木村紀八郞『大村益次郎』 山本栄一郎『幕末維新の仕事師「村田蔵六」大村益次郎』 より
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シービー @MrCB_Harukaze

文久3年(1863)9月20日、村田蔵六は帰藩命令により、妻琴と共に江戸を立つ。萩には11月ごろに着いたようだ。しかし、この頃萩藩は政庁を萩から山口に移転していたため、蔵六は山口(宮の村永久市熊方に仮寓)に住むことになる。

2022-01-24 16:46:55
シービー @MrCB_Harukaze

以後、蔵六は「御手当方御用掛」「撫育方用掛」「三田尻宰判砲台築造場見合」「兵学校教授役」「小郡附近砲台築造用地巡検」「装条銃打方陣法当規則取調」「鉄噴御用取調方」などを任命される(覚えられない・・・)

2022-01-24 16:53:18
シービー @MrCB_Harukaze

「兵学校教授役」は、文久3年11月26日に山口講習堂が山口明倫館と改称され、さらに山口兵学校に改称される。その教授役を賜った。また、この頃山口でも私塾を開いている。場所が普門寺なので、少しややこしいが、こちらは私塾である。幕府・宇和島・鳩居堂からの収入がなくなった変わりであろう。

2022-01-24 16:58:47
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年には「八月十八日の政変」翌年には「禁門の変」があり、長州藩は京から追われ朝敵となった。さらに、米英仏蘭四ヵ国が報復のため馬関に襲来するという噂が入る。蔵六は外国と開戦するのは無謀と主張したが、容れられなかった。蔵六は、このため、一時鋳銭司に帰省を余儀なくされた。

2022-01-24 17:05:19
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しかし、その謹慎期間はごく短かった。8月5日~7日の3日間で長州藩は惨敗し、講和をする。その第三回交渉に蔵六は通訳の一人として、馬関出張を命じられた。「村田と高杉氏、洋酒の栓を引く抜くや、高杉氏驚愕する甚だしく」と、シャンパンの栓を抜いたとき晋作坊ちゃんが仰天した話しも伝わる。

2022-01-24 17:11:21
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普門寺(三兵塾)、山口明倫館(兵学校)跡 pic.twitter.com/YWxT4ww9Dm

2022-01-24 17:19:28
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元治元年8月29日、村田蔵六は、政務座役事務扱を任命され、軍事専任となった。兵学校教授は兼任であったようだが、俗論党の勢力が増すに伴い、藩主父子は萩に帰還し、後には山口明倫館も廃校になる。11月8日にはすべての役目を免じられるが、12月9日、博習堂用掛赤間関応接係を命じられる。

2022-01-26 20:50:33
シービー @MrCB_Harukaze

実は、村田蔵六は、外国との講和後に一時期外人応接掛を引き受けている。8月から10月ごろと考えられるが、蔵六はこの役を大変嫌い、「接待役は、伊藤春輔と松村甲熊の二人に仰せつけください」と藩に手紙を書いている。

2022-01-26 20:55:56
シービー @MrCB_Harukaze

11月に役を免じられたときは、一時期鋳銭司に引きこもっていたようだが、萩の新政権(俗論党)から馬関応接掛を任じられたことは、萩藩にとって無くてはならない人材だったことがうかがえる。蔵六は12月13日に萩に登城し、22日に馬関へ向かい準備を済ませ、本格的にいは翌1月3日から勤務をはじめた。

2022-01-26 21:00:17
シービー @MrCB_Harukaze

この時期、慌てての蔵六起用は、どうやら米人商人ドレークの来関への対応が目的と思われる。ドレークの要件は「壬戌丸」の売却の勧めであった。「壬戌丸」は文久2年に横浜で購入した鉄張蒸気艦であったが、外国艦隊との戦闘で撃沈され、修理がほどこされたが、軍艦としては使い物にならなかった。

2022-01-26 21:06:40
シービー @MrCB_Harukaze

ドレークは「壬戌丸」を上海での売却を持ちかけてきた。12月には晋作坊ちゃんが下関で決起、正義派が政権を執る。「村田蔵六をして上海に赴き、敗残の壬戌丸を外国人に売却せしむ」(『修訂防長回天史』)「壬戌丸夷人へ売却のため今日より当地出帆。上海辺りまで罷り越し候事」(『奇兵隊日記』2月9日

2022-01-26 21:15:41
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大村益次郎誕生の地碑、大村神社、大村益次郎の墓、花神の碑 pic.twitter.com/8gWgSFm1zV

2022-01-26 21:19:20
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壬戌丸の売却は秘密裏に行われたため、藩の正式記録はほとんど残っていない。蔵六の覚書と書簡では「乗組員59人、石炭代金642両、上海帰路は外国船利用で船賃321両、上海では米人カールの仲介で米人ドレーキーに壬戌丸を売却(代金不明3年賦)、帰着は西ノ浦(防府)」

2022-01-27 17:25:03
シービー @MrCB_Harukaze

また、馬関応接掛からの書簡として、米人ドレーキーとカールの両人が下関に来て蒸気船を売り込みに来たが、蔵六が出向いて不採用とした、と残っている。だが、一方で蔵六は上海に密航していないという説もある。

2022-01-27 17:29:51
シービー @MrCB_Harukaze

2月9日乗船のはずが、2月10日に佐甲本陣で対馬に向かう丙辰丸艦長山田熊之助あて「60両渡すので佐甲まで来て欲しい」と書簡が残る。12日、壬戌丸乗組員長岡備前が佐甲の蔵六に書簡を書いている。13日に日当の事を記していて、どうやら、2月9日ではなく2月13日出航とも考えられる。

2022-01-27 17:34:33
シービー @MrCB_Harukaze

さらに、1月29日から2月20日までの蔵六の金銭出納帳が残っている。「鴻城軍に3500両」「対馬様一建219両」「諸隊用に99両」等と書かれている。小郡庄屋林勇蔵の日記に「2月27日、村田蔵六様秋本藤作方お泊まり」とある。これらにより、蔵六上海未密航説がある(山本栄一郎『大村益次郎』より)

2022-01-27 17:41:38
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六の良き理解者である桂小五郎は、禁門の変後行方不明となっていた。対馬藩士大島友之充の伝手で京を脱出し、丹波出石の小商人広戸甚助・直蔵兄弟に匿われていた。この頃、桂さんの隠れ場所を知っていたのは、村田蔵六、伊藤俊輔、野村靖之助の三名と言われる。

2022-01-27 17:46:42
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんは潜伏先の讃岐から「桂小の居所は丹波にて御座候や、但馬にて御座候や」と桂への恋文のような手紙を蔵六に送り、桂さんの居場所を聞いている。村田蔵六は「村田亀蔵」という変名で桂小五郎(竹林次郎)に慶応元年2月7日に手紙を送って「正俗両党戦争に相成」と藩情勢を伝えている。

2022-01-27 17:54:43
シービー @MrCB_Harukaze

桂小五郎は、村田蔵六の手紙などから長州の情勢を探らせるために広戸甚助を下関に派遣した。「長藩士伊藤俊輔、村田蔵六相謀り、出石の人広戸甚助をして対馬に赴かせ、公の夫人松子を伴いて但馬に帰り」(『松菊木戸公伝』)桂さんは4月8日に出石を発ち、26日に下関に着いた。

2022-01-28 19:48:54
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六は、桂さんが一時身を置いた下関桶屋久兵衛宅をいち早く訪ねている。慎重な桂さんは藩が自分をどう扱うかどうか不安で、蔵六を代弁者として藩に使いを出す。「伊藤俊輔、村田蔵六二人は小五郎の帰宅したるを探知し、ひそかにこれをその寓に訪うた」(『前原一誠伝』)

2022-01-28 19:54:36
シービー @MrCB_Harukaze

桂さんは、いち早く、九州に亡命中であった井上聞多と晋作坊ちゃんを招致するため、俊輔を介して手紙を送る。5月4日、村田蔵六は山口に赴き、桂さんの建言「防長二州一和及び民政・軍制の整理」を藩政府に伝えた。藩政府は桂さんの帰国を歓迎した。

2022-01-28 19:58:45
シービー @MrCB_Harukaze

藩参政山田宇右衛門は「なにとぞ早々山口まで御帰り成りくだされ候よう(略)当今の形勢にては、御掛懸念御座なく候」と桂さんに手紙を送っている。5月7日、藩主敬親公は、時山直八を下関に使わし、桂さんに山口への帰還を求めた

2022-01-28 20:05:28
シービー @MrCB_Harukaze

桂さんは5月13日、山口に帰還した。翌日藩主に謁見し、意見を具申する。晋作坊ちゃんと聞多は、5月20日ごろ下関に帰って来た。5月27日、政事堂用掛兼国政方用談役(内政と外交両方の責任者)を命ぜられ、さらに6月24日、用談役に昇り、萩藩の実質的な指導者となった。

2022-01-28 20:09:48
シービー @MrCB_Harukaze

日テレ『奇兵隊』「回天の章」⑥~桂の帰還と来たるべき日への備え 晋作坊ちゃんと桂さんの感動の再会シーン(4:16あたりから) 坊ちゃん「お留守の間、やれることはやっておきました」 名場面です。 youtube.com/watch?v=IKjMic…

2022-01-28 20:44:44
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桂さんが藩主敬親公や藩要路に具申した意見の一つは「軍備特に兵器の充実と農商兵の整備が緊要で、軍備の充実のため財政は拙速を旨とし、早急な軍事体制を確立することが必要」という要旨であった。

2022-01-29 18:13:22
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聞多は「桂を中心に、高杉晋作、伊藤俊輔、井上聞多、村田蔵六らで謀った。尊皇開国の政治意識を持ち(略)究極には従来の幕府の独裁勢力権力を長州の方針で妥当し。王政を回復し、速やかに全国を統一し、近代化を図らねばならない」と述べている(『世外井上公伝』より)

2022-01-29 18:17:03
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六は、逆上る3月13日に兵学校御用掛兼御手当御用掛を命じられていたが、桂さん復帰後の5月27日に軍制専務用所役を命じられ、萩藩の兵制改革の責任者となる。前日に用談役に就任した桂さんの推薦である。以前からもそうであるが、桂さんと蔵六の強い信頼関係が理解できる。

2022-01-29 18:20:58
シービー @MrCB_Harukaze

さらに、閏5月6日、村田蔵六は大組御譜代に任ぜられ100石を給される。その前は10石で一気に10倍の収入となる。軍制改革について蔵六は「農民町人から募集して兵役に就かせる。その給与は藩が負担する。さらに兵式訓練を施す。これを急務とする」であった。すでに征長軍の準備は進んでいた。

2022-01-29 18:27:53
シービー @MrCB_Harukaze

5月22日、萩藩は、「農商兵の定員は1600人、年齢は16歳から35歳まで。毎年人別米1俵を支給」と定めた。訓練は兵学校に委ねられた。蔵六はさらに家臣団の再編成に着手する。中核の大組を解体し、干城隊と160石以上1050石以下の藩士に禄高に応じて人数を出させ、銃隊(第4、5隊)を編成する。

2022-01-29 18:34:45
シービー @MrCB_Harukaze

また、禄高1000石以上の一門・寄組等の陪臣を銃卒2個大隊(南・北大隊)に、足軽をすべて装条銃隊3個大隊(第1,2,3大隊)を編成した。これにより、萩藩の兵力は、干城隊および7個大隊、奇兵隊・御盾隊など1500人の諸隊、1600人の農商兵隊、徳山・長府・清末支藩の諸隊で長州藩軍として再編された

2022-01-29 18:41:55
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六の兵制改革の第二は、装条銃を中心とした装備の近代化である。すでに3月下旬に柳井謙蔵を長崎に派遣し、プロシア領事経由で800挺購入していた。さらに1000挺購入のため青木郡平を長崎に派遣したが、グラバー商会から取引を拒否される。

2022-01-30 18:54:59
シービー @MrCB_Harukaze

桂さんがグラバーに手紙を書く。幕府から長州藩との取引停止通達があったと回答があり、桂さんは井上聞多と伊藤俊輔を長崎に送り込む。聞多と俊輔は、それぞれ薩摩藩士山田親助・吉村莊藏と変名し、7月21日に薩摩藩邸に匿われる。これは閏5月5日に坂本龍馬が下関に来た折に薩摩の名義貸し約束による。

2022-01-30 19:04:20
シービー @MrCB_Harukaze

聞多と俊輔はトーマス・グラバーと会い、薩摩藩名義でミニエー銃4300挺とゲベール銃3000挺を購入、薩摩藩の胡蝶丸と海門丸で8月下旬三田尻に送る。二人はさらに独断で蒸気船購入を進める。(軍艦を買うときは藩の許可を得ず買うのが長州藩流らしい)これが蔵六をピンチに追い込む。

2022-01-30 19:12:28
シービー @MrCB_Harukaze

実はこの頃、三田尻の海軍局が蒸気船購入を訴えていたが予算不足を理由に却下されていた。ところが、海軍局を飛び越えて「素人の桂・井上・伊藤の三人が秘密裏に購入しようとしているが許されることなのか」と青木郡平がリーク。海軍局は怒り、蔵六に問い合わせる。

2022-01-30 19:15:41
シービー @MrCB_Harukaze

二人の蒸気船購入は、藩庁、桂さん、村田蔵六も事情が分からず、蔵六は「欠陥のある船を購入せねば良いが」と発言をしてしまう。これに勢いを得た海軍局は、藩政府に猛抗議する。実はあの後、藩政府と桂さんは蒸気船購入を追認していたため、大慌てとなる。

2022-01-30 19:19:45
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は先の発言で「船購入反対派」の旗頭(反桂さん)のような立場となり、「聞春(聞多・春輔)に私怨の覚えなく、海軍局にも私恩もなく」と桂さんに弁明の手紙を書いている。桂さんは「青木郡平の一条いかにも不穏。(略)海軍俗論(反対のこと)も根本は郡平より起こし」と蔵六に手紙を送る。

2022-01-30 19:25:09
シービー @MrCB_Harukaze

すったもんだの末、春輔が中心となりグラバー所有の蒸気船ユニオン号(乙丑丸)を購入し、下関に送り海軍局の点検を受けて引き渡した。おそらく桂さんの大説得があったであろうし、たとえどのような形でも蒸気船が手に入ることは吉事と海軍局も考えたのかもしれない。

2022-01-30 19:28:45
シービー @MrCB_Harukaze

ちなみに、長州藩は翌慶応2年に装甲艦丙寅丸も購入しており、これらの兵器・軍艦購入に92400両を使っている。しかし、このうち藩の一般会計からは15000両しか支出されておらず、残りは「撫育金」で賄われている。

2022-01-30 19:31:24
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六の兵制改革の第三は、洋式戦術の徹底と士官養成である。蔵六が普門塾や山口明倫館兵学校で戦術のテキストとしたのは、オランダの戦術書を自身で翻訳した『兵家須知戦闘術門』であった。この本は旧来の三兵戦術を新しい視点で書き直したものである。

2022-01-31 18:32:21
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六の非凡さは、西洋式の戦術をそのまま使用するのではなく、日本の風土に合わせた戦術を考えた点にある。ヨーロッパは平原の多い地であるが、日本は平地が少なく山地や隘路が多い。道路も少なく田地も多い。そのため、その風土に合うようにアレンジする必要があった。

2022-01-31 18:36:03
シービー @MrCB_Harukaze

日本の地形では、騎兵はその機動性を充分には発揮できず、偵察に重きを置く。砲兵も機敏に動く歩兵に随伴して展開することは難しいため、重要な局面で投入する。歩兵は、基本的に密集せず散開して戦う。といった戦術を蔵六は考え出した。

2022-01-31 18:41:27
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、その戦術を的確に展開するには、地形や敵情に臨機応変に応じたものにしなければならず、それを指揮できる現場士官を大量にかつ速成に養成しなければならないという課題があった。そのため、農商兵に限らず各隊の士官候補生は、すべて兵学校で教育する方針を取った。

2022-01-31 18:44:36
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は、まず、身分の上下にかかわらず士官候補生は兵学校に入学させた。そこでは「騎兵」「歩兵」「砲兵」塾の3コースを設置(これが三兵塾のいわれである)。歩兵・砲兵は定員がないが、騎兵は27名とし、主に斥候学を学ばせた。

2022-01-31 18:49:35
シービー @MrCB_Harukaze

兵学校の授業は三期に分け、第一期は70日で主に銃・砲の操作を学ぶ。試験で振り分け合格者は第二期に進む。二期は50日、小隊・砲隊の指揮実習を学ぶ。第三期では用兵学を学ぶ。6月24日には「三兵学科塾」が創設され、基礎が出来た者を入学させ、さらに高度な教育を行った。

2022-01-31 18:54:24
シービー @MrCB_Harukaze

この新戦術・士官教育は、四境戦争で存分な戦果を勝ち取る元となった。このように長州藩の兵制改革を推し進める蔵六は、12月12日、藩命により大村益次郎と改名する。氏は藤原、諱は永敏である。ちなみにその前の9月29日、桂さんも木戸貫治に改めている。

2022-01-31 19:00:12
シービー @MrCB_Harukaze

よく、大組士になったから大村益次郎と改名したと書かれることは多いが、昇進と改名は時期が離れている。改名の理由は例の壬戌丸の売却で幕府が蔵六の捜索を厳しくしたため藩が心配して改名させたのが本当である。桂さんと晋作坊ちゃんの改名(谷潜蔵)も同じような理由である。

2022-01-31 19:07:28
シービー @MrCB_Harukaze

慶応2年1月22日(諸説あり)いわゆる薩長同盟が結ばれる。村田蔵六(既に大村益次郎に改名しているが旧名呼称で続けます)が成立を知り中岡慎太郎に手紙を送ったと言われているが、「昨日薩の西郷氏より一書到着」などあり得ないことも書かれており、後年の偽書説もある(山本栄一郎『大村益次郎』)

2022-02-04 19:18:06
シービー @MrCB_Harukaze

ただし、村田蔵六は黒田了介とは面識があったようだ。了介は薩長同盟締結後桂さんと一緒に帰路につき、途中長州に立ち寄っている。目的は長沢池湖畔にある「延齢松」を見物することである。この松は島津斉興が寛政9年に江戸に向かう途中長沢池湖畔で休憩したおりこの松を植えたという伝えがあった。

2022-02-04 19:23:07
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.