めんたねさんとのやりとりが、先月の私とのDMでのやり取りの流れと、あまりにそっくりで、デスヨネー感。 セクハラモラハラメンタルメンタル言い出したの私だけど、怒り表明しといてよかったよ。
2020-08-27 14:25:00踏まれたときの。 自分の痛い、悔しい屈辱感は、わかる。 一人一人、他の人にも同じものがあることが「抜けてる」んだね。 だから人を踏み台に使う卑怯さなんて、理解できるはずがない。
2020-08-27 14:39:42自分がわかる。 自他がわかる。 他我がわかる。 このステップの3段目が抜けてる。 代わりに、立場や序列を使ってる。 ある程度踏まれても仕方ない立場でしょ、あなたは?の無礼さが理解出来ないが発生する。
2020-08-27 14:43:05お前のカーチャン、デーベソ!言われたら、侮辱されたことはわかる。 自分が言う時は、相手への侮辱になってることがわからない。 だから、ダブスタ野郎に「見られる」のだが、その理屈が飲み込めない。
2020-08-27 14:47:23踏まれたはわかる。 自分が踏んだのには、理由がある。 無いのは 「踏まれた側にも、自我と感情と理屈がある」 の想定。 ごめん言って、終わった話でしょ?のキョトンか、不当に言われ続けてるとしか、感じられない予想。
2020-08-27 14:50:08スネ夫は、ドラえもんの付録扱いされたのび太の屈辱感を理解しないの、予想。 踏まれても仕方ない立場でしょ、が先にあるから。
2020-08-27 15:26:04多分私は、彼から「誠心誠意、謝罪を受けている」ので、ある意味、珍しい人、になるんじゃないかしらね? しかしながら、その謝罪の空虚さに 「ごめんなさいは言えるけど、繰り返す人と見たね!」 と書いている。 なんでか?
2020-08-27 20:53:35私は彼に 「だから、あなたの知らないところで恨みを買ったりしないかしら、って、おかあさんずは、心配になっちゃうのよ。」 と伝えましたよ。 めんたねさんも、似たようなこと言ってたでしょ。 (^◇^)
2020-08-27 20:55:32彼の謝罪文の中には 「された側が、どういう気持ちになるのか」 は、ひとっつもない。 「失礼だった、不適切だった」とは口にするけれど、「軽んじたから」で止まってる。 そして「相手が失礼なら、自分は【やや】失礼で返すことがある」とも言っていた。 ここ、すごくないっすか。
2020-08-27 20:58:10自分が気がつかないでやってた失礼があったと認め、謝罪しているが、今後とも「やや失礼で返します」と宣言しているのだから、繰り返すだろうねーとしか、思えんわけです。 しかも、彼はこの謝罪の時に「今後は失礼になるかどうか、よく考えます」と言っていた、のに。
2020-08-27 21:00:51このやりとりは7月11日の話です。 今日は8月27日です。 この間、何回、「失礼がわからない」をやったか。 何回も言うけど、私はナチュラルボーン無礼は嫌いじゃない。 序列つけて、無礼していい人としない人を選別するのが嫌いなのだ。
2020-08-27 21:04:07なんで、そうなるか?については、個々の事情があるのだろうね、とは思うが。 される側に立ったら「きちんと怒って説明する」か「黙って離れる」か、選ぶよね。 踏み台になってくださーい!との要望を明言せず、叶えてくれって、なんで?か、ムリムリムリムリ!どっちかよね?
2020-08-27 21:07:50子供は、やります。 赤ん坊はギャンギャン泣いて「どうにかしろ!!」ばっかり。 人間はそこから「始まる」んです。 ハラスメント的言動の8割は、幼児性です。 幼児的万能感を満たせ!に無自覚。ハラスメントする側は「被害者意識で加害行為を行う」に、結果として、なってしまうの構図があるのです。
2020-08-27 21:11:14足を踏まれる、でイメージすると。 「自分が踏まれて、自分の足が痛い」 が最初にわかること、です。 ここが、わからないと、その先にはいかない。 だから、こどもが泣くのは、とってもとっても、重要なことです。「自分の不快を不快と感じる」から始まる。
2020-08-27 21:17:37ここは、割と幼少時にはやってるはず、なのです。 が。 生育歴的脳タイプ的あれこれによって、抑圧、封印、忘却、等々を余儀なくされる場合、もあるわけです。 痛み、不快、苦しみの「矮小化」を自分にやると、他人のそれにも「矮小化」やりがちですね。
2020-08-27 21:20:11次に。 「自分の足を踏んだ、誰かがいた」の認識、がきます。 自他の区別。 自分と、自分以外がある、ことの段階。 ママの手は、僕の手じゃないから、僕の思うように動かないのは「当たり前」なのだけど。 幼児はそこで泣きますね!
2020-08-27 21:22:01そしてここは一つ段差がでかいステップ、なのですが。 「それぞれの人間に、それぞれに、自分と同じように、痛いを感じる自我がある」 ここ、すごく難しいのですよ。 ここクリアがない人は「個人で人を見る」が難しくなって「枠で人を言う」が増える。
2020-08-27 21:26:00この段階の典型的な母子の会話は 「買って!!みんな、持ってる!!」 「みんなって、誰と誰と誰?!」 「けんじくん」 「それから?」 「みんなは、みんな!!買ってくれないなんてママの意地悪!!うわーん!!」 ですかね(^◇^)
2020-08-27 21:28:23足を踏むの比喩でいうなら 「みんなが僕の足を踏んでくる!」の時期ですね。 個人の感覚がないから、そうなる、なっちゃうんです。 本気で「わかんない」んですよ。 踏んでない人も入ってるのに「みんな」言っちゃうわけだがら、トラブりますな、これは!
2020-08-27 21:31:04「他我の存在を知る」の段階のすっとばしたまんまにして、他の「やり方」が入りますと。 「序列、立場、枠組みで、他人をまとめることに躊躇がない」が起こります。 「自分の位置価値確認に、既存の枠組みを使う」も起こります。 個人対個人の関係を構築することに困難が生じます。
2020-08-27 21:40:39この辺の「生きにくさ」の話は、本当によくあることです。 「他我の存在を知る」の段階をすっとばすと、「自分が自分であるという感覚」が「矮小化」と「肥大化」で、極端に分裂しつつ共存するが、起こりがちです。 「何が君の幸せ?何をして喜ぶ?」 わからないままになりがち、ですよ。
2020-08-27 21:51:06「他我の存在を知る」段階がなければ。 「わけっこする」の感覚が得られないのです。 感謝も、謝罪も、あれは何かを「共有する」ために、わけっこするために、やることです。 反省も、謝罪もいらない、「これから、どうしてく?の話」が欲しいと、私は思うのですが。 他我を知らぬ人には通じない。
2020-08-27 21:56:23「他我の存在を知らない」から。 「観客からは、こう見える」なんて、理解できるはずもないですよ。 「みんなが僕をいじめてくる、いじめてくるのはバカだからしょうがないよな、寛大な僕!」 になるのは、論理的に導かれる答えですね。
2020-08-27 22:01:35彼の反省文に「踏まれた側の想定がない」のは、当然なのです。 「他我の存在を知らない」のだから。 口では言えますよ(^◇^) 「いろんな人がいるぐらいはわかってます!」 でもそれは、アタマの話。「腑に落ちる」の身体性は伴っていないから、繰り返すでしょうね。
2020-08-27 22:03:41そして私はこの話を「彼に向けて書いてない」ですよ。 彼は彼の人生を自身で「選んで」いくでしょうから。 私も私で「選んで」生きますよ? この話は、今「他我の存在を知る」の段階に付き合ってる「大人たち」に向けて書きましたよ。それは「自分の幼児性に向き合おうとする人」のことですから。
2020-08-27 22:11:23幼児性なんて、みーんな、誰でも「持ってるもの」ですからね。 年齢も、学歴も、関係ないです。みんな、幼児性ぐらい、あります。 自分の幼児性を、どう、乗りこなせるか?ぐらいの話ですよ?? みんな、赤ん坊時代から「積み重ねてきた」んですからね。
2020-08-27 22:16:53自分の幼児性と向き合うのは、相当、結構、かなり、しんどいですからね。 人はそこから逃げるためなら、どんな理屈だって作るですよ? だから「向き合え!」やられると、恨みます(^◇^) 向き合え!する人は、大概、バカ!と罵られるのが一つの段階と言ってもいい(^◇^)
2020-08-27 22:19:13だからここは、とっても「危険なポイント」でも、あるわけです。 向き合え!されて恨みを買った事件なども、ネット上でもありましたしね。 「人同士の距離が近くなるということは、お互いを踏む強度と確率が上がる」ということ、ですよ?
2020-08-27 22:23:46