父の恩人、水越主基さんの本の続編(上巻)。主基さんの農業への想いが綴られている後書きを抜粋しました。
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遠田大亮 @DaisukeEnta

【終わりに】 戦後農村社会は「無い無い」づくしで始まった。農具、肥料、牛馬など、すべての物が無いか不足している中で、戦い終わって帰還した兵士や、戦争に行かねばならぬ死を覚悟した若者が溢れていた。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基 pic.twitter.com/IiZLvQUjlW

2024-03-06 10:12:09
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遠田大亮 @DaisukeEnta

まとまった仕事が無かった時代、農業がそれらの人々を何とか吸収し食べるだけの時代であった。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-06 10:13:48
遠田大亮 @DaisukeEnta

移動手段は歩きで、作業着も腰が隠れるほどの木綿の筒袖の袷、「ずんば」といったものを着て帯をし、下には「ももひき」又は「もんぺ」といって股の所が分かれ、時々油断しているとゆるんだ「ふんどし」が下がり易く「あれあれ竜巻が下がった」と笑った。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-06 10:14:44
遠田大亮 @DaisukeEnta

又、重労働や汚い作業から衣服を守るために、厚いズックの一枚の布の真中に穴を開けそこから首を出し前後に垂らし、腰を紐で結ぶ「馬車めんだり(前掛け)」などしていた。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-06 10:15:14
遠田大亮 @DaisukeEnta

寒さや日焼けを防ぐために手ぬぐいの「ほがぶり (頬被り)」も定番で、汗拭き手ふきなど、ここ一番の時はねじり鉢巻、不要の時は腰に下げて農作業の必需品であった。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-06 10:15:58
遠田大亮 @DaisukeEnta

女性の「はんこたんな」は眼だけ出して日焼け汗止め、上着は絣の「半じゅばん」手には「こで」という手の甲を被う布を着け、足は「半まっか」という袴に脚絆で、後にゴム の手袋や長靴が出て来たが素足であった。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-06 10:16:24
遠田大亮 @DaisukeEnta

すべてが人力畜力のエネルギー、激しい重労働の日々、一本の手でも一本の足でも欲しかった。私が結婚したのは、昭和二十六年二十三才、今でも半分は忙しい時の「猫の手」 のように家内の手と足を貰ったのではなかったかと複雑である。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基 pic.twitter.com/vsQAzvv9nE

2024-03-07 08:04:00
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遠田大亮 @DaisukeEnta

それでも苦しみながら米作りを支えてきたのは、現代の様に自由に仕事を選べる時代でもなく、食うため生きるた め、その時代に生れた者にとって、時代から抜け出す事が出来ず、世間並みについて行くのが精一杯で半分諦め、せめてもの救いは米の値段が年々上向いて来た事であった。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-07 08:04:40
遠田大亮 @DaisukeEnta

正月、肥えひき 俵あみから始まった仕事は、電灯もないストーブもない、昭和二十年代の終わりに耕運機が入り、親達は出費に頭を痛めただろうが、我々若者は田起しも代掻きも出来て、馬も必要も無くなり、良い時代が来たと喜んだ。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-07 08:05:15
遠田大亮 @DaisukeEnta

昭和三十年代に入ると、それまで移動したり物の運搬は自転車・荷馬車・荷車・リヤカ ーであったが車時代に入った。私が運転免許証を取ったのは昭和三十三年で、最初に購入したのは棒ハンドルの三輪車で、足で踏みエンジンを始動するもので、すぐにキーエンジ ンに変り、三輪車でも丸ハンドルになり、当時としては時代の先端をいっていた。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-07 08:06:31
遠田大亮 @DaisukeEnta

昭和三十九年には四輪車の免許をとり、四輪トラック・自家用乗用車の時代に入って来たのである。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-07 08:07:35
遠田大亮 @DaisukeEnta

育苗技術も改善され、水苗代から折衷そして畑苗代と変わり、冷たい水に入らなくて済 むようになり、次に機械田植えにより箱育苗に代わりハウス内での育首で、水利の便があれば楽になって、現在では箱の種まきは流れ作業になっている。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-07 08:08:07
遠田大亮 @DaisukeEnta

箱も始めの頃は板のサイ ズは揃えてもらったが、どこの家でも自前で「てんてん」と釘を打った手作りの木箱であった。現在はビニール製の規格品である。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-07 08:08:36
遠田大亮 @DaisukeEnta

一方、田植えの方は素手・素足から薄手のゴムの手袋・長靴を着け、小雨や寒い時は蓑笠時代からビニール合羽が出てきた。相変わらずの手植えでは人員も要るし、工場で働く人の休日とか、その奥さんとか、あらゆる人を動員した。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-07 08:09:13
遠田大亮 @DaisukeEnta

又最上地方は田植えが遅かったので、その差を有効に使い、最上より人手を雇い、車で迎えに行って宿泊させて、田植えが終ると逆に最上地方へ手伝いに行く契約雇用もあった。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-07 08:09:59
遠田大亮 @DaisukeEnta

一方、戦後溢れていた若者をどのように就職させるか、当時「次三男対策」として大き く取り上げられていたが、産業の復興と共に就職口が増え、昭和三十五年頃は農家の奉公人である一年契約の「わかぜ」は殆んど見られなくなった。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-07 08:10:33
遠田大亮 @DaisukeEnta

その人手不足を補うには、村ぐるみの共同田植班を編成し解消しようとした。昭和三十年の終わり頃になると、乗用トラクターも出て高価であった。個人の資力では購入無理で、昭和四十一年に亀ヶ崎では十四台が共同購入すると同時に、構造改善事業による再編 された共同田植えが実施された。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-07 08:11:11
遠田大亮 @DaisukeEnta

田起こしや代掻きは楽になったが、田植え期の労働力確保に頭を悩ましてる最中、昭和四十五年頃二条の田植機が出て来た。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基 pic.twitter.com/UDepgCsyZG

2024-03-07 08:12:55
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遠田大亮 @DaisukeEnta

試運転してみると、一反歩の長さを人手であれば五株植えで四十五分かかるものを、往復五分で四条植えが出来た時は驚きと溜息が出た。それでも足りないと急速に四条・六条・八条植えと、乗用の田植機も出て来ている。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-07 08:16:41
遠田大亮 @DaisukeEnta

現在で は箱育苗に少々手が掛かるが二人で田植えをやることが出来る。皮肉にも効率的な田植機出てきたのと、米値段の上昇につれトラクターは個人でも所有ができ、機械化は逆に個人完結型になり共同田植えは解消していった。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-07 08:17:18
遠田大亮 @DaisukeEnta

現在は農地の受委託など農地の集積で大規模化し、米調整を集出荷施設を利用しながら集団で運営している。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-07 08:17:36
遠田大亮 @DaisukeEnta

除草も体力は要るし腰も痛い重労働の一つで、何とか除草機押しと手取り除草計四回を、一回でも少なくしたい気持ちになる。然し、田植えや稲刈と違い、草取りは何回やっても、 完全に終ったということなく、次から次と生える雑草の強情さにもてあましていた。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-08 07:07:00
遠田大亮 @DaisukeEnta

昭和三十年の中頃、除草剤が注目された。最初に出てきたのは「水中24―D」で専用噴霧器で株間に散布するもので、問題は足の速さで一反歩用の水量を均等に撒くのがむずかしかった。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-08 07:07:38
遠田大亮 @DaisukeEnta

現在は粒剤で畦の上から二回散布し、人の手での除草はしない。 世の中には無農薬・無肥料の有機栽培して、それを売り物にしている人がいる。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-08 07:08:31
遠田大亮 @DaisukeEnta

現在でも汗を流して田んぼを這って草取りしている話を聞く、それが良いか悪いかは別として、 今は関係機関承認の田畑の除草剤であり時々、除草剤を毛嫌いする人に出会う。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-08 07:13:34
遠田大亮 @DaisukeEnta

私が皮肉って冷やかす 「んだばご飯食べらんねでんだの」 「なして」 「ほだって 米さ二回も除草剤かけでっぞ」 「んだって 田んぼの水に溶けて流れんでねが」 「んだば その水は海さ流れっさげ魚食べらんねぐなんでねが」 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-08 07:14:23
遠田大亮 @DaisukeEnta

こんな幼稚な問答しても、見えない恐怖、見える恐怖、風評的恐怖が混じり合って、それぞれの人の感じ方が違ってくる。我々は各研究機関の能書きを信ずるか否かである。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-08 07:33:35
遠田大亮 @DaisukeEnta

安くて完璧な安全食品は夢の夢だろうか、信用できなければ結局「自分の食べ物は自分で作 るしかない」のにたどりつく、それが一番確実に安全なのだ。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-08 07:33:59
遠田大亮 @DaisukeEnta

私は草むしり仕事は老いの一日の暇つぶしによく、一方、花作りも大好きだ。花も季節で更新する。折角この世に生を受け終わった花も勿論、雑草の命を奪う事は本意ではない。 本当は雑草も秩序よく芝生のように高さが揃えば、そんなに迷惑でないのだが、人間社会と同じで縄張りが激しい。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-08 07:34:47
遠田大亮 @DaisukeEnta

日当たりを求めて高さを競い、子孫繁栄のために種子を無数に飛ばし、雑草の世界も競争が厳しいのである。如何に説法しても、生き物の進化に遅れる事は滅び去る事である。小面憎いがその頑張りには頭が下がる。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-08 07:35:27
遠田大亮 @DaisukeEnta

尽きる事ない病害虫その防除、昔はどのようにしたのだろうか、今と同じしぶとい病害虫だったのだろうか、恐らく何の手立てもなくなるようにまかせ、大自然にまかせ、「虫送り」といって神仏に願うしかなかったのだろう。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基 pic.twitter.com/XB25kuR1Kk

2024-03-08 07:37:39
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遠田大亮 @DaisukeEnta

戦いが終ってアメリカから粉剤の BHC・DDTが入ってきた。それまで髪や衣服のひだに隠れ卵を生み、暖かくなるとモソモソと出て肌を刺す「シラミ」、跳ねるので見つけるのが難しく、刺された痕が丸く赤くなってくる「ノミ」。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:07:50
遠田大亮 @DaisukeEnta

そのようにノミ・シラミと同居していた人間の体も、頭の髪の毛にそして首筋から背中に白く粉を吹きつけられ、又大掃除の時、床下や畳の下に粉を撒いてノミ・シラミは消えて行ったが、人体への影響は知る事はなかった。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:08:29
遠田大亮 @DaisukeEnta

新しい農薬の開発は食物の汚染の有無、人間の健康などをより厳しく問うようになり、一方、効率的な散布機の移り変りは、個人用の散粉機から動力散粉機の共同。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:09:37
遠田大亮 @DaisukeEnta

次に無駄な粉剤が風向きで非効率になったので液剤になり現在は圃場整備も進み田んぼも大きくなり、 ヘリコプター散布になっている。 秋の農繁期の稲刈りは稲の熟期の中で少しは日時に余裕があるが、流れ作業のようで刈つては結び投げの連続、調子が狂うと能率が落ちる。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:10:06
遠田大亮 @DaisukeEnta

その時代の技術の進歩から見れば、その刈取りの機械化は急がれていた。 昭和四十年の後半、二条刈り三条刈りのバインダーが出てきて、稲刈りの重労働から解放された。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:10:37
遠田大亮 @DaisukeEnta

田んぼ一面に均等にはね出される稲束を纏め杭掛けするのに苦労したが、稲刈りの風景を一変させた。バインダーと同時に出てきたのがハーベスター、稲上げ作業を省略し、田んぼで乾燥し た稲杭からはずして脱穀し,乾燥モミを樹脂袋に入れて運んだ。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:11:46
遠田大亮 @DaisukeEnta

その時稲を収納する農家の夢であった広い稲倉は不要になった。その場で稲ワラは裁断され、春の耕起までに田ん ぼに散らす仕事が残ったが、それを嫌って、方々ですぐに火を付けて焼き、煙で道路の通行や田んぼの地力の低下など問題になった。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:12:23
遠田大亮 @DaisukeEnta

多くの夢やニーズに応える人の知力は計り知れず、昭和五十年代に入るとコンバインの時代となった。脱穀した生モミを稲倉の循環型乾燥機に入れ乾燥させた。乾燥機は個人用で昼夜運転し、その雑音や排塵は公害問題化し、夜は九時頃までで止めざるを得なかった。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:13:06
遠田大亮 @DaisukeEnta

冬仕事であった俵編みも手数がかかり、カマス麻袋と変り、六十㌔と重く、三十㌔の紙袋となった。今の人は昔の半分になった三十キロも重く感じ、すべてベルトコンベヤーで流れる米俵、人間は賢くなったものだ。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:14:49
遠田大亮 @DaisukeEnta

やがて亀ヶ崎地区の田んぼの大半が住宅地となり、兼業農家も後継者や高齢化の関係で受委託契約に変り、専業農家はしぼられた。そのような中でコンバインも大型になり、集団施設又は農協単位のカントリーが建設され、その施設から共同出荷された。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:16:13
遠田大亮 @DaisukeEnta

入庫で大騒ぎすることもなく、百姓仕事も楽になったが収入がいま一つ、農地を拡大し労力や経費を効率化しても追いつけない。その原因は経済の国際化、食文化の変化、どれをとっても一筋縄では行かない。国の援助なしで経営は成り立つのだろうか。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基 pic.twitter.com/GNJSy31Qbu

2024-03-09 10:17:53
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遠田大亮 @DaisukeEnta

それでも戦後私の若い時代、農家の働き手として生きて来た辛さから見たら、現代の農業は昔の殿様の庭いじり以下で、食べ物も、昔の年一回あるお祭りのご馳走以上の物を毎日食べているし、電気製品の恩恵も想像を越えている。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:18:44
遠田大亮 @DaisukeEnta

これでもかこれでもかと物に溢れ、これ以上何を望む、それでも毎日がスッキリしないのは何故であろうか。 今の経済は消費する事と、そのための生産する事を同居させ、バランス取ることであり、そのバランスが崩れれば、インフレになったりデフレにもなる。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:19:48
遠田大亮 @DaisukeEnta

そのバランスを取るには単に金や物の量だけでなく、人間の欲望や思惑、そして世界政治経済情勢がからんできて、 神の手でも難しいのである。景気は気だと錯覚させて儲けるのは誰だろうか。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:20:27
遠田大亮 @DaisukeEnta

戦後の奇跡的な高度成長時代を忘れ難く、夢よもう一度、永遠に成長させねばならぬと脅迫にも似た論調は多い。かえりみれば農業もそれらの時代の流れにのって、戦後六十年 余りで天と地との差程の変貌を遂げた。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:21:29
遠田大亮 @DaisukeEnta

この急な進歩をこれからも続けて行ったとしても、農業そのものが魅力や活力が今以上に溢れているだろうか、企業的農業集団的農業を進めても疑問は残る。大自然と生き物をどうみるかで、人類も生き物の一員で他者ではない・経済感覚で農業を見る事には大きな疑問を感ずる。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:22:19
遠田大亮 @DaisukeEnta

誰でも望む高所得とその為の経済成長、例えそれが達成したとしても幸せになれるだろうか、そして格差感はなくなるだろうか。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:23:05
遠田大亮 @DaisukeEnta

昔、物も金も平等に無く苦しかったが、その代わりにお互いに助け合って共同作業をやり、お互いにコミニケーションをとった我が若き頃の時代が、今より輝いて見えるのはどうしてだろうか。 追憶の亀ヶ崎上巻水越主基

2024-03-09 10:23:25
遠田大亮 @DaisukeEnta

それは時代の良し悪しを越えて、 昔の人も今の人もこれからの人も、人間は苦労して生きた過去の幻想に漂流した方が幸せなのかも知れない。 (平成二十五年一月九日)八十五老

2024-03-09 10:23:41
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まとめたひと
遠田大亮 @DaisukeEnta

農業、農政、農協等“農”に関してのツィートが多いです。 (個人的には)GHQの占領政策や押し付けられた憲法を金科玉条としたままでは、日本農業はもっと衰退すると考えています。 山形県農協中央会勤務。農協監査士。明治大学法学部卒。山形県酒田市出身。 過去のツィートは、以下↓のまとめサイト(min.t)からどうぞ。