮圧にも関係している。慶応2年4月3日、岩木山駐屯の第二奇兵隊が岩国の農兵と諍いを起こした。第二奇兵隊隊士は、初期楢崎剛十郎を殺害し、約100人が脱走した。
2022-02-04 19:35:59村田蔵六は事件収拾に奔走する。6日に大島に渡り現場指揮官臼井要助、静間彦太郎と対策を協議。当時謹慎中の白井小助を呼び出し、蔵六は雷同者がでないよう、大島の農兵を久賀に集めて説諭している。蔵六は9日まで大島に滞在し山口に帰った。蔵六の機敏な対応により反乱は拡大せず、1か月で鎮圧された
2022-02-04 19:41:18四境戦争で参謀役を担当していた石州口方面の戦いも終わり、村田蔵六は山口に帰参。陸軍の軍備に専念していたが、慶応2年12月12日に海軍用掛も兼務し、12月3日に海軍頭取となった前原彦太郎(一誠)と共に海軍の軍備にも当たることになった。
2022-02-06 21:39:26当時、三田尻の海軍局では米国人の雇い入れなど西洋制への改革を進めていた。八十朗は藩庁に対し、12月24日に村田蔵六を三田尻に来るように求めた。蔵六は翌慶応3年1月6日「明7日には出鴻(藩主の元に出向くこと)委曲伺い定めて10日までには前途の次第申しあぐべく候」と八十朗に手紙を書いている。
2022-02-06 21:45:14蔵六は、1月25日に諸隊の改変を行う。御盾隊と鴻城隊が合併して「整武隊」、八幡隊と集義隊が「鋭武隊」、南園隊と荻野隊が振武隊となった。また陪臣を集めて第6大隊を編成。2月7日には新たに武器を購入し、諸子卒全員に銃を持たせることとなった。
2022-02-06 21:49:10この頃、政局は幕府対薩摩藩の政争の時期となっている。6月16日、島津久光は京薩摩藩邸に山県狂介と品川弥二郎を招き、幕府打倒と王政復古の決意を語り、近々西郷吉之助を長州に派遣して詳細を議することを告げる。
2022-02-06 21:53:54狂介と弥二は6月22日、三田尻に帰り、藩庁に復命した。ところが、7月になっても西郷は長州に現れず、7月15日、薩摩藩士村田新八が長州にやってきて西郷の長州行き中止を告げる。土佐藩士後藤象二郎らにより大政奉還論が説かれ、薩摩藩はこれに乗る方針を取ったためである。
2022-02-06 21:57:547月17日、長州藩は、品川弥二郎と世良修蔵を村田新八に同行させて京に赴かせた。さらに御堀耕助と柏村数馬にも後を追わせる。御堀と柏村は小松帯刀・大久保一蔵・西郷吉之助を会談し、土佐藩の後藤象二郎が藩に帰ってから1か月経つのに音沙汰がないことを聞く。
2022-02-07 20:52:47御堀耕助と柏村数馬は8月24日に帰藩する。9月6日、長洲藩で討幕に関する会議が開かれる。藩内は出兵派と尚早派に分かれて議論が行われる。出兵派は木戸準一郎、山県狂介をはじめとする諸隊、尚早派は村田蔵六、宍戸璣、前原彦太郎らである。
2022-02-07 20:59:53蔵六は「禁門の変、外国船砲撃で失敗しているため万全を期すべき」という主張であった。藩論は自重論に決まったが、この時の発言で「俗論派」「佐幕派」と諸隊から罵られている。ところが、9月19日、薩摩藩士大久保一蔵が山口を訪ね、木戸準一郎、広沢兵助と会談し、出兵が決まる。
2022-02-07 21:05:08薩長の共同出兵は、9月下旬に三田尻に薩摩兵が到着するはずであった。が、10月になっても来ない。薩摩藩でも慎重論派がいて藩論がまとまらなかったと言われる。三田尻に集結する長州諸隊は「単独出兵」を主張する。藩は会議を重ね「失機改図(機会を逃したための計画変更)と、単独出兵は退けられた
2022-02-07 21:11:28ところが、10月3日、京で将軍徳川慶喜が「大政奉還」と行う。その報を聞いた諸隊は、なんと集団脱藩を行い出兵する動きを見せる。首謀者は山県狂介であった。狂介は藩政府に「この上は諸隊を率いて脱走し、兵を上国に出すの決心あるのみ」と意見し、奇兵隊屯所のある吉田に戻り脱走計画を進める。
2022-02-07 21:15:54当然、村田蔵六は止めに入り、事態鎮静化を図る。が、そうこうしているうちに藩論が出兵と決まり、10月28日に藩主敬親が上阪出兵を告示する。だが、この諸隊集団脱走計画で藩・桂さんに警戒されたのか、この出兵には参加できず、兵は山田市之丞が総司令官として率いることになった。
2022-02-07 21:22:03村田蔵六は持論の尚早論から出兵に決まったことで、軍政専任用所役から用所助役に降格させられた。(まぁ、実質責任や権限等は変わっていなかったと思うけど)後に蔵六は、「一体ああいう勢いになると、十露盤も何も要るもんじゃない。実に自分は俗論家であった」と述べている。
2022-02-07 21:27:15慶応4年1月9日、鳥羽伏見の戦いの開戦の報は京に居た桂太郎がもたらした。桂は山口に戻り、その際朝廷の御沙汰書を携えていた。御沙汰書には藩主父子のどちらかが上阪して大阪城を攻めるようにとの命があった。
2022-02-08 17:29:37長州藩では会議を開き、世子毛利広封が諸隊を率い、1月22日に山口を出発して進軍する事を決定する。その先鋒兵が1月17日に出発することも決定した。大村益次郎(村田蔵六)は、1月14日に世子の随行を命じられると共に、17日には用所本役軍務専任に任ぜられ、長州藩の軍事最高責任者に昇る。
2022-02-08 17:35:31しかし、大阪城攻めに出発する前に大阪城落城の報が届く。進軍の目的を大阪城防衛に変更し、予定どおり1月22日出発と決定する。毛利広封の部隊は22日に干城隊を率いて山口を発ち、2月3日に大阪、7日京都に到着した。大村益次郎は2月22日、朝廷から軍防事務局加勢に任ぜられ、新政府の臣となった。(完)
2022-02-08 17:42:08